自分を客観すべきか否か、それが問題だっ
自分を客観視する事は大切だとよく言われる。
客観的に見つめ、冷静に分析すれば、自分が見えてくる、と言う。
しかし、そこが問題だ。
果たして自分を客観視などできるのだろうか。
例えば私の場合、自分で自分を客観視した場合、どう甘く見積もっても、相当悲惨な事になると見ざるを得ない。
本当にそうかも知れ無いが、違うかもしれない。
まず自分自身の目そのものが正しいと言う確証が無い。
つまり自分が客観視していると思い込んで見えているその像は、実は自分の心が作り出した虚像である可能性がある。
もちろん正しい見方である可能性もあるが、どちらであるかを調べる方法が無い。
いや、あるにはあるが、それは一人では出来ない。
自分と言う系の中では、自分自身を正確に割り出す事は恐らくとても困難だ。
したがって、外部よりの視点が必要になる。
外部からの視点、これが必要な事は理解できるのだが、それがどこにあるのかが分からない。
長年、外部と言う存在が実在するのかどうか、かなり疑わしいと感じ続けてきた。
実際、外部が殆ど観測できない気がしている。
これは別に私が引きこもりだと言うわけでは無く、外に出ても、誰かと話しても、それが実体を伴う本物の存在であるとはにわかには信じがたいのだ。
その様な「外部」が、果たして客観であると言えるのだろうか。
自分で自分を客観するのが難しいと同時に、外部もまた、私を客観する事は出来ないのではないか。
つまり、私が外部だと思っている存在は、純粋な外部そのものでは無く、純粋な外部のような物に、私の認識が組み合わさる事で、初めて私はそれが外部であると感じる事に成るのだから、そこにはやはり自分自身と言う客観性が疑わしい存在が入り込む事になる。
外の人の見方も、それを聞くのは本人であり、聞くときにある種のフィルターをかける事によって、本来の客観を損なっているのではないか。
そう考えると、自分で自分を客観する事が困難であるのと同じくらいに、外部による私への客観もまた、難しいと考えざるを得ない。
と言う事は、そもそも客観をする、と言う行為そのものに問題があるのではないか。
恐らく、客観が出来るのは外部の人間だけであり、しかもその客観した結果を本人に伝え、理解させる事は本質的に不可能では無いかと考えられるのだ。
だから、自分で自分を客観する事は不可能だし、誰かを客観した結果をその人に伝えても、結局本人の主観によって解釈されなおされてしまい、本当の客観など、本人は永遠に知る事は無いと言う事になる。
ここで今日のタイトル「客観すべきか」の答えだが、
「客観すべきじゃないし、そもそも出来やしない。」
客観視しているつもりになって、自分の歪んだ心が反映されたいい加減な答えに飛びついて人生を浪費する暇があったら、ポケモンでもやって遊んでいる方がよっぽど有意義だ。
すいませんでした。、こんなクソつまらない文章を読ませてしまっている事を、心よりお詫び申し上げます。
私は難しい話が嫌いだ。
何故ならその話はつまらないからだ。
タダでさえつまらない人生がもっとつまらなくなる。
だから本当はつまらない文章など書いてはならないのだ。
楽しく無い文章は法律で禁止にしても良いかもしれない、それくらいに本来ならば面白く無い文章を世に出してはならないのだ。
だから、毎回こんな頭がこんがらがる感じの文章を書くたびに「次こそは楽しい文章を書くぞ」と思うのだが、そこには問題もある。
楽しい文章を書くと言う事は、案外面倒なことだ。
そして、一歩間違えると、とんでもなくつまらなくなる。
頭のこんがらがるような文章よりも、更につまらない楽しい文章が出来る可能性があり、それだけは避けたい。
実際、私の書く文章は、面倒くさい文章か、とんでもなくつまらない面白い文章かのどちらかだ。
これには恐らく訳がある。
まず、面倒くさい文章を書く理由は一つ、それは私が面倒な人間だからだ。
そして、つまらない文章を書く理由も単純で、それは単に私と言う人間がつまらないのだ。
魅力の無い人間の書く文章に魅力は無く、楽しく無い人間の書く文章は楽しくない。簡単な事だ。
つまり、私が面白い事を書こうとするならば、まずは私が面白い人間にならなくてはならない。
魅力のある文章を描きたければ、魅力のある人間にならなくてはならない。
そしてそれが難しい。
