ゆうきの話 -36ページ目

あせるな!あせるな!あせるな!

最近、正体不明のモヤモヤ感が心の中に渦巻いている。
色々と考えると、どうやらその原因は「あせり」にあるようだ。

周りのあらゆるモノが、私を焦らせる。
テレビを見ても、音楽を聴いても、ネットサーフィンをしても、全ての物が私を焦らせる。

何かしなくてはならない、そんな気にさせる。

しかし実際は、私に出来る事は殆ど何も無い。
それが更に私を焦らせる。

年齢的なものかもしれない。環境的なものかもしれない。
とにかく言い知れない焦りの感情が心の中を渦巻く。
テレビを見ても焦る。
テレビで楽しそうに会話している人々を見ると、自分がその世界とは明らかにかけ離れていて、決してその様な世界の住人にはなれない事が、それが私を焦らせる。

同世代の人間が様々な方面で活躍している。それを見るたびに焦る。
今から私が彼らに追い付く事は到底不可能だろう。追い付くどころか、近づく事さえままならない。それが私を焦らせる。

最近はちょっとした出産ブームだ。
あのタレント・芸能人・有名人が次々と出産する。それが私を焦らせる。
私は男なので女性よりは多少年齢的な猶予はあるが、それでも、やはり私を焦らせる。

現状、焦りの元を絶つ事は困難だ。

例えば、自分の子どもがいくら欲しいと願っても、現状では到底不可能だ。
私一人で子どもが生めれば可能だろうが、それは人間である限り不可能だ。
また、様々な条件を整える事が出来たとしても、時既に遅し、と言う事になっている可能性が高い。

あらゆる物が私を焦らせる。

例えば、私がいいなと思うアイドル・芸能人が、次々と結婚・出産、など、人生の大きな目的の一つを堂々と果す。
大変めでたい事だし、祝福する事に躊躇は無いが、それでも、何と言うか、「取り残された感覚」をどうしても感じてしまう。
「あの子も違う世界に行ってしまったか・・・」そんな感覚になる。それが私を焦らせる。

それ以外にも、世界中で起こる様々なニュースが、人々の活躍が、それが私を焦らせる。
そして、簡単には事は成せないのも知っている。
年齢、環境、あらゆる物が私を焦らせる。

「焦る事は無い」と言う人は居るだろう。私もそう信じたい。
しかし、「焦る事は無い」という人に限って、それなりの能力・環境・運などを兼ね備えている。
成功者の「焦る事は無い」には説得力が無い。
何故なら彼らには私ほどには、焦る要素が無いのだから。
もちろん、人それぞれ焦る要素はあるだろう。
しかし、こと成功者のそれは、何も持たぬ者の焦りとは比較にならない。
100ある者がたとえ10になったとしても、また10から始めれば良いが、初めから0の者は、そしてその時点で何の力も無い者は、はっきり言ってどうしようもない。

もちろん例外はあるし、奇跡だって起きる。
しかし、例外や奇跡だけをいくら信じても、この焦りは解消されない。

この焦りを抑える方法は無いのだろうか。


どうしようもないのだろうか、こう言う時こそ考える事だ。


・・・・


前向きでもダメだ、前に見えるのは焦りの原因である数々の成功者・成し遂げた者たちの影だからだ。

後ろ向きでもダメだ。後ろを向いていては人間進む事が出来ない。

横向きではどうだ、これもまたダメだ。横には自分と同じはずの人間が、例えば活躍していたり、例えば子どもを生んだりしている。


ならばあとは一つしかない、目を瞑って自分の感覚のみを信じ、周りの雑音に惑わされず、ただひたすらに、一歩一歩、歩いて行くしかない。


これが今考えられる、全ての「焦っている人」への言葉だ。


「周りがこうだから私もそうしなくてはならない」、と言う意識が焦りの根源だ。

周りがどんな状況だろうとも、自分は自分の道を歩くしかないのだ。

同期が出世?どんどんすれば良い、あの子が結婚・出産?めでたいじゃないか、だが私の道とは違う。

私は私の道を行く。その道の果てに何が待っているかは分からない。

もしかしたら大出世するかもしれないし、とびきり可愛らしいお嫁さんを貰って沢山子供が出来るかもしれない。

はたまた、天涯孤独で、死んだ後は無縁仏になる事だって考えられる。

でも、それが道なのだ、誰の道でもない、自分自身の道なのだ。

わき目もふらず、ただひたすらに自分の道を歩こう。

鼻歌でも歌いながらね。

ええーっ、順位って・・・・

いま、久しぶりのアメブロなので、編集画面とか色々な機能がどんな物かチェックしていたら、ブログデータと言う欄があって、そこを見てみてたら、自分のランキングというやつが載っていて、これが低いのは良いとして、問題はその下に表示してあったランキング。

トップテンが「金」「占い」「恋愛」ばっかりじゃないか。

なるほど、ランキングと言うのは人間の欲望を忠実に表しているんだなぁ。

と言う事は、人間の欲望をくすぐる感じの記事を書けばアクセス数がっぽり、って、別にアクセス数なんて関係ないのだ。

まあ、書きたい事がたまたまそれらの物だったら書くけどね。

考えてみれば、自分だって、自分の欲望の赴くがままにネットを見て廻っているわけだし、こりゃあ、もしかしたら、私のサイトのアクセス数が全然伸びないのも、単に欲望を刺激しない物だからなのかもしれないな、人気とか能力とか以前の問題として。

