Gilbertのブログ

この「マルコビッチ」と言うのは、俳優の「ジョン・マルコビッチ」である。

この名前から、旧ソビエト系ではないかと思いつつも、

顔は、ドイツ系なので、これは、いわゆるドイツ系ソビエト人で、

それから、アメリカに帰化したのかと勝手に想像していた。

ドイツ系の俳優である。


私たち日本人の周りには、多くの他国の人が存在していないので、

この「○○系○○人」と言われると、一体、何人なの?と

わからなくなってしまう。


ジョン・マルコビッチは、いわゆる個性派俳優で、

私は、彼と蟹江敬三が重なってしまう。


この脚本を書いたチャーリ・カウフマンも、

特にマルコビッチにこだわっていたわけではないと、話す。

けれど、【ブラピの穴】にしてしまうと、

この作品の面白さが半減してしまう。

見栄えのいい俳優では、ダメなのだ。

微妙な位置にいる俳優であることが、

この作品の面白さでもある。


とにかく、すべてが奇怪である。


ある穴を通ると15分だけ、

マルコビッチになることができる、彼の脳の中に入り込めるという設定である。

これが、核になっている。

しかも、あるビルの7階半のフロアの書棚の後ろに

その穴が隠されている。

欧米人は、我々、アジア人に比べて身長が高い。

その彼らが、7階半のフロアを背中を半分に折り曲げて

移動するさまは、思い出しても、笑えてくる。


さらに、登場する人物で、まともな人間が一人もいない。


聞き間違い障害の秘書、

(まるでベタな漫才のようである。)

