日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ
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野坂参三はソ連の工作員だったか?(2)コミンフォルム論評をめぐって

すコミンフォルム論評「日本の情勢について」は1950年1月6日に、コミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』に掲載された。野坂参三の「占領下平和革命」論を激しく批判し断罪した。

当時の出版・印刷事情は僕にはわからないが、間違いなく最も早い日本語での発表はモスクワ放送の日本語放送だ。不破哲三は、モスクワ放送のラジオ日本語放送でこれを聴き、懸命に書きとめ、一回では書きとめきれないので、一定時間で繰り返し放送された全文を3〜4回で書きとめたことを回想している。ソ連を指導党だとするのが当然だった当時の日本共産党員にとって、モスクワ放送の日本語放送を聴くのはごく普通のことだった。

不破自身は、東大細胞の学生党員として、徳田球一指導部の占領軍との対決を回避する路線に違和感を持ち、コミンフォルム論評をその代弁として受け止めた。これは、コミンフォルム論評の受け入れを主張した宮本顕治ら日本共産党幹部と同じ思いだったと思われる。(不破『スターリン秘史』第6巻、2016)

宮本顕治は東大細胞の解散・再建や全学連結成などを党中央の担当幹部として支援し、全学連や東大細胞などの学生運動指導部と強い結びつきを持っていた。(※1)





野坂参三を主唱者とする占領下での平和的な人民政府の樹立→民主革命という路線は、1946年の第5回党大会で日本共産党の公式の方針となっていた。野坂は主唱者ではあっても、党大会を含めて正規の党機関で決定された公式の方針である。

これは、ソ連の米ソ協調路線とも合致していたし、徳田ら府中組がとった占領軍を解放軍と規定する認識や路線とも親和的だった。

1947年に、産別会議と総同盟が共闘して予定された2.1ストが禁止され、占領軍が反共政策をとるようになり、4月の総選挙で占領軍の干渉もあって日本共産党が後退すると、路線の修正が行われ、12月の第6回党大会では行動綱領に「完全な独立」が入り、民主革命を担う統一戦線として「民主民族戦線」が提唱され、日本共産党も参加する人民政府が連合国と公正な講和を結んで独立する、という路線もとられた。党大会前日に大会代議員による秘密会議を開いて占領軍批判を行い、大会決定の一部は当局の検閲で非公表となる事態にもなった。

公式の方針は修正されても、徳田指導部は、占領軍との対決回避路線を継続する。これが不破らには違和感となったのだ。民主民族戦線の結成への運動は展開されたが、「民族独立」すなわち人民政府の樹立による連合国との公正な講和と独立の道筋が具体的にイメージされた運動だったわけではない。もちろん、「民族独立」のスローガン自体が少しでも具体化しようものなら占領政策違反として弾圧されかねないものだった。徳田指導部が占領軍との対決を回避しようとしたのは何より弾圧を恐れたもので、闘争を回避すれば弾圧も回避できる、という予測にもとづくものだった。

1949年1月の総選挙では、社会党が政権参加した片山哲・芦田均両政権への批判票を集めて共産党は大躍進する。戦後、日本共産党が最も日本社会に影響力を持った時期が到来した。ソ連側は連絡ルートで非合法体制への移行を促しても、徳田らは占領軍による非合法化は、大量得票ひた党の非合法化はあり得ないと回答している。(49年11月のデレヴァンコと徳田野坂・伊藤律との会談)


1949年に国鉄の人員整理とともに開始されたレッドパージにも、占領軍との対決を回避する路線では有効に対応することができなかった。人員整理とレッドパージに乗じて労働運動の主導権奪取を実行した産別民主化同盟(社会党との結びつきが強かった)の問題も同時にあって、総評結成にはあからさまな占領軍の後押しがあった。


1950年1月6日発表のコミンフォルム論評は、ソ連共産党政治局が用意したものに、スターリン自身が朱筆を入れ、原型をとどめぬほどに修正し、攻撃的な表現は、すべてスターリンの修正によるものだという、ソ連の歴史家フィルソフの言葉を引用し、「スターリンが全文を執筆」と不破は評価している。

コミンフォルム論評がなぜ、徳田や日本共産党政治局や中央委員会ではなく、野坂を批判したのか? 野坂の「占領下平和革命論」は、日本共産党の公式の方針であり、占領軍の弾圧が始まるとやや修正されたが、占領軍との対決を回避する路線は、徳田球一指導下では維持されていた。

ソ連との連絡窓口だった野坂には、秘密連絡ルートを通じて、ソ連の意向を伝えることが可能なのに、なぜスターリンは表舞台で野坂を罵ったのか?

これについて、和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996)ではスターリンによる野坂への死刑宣告だと評価している。野坂がスターリンの権力下にいれば処刑されただろう、という意味だ。ゆえに徳田・野坂は、1月12日の政治局会議で多数決でコミンフォルム論評に反発する「所感」を議決・発表したのだとし、コミンフォルム論評受け入れを主張する国際派(政治局員では、志賀義雄と宮本)との対立が表面化する。中国共産党機関紙「北京人民日報」が1月17日にコミンフォルム論評を支持する社説を掲げることで、徳田派もコミンフォルム論評受け入れに至り、野坂自身も自己批判する。和田は、野坂の自己批判が中国の論説を受けて行われたことに注目し、ソ連よりも中国の方が野坂は心理的に近いのか、と疑問形で推測している。中国はソ連と友好同盟条約を結び、「向ソ一辺倒」を表明していた。コミンフォルムだけでなく中国も野坂批判に同調したのは政治的圧力としてはじゅうぶんだろう。(※2)

ただ、和田はスターリンがコミンフォルムを用いて野坂を公開で激しく批判したことについて「死刑宣告」以外の論評をしていない。その後、野坂を窓口とする連絡ルートをソ連側が維持して、徳田・野坂派を非合法体制に導くのに公開での「死刑宣告」がどう作用したかの検討を和田はしていない。





不破は野坂工作員説を前提に、野坂を裏から動かすのでは、徳田を動かせないおそれがあるから、表舞台で野坂を名ざしで批判することで徳田派を揺さぶって、より確実に日本共産党の路線転換をはかったのだとし、コミンフォルム論評が野坂を標的にしたのは工作員野坂へのサインだったとする。不破は同時に乱暴に日本共産党に干渉するスターリンの大国主義・覇権主義に批判を加えている。


中北浩爾は、ソ連は水面下で平和革命路線の転換を求めたが、日本共産党が応じなかったので、占領軍との対決に転じることを公然と促した、と簡単に記述している。百年の通史として簡潔に記述してるだけだが、基本的に不破と同じ評価だと読める。




徳田・野坂派がコミンフォルム論評受け入れに転換したのには、不破は日本共産党内の論争をやや重視する。不破は1950年当時の学生党員だから、党中枢ではなく、現場の当事者だ。占領軍との対決を回避する徳田指導部の路線にもやもやしていたものをコミンフォルム論評が言語化・理論化してくれたと感じたという。これは、国際派と言われる、論評受け入れを主張した人々の共通の認識だったと思われる。

当時の日本共産党が内部論争をへて、綱領制定で徳田球一起草の綱領草案について公開討議を開始するとともに、「民族独立」の位置づけを明確にし、占領軍の検閲や弾圧の手前、はっきりとは言えなかったが、占領軍との闘争も行うことで中央委員会で合意形成したことを重視する。もちろん、中国の論説がコミンフォルム論評を支持して追い討ちをかけたことの意義を不破が軽視しているわけではない。すなわち、党内の意見の違いはあらわになったが、それは戦略問題は綱領論争を公開で公然とやりながら解決をめざし、行動綱領(民族独立=占領軍との対決路線を含む)で団結してやっていく、ということを中央委員会として確認したわけだ。党内の重要な意見の違いは討議しながら、当面の課題で行動していく、という原則を正規の機関では確認した、ということだ。

実際には、コミンフォルム論評受け入れを中央委員会で確認した直後に、宮本顕治政治局員・統制委員会議長を九州地方委員会議長に任命して派遣して東京から遠ざけ、統制委員会議長代理に椎名悦朗を政治局は任命した。これが椎野の議長就任として発表され、訂正されなかった。(※3)和田春樹は、徳田派による公式発表(機関紙での発表)を重視して、統制委員会議長は椎野に交替した、と記述している。