ならば、もしアクセス数を増やしたり、人気を得たいのであれば、もっと、人々の欲望を掻き立て満たすような物を作れば良いわけだ。

問題は、何をどう作るかだ。

それ以前に作りたいか、と言う問題もある。

まあ、ゆっくり考えよう

書きたいものを書きたいときに書きたいだけ書く

このブログ、いや、文章を書く根本的な目的は、書きたいからだ。
それ以外の理由は付随的なものに過ぎず、そして、このブログでは、その付随的なものは一切無い。
書きたいときに書きたいだけ書く。そうする事に決めた。
だから、ものすごいくだらない記事を量産する事になるけど、ご容赦いただきたい。
何しろ目的が書きたいものを書きたいときに書きたいだけ書く、なので。
それ以外の理由が出来たならば、其の時に改めて方向転換すれば良い。
例えば、私が総理大臣にでもなって、いい加減な発言を軽はずみに出来ないような立場になるとか。
そんな事ありえない、かもしれないが、日本国籍を有し、被選挙権を有しているので、ありえないと言う事は断言は出来ない。
この世界は可能性に溢れている。
そして奇跡はいくらでも起こせる。
それが総理大臣に成る、と言う奇跡ではないかもしれないけど。
とにかく、その様な急激な立場の変化などの理由でも無い限り、このブログでは、書くことそのものを目的として行く事にした。
もちろん読んでもらいたいと言う気持ちはあるし、読んでくれればうれしいけど、読まれることを目的化してしまうと、書くことが非常に辛くなってしまい、書く意味が無くなってしまう。
だから、色々とくだらない文章を気の向くままに書くかもしれないが、それは生暖かい目で見守っていただければ幸いだ。
と言うことで、今後は文章の長さなどは全く気にせずに書くことになるので、あらかじめご了承いただきたい。
そして、自由に書くと言う事は、文体も自由であり、たとえば、

急に話し言葉で書く事もあるよ。
はっきり言ってどっちで書くかなんて、大して重要じゃないんだ。
要は自分が何をどう書きたいか、が重要だからね。
もちろん読んでくれることはとっても嬉しいけど、読者の人を引き止めて維持するためだけに文章を整えたりするのは、本来の書く目的を見失う事になるからね。
まあ、これが例えば私の仕事だったりすれば、ちょっとは読んでくれる人を増やしたり、読んでくれる人を引き止めたりしようとするかもしれないけどね。
でも、正直このブログからは私は何の利益も得ていないし、今こうやってブログを描いているけど、たぶん誰得状態だしね。
でも、書くよ。書くのが好きだから。
ツイッターでも山ほどくだらない事を書いてきたけど、あれは全部どっかに流れて行ってしまうから、後になっても全然思い返せないんだ。
その点ブログならば少なくも、タイトルは一覧できるから、何をいつ書いたかを何となく思い出す事はできる、その為だけにでも、ブログで書く意味はあると思うんだ。
あと、検索も出来るしね、するかどうかは置いておいて。

と言うわけで、好きに書こうっと。

食事をすると、少しだけ頭の回転が止まる。

復活には数分を要するが、まあ、気にしないで書こう。


堅苦しい事ばかり書くと、つまらなくなるので、もっとくだらない面白い事を描こう


例えば


ゆうきの話

とか、脈絡もなく書いてみる。

なぜなら描きたかったから。

まあ、のんびりいこう。


今日描いた絵 わっ/グライダーにゃ/蓄音機にゃ/明日から8月にゃ/みにゃさーん、良い夏休みを他

今日描いた絵を貼り付けたいと思います。
絵は毎日書いていますが、今後も貼り付けるかは反応次第と言ったところです。

また、ここに貼り付ける画像は500*500のサイズですが、もう少し大きなサイズの画像が私のwebサイトにあります。
また、今年描いた絵(今日現在1019枚)を初めとした色々な絵が置いてあります。
ぜひごらんください。

