今朝、目が覚めつつも横になってウトウトしていたら、久々に足をつって「いたっ!」となりました。

 

でもその後で頭に浮かんだのが、これで今日は外を歩かなくて済むな、という思いだったことに、へー、と自分でも驚いたんです。

 

ともかく毎日散歩しないと! と、自分の中で義務感のようになっていて、実は疲れていたのかもしれない。

 

こんな感じに、自分の心が望んでいることというのは、しばしば意識だと気づけなかったりする。

 

元々、私が「心に聞く」というテクニックに興味を持って実践しだしたのも、自分の本心が全然わからない! となっていたからでした。

 

ただ、実行してみてわかったのは、「心に聞く」は必ずしも自分の本心を教えてくれるだけではないらしい、ということ。

 

逆に望んでないことをあえて実行するように促してくることもあったりするんです。

 

なんでそんなこと言うの? と後になって心に聞くと、「自分の本心を感じられるようになるためや」なんて答えが返ってきたりします。

 

そう、どうやら「心に聞く」は、自分の本当にやりたいことを常にきちんと感じられるように自分を導くことこそを、最終目的にしているらしい。

 

言ってしまえば、「心に聞く」というテクニック自体が必要なくなる、そんな状態になるのが「心に聞く」の目的みたいなんです。

 

そして、今朝みたいに足をつったことはこれまでも何度もあったけれど、これで今日は外を歩かなくて済む、などという安堵感を抱いたことはありませんでした。

 

ということは、もしかすると私の「本心を感じる力」というのも、前よりも強化されているのかもしれないな、なんてことを思ったんです。

 

ただそれはそれとして、どうせなら足をつる痛み抜きでそういうのに気づきたいんだけど! と心に文句を言うと、「意識というのはしぶといからな」なんて返事が返ってきます。

 

意識というやつは、「こうしたい」という本心を、「こうあらねば」という暗示でガンガン封じてきている。

 

その暗示を解くために、時に心はあえて多少痛い目を見るようなことを実行させて、それによって「こんなこと自分はしたくない!」と自覚させてくる、らしいです。

 

でも、痛い目を見ないとわからない、というのも意識的な暗示の一種じゃないの? と心に言うと、「また一つ暗示に気づけたな」などと心はしれっと言ってくる。

 

そう、痛い目なんかみなくても、努力や苦しみを伴わなくても、わかることはわかるし、できることはできる。

 

そんなふうに、ただ楽だけをして幸せになりたい、などと思うと「傲慢!」というダメ出しが浮かぶんですが、人を傲慢だと裁くなんてそれこそ何様だよ、お前こそが傲慢だよ、という話です。

 

だから、いくらでも傲慢で怠惰になって構わない。

 

全ての罪は、人を罰したがる傲慢な存在のエゴによって生まれたものに過ぎないのだから。

 

 

 

このブログの記事は全て、大嶋信頼先生が開発された「心に聞く」を用いて書いています。

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