この手続き的正当性の部分は、現在の日本共産党には大事なことだが、和田も中北浩爾も、徳田派の専断を日本共産党の決定として扱っている。椎野を統制委員会議長代理と記す中北は、50年分裂の過程について、反主流派の排除は組織防衛上やむを得ず、分裂は椎名悦朗の回想を引用しているが、実際の経緯は明らかに椎野の言い分とは違うことを指摘している。


不破は『スターリン秘史』第6巻(2016)では、スターリンの世界戦略の中に、日本共産党の武装闘争路線への押しつけを位置づけてみせる。すなわち、米ソ冷戦が開始され、ベルリン封鎖など欧州での米ソ対立の緊張が高まる状況で、ソ連を直撃する戦争に発展しないように、北朝鮮の武力統一方針に承認を与え、朝鮮戦争を起こして「第2戦線」を開き、欧州での戦争を回避しようとした、とスターリンの戦略を読み解く。これは『スターリン秘史』が、スターリン路線の全面的検討を目的とした著作であることによるものだ。そして、スターリンは日本共産党には武装闘争で朝鮮戦争の後方かく乱をすることを求めた、ということだ。

ソ連・朝鮮研究者である和田は、『歴史としての野坂参三』ではあまり深入りしていないが、スターリンの戦略について基本的に不破と同様の筋書きを採用している。和田の朝鮮戦争研究ではスターリンの思惑を検討してるのかもしれないが。米ソの秘密文書から、スターリンが北朝鮮の南進に承認を与え、米国もそれを察知しその準備には入っていたことは明らかになっている。南進の具体的な時期までは米国は把握していなくて、米国は北朝鮮による不意打ちにバタバタと対応した様子がある。

日本国内で、日本共産党中央委員・アカハタ編集委員の公職追放が行われたのは、その準備の一環だったようで、それが北朝鮮の南進開始の直前になったのは偶然だった。米国は日本での占領政策では、日本をよく研究し、情報収集のうえ、慎重にことを運ぼうとしていた。マッカーサー司令官は日本共産党非合法化に前のめりだったようだが、米国務省が待ったをかけた。国務省はソ連の戦略の分析から、日本共産党の非合法化による武装闘争への転換はソ連の望むところだという認識で、日本共産党の非合法化に反対した。米国は、前述のようにソ連が北朝鮮の南進に許可を与えたところまでは把握していて、その情報から、日本共産党の非合法化による武装闘争への転換というのがソ連の意図だという、和田や不破の見解と同じ認識を、当時、すでに持っていた、ということだ。(※4)

日本共産党と在日朝鮮人運動(※5)の戦争への抵抗はそれはそれとして弾圧する必要が米国としてはある。それで日本共産党中央委員らの公職追放の他、機関紙を発刊停止とし、後継紙も発禁処分にした。党そのものは非合法ではない(戦前は党の存在そのものが非合法だった)が、その活動は大幅に制限される、という半非合法状態に日本共産党はおかれる。


不破哲三は、『スターリン秘史』で、スターリンの世界戦略の文脈でコミンフォルム論評についてあらためて分析している。

野坂の「平和革命論」批判の体裁をとっているが、第6回大会による路線修正の前と後の野坂の発言を意図的に混同している「理論的詐術」だとする。(※6)

すなわち、1949年6月の野坂報告は、共産党を含む人民政府の樹立で連合国との公正な講和・独立を求めることが平和的に可能になるとの主張で、不破はこちらの方は理論的可能性としてあり得る路線だったとする。公認党史では、占領下の人民政権樹立という、野坂の影響を受けた見通しの甘い路線には否定的な見解を示しているが、それは実際の占領軍との対決回避路線と一体のこととしての評価だ。49年6月の野坂報告では理論的可能性への言及で、コミンフォルム論評はその理論的可能性さえ否定している、と不破は分析し、武装闘争不可避論をコミンフォルム論評こっそり入れ込んでいる、とする。実際にはそこまで読み込んだ者は、当時の日本共産党の有力者にはいなかったのだが、ここで不破がこのことを示す意味は、続く「北京人民日報」社説が武装闘争不可避論を明示していたことが、中国共産党の勇み足なのではなく、中ソ間の合意事項であった、ということを示すものだ、と不破は言っているのだ。

『スターリン秘史』は、1949年の世界労連によるアジア・大洋州労組会議での「劉少奇テーゼ」の内幕を諸資料から解明している。公開の労働運動の大規模な会議で公然と武装闘争を呼びかける、というやり方に劉少奇自身が異を唱える手紙をスターリンに書いていた、というのだ(邦訳のない『建国以来劉少奇文稿』に掲載)。日本その他のアジア諸国で武装闘争路線でいくことに賛成かどうかとは別に、わざわざ西側の警戒心を高めるようなことをやるべきではない、という趣旨だ。結局、劉少奇テーゼはアジア・太平洋労組会議で提起された。スターリンがなんとかして劉少奇と中国共産党を説得した、ということだと不破は推定している。「劉少奇テーゼ」の提起は同会議の「開会あいさつ」で、主催者の世界労連執行部にも、ソ連代表団にも内容を知らせず行われ、ソ連代表団が泡を食って本国に、中国が勝手なことをしている、と急きょ報告したのに対して、本国からは逆に代表団を叱責する電報が返ってきた、という、スターリン時代ゆえに笑えないドタバタを演じている。中ソの連絡役のソ連スタッフもスターリンと毛沢東らのトップ間で決められたことの実相がわかっていなかった、とも不破はいう。

この「劉少奇テーゼ」も、以前は、中ソの役割分担で中国はアジアの指導にあたるとし、中国流の武装闘争を説いたのだと不破も理解してきいて、『干渉と内通の記録』(1993)でも踏襲している。ところが、その後の新資料や研究から明らかになったことは、「劉少奇テーゼ」を公開の場で提起させたことそのものが、アジアで「第二戦線」を開く挑発だった、ということだ。ソ連国家の安全保障のために各国の共産主義運動を手駒のように扱い、それぞれの運動の発展はソ連に従う限りでソ連の国家利益追求に役立つので許すが、運動の自主的発展はユーゴスラビアでのようにソ連にまつろわない勢力となる可能性があるのでむしろ妨害する、というスターリンの姿勢は、不破の全6巻の大著『スターリン秘史』の全編を貫くテーマとなっている。


繰り返し、大筋の徳田・野坂派の動きを確認しておくと、1950年3〜4月には、地下潜航の準備を始め、4〜5月には徳田派による非合法体制への移行の合意が行われ、6月6日に占領軍が中央委員などの公職追放令を出したのを機に、徳田派は地下に潜り、9〜10月に武装闘争方針を出して、徳田派主要幹部は中国に亡命して北京機関を設立して国内の組織を指導した。この間、ずっとソ連の支援があったことは、旧ソ連秘密資料に明らかである。

野坂は工作員ではなかっただろうが、ソ連とのパイプ役として50年分裂とソ連主導の徳田派の武装闘争路線への転換に重要な役割を果たした、ということだ。


(3)以降では「北京機関」とソ連秘密資金の問題を検討する。


(※1)

東大細胞の解散は、渡辺恒雄細胞長を中心に東大細胞が「主体性論争」を掲げて反中央の分派結成を決議したことによるもので、宮本顕治政治局員が直接指導したもの。後に読売新聞のドンとなるナベツネの武勇伝としてもよく出てくる。


(※2)

1960年代までの日本共産党員たちが、中国革命と中国共産党に熱烈な共感と親近感を持っていたことは、上田耕一郎『戦後革命論争史』(1956〜57)からもうかがえる。

1950年6月26日付のソ連大使館政治顧問補佐官マーミンの調書では、メーデー集会での野坂の演説は中国革命について費やされ、ソ連とスターリンにふれず、デモでもほとんどスターリンの肖像が掲げられていないことを問題視しているが、まあ、そうだろうな、と思う。


(※3)

宮本顕治の九州赴任をめぐっては、安東仁兵衛は、妻の百合子すら反対するのに、顕治は機関の多数決で決まったことだから従う、として福岡に行っている。安東はここで宮本顕治を原則拘泥主義者だと評している。宮本の規約と民主集中制についての姿勢をよくあらわしている場面である。

(安東『戦後日本共産党私記』)


(※4)