webサイトの絵のコーナー : 2012年7月の絵


「わっ」

ゆうきの話


「グライダーにゃ」


ゆうきの話


「蓄音機にゃ」


ゆうきの話


「明日から8月にゃ」


ゆうきの話


「みにゃさーん、良い夏休みを」


ゆうきの話


「絵日記」




ゆうきの話





以上が、今日、このブログをUPした時点までに描いた絵です。

8月は、あまりも部屋が暑いので描くペースを落とそうかと考えていますが、それも未定です。

ご要望の絵などがございましたら、ツイッターまでご連絡下さい。描きます。

メールは最近全く見ていません。もっぱらツイッターです。

それでは、ご意見ご感想などをお待ちしております。


webサイトの絵のコーナー : 2012年7月の絵

ツイッター : @babupipi



自分を客観すべきか否か、それが問題だっ


自分を客観視する事は大切だとよく言われる。

客観的に見つめ、冷静に分析すれば、自分が見えてくる、と言う。

しかし、そこが問題だ。

果たして自分を客観視などできるのだろうか。

例えば私の場合、自分で自分を客観視した場合、どう甘く見積もっても、相当悲惨な事になると見ざるを得ない。

本当にそうかも知れ無いが、違うかもしれない。

まず自分自身の目そのものが正しいと言う確証が無い。

つまり自分が客観視していると思い込んで見えているその像は、実は自分の心が作り出した虚像である可能性がある。

もちろん正しい見方である可能性もあるが、どちらであるかを調べる方法が無い。

いや、あるにはあるが、それは一人では出来ない。

自分と言う系の中では、自分自身を正確に割り出す事は恐らくとても困難だ。

したがって、外部よりの視点が必要になる。

外部からの視点、これが必要な事は理解できるのだが、それがどこにあるのかが分からない。

長年、外部と言う存在が実在するのかどうか、かなり疑わしいと感じ続けてきた。

実際、外部が殆ど観測できない気がしている。

これは別に私が引きこもりだと言うわけでは無く、外に出ても、誰かと話しても、それが実体を伴う本物の存在であるとはにわかには信じがたいのだ。

その様な「外部」が、果たして客観であると言えるのだろうか。

自分で自分を客観するのが難しいと同時に、外部もまた、私を客観する事は出来ないのではないか。

つまり、私が外部だと思っている存在は、純粋な外部そのものでは無く、純粋な外部のような物に、私の認識が組み合わさる事で、初めて私はそれが外部であると感じる事に成るのだから、そこにはやはり自分自身と言う客観性が疑わしい存在が入り込む事になる。

外の人の見方も、それを聞くのは本人であり、聞くときにある種のフィルターをかける事によって、本来の客観を損なっているのではないか。

そう考えると、自分で自分を客観する事が困難であるのと同じくらいに、外部による私への客観もまた、難しいと考えざるを得ない。

と言う事は、そもそも客観をする、と言う行為そのものに問題があるのではないか。

恐らく、客観が出来るのは外部の人間だけであり、しかもその客観した結果を本人に伝え、理解させる事は本質的に不可能では無いかと考えられるのだ。

だから、自分で自分を客観する事は不可能だし、誰かを客観した結果をその人に伝えても、結局本人の主観によって解釈されなおされてしまい、本当の客観など、本人は永遠に知る事は無いと言う事になる。


