昨日出た「対等」というキーワードは、これまで何度か書いたことのある、幼子先生は自分自身すらも自然の一要素としか見ていない、ということに通じます。
自分を特別視せず、他人も特別視しない、ゆえに全てが対等となる。
なにも特別視しないと、世界はある意味で単純になります。
事故や災害等で、人はあっさり死ぬこともある、という事実が自分にも適応されるかもという可能性を自然と受け入れる。
ものすごい病気やその他の不幸に見舞われる可能性も受け入れる。
誰もが持っているバイアスとして、そういう可能性があるのはわかっているけれど、自分だけは大丈夫! というのがあるんですが、自分も別に特別ではない、と受け入れることができる。
もっとも、そんな心境に本当に至ることができたら、それはそれで、もはや常人ではないのでは? とも思います。
まあ幼子先生というのは「理想的な人間」をイメージした姿なので、そりゃ常人じゃないよね、とは言える。
それにどうせ常人じゃない方向で行くのなら、あらゆる不幸と無縁でいられる超人路線のほうに振り切れたい! という思いもあるんです。
それはできないの? と心に聞くと、「そのための『対等』や」と言ってくる。
「全てが対等であるのなら、全てが自由。ゆえに全ての常識という縛りから解き放たれ、常識的に考えればあり得ないということができる」
そう、対等というキーワードに意味があるのは、そこに上下関係がないということ。
他人を神聖化しないためのキーワードなら、自分こそが世界一優れてるとかでもいいじゃん! となるんです。
でもそれをやってしまうと、「優れている」「劣っている」という比較の概念が生まれてしまう。
そしてその世界観の下では、優れた自分であり続けるために努力しなければならない、他人に劣ってしまうと自分はダメになる、という恐怖に常にさらされることになります。
つまりは、枠ができてしまう。
だから、「対等」というキーワードでその枠を破壊する。
枠がなくなれば、どこへだって行ける、なんだってできる、となるんです。