米国務省がソ連の対米戦略について正確な認識を持っているのは、正確な情報をつかんでいるのならむしろ当然だった。スターリン存命中には、スターリンが各国共産党をソ連の国家利害のための手駒として考えていたことなど、少なくとも日本共産党員には思いも及ばなかった、という歴史の事実は、不破をスターリン研究と『スターリン秘史』執筆に駆り立てたものだと思われる。

不破は、旧東欧の共産党員たちがスターリンとソ連に従属する専制政権の支配の尖兵となったことについて、「同志の恥」と考えていると思われる発言を2010年ごろからするようになっていた。


(※5)

戦後の日本共産党では、在日朝鮮人党員がかなりの比重を占めていた。政治局員にも中央委員にも朝鮮人党員は含まれていた。日本の党が在日朝鮮人運動を指導することの矛盾はいくつもあったようだ。

レッドパージ、占領軍による弾圧、謀略事件、党の分裂、産別会議の崩壊、主流派による武装闘争路線の採用と展開といった中で、日本共産党は日本人の間では急速に支持を失っていくが、在日朝鮮人運動は健在だった。

朝鮮戦争が始まると、朝鮮人党員たちは祖国の統一と防衛を掲げて果敢にたたかった。ただ、その戦闘性は武装闘争路線とも親和的で、街頭での実力闘争を現場で支える役割も果たした。

1955年に北朝鮮が在日朝鮮人は在外公民だと声明すると、在日朝鮮人運動と日本共産党は分離される。

詳しくは、韓国の雑誌に掲載された故吉岡吉典(日本共産党幹部会委員、参院議員、政策委員長などの経歴のある幹部)のインタビューを参照。僕はハングルを読めないのでGoogle翻訳で読んだ。

吉岡吉典インタビュー「在日コリアンは私たちの恩人」

(『ハンギョレ21』571号、2005年8月3日)



(※6)

同一人物の時期も文脈も違う発言を恣意的に引用する理論的詐術は、レーニンの引用について、スターリンの得意技であることは、不破哲三のスターリン研究ではたびたび指摘される。典型的には、ネップを維持する時期にはレーニン晩年の発言を引用するスターリンが、農業集団化を強行するときには、「戦時共産主義」の時期のレーニンの発言を引用して自己正当化をはかる、といった具合である。


野坂参三はソ連の工作員だったか?(1) コミンフォルム論評以前

中北浩爾『日本共産党』(中公新書、2022)に、野坂参三はソ連の情報機関の工作員だった、という説を否定する記述がある。

中北が典拠としているのが和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996)での結論だ。
不破哲三『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(新日本出版社、1993)は、ディミトロフ(コミンテルン書記長だったが、コミンテルン解散後はソ連共産党国際情報部長として、各国共産党との関係を担当していた)が、野坂がソ連のヒモをつけるのに適任だという提案書に、国家保安人民委員部(KGBの前身)かソ連軍諜報部で連絡をとることとしていることを根拠に野坂工作員説をとっている。(※1)
野坂情報機関工作員説は、野坂の山本縣蔵告発をソ連の秘密資料から『週刊文春』で明らかにした小林峻一らの説だ。小林峻一・加藤昭の『文春』記事は、後に『闇の男 野坂参三の百年』という本にまとめられている。小林・加藤は、野坂が延安時代に中ソの同盟国の米側と接触し、それが帰国後の米占領軍の接触の糸口だったことから、野坂が米側とも通じていた可能性を指摘するが、その証拠は提示できていない。単行本に収録された解説座談会には立花隆もゲスト参加しているが、立花は野坂二重スパイ説を推定支持している他、日本の当局を含めて「何重スパイだったのか」とまで言っている。

和田著では、野坂は確かにソ連のヒモをつけられて帰国したが、党間外交ルートで遇され、野坂は日本共産党中枢との窓口となったのだとしている。裏ルートではなくて、公式の党間関係だったということだ。当時、秘密にされ、連絡ルートも秘密のものだったのは、ソ連が日本共産党を指導しているかのような印象を与えることは、ソ連側も日本共産党側も望まなかったからだとしている。それは日本国民の世論との関係はもちろん、当初はソ連も米ソ協調路線をとっていたことや、日本共産党も米占領軍との対決を回避する路線をとっていたことも大きかった。徳田球一の指導下での日本共産党は、日本共産党は自主性のある党だという主張も演出も懸命にしていて、それは占領下で日本共産党が勢力を伸ばしていくのに重要な役割を果たしたと思われる。

和田著では、野坂は定期的にソ連側の人物と会って連絡をとっているが、伊藤律を伴ったり、ときに徳田球一や志賀義雄がソ連側の人物と会ったりもしていることを旧ソ連秘密文書から明らかにしている。これはおそらく、1993年の日本共産党の調査では入手していないと思われる文書にある情報だ。
ただし、公式の党間関係といっても、野坂、徳田、伊藤、志賀らがソ連との連絡の実情を政治局や中央委員会といった党の正規の機関に正式に報告し、討議の機会があったかは定かではない。正規の機関ではなく、後述するトロイカとか徳田の側近といったごく少数の実力者だけが関与していた可能性がある。原則主義者であった、政治局員宮本顕治はこのルートに加わっていない可能性がある、ということだ。不破は、後の著書『スターリン秘史』第6巻(新日本出版社、2016)で和田著を検討することなく『干渉と内通の記録』の内容を前提し見解の修正もしていないが、野坂のソ連との連絡は「党に隠れたもの」として糾弾している。公式の党機関には報告されていなくて、宮本は関与していなかったということであれば、和田著の叙述と両立する。しかし、徳田・志賀がこのソ連と連絡ルートに加わっていたのなら、一時期は徳田・志賀・野坂で「日本共産党のトロイカ」と言われていた実権を握っていた最高幹部であり、これを党として公式の関係だと和田が見なすのはおかしなことではない。
ただ、野坂は党に隠れてソ連と連絡をとっていた、という不破の見解は、日本共産党とは誰のことか、という問題にかかわる。占領下の分裂前の日本共産党のあり方は、当然、「50年問題」での党の分裂のあり方に関わってくる。ソ連との秘密の連絡ルートは正規の党機関への報告も討議も承認もへておらず、後の「50年問題」での徳田・野坂派の原型をソ連との連絡ルートの形成に見るのは不当ではない。この場合、それは「党に隠れて」とはならないが、徳田・野坂らによる党の私物化とソ連との連絡ルートの問題は直結しているという批判なら妥当することになる。「50年問題」では徳田派に排除された志賀が、トロイカの一員だったころにはソ連との連絡ルートに加わっていたことは、この時期から見られる志賀のソ連盲従傾向とともに、60年代の志賀の言動(※2)との関係で興味深い。
政治局員の宮本顕治がソ連との連絡ルートから外されていて、政治局として正式にその連絡に関与していたかどうかは、現在の日本共産党にとっては大事なことだ。和田はそこを関心の外側においている。後の「50年問題」の総括では、宮本顕治の行動と路線が正しいとされ、徳田派の行いのいろいろに宮本が関与していないことが、宮本が主導権を確立した後の日本共産党の路線と行動の正しさの前提とされているからである。
不破と和田がともに検討している、野坂の帰国後初のソ連宛の手紙では、野坂、徳田、志賀、袴田の4人を「政治局員」としている。この時期、野坂はまだ政治局員に選出されていないが、帰国後すぐに徳田・志賀らと協議し、事実上の最高幹部として活動していた。中央委員ではあったが政治局員でなかった袴田がここに入り、宮本など他の政治局員の名がない。不破は、後の「ソ連の内通者のリストとなっていることは、歴史の皮肉」としているが、むしろ、野坂がここで名を挙げたから、その後、ソ連との連絡ルートに加えられた人物のリストとなっている可能性があるのではないか。
野坂以外の3人には終戦時に府中刑務所に拘禁されていた「府中組」という共通点がある。「府中組」は戦後日本共産党再建の中心をなし、網走刑務所で釈放となった宮本は遅れて党再建に参加している。宮本と袴田は、戦前共産党の最後の中央委員でもあった。徳田と志賀は「3.15事件」(1928年)に逮捕された「獄中18年」組だが、検挙時、2人とも中央委員ではなかった。