ここで今日のタイトル「客観すべきか」の答えだが、


「客観すべきじゃないし、そもそも出来やしない。」


客観視しているつもりになって、自分の歪んだ心が反映されたいい加減な答えに飛びついて人生を浪費する暇があったら、ポケモンでもやって遊んでいる方がよっぽど有意義だ。



すいませんでした。、こんなクソつまらない文章を読ませてしまっている事を、心よりお詫び申し上げます。

私は難しい話が嫌いだ。

何故ならその話はつまらないからだ。

タダでさえつまらない人生がもっとつまらなくなる。

だから本当はつまらない文章など書いてはならないのだ。

楽しく無い文章は法律で禁止にしても良いかもしれない、それくらいに本来ならば面白く無い文章を世に出してはならないのだ。

だから、毎回こんな頭がこんがらがる感じの文章を書くたびに「次こそは楽しい文章を書くぞ」と思うのだが、そこには問題もある。


楽しい文章を書くと言う事は、案外面倒なことだ。

そして、一歩間違えると、とんでもなくつまらなくなる。

頭のこんがらがるような文章よりも、更につまらない楽しい文章が出来る可能性があり、それだけは避けたい。

実際、私の書く文章は、面倒くさい文章か、とんでもなくつまらない面白い文章かのどちらかだ。

これには恐らく訳がある。

まず、面倒くさい文章を書く理由は一つ、それは私が面倒な人間だからだ。

そして、つまらない文章を書く理由も単純で、それは単に私と言う人間がつまらないのだ。

魅力の無い人間の書く文章に魅力は無く、楽しく無い人間の書く文章は楽しくない。簡単な事だ。

つまり、私が面白い事を書こうとするならば、まずは私が面白い人間にならなくてはならない。

魅力のある文章を描きたければ、魅力のある人間にならなくてはならない。

そしてそれが難しい。

不可能では無い事は確かだが、なかなか難しい事でもある。

楽しい人間、まずはこれが難題だ。

何故なら、人それぞれ「楽しい」の定義が違うからだ。

一体誰の「楽しい」に合わせて楽しい人間に成るべきか。

お笑いの好きな人間にとって、面白いギャグだのネタだのを言える人間は楽しい人間であり、魅力的な人間だ。

一方、お笑いが好きでは無い人間にとっては、ギャグやネタは単に鬱陶しいだけのものであり、決してその人の評価を上げることにはならない。

つまり、楽しい人間になるには、誰にとっての楽しい人間になるかを決める事が必要だ。

実は私のこのような感じも、これが「楽しい」と感じてくれる人も確かに実在した。

理由はよく分からないが、話を聞いているとなんだか楽しいらしい。

世界は広いので、色々な考え方を持つ人間がいて、私のような存在を「あり」とする人もいる事はいるようだ。

ただしこれは過去の事であり、その人たちが今でも生きているかどうかも分からない。

今はただ、こうして文章を書くと言う行為が、その様に喜んでくれる人間の元に届く事を、その様な奇跡を信じながら、こうしてなにやら書き込んでいる次第である。


しかしブログって無限に書けるから、途中でやめたくなくなるのが困りどころだ。

いくつかに分割しても良いが、分割するとそれぞれへのアクセスが分散する気がする。

まあ、そもそもこの文章を読んでいる人は、相当の変わり者で、分割しようとしまいと読んでくれるような気がしなくも無い。

これはちょっとポジディブ過ぎるかな。


それはともかく、面白い文章を書くように勤めたい。

何故なら、文章は人間の心を癒す事も勇気付ける事も出来るからだ。

面白い文章、または、好きな文章、と言っても良いかもしれない。

好きな文章には力がある。

それを読むだけで元気が出てくる不思議な力が。

これは理屈では無い、愛だ。

文章に対する愛、いや、その文章を書く人間に対する愛こそが、読む人間の希望の光となるのだ。

その証拠に、多くのブログを見て欲しい。

そして書かれた文章を単純に、それこそ可能な限り「客観的」に分析してみて欲しい。

決して複雑な文章ではない。そしてためになる有り難いお言葉が含まれているわけでもない。

そして、殆どの場合、特別な事も書かれていないし、笑える事も、感動する事も書かれてはいない。

でも、理屈の上ではそう分析できる文章であっても、それが、「あの人」の書くものだったらどうだろうか。

ひとそれぞれ「あの人」は違うが、共通する点が一つある。

愛だ。

そう、愛こそが文章を面白くもするし、つまらなくもする。


つまり、はっきり言って私の文章がつまらないのは、私が愛されていないからだ。

文法だのストーリーだのははっきり言って二の次だ。

もちろん、小説等の文学作品と言うものは単純に作者への愛とは関係の無い世界で読まれるものも多い。

しかしそれは、文章を、ストーリーをつむぎ上げる天才たちが身を削り、血の汗を流しながら必死になって、ようやく書き上げる事ができるかどうかと言うくらいに書くことが難しい物だ。

そんな能力は私には無く、そしておそらく殆どの人間に無い。

そんな人間でも、書いたものが多くの人に読まれ、そして愛されている。

だから、小説家として売り出すつもりでも無いのであれば、文章の中身については全く気にする事は無い。

それよりも愛される人間になるように努力すべきだ。


・・・私は何を書いているのだろうか。

まあいい、人間反省したら負けだ。


愛される条件と言うのは有るのだろうか。

愛とは明らかに偏在する、偏る。

明らかに愛される人間と愛されない人間とに別れる。

この違いは何だろうか。

単純に容姿の問題なのだろうか。

しかし、人間の好みは多様であり、容姿のみが愛される理由の全てだとはどうしても思えない。

これは今後の研究課題としては面白そうだが、ここでああだこうだ書く事は今は控えておこう。

長すぎるブログは嫌われる物だ。

もっとも、最初から好かれていなければ、嫌われたところでどうと言う事も無いのだが。

いや、この考え方がそもそも愛されない理由なのかもしれないな、そんな気がする。

やっぱり理屈は愛の敵かもしれない。


というわけで、ここまで読んでくれた人へ私からのささやかなる愛を送りましょう


届かないだろうけどねっ、(ほらほら、それがいかんと言うのに・・・)


ポケモンで遊ぼう。


ポケモンブラック&ホワイトでもやろうかな。
でも、考えてみたらDS持ってないや。

そうだ、無いなら自分で絵に描けばいいんだ、よし、自分で描いて、それで遊ぶとしよう。

よし、まずDSを描こう。
どうせなら3DSがいいな。

ゆうきの話

よし、大体こんな感じかな。
まあ、不足している部分は後で書き足したりすればいいや。
そして次はゲームソフトだ。
この絵の3DSに入るゲームは売っていないから、これも自分でつくろうっと。

ゆうきの話

よし、ポケットモンスターブラック2を描いたぞ。
まあ、全然本物とは違うけど、まあ遊ぶのは自分だからこれでいいや。

さて、早速ゲームを始めよう。

でも、実際のゲームは持っていないから、完全に想像で描こう。

(以下、全部想像(創造)です。実際のゲームとは違うと思います)



ゆうきの話


おお、よしよし、まず初めは仲間のポケモンを探す事から始めよう。


ゆうきの話


おお、ここが始めの街か。とにかく仲間のポケモンを見つけなくちゃね。


ゆうきの話


おお、ポケモンゲットだぜ!!


ゆうきの話





あっ、ピカチュウだ。
よーし、一緒に冒険だ!!
よろしくおねがいね。

コイツは楽しい冒険の旅になりそうだな。今からワクワクするね。

そういえば、映画の特典でケルディオがもらえるってしょこたんが言っていたぞ。

よし、そいつを貰ってこよう。いや、描こうっと。



ええーと、どこにいるのかなケルディオは・・・













ゆうきの話

あっ、ケルディオだ!

おお、可愛いな。
おーよしよし、一緒に冒険をしようね。

よーし、冒険に出発だ!!


( しかし進む(描く)のに時間がかかる冒険だ・・・。)


さーて、どんなヤツが出てくるのかな。

・・・(以下、完全に創造です)


ゆうきの話

何だコイツ、また変なヤツが現れたな。

まあいいや、よし、ピカチュー、電気でビリビリにしてやれ!!



ゆうきの話


ぴかーちゅーーーー


おお、こうかばつぐんだ!!


よーしいいぞ、今度はケルディオの番だ!!

思いっきり蹴っ飛ばしてやれ!!


ゆうきの話


ぱこーん

よーし、すごいぞケルディオ、スイラミーをやっつけだぞ!!



おお、なんだなんだ・・・





ゆうきの話


おお、お前はいい子スライミーだったのか。
よしよし、一緒に冒険しよう。可愛いなー。
ピカチュウもケルディオも仲良くしてあげてね。


よーし、この調子でどんどん仲間を見つけるぞ。

そういえば、街の中を全然探索していなかったな。

よし、これから少し街の中を調べてみよう。



ゆうきの話


へぇー、ジョインアベニューって言うんだ。

どれどれ、沢山人がいるなぁ。

とりあえず色々と散策してみよう。



あっ、しょこたんだ





ゆうきの話


ジョインアベニューには外から色々な人がやってくるんだったね。

「しょこたん、一緒に冒険しましょ」

「うん、いいよ」


よーし、心強いパートナーがまた一人加わったぞ!!