その秘書に自分が言語障害と信じさせられている社長

何代も渡って生まれ変わる人たち、

人形劇中、聖職者に公道で男女の営みをさせて殴られる男

マルコビッチを通じて自分がレズビアンと気がつく女

誰かに取りつかれたマルコビッチだけを愛することができる女


そして、アカデミー賞を取得した作品である。

これが、アメリカの映画に対する許容の深さを感じさせる。

突飛な設定が、どのような結末を描かれているのか、

まったく、想像がつかない。


ほのかに、悲しさが残る結果である。

行き場のない愛情を、支えるために、

各人が最後にとった行動は、

切なさを伴う。

最後のカメラは、二人の間にできた子供の目線になっている。

誰と誰の間にできた子供であるかは、

映画を観てもらうしかない。


「みつめるな、みつめるな。」と

何度も自分に言い聞かせる。

それは、逆に言えば、

自動的に、心が、愛する人を見つめて、

それを止めることができないからだ。

自制しなければならないほど、

愛する人をいとしい目で見つめてしまう。

そして、その愛情は、相手に気づかれてはいけないものであり、

そっと、心の中で、しまっておくものであるから。


亡くなった枝雀師匠は、

「緊張と緩和」と言うのが、口癖であった。


この映画は、すべてが緊張にも関わらず、

神経が緩和されている。


映画によっては、

ある場面は辛抱をしてみなければ、

最後の面白さがわからない作品や、

いわゆる中だるみがあったりする作品、

結末にガッカリしてしまう作品がある。

この【マルコビッチの穴】は、どれにも該当しない。

素晴らしい。

何度観ても新鮮である。

ただし、この後の【アダプテーション】は、

お勧めできない。



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皆さんは、朝、すぐに起きられるだろうか。

私は、夜型人間で、朝が極めて弱い。

なかなか、起きることができない。


人を起こすときに、

一番、有効な音は何かと言うと、

「蚊の飛ぶ音」だ、と言うことだ。

「蚊の飛ぶ音」が一番、人を不快にさせるから、らしい。


この【バートン・フィンク】にも、

「蚊の飛ぶ音」がキーポイントになって

使われている。

「蚊の飛ぶ音」があるのとないのでは、

この映画の出来栄えが、全然、違ってくる。



この映画は、

91年カンヌ国際映画祭三冠(グランプリ/監督賞/主演男優賞)に

輝いた作品である。

私は、この映画を観て、

初めて、映像が人に与える影響を思い知らされた。


バートン・フィンクを演じるジョン・タトゥーロは、

頭の形が異様に上に重きが置かれて、

バランスが取れていない。

その頭の形と彼の融通性が利かないカタブツさが、

よく似合っている。


ニューヨークで芝居一辺倒の劇作家が

ロスでお手軽映画の脚本を書くことになったが、

彼は、思うように筆が進まない。

あせって、イライラしてしまう。

それに、自分が書きたい作品とは、まったく異なる。

だからと言って、断ることもできない。

そこに、ホテルの隣室のデブッチョの男と

仲良くなる。

二人には、共通点がないように見える。

実際、バートンは、迷惑な感じがよく出ている。

このデブチョには、大きな秘密があった。


【スモーク】の時にも、書いたが、

この映画も全くもって、

始終、妙な空気感が底辺に流れている。

それは、もちろん、【スモーク】とは、違う。

【スモーク】が日常であるとしたら、

【バートン・フィンク】は、非日常である。


ある男に起こった、

不思議な不思議な、経験。

あの不愉快な「蚊の飛ぶ音」のような。

それでいて、蚊に刺された後は、

音以上にその部分が、気になる。

かゆくなり、どうしても、爪で掻かずにいられない。

爪で掻けば、なおさら、赤くなるのが分かっているにも関わらず、

気になって仕方がない。


けれど、その時には、

音が気になっていないことに、気がつく。

刺されるまでが、不愉快なのだ、わかる。

そんな映画である。


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この映画は、非常にマイナーな映画である。

誰もが知っている映画では、決して、ない。

そして、誰もが理解できる映画でもない。

非常に間口の狭い映画である、と言える。


この映画には、不思議な空気感が漂っている。

このような空気感を出す映画は、

実は、欧米には多い。


【ギルバート・グレープ】

【アメリカン・ビューティ】

【マルコビッチの穴】

【バートン・フィンク】


上の4つの作品は、

ある意味、奇抜さがあるが、

【スモーク】にも、奇抜さが存在している。

左手が義手の男性、

片目を亡くした女性。

彼らが、何気なく、登場している。

これは、簡単なことではない。


日本映画で、

このような人たちを登場させると、

変な遠慮が、重苦しくさせる。

こんなに、さらっと関係を結ばせることができない。


彼らは、強いつながりではなく、

淡くそれでいてこだわりのない関係を続けている。

たった2・3時間で、「ある空気感」を出すのは、

本当に難しい。

それは、決して、おしつけがましいものであっては、

ならないからだ。

観ている人が、静かに、感じるものである。

それでいて、制作者の意図が伝わらなければならない。


この映画に登場する人たちが、

大事にしているものは、日常である。

それが、たとえ、多少へんてこな日常であっても、

彼らは、それがどれだけ大事なものかを、

ちゃんと心得ている。


主演は、「ハーヴェイ・カーテル」である。

私は、彼の名前が覚えられないので、

いつも、「チーズみたいな名前の人」という表現になってしまう。

個性派俳優で、

いつも、癖のある役を演じている。

この映画では、ブルックリンのタバコ屋の主人である。

【スモーク】というタイトルも、このタバコ屋と関係しているのであろう。

タイトルだけは、安直さを感じるが、

白い空気がこの映画には、漂っているのだ。


