アニソンしょこたん
しょこたんブログで、しょこたんがアニソンをずっと聞いて勇気をつけていると言う記事があった。
大丈夫だぞしょこたん、「ゆうき」がついているぞ!!
えーと、それはともかく・・・
アニソンは、私も大好きだ。
一日中聞くことも珍しくない。
確かにアニソンはテンションが上がるものが多い。
また、落ち着いたり、優しい気持ちになるものも沢山ある。
そのアニメそのものは長い事見ていなくても、そのアニメの主題歌などはいつまでも聞き続けていたりする。
やはり、音楽にはそう言った力があるのだ。
音楽は究極の芸術だと私は信じている。
絵や文章も素晴らしい力があるが、音楽には、それらに無いものがある。時間だ。
「時間」を己の中に取り込むことによって、音楽は・歌は、単なる文章・詩・絵以上の力を持つ事が出来る。
そして、究極の楽器である「声」こそがその主役であり、そういう意味で歌手とは究極の芸術作品であると言える。
でもたまに、音楽を聞くのが辛くなる時もある。
その音楽の力に心が耐えられなくなりそうな、そんな時がたまにある。
でも、そんな時でも、やはり音楽を聴きたくなる。
歌声を聴きたくなる。
それが音楽の、歌の力だ。
私にも好きな歌手は何人もいる。
そしてもちろん、しょこたんも大好きだ。
でも、あまり歌手を人間として好きになってしまうと、その歌を聞くのが辛くなる時がある。
大好きな歌手が恋の歌を歌うと、なぜか切ない気持ちになる。
だって、その歌の中に出てくる人は、私ではないのだから。
だから、私は恋愛の歌はあまり聴きたくない。
とくに好きな歌手の恋愛の歌は聴きたくない、叶わぬ恋に切なさが増すばかりだから。
でも、歌は聞く、今これを書いている瞬間にも、常に音が流れている。
そんな音楽、究極の芸術を創り出す歌手に、私は全力でエールを送りたい。
そして最後にもういちど
しょこたんよ!! 「ゆうき」がついているぞ!! ゆうきを持って思いっきり歌いまくれ!!
大丈夫だぞしょこたん、「ゆうき」がついているぞ!!
えーと、それはともかく・・・
アニソンは、私も大好きだ。
一日中聞くことも珍しくない。
確かにアニソンはテンションが上がるものが多い。
また、落ち着いたり、優しい気持ちになるものも沢山ある。
そのアニメそのものは長い事見ていなくても、そのアニメの主題歌などはいつまでも聞き続けていたりする。
やはり、音楽にはそう言った力があるのだ。
音楽は究極の芸術だと私は信じている。
絵や文章も素晴らしい力があるが、音楽には、それらに無いものがある。時間だ。
「時間」を己の中に取り込むことによって、音楽は・歌は、単なる文章・詩・絵以上の力を持つ事が出来る。
そして、究極の楽器である「声」こそがその主役であり、そういう意味で歌手とは究極の芸術作品であると言える。
でもたまに、音楽を聞くのが辛くなる時もある。
その音楽の力に心が耐えられなくなりそうな、そんな時がたまにある。
でも、そんな時でも、やはり音楽を聴きたくなる。
歌声を聴きたくなる。
それが音楽の、歌の力だ。
私にも好きな歌手は何人もいる。
そしてもちろん、しょこたんも大好きだ。
でも、あまり歌手を人間として好きになってしまうと、その歌を聞くのが辛くなる時がある。
大好きな歌手が恋の歌を歌うと、なぜか切ない気持ちになる。
だって、その歌の中に出てくる人は、私ではないのだから。
だから、私は恋愛の歌はあまり聴きたくない。
とくに好きな歌手の恋愛の歌は聴きたくない、叶わぬ恋に切なさが増すばかりだから。
でも、歌は聞く、今これを書いている瞬間にも、常に音が流れている。
そんな音楽、究極の芸術を創り出す歌手に、私は全力でエールを送りたい。
そして最後にもういちど
しょこたんよ!! 「ゆうき」がついているぞ!! ゆうきを持って思いっきり歌いまくれ!!