これでどんな所でも行けそうな気がして来た。

今夜は宿屋で一泊して、さっそく世界を冒険しつくすぞー!


さてこの先一体どうなるか。

続きは・・・そのうちね。

ポケモンをしよう。 第一話 おしまい そしてつづく・・・




と言うわけで、ゲームを持っていないので、自分で描いてゲームで遊んでみた。

途中訳の分からないモンスターが出てきたり、しょこたんと冒険する事になったりしたが、まあ、私が描いているのでやりたい放題なんでもありなゲームになってしまっている。

自分で考えた物語くらい自分の願望を詰め込んでも構うまい。

と言うわけで、この続きは、後日書くかもしれないし、書かないかもしれない。
たぶん書くけど。

正直いって、これを書く行為は本物のゲームをするのに匹敵する面白さがある。

まあ、本物のポケモンもいつかやりたいけどね。


しかしこんなあほなポケモンの遊び方をしているのは私くらいかもしれないなぁ。

いじめ中毒

もう、少し落ち着いた頃だろうから、私もこの話題に触れてみようと思う。

個人的な体験の詳細はいずれ書くかもしれないし、書かないかも知れないが、私もいじめとは無関係では無かった。

その経験から、いじめとは何かについて、書いてみようと思う。


いじめのきっかけと言うのはほんの些細なことなのだろう。
私も、何故いじめが始まったのか、そのきっかけのようなもは今でも全く分からない。

しかし、いじめと言うのは徐々にエスカレートする物で、それは、いじめる人間がより強い刺激を求めているかのようであった。

そしてまた、いじめる側の人間は目上の人間、自分よりも強い人間の前では非常に大人しく良い子ちゃんを演じており、いじめをしていると言う事実が発覚しないのはその為でもあろうと思う。

そられの点を考えたとき、私はふと思い当たる事があった、「薬物中毒」である。


・きっかけはほんの些細な事ではじまり

・非常な快感を感じ

・徐々にエスカレートして行き

・人前では決してそれをしている事を見せない

・見つかるとあらゆる嘘を付き、事実を隠し通そうとする


これって、まさに薬物中毒、薬物依存症そのものではあるまいか。

この点に気が付くと、幾つかの疑問が解消する。

何故いじめをする者はあんなにも楽しげで恍惚とした表情をしているのか。
それはいじめによって脳内に発生する快楽物質の虜になっているからである。

なぜ、いじめっ子は強い人間や目上の人間、親の前などでは決していじめのそぶりを見せないのか、
それは自分のしている事が悪いことだと潜在的には分かっており、見つかるとその快楽の元である「いじめ」を取り上げられてしまうからだ。
みつかると、必死で言い訳をするのも、単に「いじめ」を取り上げられたくないからだ。


つまり、いじめの加害者は、「いじめ」という薬物の中毒患者であり、いじめ依存症患者である。
患者には治療が必要だ。
いじめそのものを根絶する事は難しいかもしれない。
しかし、いじめ被害を拡大させないためには、そのいじめの加害者の陥っている「いじめ中毒」を早期に発見して、治療しなくてはならない。

厄介な事に、いじめの加害者からは薬物反応は出ない。
でも、中毒である事は確かであり、何らかの症状が出ている可能性は高い。
そこらへんは専門の精神科医の先生などにがんばってもらうとして、いじめの加害者に対しては、一刻も早く、「薬物中毒患者」として治療に当るべきだ。

そして、いじめ中毒患者にいじめをやめさせる最良の方法は、いじめという快感を得られるモノから遠ざける、つまり、いじめられっ子と物理的に距離を置くのが最良の方法と思われる。
もちろん、話し合いで解決できる事もあるだろう。
依存症と言っても、何かのきっかけで立ち直れる可能性はある。
しかし、気長にいじめ中毒患者が立ち直るのを待っていては、いじめ被害者はたまったものではない。
話し合いよりもまず先に、物理的に両者を遠ざける、これが一番即効性のある対処方法だ。

私はそれを実践した。
夏休みなどの長期の休みには、必ず祖父母の家へ行き、休みが終わるギリギリまで帰ってこなかった。
母親は単純に私が祖父母の家が好きだったからだと今でも思っているようだが、真実は違う。
いじめっ子から物理的に距離を置く為に、祖父母の家へ避難していただけだ。

ここら辺の事はその内書くかもしれないし書かないかもしれない。

ともかく、いじめは薬物中毒の一種であり、医学的な治療と、物理的な隔離が必要だ。

そしてもし、いじめを発見してしまった場合は、即刻周囲へ知らせるべきである。
いじめっ子は中毒患者だ。放っておけばますます症状は進み、いじめが激しくなる。
被害者が死んでしまってからでは遅いのだ。
たとえいじめっ子が反論しようとも、それは中毒患者の言い訳なので真に受けてはならない。
そして、いじめの事実を周囲に知らせる事によって、一瞬でもいじめ行為が中断すれば、それによって被害者はその日一日を生き延びる事ができる。
「私なんかが言っても無駄だ」なんて事は決して無い。被害者は1日1日、1秒1秒を歯を食いしばりながら生きているのだ。
結果的にいじめが止められなくても、一瞬でもいじめを緩められれば、被害者は一息付き、ほんの少しでも気力を取り戻せる。
そのほんの少しの気力の差が、生死を分ける事もあるのだ。
そして、もし可能ならば、被害者を連れまわして欲しい。
どこでも良い、自分の家でも良いし、ゲームセンターでも良い。物理的にいじめっ子から少しでも遠ざけて欲しい。
いじめっ子はいじめ中毒患者である。患者に必要なのは治療であり、被害者を物理的に遠ざける事は有効な治療法ともなり、何より、その瞬間だけはいじめられっ子はいじめられない。
そういったちょっとしたことの積み重ねが重要なのだ。