当時、日本共産党といえば、まず徳田球一のことだった。後に家父長的指導と批判される、徳田による専断的指導が横行した時期だ。正規の機関にかけていない、というのは宮本顕治らの徳田の意のままにならない原則主義のうるさ型の人物を関与させない、という判断でなされた可能性がある。そして、野坂参三が単独でソ連に接触したわけではなく、徳田の承認があり、共産党のトロイカと言われた最高幹部(徳田・野坂・志賀→徳田・野坂・伊藤)がこの連絡ルートに加わっていたのだから、和田の評価は不当ではないが、やはり徳田の家父長的指導の問題がそこにはある。志賀は、徳田にとっては煙たい人物ではあっても、ソ連にとっては好ましい人物で、徳田派に排除され党が分裂した際にも、ソ連との連絡ルートについて漏らすことはなかった、ということか。

不破は、1949年11月に対日理事会ソ連代表のテレヴァンコと徳田・野坂・伊藤律が会談していることにふれて、ここでソ連が非合法体制への移行を徳田らに促したことを記しているが、不破はこれを徳田・野坂派とソ連のつながりと見なしている。

同じ会談について、和田は日本共産党としての公式の会談としている。和田としては当時の共産党のトロイカとソ連の高レベルの代表の会談だから公式の会談だと評価している。(1950年6月26日付のマーミン意見書。和田著の巻末資料として全文掲載)

和田著では、徳田球一書記長自らソ連側の人物と会い、日本の情勢をソ連側に説明・論評し、ソ連の指導を自ら仰いでいる。コミンテルン時代以来の、ソ連を指導党とみなす感覚そのままだ。
和田が強調しているのは、この時期の徳田はソ連から自立した党であることを国民に印象づける戦術をとっていて、その裏でソ連の指導を自ら仰ぐということをやっていた、ということだ。やはり、ソ連と連絡をとり指導と承認を求めるのは、徳田・野坂らにとって不都合な事実だった、ということだ。
コミンフォルムは、ソ連・東欧の共産党・労働者党にフランスとイタリアの共産党を加えた構成だった。コミンテルンの簡易版のようなものだと日本共産党員たちも解釈した。ソ連が中心に座っている以上、当然の思考だったようだ。宮本顕治もソ連を国際共産主義運動の指導党とすることを当然とみなしている。
当時、日本共産党の対ソ事大主義はかなり深刻だった。コミンフォルム論評の受け入れを主張し「国際派」と呼ばれた人々は、主張の上では徳田・野坂派よりも親ソ的だった。宮本顕治は中立政策を否定し、あくまでソ連に与することを主張していた。(例えば、50年テーゼ草案への意見書)
50年問題の経緯でも、統一派がソ連に袴田里見を使者として送ったりしていて、やはりモスクワ詣をしている。袴田は、スターリン出席の御前会議を前にソ連側に圧力をかけられて屈服した。コミンフォルムと中国が徳田・野坂派を正統と認めると、統一派は瓦解する。統一派組織は徳田派指導下への復党を呼びかけて解散する。それくらい、ソ連を指導党と仰ぐメンタリティは現場の日本共産党員たちにとっても当然だった。例えば、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』はそのあたりのメンタリティを伝えている。(※3)
だから、ソ連と連絡をとり、ソ連に指導を仰ぐという態度は、徳田・野坂派や志賀に特有のものとは言えない。問題はその連絡・指導のルートを一部の実力者で独占し、政治局にさえ報告しなかったと思われることで、これが徳田による家父長的指導と分派形成の原因と結果の一部をなしている、ということだ。

また、不破は野坂参三が帰国前の訪ソ時に「党に隠れて」資金提供要請をしていることを批判している。ソ連側は資金提供に前向きだったが、実際に提供されたかどうかは確定できないようだ。ソ連と野坂の双方とも、資金提供を秘密にするのが得策だと考えていて、そのための資金の出所の偽装のやり方まで具体的に検討している。実際には、技術的な問題で実現しなかったのではないかと不破は見ている。

和田著では、野坂は帰国して日本共産党政治局員になってからも資金提供要請を行い、ソ連側はこれに応じたとある。これも不破が知らない文書だと思われる。
不破もふれている1950年6月のマーミン意見書では、「特定の個人名義になっている党の基金」にふれ、党内指導部にさえ「スパイや挑発者がいるが存在するもとでは、これらの基金は一般に摘発され、一掃されてしまいかねない」とある。これらが使えないから日本共産党の財政基盤が脆弱なのだ、という報告ではある。ソ連からの資金が原資かどうかはわからないが、党指導部内にも秘匿された個人名義の党基金が存在した、という実情があることを示している。「挑発者」に、志賀・宮本らが文面上は入っていないように読めるが、この時点でソ連は徳田・野坂派の側にいることは明らかなので、少なくとも徳田派に排除された政治局員の宮本顕治が知らない個人名義の党の基金が存在した、ということになる。
宮本顕治も知らない個人名義の基金に、ソ連からの資金を原資としたものが含まれている、ということはあり得る。今となっては新史資料が出てこない限り、真相は藪の中である。

(※1)
不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(新日本出版社、1993)
小林峻一・加藤昭による『週刊文春』記事を受けて、野坂参三の山本縣蔵告発やソ連資金受け取りの問題などで、日本共産党は独自に資料収集し解析したうえで不破哲三が論文化し、『赤旗』に連載し、後に書籍化した。不破の著作は、志賀義雄ら「日本のこえ」派へのソ連の関与を中心にしたものだったが、『週刊文春』で報じられた、野坂と袴田里見によるソ連資金の受け取りの問題も当然、扱い、日本共産党とソ連が対立関係になっても野坂と袴田がソ連との内通を継続しようとしたことも明らかにしている。さらに最終章で占領期にさかのぼり、ソ連と野坂の関係を明らかにした。そこで不破は小林・加藤の工作員説を支持している。

(※2)
志賀義雄は、ソ連の支援を受け、部分的核実験禁止条約の国会での承認に際して、ソ連副首相ミコヤンが傍聴する眼前で、日本共産党の反対の態度に反して賛成投票をして除名され、その後、ソ連派の組織を立ち上げた。
このとき、志賀と行動をともにした中野重治や神山茂夫は、後に志賀と袂をわかつが、そのとき、志賀をソ連盲従だと評している。ソ連に賛同して日本共産党に反旗をひるがえした仲間からも志賀のソ連盲従は極端だと映っていた。(中野・神山『日本共産党批判」三一書房、1969)

(※2)
この点について、当時の日本国民のハビトゥス(固定的習慣的な思考・行動様式)が関係があると僕は仮説をたてている。
共産党員といえども、日本国民の一部であり、日本人のハビトゥスとして、教育勅語や全生活にわたる天皇制教育や軍隊式教育が思考と身体性においてしみついていた、ということだ。教育勅語を暗誦するとか、暗誦時には直立不動だとか、「天皇陛下」の語を言及し聞くときに直立不動の姿勢をとるとかの形式は、心のあり方にも影響を及ぼし、天皇に対する尊崇感と上官の命令は絶対、というような思考と行動を生活習慣化していたのではないか。これが、戦後初期の対抗運動の思考と行動の様式にも影響している、ということだ。僕は参照できていないが、小熊英二が『民主と愛国』(新曜社、2002)でこの手法を用いたと言っている。なお、ハビトゥスはブルデューの概念である。
例えば、1947年の2.1ストは、整然たる行動で、中止指令で山猫ストはほとんど起こらなかった、という。後年、賞賛されることもある行動だが、これは軍隊式だと言える。
天皇は人間宣言で神でなくなり、新憲法で象徴となり、絶対的な統治者であることもやめた。マッカーサーを天皇のような崇拝対象とした保守的中間指導者の記録は枚挙にいとまがない。戦争体験から天皇や天皇制に反対するようになった人々が、その対象に、共産党や徳田球一やソ連をおいたということはある意味で当然なのだ。

上田耕一郎『戦後革命論争史』と1961年綱領


上田耕一郎『戦後革命論争史』の主として後半を再読する。




同書は上巻が1956年11月、下巻が57年1月発行の奥付。実際の発売はその1ヶ月程度後になるのが奥付事情の常識だ。

「はしがき」では、不破哲三との事実上の共著であるとし、不破が執筆分担をした章も明らかにしている。

第3篇だと第4章のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判への各国共産党の反応やそれを踏まえた理論論争を不破が担当している。(※1) 事実上の共著だと上田自身が言うのなら、本書の見地は上田・不破兄弟の共通の見解だと前提しておく。


日本共産党の党章草案(綱領と規約が一体化したもの)が発表されるのは、1957年9月。(※2)