自己紹介
ゆうき(本名です)
性別 男(推定)
身長 163cm
体重 55kgくらい
大好きな物 しょこたん、猫、甘い食べ物 、宇宙、SF、
嫌いな物 何かを嫌いになってしまう自分の心
性格 マイペース、人見知り、温和
父の実家のある岩手県の病院で誕生。
小さな病院だったため、血液検査を行わず、未だに血液型不明。
その後、4歳くらいまでを東京都中野区で過ごす。
その後、東京都練馬区へ引っ越し、妹2人、弟1人が生まれる
その後、諸事情により、母子家庭となる
小学校高学年の数年間、クラスメイトに毎日、「泣け」と言われては殴られ、泣けば「うるさい、泣き止め」と言われて殴られる。
ちなみにその後、今まで私は一度も泣いていない。この時に一生分泣いたので。
そのた、ここでは書けない色々な仕打ちを受け、すっかり性格がおかしくなる。
その頃の趣味は、ファミコンと漫画と絵を書くこと。
小学校では、ノートに絵を2体書いて、それをお互いに戦わせると言う事を一人で延々とやっていた。
夜遅くまで、布団の中でキン肉マンや天才バカボンの漫画、そしてゲームの攻略本を寝落ちするまでずっと読んでいた。
中学では、幸いいじめっ子と物理的距離が離れたので、いじめは無くなったが、歪んだ性格が災いし、それなりの学校生活を送る。
中学では殆ど授業を聞いた記憶が無く、学校ではただひたすらに、ずっと絵ばかり書いていた。
当然成績は最低だったので、高校は誰でもいける所へ行く事になった
高校では、単位を取らないと落第をするので、仕方なく授業を受ける事に。
留年する事も無く高校は卒業。
ただし高校時代のクラスメイトで今でも交流のある人間は一人もいない。
(そもそも高校時代、クラスメイトとは数人くらいとしか話した事も無かった・・・)
そして今に至る。
もちろんこれは略歴の略歴くらいの物で、その間には色々な事はあった。
それはまた、このブログなどで書くかもしれないし、書かないかもしれない。
性別 男(推定)
身長 163cm
体重 55kgくらい
大好きな物 しょこたん、猫、甘い食べ物 、宇宙、SF、
嫌いな物 何かを嫌いになってしまう自分の心
性格 マイペース、人見知り、温和
父の実家のある岩手県の病院で誕生。
小さな病院だったため、血液検査を行わず、未だに血液型不明。
その後、4歳くらいまでを東京都中野区で過ごす。
その後、東京都練馬区へ引っ越し、妹2人、弟1人が生まれる
その後、諸事情により、母子家庭となる
小学校高学年の数年間、クラスメイトに毎日、「泣け」と言われては殴られ、泣けば「うるさい、泣き止め」と言われて殴られる。
ちなみにその後、今まで私は一度も泣いていない。この時に一生分泣いたので。
そのた、ここでは書けない色々な仕打ちを受け、すっかり性格がおかしくなる。
その頃の趣味は、ファミコンと漫画と絵を書くこと。
小学校では、ノートに絵を2体書いて、それをお互いに戦わせると言う事を一人で延々とやっていた。
夜遅くまで、布団の中でキン肉マンや天才バカボンの漫画、そしてゲームの攻略本を寝落ちするまでずっと読んでいた。
中学では、幸いいじめっ子と物理的距離が離れたので、いじめは無くなったが、歪んだ性格が災いし、それなりの学校生活を送る。
中学では殆ど授業を聞いた記憶が無く、学校ではただひたすらに、ずっと絵ばかり書いていた。
当然成績は最低だったので、高校は誰でもいける所へ行く事になった
高校では、単位を取らないと落第をするので、仕方なく授業を受ける事に。
留年する事も無く高校は卒業。
ただし高校時代のクラスメイトで今でも交流のある人間は一人もいない。
(そもそも高校時代、クラスメイトとは数人くらいとしか話した事も無かった・・・)
そして今に至る。
もちろんこれは略歴の略歴くらいの物で、その間には色々な事はあった。
それはまた、このブログなどで書くかもしれないし、書かないかもしれない。
次元の違いの秘密
ひょっとして、2次元と3次元に、明確な違いなんて無いのではないか、そんな結論に達しつつある。
2次元と3次元の違いとは何か、最終的には接触可能かどうかだと思う。
それでは接触とは、どの様な行為なのか。
それは3次元物体を皮膚につけた際に、神経細胞に生じる電気信号だ。