・いじめを発見したらすぐに周りに知らせよう。あなたのその行動は確実に被害者の生命に光を与える

・いじめの被害者を見つけたら、とにかく連れ回そう。加害者から物理的な距離を取る事は有効な手段だ


そして、いじめられている人へ

「とにかく逃げろ、引きこもれ、友人、親戚、祖父母、どこの家でも良いから入り浸れ。いじめっ子から離れろ、今すぐに」

いじめとは中毒なので、中毒患者はあなたと言う美味しい蜜を求めどこまでも追ってくる。
だからあなたは逃げなくてはならない。
いじめられているのは、あなたには何の落ち度も無い。
しいて言うならばあなたはとても魅力的なのだ。
その人間的魅力に溢れたあなたをいじめいたぶる事でいじめっ子は、あなたから喜びのエキスを搾り出そうとしているのだ。
そんな事をさせてはならない、それは人類全体の損失である。
とにかく逃げる、これが一番だ。


いじめの事はまだ色々書く事はあるが(加害者についてなど)、それはまた今度にしよう。


・・・いつになくまじめな事を書いてしまった。まあ、いいか。

ここで書いた事は、当然私個人の意見であり、医学的事実にもと基づいたモノでも無く、間違っている可能性もある。
単純に私が実際に観察して感じたことを書いたまでなので、科学的、医学的にきっちりと研究をしている人たちの意見が私と異なる場合、そちらの意見を採用する方がより良いと思う。
まあ、こんな事書かなくても、大丈夫だとは思うけれど。


さーて、次はもっと軽い事を書くぞ

がんばれワシ

おっといけない。
うっかりまたブログを何年も放置するところだった。

ツイッターが勝者のメディア、リア充のメディアである事は確定的明らかな中、そこでのみ発言を繰り返す事の空しさを解消すべく、
このブログをしっかりと書いて行くことを決めたのだ。

ツイッターでは2年強で10000ツイートほどしているが、ただの一度も、ただの一度も、ツイートへの反応が帰って来た事が無い。
薄々は気が付いていたが、ツイッターと言うモノは強者のメディアであり、リア充のメディアなので、私のような完全に無名で無能な弱者がいくらつぶやいたところで、誰の目にも届かない。

ブログの場合、経験上、私が何者であろうとも、ある程度のアクセスが見込める事が分かっている。


見てくださっている皆様には感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます。


と言うわけで、ブログをこうやって再開している訳だけど、ここでは少し、最近考えている事を書いてみようと思う。

最近特に思うのが、自分の無力さ、無能さである。
子供の頃は漠然とした「何とかなるさ感」があり、やりたい事の内のどれか一つくらいは実現できるだろうと何の根拠もなく考えていた。
これがいわゆる「全能感」というやつかもしれない。

時と共に、その感覚は誤りである事に気が付く。
例えば、私の場合ならば、子供の頃はいつも一人で絵や物語を描いているか、またはゲームをしていた。
漫画とか絵とか、物語とかを四六時中書いていたのは私の周囲では他にいなかった。
その様子を観察しているうちに、「もしかしたら自分はそういう事が得意なのではないだろうか」と感じるようになった。
もちろんこれは錯覚であり、「好き」と「得意」は関係が無い事は、後になって気が付く事になるのである。
子供の頃は、好きな事を沢山していれば、そしてそれを人よりも沢山していればいずれその道にすすみ、何らかの成功を収めるものだと、漠然と感じていた。
しかしこれは誤りである事は、現状が証明している。

私が毎日描き続けていた絵も、学校を卒業して、ネットの世界を発見するに至り、その書き手のあまりの多さ、そして質の高さに愕然とした。
確かに私の通っていた学校では、私より沢山絵を描き、文章を書いている人間はいなかった。
しかしそれは所詮一つの学校内での事であり、その目を全国に向けてみると、何とおびただしい数の書き手がひしめいているではないか。

それでも、諦めずに描き続けていれば、いずれ何とかなるのではないかと言う、これまた根拠の無い漠然とした自信のようなものが完全になくなる事は無かった。

そこで次に気が付いたのが、「才能」である。
学校で私は授業中も授業を無視して絵を描き続けていた、文章を描き続けていた。
当然生成は最低クラスで、中学に落第があったら、今でも学校に通っていたかもしれない。
それくらい毎日色々と描いていた私より、明らかに絵のうまい連中がいた。
彼らが美術の時間に描く絵は、私のそれを遥かに凌駕しており、そして彼らの描く鉛筆書きの漫画イラストは私がそれまでに描いたどんなキャラクターよりも上手かった。
其の時は、「おお、うまいなぉ」位にしか感じなかったが、今考えると、それこそが「才能」なのである。
私のように気の狂ったように幾ら描いても、そんな物は「才能」の前には何の力も意味も無い。
それに気が付いたのは残念ながら最近の事であり、そんな連中が山のようにひしめく世界に私は足を突っ込んでしまったのだと、改めて感じているのである。