不可能では無い事は確かだが、なかなか難しい事でもある。
楽しい人間、まずはこれが難題だ。
何故なら、人それぞれ「楽しい」の定義が違うからだ。
一体誰の「楽しい」に合わせて楽しい人間に成るべきか。
お笑いの好きな人間にとって、面白いギャグだのネタだのを言える人間は楽しい人間であり、魅力的な人間だ。
一方、お笑いが好きでは無い人間にとっては、ギャグやネタは単に鬱陶しいだけのものであり、決してその人の評価を上げることにはならない。
つまり、楽しい人間になるには、誰にとっての楽しい人間になるかを決める事が必要だ。
実は私のこのような感じも、これが「楽しい」と感じてくれる人も確かに実在した。
理由はよく分からないが、話を聞いているとなんだか楽しいらしい。
世界は広いので、色々な考え方を持つ人間がいて、私のような存在を「あり」とする人もいる事はいるようだ。
ただしこれは過去の事であり、その人たちが今でも生きているかどうかも分からない。
今はただ、こうして文章を書くと言う行為が、その様に喜んでくれる人間の元に届く事を、その様な奇跡を信じながら、こうしてなにやら書き込んでいる次第である。
しかしブログって無限に書けるから、途中でやめたくなくなるのが困りどころだ。
いくつかに分割しても良いが、分割するとそれぞれへのアクセスが分散する気がする。
まあ、そもそもこの文章を読んでいる人は、相当の変わり者で、分割しようとしまいと読んでくれるような気がしなくも無い。
これはちょっとポジディブ過ぎるかな。
それはともかく、面白い文章を書くように勤めたい。
何故なら、文章は人間の心を癒す事も勇気付ける事も出来るからだ。
面白い文章、または、好きな文章、と言っても良いかもしれない。
好きな文章には力がある。
それを読むだけで元気が出てくる不思議な力が。
これは理屈では無い、愛だ。
文章に対する愛、いや、その文章を書く人間に対する愛こそが、読む人間の希望の光となるのだ。
その証拠に、多くのブログを見て欲しい。
そして書かれた文章を単純に、それこそ可能な限り「客観的」に分析してみて欲しい。
決して複雑な文章ではない。そしてためになる有り難いお言葉が含まれているわけでもない。
そして、殆どの場合、特別な事も書かれていないし、笑える事も、感動する事も書かれてはいない。
でも、理屈の上ではそう分析できる文章であっても、それが、「あの人」の書くものだったらどうだろうか。
ひとそれぞれ「あの人」は違うが、共通する点が一つある。
愛だ。
そう、愛こそが文章を面白くもするし、つまらなくもする。
つまり、はっきり言って私の文章がつまらないのは、私が愛されていないからだ。
文法だのストーリーだのははっきり言って二の次だ。
もちろん、小説等の文学作品と言うものは単純に作者への愛とは関係の無い世界で読まれるものも多い。
しかしそれは、文章を、ストーリーをつむぎ上げる天才たちが身を削り、血の汗を流しながら必死になって、ようやく書き上げる事ができるかどうかと言うくらいに書くことが難しい物だ。
そんな能力は私には無く、そしておそらく殆どの人間に無い。
そんな人間でも、書いたものが多くの人に読まれ、そして愛されている。
だから、小説家として売り出すつもりでも無いのであれば、文章の中身については全く気にする事は無い。
それよりも愛される人間になるように努力すべきだ。
・・・私は何を書いているのだろうか。
まあいい、人間反省したら負けだ。
愛される条件と言うのは有るのだろうか。
愛とは明らかに偏在する、偏る。
明らかに愛される人間と愛されない人間とに別れる。
この違いは何だろうか。
単純に容姿の問題なのだろうか。
しかし、人間の好みは多様であり、容姿のみが愛される理由の全てだとはどうしても思えない。
これは今後の研究課題としては面白そうだが、ここでああだこうだ書く事は今は控えておこう。
長すぎるブログは嫌われる物だ。
もっとも、最初から好かれていなければ、嫌われたところでどうと言う事も無いのだが。
いや、この考え方がそもそも愛されない理由なのかもしれないな、そんな気がする。
やっぱり理屈は愛の敵かもしれない。
というわけで、ここまで読んでくれた人へ私からのささやかなる愛を送りましょう
届かないだろうけどねっ、(ほらほら、それがいかんと言うのに・・・)