2次元にこの電気信号を再現する機能を取り付けたらどうなるか。
もはや接触によって2次元と3次元との区別を付けることが出来なくなるのではないか。
立体感についても、これは左右の目の視差による脳内での再合成画像に過ぎない。
方目を瞑れば、3次元も2次元に見える。
ここまで考えると、2次元と3次元の明確な区別そのものが意味を成さないような気がして来た。
つまり、3次元でなくてはならない、という考えは、単なる思い込みであり、現実にはそれらの違いは微々たる物で、本質的には変わらない物なのではないか。
そう考えると、別に3次元っぽい2次元のような存在を好きになったって、構わない、そんな気もして来た。
これで、しょこたんが大好きでも、問題ない訳だ。よかったよかった。のかなぁ?・・ ・
2次元と3次元の違いとは何か、最終的には接触可能かどうかだと思う。
それでは接触とは、どの様な行為なのか。
それは3次元物体を皮膚につけた際に、神経細胞に生じる電気信号だ。
2次元にこの電気信号を再現する機能を取り付けたらどうなるか。
もはや接触によって2次元と3次元との区別を付けることが出来なくなるのではないか。
立体感についても、これは左右の目の視差による脳内での再合成画像に過ぎない。
方目を瞑れば、3次元も2次元に見える。
ここまで考えると、2次元と3次元の明確な区別そのものが意味を成さないような気がして来た。
つまり、3次元でなくてはならない、という考えは、単なる思い込みであり、現実にはそれらの違いは微々たる物で、本質的には変わらない物なのではないか。
そう考えると、別に3次元っぽい2次元のような存在を好きになったって、構わない、そんな気もして来た。
これで、しょこたんが大好きでも、問題ない訳だ。よかったよかった。のかなぁ?・・ ・
平面世界
やばい、全部が平面に見えてきた。
もちろん物理的には、3次元であるし、大脳はそれを三次元であると、確かに認識している。
でも、精神が、次元を剥ぎ取り、全てを2次元にしてしまっているようだ。
もはやこの世には3次元の立体的な人間が実在しないように感じられる。
もちろんこれは比喩だ。
道端を歩いている人間を見れば、確かに三次元に見えるし、明らかに人間だ、ロボットなどではありえない。
でも、私の目の前に現れる人間がすべて、二次元の膜の向こうに隔離されているようにも感じられる。
直接触る事も感じる事も出来ない、見る事は出来るが、永遠に超えられない次元の壁。
これが元々2次元のキャラクターなら、そういうものだと言ってしまえるが、三次元であるはずの人間が、実際には2次元と等価であると気が付いてしまったら、
その時、人は、一体どうすればよいのだろうか。
いよいよわからなくなって来た。
そしてまた一つ、恐ろしい事を思いついてしまった。
それは、今生きている人間が、全員、次第にその2次元の壁、一人一人、取り囲まれ始めているのではないか、と。
そしてついには、全ての人間は、完全に二次元の壁に隔離された状態となり、お互いが接触する事ができなくなる。
そんな世界で、人類は存続する事ができるのだろうか。
もちろん、そう簡単にそんな事に成るとは思えない。
でも、かなりの数の人間、特に若者が、その2次元の壁に取り囲まれ始めているのではないだろうか。
そして私の感じているこのモヤモヤとした感覚も、それが原因なのでは無いだろうか。
これは私の妄想であって欲しい。
もちろんここで言う次元の壁とは、物理的なものでは無く、精神的なものの事である。
精神的な壁、精神的な二次元の壁とは、すなわちモニタであり、印刷物である。
その様な壁に、次第に人の心が取り囲まれ行く。
そして、最後にはそれらに取り囲まれたまま、本物の人間に触れる事も無いまま・・・
いや、それではダメだ、3次元の存在を2次元におとしめてはならないのだ。
何とかして、その2次元に見える存在を、3次元に引き戻さなくてはならないのだ。
それに必要なのは、想像力、そして愛の力だ。
断じて2次元の向こうに追いやってはならない。
さもないと、我々は全員が独りぼっちになってしまうのだから。
三次元の存在をそのまま三次元として感じるにはどうすればよいのだろうか。
なるほど、なるほど、そうだったのか!!
