「今日はリラックスできる内容を書こう」と心が言ってきたので、そうしてみます。

 

といっても、リラックスできる内容ってなに? というのがわからない。

 

かわいい猫の話でもするか、なんてことを思いついたものの、そんなネタは別にないなという事実にも気づく。

 

まあ、指先任せのダラダラモードで書けば、それだけでリラックスできる内容になるのかもしれない。

 

無意識というものの解釈は人によって異なりますが、「自分の」無意識に従って生きれば一番楽でハッピーになれる、というのが私の解釈です。

 

付け加えていえば、無意識と呼んでいるものの中には「自分以外の無意識」、平たく言えば他者の影響によって刻み込まれた、元々の自分が望んでいるわけではない思考や感情も混ざっている。

 

そっちの無意識に従っちゃうと苦しいので、「自分の」無意識を見つけ、気づき、それに従うのが大事なんじゃないのかな、と思うんです。

 

あれ? でもそれだと、こうしてダラダラモードで書いているときの自分は、自分の無意識で動いているのか、それとも他人の無意識で動いているのか、どっちなんだ? と疑問がわく。

 

そこで、自分の無意識にアクセスできる技法であるはずの「心に聞く」を使って、心に聞いてみます。

 

「概ね自分」とのこと。

 

なんで概ね自分の無意識でいられるの? と聞いたら、「ダラダラモードは『こうであらねば』という意識からかなり自由になっている状態で、そういう意識がつまるところは『他人の無意識』になるからや」だそうです。

 

「ねば」「べき」思考にとらわれていると自分の本心がわからなくなる、というのは一般にもよく言われていることですね。

 

人を愛さねばならない、愛されなければならない、なんてことを思ったりするとき、あれ、それって欲求というより義務感や強迫観念になってない? となったりする。

 

正しくなければならない、他者へのリスペクトを持たねばならない、等々。

 

そういうのを置いといて、ダラダラモードになってみると、なんもないかも! となる。

 

まあないならないでいいか、ともなるんです。

 

今は愛着に関する本を読んでいて、親(正確には保護者)との間に愛着を結ぶことがいかに大事か、というのがその本には書かれている。

 

それはその通りだなと思う一方で、もしかすると、「ないならないでいいか」の心理にごく自然にたどり着けたら、実は愛着がなくても幸せになれるのかも? なんてことも思うんです。

 

なにかがあることにこだわるのは、それがないことは悪! と裁くことになる。

 

そういう正誤善悪の天秤がない状態が「虚無」であり、虚無の無意識の極み、あるいはただあるがままの姿こそが「なんもない」「ないならないでいいか」だと思うので。

 

 

 

このブログの記事は全て、大嶋信頼先生が開発された「心に聞く」を用いて書いています。

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