党章草案発表後は、上田耕一郎は党章草案→1961年綱領草案を擁護する主張で論陣をはるようになる。(高内俊一『現代日本資本主義論争』三一書房、1961を参照)


『戦後革命論争史』は、戦後のマルクス主義者や社会主義者たちの社会認識や経済認識をめぐる諸論をかなり広い範囲でレビューし、論評したものだ。

日本共産党の「50年問題」の「6全協」での一定の収拾とソ連共産党第20回大会でのスターリン批判の衝撃で、百家争鳴状態の日本共産党とマルクス主義の界隈に、伝説的な影響を与えた労作だ。(※3)


上田の当面する革命論が示されるのは、最終章である第3篇第6章である。

党章草案が発表される前の、本書での上田は、対米従属の契機を重視しながら、日本独占資本主義の復活という契機との「矛盾」に苦しみ、民族民主革命の社会主義革命への連続的成長論をとる。すなわち、民族民主革命論と社会主義革命論とを折衷しようとしている。

上田は、反独占闘争の一般民主主義的な性格をかなり重視して『論争史』では繰り返し指摘している。これは本書での農業理論や東欧・中国の「人民民主主義革命」の理論の紹介の検討を踏まえたものとなっている。

民主主義革命と社会主義革命をできるだけシームレスなものとして描き、民主主義革命論と社会主義革命論の折衷をはかるのだ。上田は実は明確に民族解放民主主義革命論に立っているのを、それをうしろめたいことであるかのように、社会主義革命への連続的転化を論じる。

人民民主主義革命が社会主義革命に連続的に転化する、というのは、当時の東欧・中国の人民民主主義革命について言われていたことである。「人民民主主義革命をやっていたら気がついたら社会主義革命になっていた」式のものだ。(※4)


特に農業問題は、50年テーゼ論争と「51年綱領」の基本問題だった。徳田球一の50年テーゼ草案では、占領下農地改革の意義が過小評価されてるし、スターリン執筆の「51年綱領」では、農地改革はなきに等しいものとされ、日本を植民地型の従属国と規定し、そこから平和革命の全面否定を導き、武装闘争路線の根拠とされた。中国革命にならった農民工作が重視され、活動的な党員で山村工作隊が組織され派遣されたが無惨な失敗に終わった。この時期には、いくつも弾圧事件が起こっていて、それらは公安警察による冤罪やでっちあげであったが、日本共産党主流派(徳田派)が指導する極左冒険主義の方針をとっていたことに警察につけこまれたものであるのもまた事実だ。(※5)

「50年問題」の日本共産党の分裂で、コミンフォルムと中国が徳田派を正統と判定すると、国際派・統一派は瓦解し、徳田派指導下に「復帰」するしかなかった。

国際派の活動家だった、上田・不破兄弟にとって語るのも痛苦の経験だ。

『論争史』は、戦後農地改革で寄生地主制は基本的に解体され、零細自作農の創設が行われた、という認識を前提にしている。国際派の流れをくむ人々を担い手とする、茨城県の農民組合運動の活動の理論を参照しながら、反独占の農民運動を重視している。上田が反独占民主主義闘争の意義を強調するのは、この常東農民組合の運動の理論の存在が大きい。


この時期に反独占闘争の民主主義的性格を指摘するのには、旧東欧や中国の「人民民主主義革命」の理論が紹介されたこともかなりの影響があることも『論争史』の叙述からわかる。


上田は、最終章で、反独占闘争の一般民主主義的性格を指摘しながら、なお反独占は社会主義的任務であるとし、その隘路を探り折衷しようとする叙述をとっている。すなわち、反独占民主主義の政策をとる統一戦線政府は、独占ブルジョアジークとの激しい矛盾に直面し、おそらく社会主義革命に進まざるを得なくなる、という予測であると同時に、変革の志向を示す、という叙述になっている。


『戦後革命論争史』での上田耕一郎のつきあたった隘路に解決を与えたのが、宮本顕治起草の党章草案(後の1961年綱領の大要を示す)だったということだ。

後の1961年綱領とほとんど同じ線まで、上田はきているが、なお、当面する革命は民主主義革命だと確言するのを躊躇し、社会主義革命への連続的転化を論じて、民主主義革命論をとる言い訳を懸命にしているかのようだ。

後の1961年綱領にも民主主義革命が社会主義革命に連続的に転化するかのような叙述がある。ただ、宮本顕治の綱領問題での報告での説明では、民主主義革命と社会主義革命は明確に区別されたうえで、連続的に転化するのを共産党はめざすとしている。


上田にとって、いかに党章草案が福音に満ちたものだったことかを僕は想像してみる。上田がなおモヤモヤとしていたものを党章草案とその説明をする宮本顕治の報告はすっきりさせたのではないかと思う。

丸山眞男は、戦後しばらくは天皇制国家のイデオロギー的呪縛の中にいて、その呪縛を解いたのは、政府憲法改正草案だったことに似ている、というとどうだろうか。(※6)


以上の上田耕一郎の逡巡を傍証すると僕が思うものを示す。推測の域を出ないものだが。

上巻掲載の下巻目次と、実際の下巻目次に違いがある。


(上巻掲載の下巻目次)



(下巻の実際の目次)


第3篇の副題が「日本人民民主主義革命のために」から「社会主義への日本の道」に変更されている。

上巻「はしがき」は1956年11月15日の日付、下巻「あとがき」は57年1月15日の日付。

実際の上巻刊行は12月。下巻「あとがき」には「下巻の仕あげをすっかり終わったのは本年の元日の夕方」「昨年末出版された上巻にたいして寄せられた、読者諸賢から寄せられた御激励・御批判に感謝」とある。上巻の出版からのわずかな期間にどんな批判があったのか、と想像したくなる。

上田・不破兄弟の見解は、実は民主主義革命論であることを上巻掲載の下巻目次ははっきりと示している。(最終章の論自体は民主主義革命論であることとも一致する)

明らかに「社会主義へのイタリアの道」を意識している下巻3篇副題は、『論争史』の叙述のもとになった研究会メンバーやその周辺のごく近しい人々の意見によるものではないか?


『論争史』のもととなった研究会とは、石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦で構成され、最年少で、上田耕一郎は記録係だった、という。いずれもそうそうたる構造改革派の理論家である。

この6人は50年問題当初の国際派(全国統一委員会)の学生対策委員で、上田はまだ学生だった。内野がまとめる予定だったが、内野は遅筆で上田にまかせた、という。上田は弟(不破哲三)にも執筆分担させるといって各メンバーの了解を得た、とのこと。出版社からは、無名の上田の名前では本が売れないという懸念が示され、実際にはよく売れて上田の知名度を一気に高めた、という。マルクス主義理論家上田耕一郎の出世作だということだ。

この裏話は、石堂清倫の宮地健一への手紙を宮地のサイトで公開しているものだ。



上田が気にしたのはこういう近しい人々からの批判だったのではないか。


イタリア共産党のトリアッチによる構造改革論をマルクス主義を刷新する新しい理論として取り入れることには、構造改革派の理論家たちと上田・不破兄弟には一致があった。

ところが、当面する革命が民主主義革命か社会主義革命か、という、綱領論争の根本のところで、構造改革派は社会主義革命論をとり、上田は民主主義革命論をとった。

自立従属論争で、構造改革論をとることでは一致のあるはずの佐藤昇と上田は、自立帝国主義説ー社会主義革命論をとる佐藤と、従属資本主義説ー民主主義革命論をとる上田とで、激しい論争を論壇で繰り広げている。


(補説・『論争史』でのソ連・中国の扱い)

スターリン批判で有名なソ連共産党20大会決定を全面賞賛して、それが基調になっている。スターリン批判というと、同大会での秘密報告の方が有名だが、表の決定でも、スターリン路線の批判と路線転換が行われた。

スターリン批判は多面的で広範囲にわたるが、本書では理論面に限定してレビューしている。

上田・不破兄弟にとっては、50年問題と「51年綱領」に基づく極左冒険主義路線と、その失敗による右往左往に苦しんできたとか、スターリンの理論・政策面での圧制を、ソ連が自己批判し路線転換を示したことは新鮮に響いたのだろう。


その直後に開かれた、中国共産党の8全大会についても同様の賞賛が行われる。そして、中共が実際の活動や社会主義建設において、スターリン批判を先取りしていたことも賞賛している。