アイドルグループがよくやる握手会、あれこそがその次元の壁をブチ破る方法だったのか!!
なるほど、いま理解したぞ、勉強になったぞ。
ところで、私と握手をしてくれる人なんて、居るんだろうか。
私の大好きなしょこたんも、握手会はしているけれど、かっこ良く言えば
「着て行く服がねぇ」
本当は
「ハマりそうでヤバイから行けない」
私は惚れっぽいので、直接接触してしまったら、一生しょこたん好きでしか居られなくなる。
それはたぶんまずい。
たぶんそれは、2次元を好きになるくらい、ハードに人生になりかねない。
それが嫌だから3次元を3次元として感じたいのに、それではダメだ。
なるほど、アイドルグループとかの握手会は、その2次元と3次元の狭間を、延々と行き来する人々の集まりだったのか。
そういう目で見ると、あの人たちがものすごい修行僧のように見えてくる。
よくそんな状態を耐えられるものだ。
何であんな苦行に耐えられるのだろうか。
何か、理由がありそうだが、それを考え出すと夜が明ける。
今日はここら辺にしておこう。
明日また考えればいい。
次元の壁を、次元の壁を何とかしたい
もちろん物理的には、3次元であるし、大脳はそれを三次元であると、確かに認識している。
でも、精神が、次元を剥ぎ取り、全てを2次元にしてしまっているようだ。
もはやこの世には3次元の立体的な人間が実在しないように感じられる。
もちろんこれは比喩だ。
道端を歩いている人間を見れば、確かに三次元に見えるし、明らかに人間だ、ロボットなどではありえない。
でも、私の目の前に現れる人間がすべて、二次元の膜の向こうに隔離されているようにも感じられる。
直接触る事も感じる事も出来ない、見る事は出来るが、永遠に超えられない次元の壁。
これが元々2次元のキャラクターなら、そういうものだと言ってしまえるが、三次元であるはずの人間が、実際には2次元と等価であると気が付いてしまったら、
その時、人は、一体どうすればよいのだろうか。
いよいよわからなくなって来た。
そしてまた一つ、恐ろしい事を思いついてしまった。
それは、今生きている人間が、全員、次第にその2次元の壁、一人一人、取り囲まれ始めているのではないか、と。
そしてついには、全ての人間は、完全に二次元の壁に隔離された状態となり、お互いが接触する事ができなくなる。
そんな世界で、人類は存続する事ができるのだろうか。
もちろん、そう簡単にそんな事に成るとは思えない。
でも、かなりの数の人間、特に若者が、その2次元の壁に取り囲まれ始めているのではないだろうか。
そして私の感じているこのモヤモヤとした感覚も、それが原因なのでは無いだろうか。
これは私の妄想であって欲しい。
もちろんここで言う次元の壁とは、物理的なものでは無く、精神的なものの事である。
精神的な壁、精神的な二次元の壁とは、すなわちモニタであり、印刷物である。
その様な壁に、次第に人の心が取り囲まれ行く。
そして、最後にはそれらに取り囲まれたまま、本物の人間に触れる事も無いまま・・・
いや、それではダメだ、3次元の存在を2次元におとしめてはならないのだ。
何とかして、その2次元に見える存在を、3次元に引き戻さなくてはならないのだ。
それに必要なのは、想像力、そして愛の力だ。
断じて2次元の向こうに追いやってはならない。
さもないと、我々は全員が独りぼっちになってしまうのだから。
三次元の存在をそのまま三次元として感じるにはどうすればよいのだろうか。
なるほど、なるほど、そうだったのか!!
