今日はなに書くの? と心に聞いたら、「自分の聞きたいことを聞いてみ」と言われました。
私が今、心に聞きたいことってなんだろう?
いろいろありますが、それらをまとめて一言で言ってしまえば、幸せになるにはどうすればいいの? になります。
それを聞くと、「支配を斬る」といつもの答えを返してくる心。
それはもうずっとやってんじゃないの? とツッコんだら、「支配を斬るってどういうことやと思う?」と心は言ってきます。
支配というのはつまるところ、支配者という他者から流し込まれている、罪悪感や不安感などのネガティブな感情のこと。
それを斬るというのは、ネガティブな感情を一刀両断する、ということになるはずです。
そう心に言ったら、「ネガティブな感情を一刀両断する、ってどういうことや?」とまた問いが出されました。
こう言われて思い出したのは、この前動画のほうでちょっと触れた記憶がある、発作またぎという概念です。
この手のネガティブな感情というのは、つまるところは発作であり、それ自体に特別な意味があるわけではない。
まあここらへんは、ネガティブな感情は心が発している警告! という説もありますし、そういう面もあることはあると思いますが、私は基本的には「そうではない」という考え方を取っています。
それこそ、心が発している警告として信用できるのは、ネガティブな感情を一刀両断にする! という、その純然たる拒絶の心、すなわち怒りの心のみ。
それ以外のネガティブな感情は、他人から流し込まれているだけのただの発作であり、そこには警告だのなんだのの意味は全くなく、下手に意味などを考え始めるとかえってこじれてしまう、と思うんです。
そう、だから、ただ斬るだけ。
自分が心地よいと感じることをやり、気持ち悪いと感じるものは斬る。
それは現実逃避じゃないの? という思考も浮かびますが、たとえば道端にう◯こが落ちていたとして、そこに不快感を感じたとき、そのう◯こをじっとながめていたら自分の人生の幸せにつながるのか? というと、まあつながるケースもあるかもしれませんが、あんまり意味がない気がします。
不快なものを遠ざけることを全て現実逃避と呼んでしまえば、快適さを求める行為までもが、つまりは幸せを求める行為までもが現実逃避ということになってしまう。
結局、見ないようにするよりきちんと見たほうが実は楽になるものもあるよね、というだけの話であって、常になにかに向き合うのがいいとか悪いとか、そう一概に言える話ではないと思うんです。
そんなことを思った上で、さっき心が出してきた問いに答えてみます。
ネガティブな感情を一刀両断するというのは、そこになんの価値も乗せず、ただ斬り捨てるということだ、と。
すると心は、「それがすなわち悟りの境地やな」と言うんです。
そう言われると、あれ、そこまで難易度高いものなの? とちょっと怯んでしまう。
けれどこの怯みもまたネガティブな感情になるので、とりあえず斬っちゃいます。
そうしたら、悟りって案外簡単に達成できるのかも? などという脳天気な発想が生まれてくる。
こんなこと書いたら、真面目に修行している人たちに激怒されてしまう! とまた不安がわいてくる。
すると私の口の悪い心は、「その程度で激怒するような連中は悟りには程遠いな」とか言ってきて、せやな! となんかどうでもよくなってくる。
ということで、息をするようにネガティブな感情を斬り、気づいたら斬り、とある意味でマインドフルネス的な対応をしていくのも面白いかも、と思えてきたんです。