当時の日本共産党員の中国共産党への親近感は相当なものなんだと感じた。


1980年代までは、僕の世代にとって、中国は近くて遠い国だった。貿易関係は限定的だったし、中国の経済成長もまだ端緒的で、人的交流も限られていた。それは60〜70年代の圧倒的なアメリカナイズの文化の中で育った世代の感覚で、戦争経験のある世代だと、それはまったく違うのだろう、ということだ。

旧制高校で漢籍に親しみ、中国革命に歓喜した左翼青年だった上田の中国への親近感は、ちょっとばかり驚くほどだ。


(※1)

どうでもいいことだが、「はしがき」では不破を「畏友」と表現し、不破に対して謙譲語を用いている。不破は当時、鉄鋼労連の書記を務めていて、共産党機関誌『前衛』にもたびたび執筆していた不破を上田耕一郎の弟・建二郎だと明かすわけにはいかなかった。不破は結局、ペンネームが有名になって、衆院選にはペンネームで立候補し、著者の名前としてはもちろん、日本共産党書記局長、委員長、副議長、議長をすべて「不破哲三」の名で務めることになる。


(※2)

党章草案が審議される第7回党大会は1958年7月開催。党章草案のうち、政治綱領部分については採決が行われず、継続審議となり、規約部分が独立させられ、採択された。

2000年に全面改定されるまで、日本共産党規約にはかなり長文の前文がついていたが、これは党章草案の組織原則や党のあり方などについての部分が規約前文となったものだった、という経緯がある。このことを知ったのは、この本稿を書く過程で、第7回大会決定集を引っ張り出して参照してのことだ。


(※3)

1982年の『日本共産党の60年』発刊を機に、1983年になって、上田耕一郎と不破哲三は、『戦後革命論争史』の刊行について自己批判する論説をそれぞれ共産党の月刊誌『前衛』に発表した。

1956〜57年当時は、同書の出版はとても党規約にもとづく規制ができる状況ではなかったが、同書の出版は当時の党規約に照らして、規約違反であることを、83年には副委員長と書記局長という最高幹部になっていた上田・不破兄弟が、20年以上後になって自己批判した、ということは憶測を呼んだ。


(※4)

旧東欧「人民民主主義革命」の政権と政権ブレーンによる公式の説明は、もちろん全面的にフィクションである。東欧では、当初、米ソ協調を背景に、反ファッショ統一戦線政府の下で穏健な民主主義的改革が行われていたが、冷戦の開始・激化とともに政権の共産党独占がソ連占領軍の圧力と秘密警察の暗躍を背景に行われた。「社会主義化」とは「スターリン化」のことだった。この東欧の「人民民主主義革命」の虚構性を、日本共産党が認識するのは、1968年のチェコスロバキアへのソ連など五カ国軍の侵攻の衝撃を受けての再検討の過程である。

日本共産党は直接的にソ連・東欧の国内体制を批判するのではなく、日本共産党のめざす社会主義社会がソ連・東欧・中国の体制とは別物であることを示す綱領的文書「自由と民主主義の宣言」の制定(1976年)を中心に行われるが、その主要な内容は1970年にはすでに出ている。

日本共産党の勢力拡大と革新自治体の広がりで、社会党との統一戦線による政権参加も現実視される情勢で、理論と政策体系の怒涛のアップデートをはかる。


(※5)

この時期の日本共産党徳田派も闇雲に中国式の「農村が都市を包囲する」「鉄砲から政権が生まれる」といった闘争を行ったわけではない。それはいたずらに弾圧を招くだけであることは徳田派にとっても自明だったからだ。

それでも、非現実的な路線の破たんはあちこちで起こり、占領軍による弾圧と党分裂の前には、現在以上の勢力と影響力を誇った日本共産党は壊滅的な打撃をこうむる。

むき出しの武装闘争路線はすぐに戦術ダウンとなり、逆揺れの各種の右寄り路線すらとられたが、自己批判も総括もなく、表向きは武装闘争路線が維持され、異論には党内締めつけで応じる状況だった。

「6全協」で武装闘争路線が一応、否定され、分裂からの回復がなされ、党再建のための討議の呼びかけが行われると、党内にはさまざまな病理現象が表面化し、蜂の巣をつついたような状態になり、規約通りの規律など有名無実の状況になった。


(※6)

天皇を象徴として政治的権能を有しない儀礼的な存在とした憲法草案は、多くの知識人たちの想定をはるかに超えた民主化案だった。その呪縛から自由だったのは、日本共産党や「憲法研究会」の知識人ら、日本人ではごく少数だった。日本共産党の天皇制廃止論はもちろん、GHQ草案の基調となったとされる「憲法研究会」草案での天皇を形式的な存在とする、という案すら、戦争と軍部に批判的だったオールドリベラリストには考えつかなかった。天皇制国家の解体が確定的になったところで丸山は天皇制国家の批判的分析に取り組むことができるようになり、有名な「超国家主義の心理と論理」が生まれることになった。

再生可能エネルギーの諸相 環境負荷の小さいやり方を優先せよ

エネルギー生産には、環境負荷の小さいやり方がある。

再生可能エネルギーであっても、環境負荷が大きいものがあって、利潤第一主義で住民を犠牲にしてかまわないと言わんばかりの事業者がそこかしこにいる。メガソーラーや風力発電をめぐっては、各地でそういう事態が相次いでいる。

僕が環境負荷の小さい再生可能エネルギー源として、以前から推しているのは、
・小水力発電
・木質バイオマス発電
・木質ペレットを熱源として用いる

発酵バイオマス発電も有望だが、食料となり得る原料を用いるとすれば、国内農業振興と一体的に進めるべきだ。途上国の「飢餓輸出」を招いては、持続可能なものにならないし、輸入原料で再生可能エネルギー生産をすると、輸入の課程の多段階でかなりの温室効果ガスを排出する、という問題が生じる。
木質バイオマスにも同様の問題がある。宮崎県では早くから森林の盗伐や乱伐を引き起こしているし、それは全国各地に拡大している。大分県では森林組合など林業の主体が弱体化しすぎて、木材の供給体制がない地域では、木質バイオマスの普及が進まない。間伐など森林の手入れができずに山林は荒れ放題だ。木質バイオマス発電でも、輸入材を用いることが広がり、6割は輸入材だという。
木質ペレットをさまざまな熱源として用いる、というのも同様だ。

なかなか専門的な知識だとは思うが、日本の中央・地方の政府が、この程度の専門知識でもって、環境負荷低減の優先順位を高める政策措置をとっていないことの方が問題ではないのか。

今のところ、環境負荷を低減するやり方での再生可能エネルギーは、普及はあまり進んでいない。総合的な経済性では決して劣っていないのだが、個別企業が利益を上げる、という点での効率に劣るためだ。日本の法体系や政策体系は、私有財産の尊重を軸にしていて、公共の福祉のために私権の合理的制限が当然とされる欧米諸国とはずいぶんと異なり、公務員数の少なさともあいまって、市場原理に任せる法や政策をとる場合が多く、その弊害が明らかになっても、なかなか制度の見直しにつながらないのが実情だ。

日本でも再生可能エネルギーもそれなりに普及してきて、曲がり角を迎えている。
過疎地で森林や耕作放棄地で太陽光パネルを設置する、ということで、自然・環境への負荷がかなり生じている。
風力発電では、低周波音被害その他の環境負荷が問題になる。
地熱発電だって、乱開発してしまえば、地熱や温泉源の枯渇につながるおそれがある。

それぞれの地域のあり方に応じて、環境負荷の小さいやり方を選択していく必要があるのだが、何にしても企業の利益優先の日本社会で、資金を持っている人々や企業はそうは考えない。

中央・地方の政府が、経済性については誘導していかないと環境負荷の抑制にならないのだが、われらが政府は基本的なところでそういう態度はとらない。過疎地の人々は生命や健康の価値が低いかのように振る舞う企業が大手を振る。

電力不足が懸念される、という事態が生じれば、短絡的に、その原因を再生可能エネルギーの普及に求める、という論評が主要メディアに必ずあらわれる。
そこは「再エネ」じゃなくて「太陽光発電」が正確だというのが僕が嗤いたくなるポイントだ。
太陽光発電による電力買取制限が、九州を皮切りに四国、中国、東北と広がっていることと、電力不足の懸念との関連を説明できるのだろうか。