アイドルグループがよくやる握手会、あれこそがその次元の壁をブチ破る方法だったのか!!
なるほど、いま理解したぞ、勉強になったぞ。
ところで、私と握手をしてくれる人なんて、居るんだろうか。
私の大好きなしょこたんも、握手会はしているけれど、かっこ良く言えば
「着て行く服がねぇ」
本当は
「ハマりそうでヤバイから行けない」
私は惚れっぽいので、直接接触してしまったら、一生しょこたん好きでしか居られなくなる。
それはたぶんまずい。
たぶんそれは、2次元を好きになるくらい、ハードに人生になりかねない。
それが嫌だから3次元を3次元として感じたいのに、それではダメだ。
なるほど、アイドルグループとかの握手会は、その2次元と3次元の狭間を、延々と行き来する人々の集まりだったのか。
そういう目で見ると、あの人たちがものすごい修行僧のように見えてくる。
よくそんな状態を耐えられるものだ。
何であんな苦行に耐えられるのだろうか。
何か、理由がありそうだが、それを考え出すと夜が明ける。
今日はここら辺にしておこう。
明日また考えればいい。
次元の壁を、次元の壁を何とかしたい
喜びに満ち溢れた文章を書きたい
誰か私に、喜びに満ち溢れた文章を書かせておくれ。
悩みや絶望じゃない、喜びに満ちた、そんな文章を書かせておくれ。
今私の心の中には、空しさだけが広がっているんだ。
そして気が付いたんだ、喜びは一人では生み出せないって。
いろんな人の、沢山の沢山の人の力が必要だってね。
でも誰もいない。
みんな何処にもいないんだ。
だれも、力を貸してはくれない。
自分に力があれば、一人でも喜べるかもしれない。
でも私は無力だ。ちっぽけなちっぽけな、砂粒のような人間だ。
誰の目にもとまらない、砂浜の小さな砂粒みたいなものだ。
喜びに満ち溢れた文章が書きたい
今の感情を、素直に文章にするとこんな感じだ。
気が付いたら、私の心の中の感情は、非常に静かで、そして寂しい。
怒らないんじゃない、怒れないんだ、そんな感じのここ何年・・・生まれてからずっと、かな。
どうやら、先天的にパッション・激情が私の心の中には沸き起こらないらしい。
もちろん、私にだって喜怒哀楽はある。
人を好きになる事もある、人より少し惚れっぽいくらいだ。
怒る事もあるし、嬉しい事も楽しい事も、人並みには感じる。と思う。
でも、ここ20年、泣いた事が無い。
小学生の頃、一生分泣いたので、それ以来、涙が枯れてしまったようだ。
私は泣くのが嫌いだ。
でも泣かなくてもいい、喜べば良いのだから。
だから、泣けない代わりに喜びたい。
でも、誰もいない。
たしかに「物理的には」人間が常に周囲に居る。
でも、物理的にあれば良いだけならば人体と同じ成分の化学物質の塊を置いておいても良い事になる。
でもそれは明らかに違う。
そこには心が無い。
でも、今の状態は、そんな心の無い物質の塊が、ゴロゴロと転がっているのと何ら変わり無い。
これではどうやって喜べと言うのだろうか。
この空しさは、何処から来るのだろうか。
いや、空っぽなのだから、来たのではなくて、何も入っていない状態なのだ。
だから、空しさを解消するには、何かを思いっきり詰め込んでやればいい。
何を詰め込もう。
愛、そう、それくらいしか心に詰め込める物はあるまい。
人を愛する事、これは私の得意技だ。
私は人を好きになる事はあっても、嫌いになる事はあまり無い。
でも、愛はいつも与えるばかりで、受ける事などまず無い。