ただ、私は諦めが悪い。おそらく絵やこんな感じの駄文は、一生描き続ける事だろう。
しかし、書くのをやめないと言うことと、それが私の人生にとってプラスに成るという事は別問題だ。
このブログにしても、確か開設したのは2004年かそこらだったと思うが、幾ら書いても、それに対する世間の反応は皆無に近かった。
絵を年間何千枚描いてサイトに発表しても、アクセス数は年間数十アクセス程度である。

確かに絵を描くのは嫌いではない、文章にしても同じだが、しかし、さすがにここまで完全に何の魅力も無いことが世間によって突きつけられると、
自分のしている行為そのものに疑問を感じざるを得なくなる。

よく「一人でも応援してくれる人がいる限りがんばります」と言う台詞を聞く事がある。
私もそれで良いと思うが、では、一人も応援をしてくれる人がいない場合、その行為をする意味が果たしてあるのか、そう感じざるを得ないのである。

そこで今日のブログのタイトル「がんばれワシ」である。

子供の頃の全能感は消え去り、無力でちっぽけな一人の人間が、誰からも愛される事も無く、誰からも求められる事も無く、それでも書かずにはいられないので、
ただひたすらに描き続けけているのだ。
そんな自分を誰も応援してくれないのであれば、せめて自分で自分を応援するくらいしか正気を保つ方法はあるまい。

だから言おう。


「がんばれワシ」

しょこたんと結婚する方法


20代アイドルの結婚・出産がこの所続いている。
いわゆる結婚適齢期と言うやつであろうから、特段おかしな事でもない。
しょこたん(中川翔子)も、最近では「もてたい・子どもが欲しい」と言う発言が目立つようになっている。

そこで今回は、しょこたん「と」結婚する方法を考えてみたいと思う。

その前に、しょこたん「が」結婚する方法を書いておきたいと思う。

しょこたんが結婚する方法は簡単で、それはしょこたんが首を縦に振れば良い、ただそれだけだ。
しょこたんは「もてたい」というが、恐らく今が人生の中で一番モテている時期である。
当然多くのファンがおり、その中には本気で結婚を承諾してくれる人も多数存在するはずだ。
ファンだけでは無く、身近な芸能人や会社の人間など、しょこたんとなら本気で結婚しても良いと考えている人間は掃いて捨てるほどいると思われる。
だから、しょこたんが結婚をしたいのならば、その中から適当に選んで首を縦に振るだけで良い、簡単だ。


それでは、しょこたん「と」結婚する方法を考えてみよう。


人間の能力には限界がある。
一人の人間が親しく交流できる人間は精々100人から150人といわれている。
それ以上になると、人間の脳では処理しきれなくなるらしい。
いずれにせよ限界はある。
名前と顔を覚える、程度ならば10000人くらい可能な人もいるかもしれないが、名前を覚えている、程度の関係では到底結婚は出来ない。
つまり、しょこたんと結婚をしたい場合は、親しい150人のうちの一人にならなくてはならない。

条件1 「しょこたんの中での親しさ150位以内に入る」

仕事仲間だとか、ファンクラブ会員だとかだけでは150位以内に入るのは難しい。
しかし、このハードルをクリアしないと結婚はまず出来ない。


伝え聞くところによると、しょこたんは理想の男性像と言うものがあるそうで、それは以下の通りであるらしい

1、猫好きである。
2、1日ゲームをしていても怒らない。
3、猫やママの世話してくれる。
4、ブルース・リーのようにマッチョで口から血を流したり、かさぶたが出来ていたりする。

以上が伝え聞く、相手の条件らしい。
友人ならば大して問題無い条件だが、これが「妻」となった場合、どうだろうか。
仕事で疲れて帰ると、妻はゲームに夢中だ。
しょこたんは料理は全く出来ないとの事なので、当然料理の支度もしていない。
8匹いる猫のエサとトイレの砂の交換も自分の役目だ。
しょこたんは売れっ子アイドルなので仕事は忙しく、一日何分も会話できない日も多いはずだ。

確かにしょこたんは可愛いし、結婚当初は夫も有頂天だろう。
しかし、現実の地味な日常生活が1年、2年、3年、と続く内に、しょこたんに可愛さ以外のものが欲しくなるに違いない。
料理もして欲しいと感じるようになるだろうし、猫の世話も分担して欲しいと思うようになる。
そして、多くの男が、恐らくしょこたんほどには忙しくない。
一方、しょこたんは朝から晩までの仕事、そして年間何週間にも及ぶ地方・海外ロケに伴う外泊。
その間も猫たちは誰かが世話をしなくてはならない。
子どもが生まれれば多少事態は変わるだろうが、それであっても、あの「しょこたん」と結婚したんだ、と言う当初の充実感はすぐに薄れていくに違い無い。