ただ、だれにでも、お勧めは、できない。



「マイケル・ジャクソン」

なんと不思議な存在であろう。

彼は病んでいた。

そして、その死に、私も衝撃を覚えた。


彼のスキャンダルは、彼の歌声や踊りと同じくらいに、

人々を注目させた。


一番、わかりやすいのが、

彼の容貌である。

アフリカ系アメリカ人である彼は、当然ながら、

縮れた髪と浅黒い皮膚を持っていた。

ある映画を観た時に、ヨーロッパ系アメリカ人で白い皮膚をもつ夫妻が

アフリカ系アメリカ人を養子にした。

その裁判において、

「子供の髪の毛の手入れ方法は、どこで学びましたか。」

と弁護士がその夫婦に質問を行った。

私は、縮れた髪の手入れが特殊なものだとは知らなかったので、

非常に、驚いた。


マイケルの容貌が大きく変貌し始めたのは、

いつ頃であろうか。

まず、彼の最大の劣等感である、

顔の真ん中にずっしりと座り込んでいる鼻が

すっきりとなった。

それだけで、彼の顔は、大きく変わった。


それからは、妹のジャネット・ジャクソンと

同じ整形外科医であることもあり、

二人の顔は、よく似た人工的な顔立ちとなっていた。

けれど、一番驚いたのは、

皮膚の色である。

黒い皮膚が消えて、白くなっていた。

それは、顔だけに限らず、

首・手・胸までもある。

それを、新生「マイケル・ジャクソン」と呼ぶには、

非常に抵抗があった。


若いころの何とも言えない愛らしい彼と

人工的な顔を手を入れた彼は、

別人格のように思われた。

容姿をいじれば、いじるほど、

彼から良いものが消えていく気がした。
私は、それが本当に切なくなるほど、残念だ。


ボン・ジョビが年を重ねるたびに、

さらにクールになってくるのとは、

相反していた。


それと同時に

子供に対する執着心が

大きく取り上げられた。

彼の一番大事な歌声や切れのいい踊りは、

取り上げられなくなった。



「スリラー」を観た時の衝撃は、

いまだに新鮮なままである。

映画仕立てに制作されたPVは、

すぐれたものだった。

マイケルの才能を100%活かしていた。

「少林寺サッカー」でもパロディとして使用されていた。


一つの大きな時代をつくったマイケルだった。

いつも、一番に位置づけられていたマイケルは、

本当は劣等感の塊ではなかったのか、

と思えてならない。


我々は、大きな大きな才能を失った。

そして、その痛みは、

今後、じわじわと感じることになるだろう。

その時に、何を後悔するだろうか。



【ソフィーの選択】と言えば、メリル・ストリープが思い浮かぶ。

当時、ソフィーの役は、別の女優に決まっていた。

メリル・ストリープは、この役が欲しいために、

監督の所に、ポーランド女性らしい化粧、服装を身に着けて、

出向いた。

そこで、ポーランド訛りの英語を話したと言われている。

これが、いかにも、メリル・ストリープらしいと言う。


この作品は、DVD化されていず、ビデオだけが存在する。

DVD化を望むファンの声は、高いがこればかりは、

仕方がない。

映画好きの友人と話をするときに、ベスト5をあげるとしたら、この映画は必ず入る。


けれど、ネットの世界では、簡単に鑑賞することができる。

You Tubeである。

残念ながら、日本語訳は、ついていないので、

これまた、ネットから英語のせりふを拾い上げて、それを片手に鑑賞する。

それほどの価値のある映画である。

原作も日本語版であるが、持っている。



私は、若いころにこの映画を友人に連れられて観に行った。

その時も、このネイソンという精神のバランスを欠いた男性が、非常に魅力的に見えた。

それは、今、観ても変わらない。

ある種の人間にとっては、彼のように『いってしまった』人間は、

どうしようもないほど、魅力的だ。

彼が、オーケストラのレコードを聴きながら、

指揮をする姿は、いまだに、拍手を送ってしまう。

気分の抑制がきかなくって、癇癪を起して、

周りの人間を意味なく傷つけてしまうのも、

彼の弱さを物語り、泣かされながらも、離れなれない。

ここに書いたように、これはあくまで『ある種の人間』と限られる。


ソフィーはどの男性からも「美しい」と感嘆されるほどの、美女である。

そして、私の中では、彼女には、はかなさがいつもつきまとう。

そういう意味では、メリル・ストリープは、ソフィーという感じがしない。

メリル・ストリープは、不細工ではないが、わかりやすい美女でもない。

線の細さも、感じさせない。


子供を選ぶように言う軍医

強制収容所の所長

アメリカの大学の先生

ネイソン

スティンゴ


出会う男性がすべてソフィーの美しさに、目を奪われる。

画面のメリル・ストリープは、その美しさが、足りないのだ。

私は、もっと美しい女性を想像しながら、観ている。


そして、最後に彼女が選んだのは、精神を病んだネイソンである。

それは、ソフィーも精神を病んでいたから。

彼らの痛みは、それぞれ異なる。

けれど、生きていても、心に痛みを抱えている人間にとっては、

それは、死んでいるのに、等しい。

生きているふりをしているに、すぎない。

芝居がかった人生を生きるネイソンは、

そういう意味においては、非常にわかりやすい。


ホロコーストが横行するポーランドにおいて、

ソフィーにとって、子供選択の余地は、ほとんどなかった。

選ぶ、選ばないではなく、反射的なものであった。

ナチは、人の心の痛みがよく分かっている。

彼らは、どうすれば、人に大きな、取り返しのつかない傷をつけるかを十分、理解している。

「おまえは、きれいだ。ぜひ、ベッドをともにしたい。」と言って、

弱い立場にあるソフィーを、苦しめるには、子供を手段に使うのが一番である。

残酷なことをする。


ソフィーの人生。

ネイソンの人生。

どこかで、普通に生きる資格を失わされてしまった人たち。

そして、カソリックであるソフィーが自殺を選択する大きな決断。

いつも、欧米の映画を観るたびにこの宗教感の違いに戸惑う。

あるいは、ソフィーには、死さえも選択の余地がなかったのかもしれない。