私の愛は、いつも道端にぼろ布のように捨てられてしまい、相手の心を包む事は無い。
それでも、私は諦める事は無い。
何度失敗をしても、諦めなければチャンスは必ず来る。
そう信じていた時期も確かにありました
と、言いたくなっちゃうのだ。
これは仕方ない、ハイパーネガティブ賢者レベル90の実力の持ち主だから。
でもそれでは良くない。
だから、私は好きになる事をやめない。
それがたとえ叶わぬものだとわかっていても。
私はいわゆる「2次元への恋」と言うものをした事が無い。
理由は不明だが、3次元の物理的な実体のある存在しか好きになった事は無い。
でも、決して近づけぬものならば、それは2次元への恋と何が違うのだろうか。
わたしは、3次元の恋をしているつもりだったが、本質的にはその恋は2次元だったのかもしれない。
今思い返すと、実は
あらゆる存在が私にとっては2次元だったのかもしれない。
この目に見えている全ての物が、私の手には決して届かない二次元の向こうの存在と同じなのだ。
私は一体何次元の住人なのだろうか。
私だけ一つ次元を間違えてしまっているのだろうか。
どうすれば、愛する人の待つ次元へと行く事ができるのだろうか。
私の次元には、他に誰も居ないのだろうか。
考えてみれば、もし、私の次元に誰もいないのであれば、私は誰の事を好きになっても良い、と言う事になるのではあるまいか。
2次元のアニメキャラを好きになる事と、近所の可愛い娘さんを好きになる事も、そして私の大好きなしょこたんを好きになる事も、
何を好きになる事も、ためらう事など無いのだ。
なぜならばそれら全ての存在は、私とは違う次元に居ると言う点では、全く同じなのだから。
でもそれでは、心にあいた空しさを塞ぐ事は難しいのではないか。
どうすれば良いのか。
たぶん私の次元を変えるのは不可能に近い。
私が2次元に行く事は出来ないし、三次元に見えていた世界に行く事も出来そうも無い。
願わくば、あちらの方から、私の次元へと移って来て欲しい。
今はただ、それを願うばかりだ
喜びに満ちた文章を書ける日、それは、私の次元へと、大好きなあの人がやって来た時だろう。
その日まで、私は、文章を書いて過ごそう。
絵を描いて過ごそう。
そして次元の扉が開く日を、辛抱強く、待ち望もう
何次元の住人ですか?
私の次元に来て見ませんか?
悩みや絶望じゃない、喜びに満ちた、そんな文章を書かせておくれ。
今私の心の中には、空しさだけが広がっているんだ。
そして気が付いたんだ、喜びは一人では生み出せないって。
いろんな人の、沢山の沢山の人の力が必要だってね。
でも誰もいない。
みんな何処にもいないんだ。
だれも、力を貸してはくれない。
自分に力があれば、一人でも喜べるかもしれない。
でも私は無力だ。ちっぽけなちっぽけな、砂粒のような人間だ。
誰の目にもとまらない、砂浜の小さな砂粒みたいなものだ。
喜びに満ち溢れた文章が書きたい
今の感情を、素直に文章にするとこんな感じだ。
気が付いたら、私の心の中の感情は、非常に静かで、そして寂しい。
怒らないんじゃない、怒れないんだ、そんな感じのここ何年・・・生まれてからずっと、かな。
どうやら、先天的にパッション・激情が私の心の中には沸き起こらないらしい。
もちろん、私にだって喜怒哀楽はある。
人を好きになる事もある、人より少し惚れっぽいくらいだ。
怒る事もあるし、嬉しい事も楽しい事も、人並みには感じる。と思う。
でも、ここ20年、泣いた事が無い。
