心が出してきた今日のテーマは「運命について」です。
運命と言われると、そんなものはない、という言葉が反射的に浮かびます。
というより、あるのだったらどうこう言っても意味がないし、ないのだったらなるようになるしかないので、あろうがなかろうが結局関係ないよね、となる。
生きている私たちがやることは、できることをやるだけであり、運命の有無などどうせわからないんだし知ったことじゃない、となるんです。
ただその上で思うのは、そもそも0か1かで考えること自体が罠なのでは? ということです。
つまり、全ては運命によって決まるのだからなにをしても無駄! と考えるのは極端だよな、ということ。
運命が世界の全てを決めているのかどうかなんてそもそもわからないし、それを「わかる!」と断言しちゃえば、それはもう神様の視点になりまっせ、となる。
運命というのはあるのかないのかわからないし、あったとしてもそれがどこまで世界や個人の人生に関わってくるのか、関わってくるとしてそれを変えることはできるのかできないのか、変えられるとしたらどれぐらいまで変えることができるのか、いずれもわからない。
逆に言えば、こういった「わからない」をどこかで否定して「わかる!」にしちゃった時点で、そこでもう自分という神による世界が作られちゃってるよね、となるんです。
運命があるかどうかはわからないけれど、自分があるのだと思ったルールは、そう思った時点である意味存在することになる。
そのルールのおかげで楽になることもあるでしょうが、逆にそのルールが自分を苦しめることになるかもしれない。
そういう意味では、「わからない」をなるべく多く残しておいたほうが、いろいろと融通が利くのかも?
「わからない」が多いということは、それだけ選択肢や可能性の幅が広がるということになる。
ここらへんは「才能」とかの言葉も同質ではある。
才能のあるなしということで全てを片付けちゃうのも、逆に努力さえすればなんだってできると断言しちゃうのも、世界はそういうふうにできているというルールを作っちゃっている点では同じこと。
でも実際はどうなのかわからないから、わからない上でなんとかやるかあ、という温度で行くのがいいような気がするんです。