昨日の続きです。
苦しみは全て「今」あるものと見なす、という話を昨日は書きました。
たとえ過去のことで今も苦しいと感じているとしても、その苦しみを「今」感じている以上、結局それは過去ではなく今の出来事である。
そして、その苦しみの由来は他者にある、とも書きました。
そういう認識を持ち、今の苦しみに対し戦う意志を持つ、ということで昨日は終わったんですが、意志を持つだけでいいの? そもそも戦うってどうやるの? という疑問も芽生えます。
そこを心に聞くと、「斬る、ただそれだけや」と返ってきました。
いつもの答えではあるものの、ああ、結局突き詰めればそれだけの話なのか、となんとなくわかった気がしたんです。
つまり、理屈をこね回したり、いろいろあがいたりする必要はなく、ただ斬ればいい。
不快な他者に対してついやってしまいがちなのが、正論で論破してやる! とか、痛い目を見せてやる! というモードになること。
けれどその路線で動けば動くほど、不快感がますますこんがらがって泥沼にハマっていくんです。
かといって、我慢して泣き寝入り、というのでもスッキリはしない。
だから、精神的にやることは、ただ斬るだけ。
不快は斬る。問答無用で斬る。
そう、問答はまさに無用なんです。
結局のところ、不快感を与えてくる他者というのは発作を起こしている存在であり、ある種の自然現象と同じようなものになります。
たとえば花粉症で苦しいからといって、花粉に対して説教しても楽にならないのと同じで、発作を起こしている人間を言葉で説得しようとしても意味がない。
花粉については、マスクをつけたり、そもそも近づかないようにしたり、という形で対処します。
これが「斬る」ということ。
マスクをつけることのなにが「斬る」なの? ともなりますが、つまりは絶対的な拒絶、これが「斬る」になります。
とはいえ、人間を花粉やなんやらと同じように扱うのは難しいでしょ! となります。
花粉と違って人間は、嫌味や暴言や暴力を振るってきたりしますからね。
そういったことをされたときの具体的な対処法は、状況によって千差万別なんですが、その対処をするためのキーワードの一つとして「斬る」という言葉は使えます。
「斬る」と頭の中で唱えると、こちらを非難してくる相手に対し、強い言葉で言い返している自分がいて、おお我慢してない! とちょっとビックリしたりします。
この言い返しは、相手を論破しようとか、自分の正しさを認めさせようとかいう感じではなく、うるさい黙れという拒絶の意志によって行われている。
そうすると、相手はなんか少し怯んで折れた様子を見せたりして、あれ、この程度で変わるの? と意外に感じたりもする。
それでも相手はチクチクとこちらへの非難を続けてはいるんですが、なんかもう、そういうおもちゃから声が聞こえてくるようにしか感じず、愉快とまでは言えないものの、ふーん、ぐらいの気持ちになっている。
そんな経験をしていると、ああ、こういうのって本当に自然現象なんだ、と感覚的にわかってくるんです。
花粉の季節はなんだかんだ過ぎるのを待つしかないし、梅雨時に雨がよく降るのを変えることはできない。
それは決して愉快ではないにしても、少なくとも自然現象以上の意味などないんだ、とは思えるようになってくるんです。