小学生の頃、一生分泣いたので、それ以来、涙が枯れてしまったようだ。
私は泣くのが嫌いだ。
でも泣かなくてもいい、喜べば良いのだから。
だから、泣けない代わりに喜びたい。
でも、誰もいない。
たしかに「物理的には」人間が常に周囲に居る。
でも、物理的にあれば良いだけならば人体と同じ成分の化学物質の塊を置いておいても良い事になる。
でもそれは明らかに違う。
そこには心が無い。
でも、今の状態は、そんな心の無い物質の塊が、ゴロゴロと転がっているのと何ら変わり無い。
これではどうやって喜べと言うのだろうか。
この空しさは、何処から来るのだろうか。
いや、空っぽなのだから、来たのではなくて、何も入っていない状態なのだ。
だから、空しさを解消するには、何かを思いっきり詰め込んでやればいい。
何を詰め込もう。
愛、そう、それくらいしか心に詰め込める物はあるまい。
人を愛する事、これは私の得意技だ。
私は人を好きになる事はあっても、嫌いになる事はあまり無い。
でも、愛はいつも与えるばかりで、受ける事などまず無い。
私の愛は、いつも道端にぼろ布のように捨てられてしまい、相手の心を包む事は無い。
それでも、私は諦める事は無い。
何度失敗をしても、諦めなければチャンスは必ず来る。
そう信じていた時期も確かにありました
と、言いたくなっちゃうのだ。
これは仕方ない、ハイパーネガティブ賢者レベル90の実力の持ち主だから。
でもそれでは良くない。
だから、私は好きになる事をやめない。
それがたとえ叶わぬものだとわかっていても。
私はいわゆる「2次元への恋」と言うものをした事が無い。
理由は不明だが、3次元の物理的な実体のある存在しか好きになった事は無い。
でも、決して近づけぬものならば、それは2次元への恋と何が違うのだろうか。
わたしは、3次元の恋をしているつもりだったが、本質的にはその恋は2次元だったのかもしれない。
今思い返すと、実は
あらゆる存在が私にとっては2次元だったのかもしれない。
この目に見えている全ての物が、私の手には決して届かない二次元の向こうの存在と同じなのだ。
私は一体何次元の住人なのだろうか。
私だけ一つ次元を間違えてしまっているのだろうか。
どうすれば、愛する人の待つ次元へと行く事ができるのだろうか。
私の次元には、他に誰も居ないのだろうか。
考えてみれば、もし、私の次元に誰もいないのであれば、私は誰の事を好きになっても良い、と言う事になるのではあるまいか。
2次元のアニメキャラを好きになる事と、近所の可愛い娘さんを好きになる事も、そして私の大好きなしょこたんを好きになる事も、
何を好きになる事も、ためらう事など無いのだ。
なぜならばそれら全ての存在は、私とは違う次元に居ると言う点では、全く同じなのだから。
でもそれでは、心にあいた空しさを塞ぐ事は難しいのではないか。
どうすれば良いのか。
たぶん私の次元を変えるのは不可能に近い。
私が2次元に行く事は出来ないし、三次元に見えていた世界に行く事も出来そうも無い。
願わくば、あちらの方から、私の次元へと移って来て欲しい。
今はただ、それを願うばかりだ
喜びに満ちた文章を書ける日、それは、私の次元へと、大好きなあの人がやって来た時だろう。
その日まで、私は、文章を書いて過ごそう。
絵を描いて過ごそう。
そして次元の扉が開く日を、辛抱強く、待ち望もう
何次元の住人ですか?
私の次元に来て見ませんか?
文章とは人だ!!!