日本では政治的に、原子力発電や石炭火力の活用が推進され、そこではかなりイデオロギー的に「再生可能エネルギーは供給が不安定」という主張がなされる。まったく政策科学ではない、一方的な主張だ。
これが日本の主要産業の企業や業界団体、その連合体である日本経団連から出されて、政治に巨大な影響力を持っている。温暖化対策の諸政策に圧力をかけて、抵抗勢力としてがんばっている。日本の温暖化対策が進まないのは、このすぐれて政治的な事情があることが、情報として流布していない。
温暖化対策抵抗勢力(構成はほとんど原発推進勢力と同じであることに注意)からの強力なイデオロギー的な発信が行われて、政策科学的な議論が阻害されている。

過疎地にカネが落ちることと、環境負荷の低減の両立は技術的には可能なのに、個別企業の利益率が低いので事業者が自らその手法を言い出すことはなく、札束で過疎地住民のほおをひっぱたく手法に陥りがちだ。
地域住民が主導して、地域のためになる事業をやろうとして初めて、環境負荷の小さい、小規模再エネ施設をつくっていく、ということになるが、地方自治体や地域団体にその知恵も人材もいなければ、そういう動きも広がらない。過疎地域では、知恵・知識や人材の過疎も深刻だ。

小規模で多様な再エネが普及していくことが、迂遠に見えるが、電力安定供給の王道だ。巨大施設は災害の影響も深刻になりがちだし、災害で危険な事態も起こり得るし、施設のダウンによるエネルギー供給の影響も大きい。

九州電力が太陽光電力の買取制限を始めたのを受けて、2015年から太陽光発電の固定買取価格は引き下げが続く。近い将来には市場売買に移行するのだろう

2011年成立の再生可能エネルギー推進法(FIT法)の初期に太陽光偏重政策がとられてきたのは、太陽光発電が確立技術だったことが大きい。電力の安定供給のための太陽光偏重政策が、電力の不安定をもたらしたのは皮肉だ。

太陽光パネルが多く置かれるのは、過疎地の耕作放棄地や山林だ。カネにならない土地で少しでもカネを生もうと太陽光パネルを置いてるのが実情だ。
企業によるメガソーラーでも、事業者に土地を売ったり貸したりする地権者の方の思いは同じだろう。

311直後に、再エネ推進に動いて、知識を仕入れた、環境派こそ知っている。風力発電は低周波音(振動)の被害があり得るので、日本の地理的条件では、陸上風力発電の大幅な普及が難しいはずだと。
実際、各地で反対運動が起こり、僕自身も大分市での計画の事実上の反対運動に参加している。地域の合意形成に時間がかかってるうちに、風力まで買取価格が下がるかも知れないと、利にさとい事業者ほどことを急いで事態を悪化させ、着工が遅れる。

佐賀関地区の尾根に、関西電力が巨大風力発電施設を計画をしてたのを知って、あわてて反対運動に加わった次第だが
キチンと地域環境を丁寧に調査する必要がある。急斜面の地域なのだから、小水力をつくっていくとか、木質バイオマス企業や林業企業と提携して、間伐を軸とした「自伐型林業」を森林組合とともにやるとか
そういう持続可能な開発をやろうということを、日本の政府や企業はほとんど考えない。SDGsなど、企業イメージを粉飾するものとしてしかとらえていない企業のなんと多いことか。






極左日和見主義とニセ「左翼」暴力集団(下) 東大闘争と宮本顕治

「(上)その用語法と本質規定」はこちら



では、1968年11月に何があったか。


川上徹・大窪一志『素描・1960年代』(同時代社、2007)での、大窪の回想によれば、東大の共産党や民青同盟の運動の現場は、「全共闘」と急進性を競うような状況だった。「全共闘」の運動にかなり多くのノンセクト学生が共鳴するような学生の「空気」があって、このノンセクト学生を共産党・民青の側にひきつけるにはその急進性を競う、という運動上の必要性があった。

学生が学生大会などの議決をへてストライキを行い、その際、ストを維持するためにピケをはり、建物の封鎖を行うこと自体は、共産党・民青の側も必要なこととしていたわけでそこはもともとは争点ではなかった。

急進性を競うとは、大学改革や大学民主化(大学の運営への学生の関与や発言権の強化)の方針や政策の有効性を競う、ということだ。共産党・民青の側から言うと、「全共闘」の要求と方針は、一見、急進的だが、実は現状復帰の要求にすぎず、より進んだ改革の要求と方針を示すほうがよりラディカルなのだ、と主張してノンセクト学生やノンポリ学生を引きつけようとした、ということだ。

もちろん、日本共産党・民青同盟は暴力路線を原則的に否定し、もともと「全共闘」との対立の溝は深いものだった、というを念のためにあらためて付言しておく。





当時の日本共産党書記長・宮本顕治が自ら出張り、共産党中央に対策会議を置き、共産党東大細胞をその直轄にして宮本顕治自らが対策会議の指導にあたる、という非常事態措置をとった。宮本は事前に周到に情報収集を行い、いろいろをよく知っていた、と同書で川上徹は回想している。

後述するカンヅメ団交の最中に対策会議は設置された、という。

大窪は当時、共産党東大細胞の幹部で、川上は民青同盟中央常任委員で東大闘争の担当だった。共産党中央の対策会議の一員に川上は招集され、東大闘争の現場担当として、対策会議と現場をつなぐのが川上の役割だった。

そこで宮本は東大闘争が収束に向かうようには、共産党東大細胞も共産党中央の青年学生部も動いていないことを問題視し、自ら転換をはかった、ということだ。


すなわち、とれるだけの成果をとって、学生運動と東大当局の妥結をはかり、学園の正常化をはかる、という現実的対応を宮本は志向した。大学紛争を口実に大学の自治に介入しようという政府・自民党の動きに対抗するには、その点では教授会自治を基盤にした大学当局との闘争を自己目的化している観を呈していた大学紛争・民主化闘争の状況を座視できず、特に学生運動が大きな勢力を持ち、全国的に注目される東大には、直接に介入する必要があると共産党中央は判断した、ということだ。


東大だけでなく、当時の全国の大学では、進歩的知識人や左翼知識人たちが一定の比重を占めていた。彼らは教授会自治の担い手の一角だった。紛争時の東大総長だった大河内一男も進歩的知識人の1人に数えられる。(大河内は68年11月1日に紛争の責任をとって辞任し、民法が専門で個人としては穏健保守の加藤一郎が総長代行として対応にあたる)

文学部生だった大窪は、文学部長・林健太郎とのカンヅメ団体交渉の当事者でもある。カンヅメ団交はもともと共産党・民青の学生が、11月4日に文学部秘密教授会の開催を察知して会場に乱入して始まったものだという。「全共闘」に与する「革マル派」も便乗して一緒にやったらしい。それが数日後に、共産党中央青学部から学生党員に対し、カンヅメ団交からの引き上げの指示があったとのことだ。現場学生党員たちへの早期収拾方針での説得には卒業生の先輩党員がオルグに入ってあたった。共産党・民青などの活動家が引き上げたその後も「全共闘」の学生たちはカンヅメ団交を続け、林健太郎が入院してようやく終わるような事態になったのはよく知られている。カンヅメ団交からの党員の退去は対策会議の指示によるものだったことがわかる。(カンヅメ団交を始めた段階では、学生党員は対当局では「全共闘」派と共存して運動することを排除してはいないことに留意)

11月16日に、現場の学生党員の知らないうちに共産党中央の対策会議と東大細胞幹部の一部によって新組織「民主化行動委員会」による新方針が公表され(当時のことだからビラだ)、その後、全党員集会で党中央書記局の直接の指導の下とすることが伝達された、と大窪は語る。(※1)


「全共闘」は左派教員たちをもまとめて敵視した。戦後民主主義そのものを否定する論調の中で、進歩的文化・知識人も「全共闘」は否定した。

東大当局の姿勢は、学生の権利の取り扱いの面ではもろもろの大きな問題があり、だから学生運動と激しく対立したのだが、政府・自民党という、より大きな「敵」との対決においては、学生がとれるだけのものをとって大学当局と妥結する必要がある、とするのが宮本の判断だったと思われる。そういう日本全体を見渡した情勢分析は、「選挙目当て」という以上のものは川上にも大窪にもない。


そして東大当局と各学部の学生代表が合意した、69年1月の「東大確認書」の締結につながる。大学の自治とは教授会自治にとどまらず、全構成員による自治である原則を確認する画期的なものだった。