条件2「しょこたんの結婚の条件を呑める」
条件3「夫婦間の生活のギャップを許容できる」


ここまで書くと、「自分には無理だ」と言う人も出てくる事だろう。
でも、実はまだ問題がある。
それはしょこたんがしょこたんである、と言う問題だ。

ゆうこりん(小倉優子)が先日無事出産をした。
彼女は非常に上手く振舞っており、例えば、薄々と異性の存在を匂わせ続けながら、それでもファンに嫌われないように上手く振舞い続けてきた。
そして、ファンに対して徐々に異性の存在を許容するように慣らしていった。
その上で、10代の頃から作り上げてきたキャラクター・そしてコリン星を非常に上手く「思い出」に昇華し、ファンの反感を最小限に抑えつつ、結婚・出産にこぎつけた。

しょこたんの問題は、この過程、つまり「しょこたんも女性であり恋愛もするし、彼氏も居て当然である」という事をファンに浸透させてこなかった事である。
ファンの多くはしょこたんの「男っ気の無さ」に惹かれており、もし突然「彼氏が居ます、結婚します」などと発表した場合、免疫の出来ていないファンの反応が非常に心配である。
結婚と共に芸能界を引退するのならばともかく、今までのようにアイドルとして活躍をするのであるならば、ファンを敵に回す事だけは何としても避けなくてはならない。
その為には、時間を掛けてゆうこりんのように徐々にファンを慣らして行くことが必要だが、おそらくしょこたんはそこまで恋愛にアクティブでは無いと思われる。
そのため、ある時突然「彼氏・結婚」と言った情報がファンの間・ネット上を駆け巡る事になると予測される。
その際のファンの反発にしょこたんは耐えられるのか、また、その夫も攻撃の対象になるのは確実である。
オタクのアイドルがオタクを敵に回すと非常に厄介な事になる。
ネットでは連日誹謗中傷が続く事になり、それをしょこたんが絶えられるかが心配だが、それ以上に心配なのが夫である。
大抵の人間はネットで叩かれる事に慣れていない。
夫に成るには、その精神的な重圧に耐えられる非常にタフな精神力が必要になる。


条件4「ファンからの妬み・誹謗中傷に耐えられる強靭な精神力」


その他にも、年齢や職業や容姿など、しょこたんが表に出してはいない「裏の条件」を満たす必要がある。
しかも、しょこたんが完全に主導権を握って選択できる。
夫に成る為の条件は厳しいが、しょこたんからしてみれば、よりどりみどりだ。

以上、ここでまとめると


条件1「しょこたんの中での親しさ150位以内に入る」
条件2「しょこたんの結婚の条件を呑める」
条件3「夫婦間の生活のギャップを許容できる」
条件4「ファンからの妬み・誹謗中傷に耐えられる強靭な精神力」
条件5「明かされていない裏の条件を満たしている(年齢・容姿・職業・その他様々な条件)」


他にも条件はあるかもしれないが、今の所思いつくのはこんな所だ。
それではどの様な人物が、夫にふさわしいのか。

諸条件を考慮すると、「ミュージシャン」「事務所関係者」辺りが思い当たるところだ。

ミュージシャンは、同業者であり、親しくなれるチャンスも多い。
そして、芸能人の忙しさ、生活リズムに対する理解も深く、売れっ子芸能人対して普通の妻である事は求めないだろう。
また、人前に顔を晒す職業なので、精神的なタフさは一般人よりは遥かに強いと思われる。

事務所関係者は、親しくなれるチャンスは当然多く、また、仕事に対する理解もある。
いわゆる縁の下の力持ち、影から支える「主夫」のような存在になる事が出来ると思われる。


長々と書いてきたが、最終的に相手を決めるのはしょこたん自身であり、結婚せずに一生独身を貫くというのも全然ありだと思う。
また、子どもが欲しいだけならば、シングルマザーという道もあり、そちらの方が現実的な気もする。

しょこたんと結婚するためには、様々な条件をクリアしなくてはならず、全ての条件をクリアできる猛者が表れるのかは全く分からない。
ただ、誰でも良いのであれば、しょこたんは今日にでも結婚は出来る。


このブログのタイトルである「しょこたんと結婚する方法」に対する回答としては


「類稀なる人間的魅力を身に付け、超人的な忍耐力を持ち、そしてありえないほどの奇跡を10個くらい起こせば良い」となる。


(本記事はあくまで「方法」を考察した物であり、「なれる」と謳っている訳では無いので、あしからず)




ちなみに私ならいつでもOKですよ、連絡待っています。(はい、そこのあなた、叩かない叩かない)

お友達になれるだけでも「ガギント」うれしいんだけどなぁ。

(まぁ、無理か・・・)


「人間、諦めが肝心」と言う言葉を噛み締めつつ、孤独に生きていこうっと。

放置の極致

なんと、この前このブログに記事を書いたのは2010年だ。
私は特に変わりなく生きていたが、ツイッターと自分のwebサイトへの書き込みばかりしていて、このブログの事は完全に放置してしまっていた。
しかし、ブログはブログで今後もボチボチと書いていこうと思う。
このブログにはツイッターや私のwebサイトには無い特徴が幾つかある。
最大の特徴が、アクセスの多さだ。
webサイト1ページにつき1日1アクセスあれば良いほうで、ほとんどのページが1年に1アクセスあるかどうかだ。
それに比べると、このブログはもう少しアクセスは多い。
ツイッターにしても、色々な実験の結果、私のツイートを読んでいる人は事実上0人程度であろうと、結論するに至った。
このブログならば沢山の人が読んでくれる、とは言わないが、少なくとも、1人や2人は読んでくれることもあるだろうから、とりあえずこちらにも書き込んでいこうと思う。

といっても、大した事は書けないが、適当に思いついた事を書き連ねていこうと思う。