文章とは人だ。
私は長年、優れた文章を書けば人々の共感を得る事が出来ると考えていた。
可能な限り、分かりやすく、論理的に書く事で、人々の理解を得、共感を呼び、支持をされる事を願って書いた。
しかし、最近になって、その考え方が、根本的に間違いであるような気がして来た。
私がどんなに理路整然と正論を列挙しても、誰からも支持をされず、共感を得る事も無かった。
もちろん、私の能力不足で文章や論理に欠陥があり、それが不支持の理由の一つでもあろう事は分かっている。
しかし、それだけではどうしても納得が出来ない事が多くなってきていた。
そこで、はたと気が付いた。
「文章は人だ」
そう、私たちは文章そのものを読んでいる訳では無く、その奥に人を見ているのだ。
例えば、私の大好きなしょこたんのブログを読んで欲しい。
確かに独特の文章であるが、あれがもし、しょこたんではない、例えば何処の誰とも知れない一般人が書いているブログだったとしたらどうだろうか。
確かに、猫が一杯出てくるし、文章も面白い、だが、あそこまでの人気が出たであろうか。
否、否である。
そもそもあのブログがしょこたんのものではなかったら、その存在すら知る事は無かっただろう。
つまり、しょこたんブログで見ているのは、文字の羅列そのものでは無く、「しょこたんの書く」文字の羅列なのだ。
だから見るのだ。
つまり、そこにはなんら論理性は無い。
その文章に見ているのは「人」であり、ただの文章ではない。
つまり、どんなにブログを書いてみても、「人」に魅力がなければ、100万文字の文章もただのゴミだ。
ではどうすれば良いのか。
この前書いたこの記事
私の・・・
を御覧いただければ分かるように、願いをかなえるには「好きなものを好きと言う」事が重要である。
好きなものを好きだと言い続ける、これが幸運を・奇跡を招く最高の秘訣であると私はしょこたんから学んだ。
奇跡を信じて好きだと言い続ける。幸運はいつか必ず巡ってくる。
そしてもう一つ重要なのが、「人としての魅力」だ。
私の書く文章に共感を得るには、私自身に魅力が必要だ。
その魅力を高めるにはどうすれば良いのか。
スポーツ・エステ・ファッション。どれも自分を高めるには有効だろう。
しかしそれらで補える点は限られている。
私は綺麗な服を着ているからしょこたんが大好きなわけではない。
スポーツ万能だからでもない。
確かに、ルックスの可愛らしさはとびきりだと思うが、しかしそれだけではない。
具体的にこまごまと列挙するのは控えるが、大雑把に言って、「人間的魅力がある」から大好きなのだ。
その秘訣は何だろうか。
ただのルックスではない、ファッションでもない、人間的魅力こそが最大の秘訣なのだ。
これは学習できるものではない。
学校に通ったりしても学ぶ事は不可能だ。
そこで改めて考えてみる。
どうやら、その感情表現に理由の一つがあるような気がする。
元々極度の人見知りで引っ込み思案だったしょこたんが、芸能界で様々な奇跡に出会い、そして愛される存在となった。
それを考えるに、あの感情表現、少しぎこちないが精一杯の力で爆発させるあの感情表現に、最大の理由が、そして魅力があるのでは無いだろうか。
ひるがえって、私の文章には感情表現があまり無かった。
何故なら、感情は論理的思考の邪魔であり、論理的思考無くして人々の共感を得る事は出来ないと考えていたからだ。
しかし、ここ最近は、それでは誰一人として見向きもしないと言う事に気が付いたのだ。
もちろん、論文やら学術的な文章ならば、感情など不要だ。
しかし、私が書いているのは論文ではない、学術書ではない。
私が書きたいのはそんなものでは無い。心だ。
私の中の心を、魂を、感情を、書き表したいのだ。
論理的思考の結晶を見たければ学術書を読めば良い。
でも違う、私が欲しいのは論文としての評価では無く、人間としての共感であり、愛なのだ!
私は少し間違っていたようだ。
文章の魅力は人間の魅力、人間の魅力は、その人の心にこそある。
心は機械ではない、コンピュータでもない。
心とは絶叫する愛の叫びなのだ!!
私は書きたい、心のある文章を。
論理を超えた、魂の愛の叫びを。
そう、しょこたんのように