全構成員自治をめざす学生運動が強力であってこそ、教授会自治も守られる、という点は、1990年前後の学生運動活動家だった僕たちにも、共産党青学対が重視して教育していたことだ。僕の学生時代はすでに学生運動の衰退局面ではあったが、その後、もっと民主的学生運動が衰退する中で「大学改革」として大学の教授会自治が掘り崩されていくのはある意味で必然だ。(※2)


大窪は、宮本ら共産党中央が東大当局と水面下でストライキ解除の条件についてボス交渉をした可能性にまで言及する。当時、学生党員たちの間でそういうウワサが流れた、ということだ。宮本は東大出身だし、共産党中央に東大出身者は何人もいたし、教員にも職員にも党員はいたので、確かにそれができる人脈はあった。実際に川上は、その秘密交渉が文学部長・林健太郎との間で行われていたことを後で知ったとしている。林と面識のある文学部卒業生の党員がその任にあたった、という。他の学部や全学幹部とも秘密交渉をやっている可能性はある、というのが川上の認識だ。


大窪は、この宮本顕治と共産党幹部会のやり方への不信を述べる。現場の頭越しに党中央で物事を決定し、現場にその方針を押し付けた、と。川上も、宮本の政治手腕には舌を巻いたが、同時にその手法に不信感を抱いた、と言う。

この2人の不信感の持ち方こそが、宮本自ら乗り出して緊急非常体制を敷くことの必要性を僕に感じさせた。

運動の現場の論理に引きずられて、東大闘争をいたずらに長期化させることが学生や国民の利益になるだろうか?

学生運動が建設的に大学当局と妥結して事態を収拾するのは必要なことだ。ストライキや封鎖で研究も教育も阻害される、という事態は成果をかちとる過程では必要なことだが、ストや封鎖自体が自己目的化するような状況は多数の学生にとっても国民にとっても、ロクでもない事態だ。封鎖によって生まれた「解放区」など、単なる祝祭空間に過ぎない。「ハレ」は「ケ」にいつかは戻らねばならない。

共産党東大細胞と党中央青学部が事態の建設的な収拾に向かってはいないことを見てとった、宮本ら共産党幹部会の「老人たち」が、現場に介入し、運動を建設的な妥結へと指導することは、民青同盟のような党派性を持つ青年学生運動団体が「親組織」を持つ利点の方を示すものだと僕には思える。民青同盟の共産党からの自律の重要性を一面的に強調する川上・大窪の論調に僕は賛同できない。

もともと僕は故・宮本顕治を尊敬しているが、擁護者からも批判者からもその評価や人間像は政治的な立場性で語られてきたと僕は思っている。聖人君子のような宮本顕治像も、陰険を絵に描いたようなミヤケン像も実像からズレていて、実像はおそらくその中間のどこかにある。一定の権威・権力を持つ政治家には必要悪を決然とやる悪人であることが必須条件だと僕は考えているが、倫理的に潔癖な左翼活動家の多くはそういう価値観に立たず、自らの指導者は聖人君子のようであるべきだと考える。

川上・大窪著を読んで、ミヤケンすげえな、と僕は思った。上田耕一郎が言っていたという「嫌なところはいっぱいあるが政治的にすごい」という宮本顕治のリアルに少しだけ触れた気がした。少しだが直に接した川上は、その少しの分だけミヤケンの嫌なところを感じ取っている。

川上・大窪は、共産党中央の介入を選挙のためだとし、党利党略の不純な動機だとみなしている。これも、学生でない国民の視線を気にすることは議会制民主主義の機能そのものであり、宮本顕治の収拾路線は妥当だと僕は考える。

1969年12月に行われた衆院総選挙では、「全共闘」に甘い態度をとった社会党が惨敗し、「全共闘」と対決した共産党は躍進した。これが選挙の帰趨を決めた決定的な要因ではなかろうが、いくつかの要因の1つではあった。政治学者の木下真志はこのとき「1970年体制」と呼ぶべき政党制が成立した、と論じる。(※3)つまり、日本共産党は69年総選挙で議会政党としての地位を確立したのだ。


秩序派(※4)と手を結び、実力闘争をやったことのない秩序派学生(「普通の学生」)を「全共闘」のゲバルトが襲う構図を、11月12日の「図書館前の攻防」はつくりだし学内外の世論を民主的学生運動は味方につけた(※5)。暴力も必要だととらえていた、「全共闘」支持だったノンセクト学生の多くは「全共闘」運動から離れ、「全共闘」は東大の学内世論から孤立した。「自己否定」とか「大学解体」とか、ノンセクト学生に対して、破壊的であるがゆえに魅力のあった思想が、今度は破壊的で非建設的であるがゆえにノンセクト学生が運動を離れていく要因ともなった。

1969年入試を中止した東大と、入試を実施した京大その他の大学とでは学園ごとの事情も経緯の細部も異なるし、僕はそれらに詳しくはないが、多くの大学で大学紛争は似たような経過をたどって「全共闘」運動は敗北した。

1969年上半期までは各地で「全共闘」運動の高揚も見られるが、下半期には下り坂をたどる。69年9月には「全国全共闘」が結成されるが、すでにノンセクト学生は離れ、実質的には「8派連合」、つまり「革マル派」以外の主要セクトの連合体だと言われる。(※6)この後、「新左翼」各派間の内ゲバの続発もあり「新左翼」運動は衰退する。


結論としては、「新左翼」諸派全体を「乗り超えて」高揚し、諸党派を飲み込んでいった「全共闘」運動は、大学破壊をこととする反社会的な運動に堕した、ということを東大闘争の推移から、宮本顕治と日本共産党は見てとった、ということだ。日本共産党は1968年11月に「新左翼」運動の評価を転換し、保守派と共同してでも撃退せねばならない、自由と民主主義の敵だという規定に到達したのだ。


「図書館前闘争」に、日本共産党の路線転換を見たのはもちろん僕のオリジナルではない。当時、「全共闘」側から見ても、共産党・民青の末端の側から見ても、「図書館前闘争」からの共産党の転換は明白だったようだ。(※7)

それは、宮本顕治自ら陣頭指揮をとった転換だった。


1968年の共産党東大細胞がとった、「全共闘」と急進性を競う、という傾向が、後の日本共産党による「新日和見主義」批判の口真似なんじやないかと思うくらい、普通に大窪や川上の口からでてくるのが、逆に驚きだった。「新日和見主義事件」の中心人物だった川上と、その分派には距離をとっていた大窪とでは違うはずなのに。

実は違わないのかもしれない。1972年に川上らが組織した「新日和見主義分派」に大窪が距離をとったのは、川上らが党官僚として大窪が不信感を持った共産党中央青学部幹部をも分派に取り込んだことへの反感が要因だと述べている。

「新日和見主義」は、ここでのテーマではないが、ニセ「左翼」(当時の用語ではトロツキズム)と、一定の共通性を持っている、という指摘をされる。「新日和見主義」の時期の民青活動家たち(一定部分は68〜69年大学民主化闘争の学生活動家が後に専従者となった人々が占める)には、ある種のメンタリティの共有があるのはそうだ。加藤哲郎がフォーラム90sに参加したことに、なぜバリケードのこちら側と向こう側で手を結ぼうとするのか僕にはわからなかったが、68年には東大法学部の共産党活動家だった加藤には、「68年11月」以前の感性や思考が残存していた、ということで了解可能だ。(※8)


日本共産党の公認党史では、ニセ「左翼」規定は、1950年代後半に、学生運動の多数派が極左化し、学生党員の多数派が大量脱党した時点にさかのぼって適用される。1984年に高校生で民青同盟に加盟し、87年に大学に入学して本格的な運動に入っていった僕は、そういう学習と教育の中にいた。(上)で言及した1987年刊行の河邑重光『「新左翼」は三度死ぬ』でも同様だ。

公認党史の叙述の仕方が誤りだとは思わない。歴史叙述としては、同時代での認識を欠落させる弱点をもたらすが、それは歴史叙述においてはよくあることで(例えば、鎌倉幕府という用語も概念も同時代には存在しない)、そこは特に関心の強い者だけが同時代の認識を勉強すればいい。現在の人々にとってのわかりやすさが、政治文書でもある公認党史にはどうしても必要だ。

それを神話だなんだと言うのは、政治と学問の関係についてナイーブで、それこそ科学とイデオロギーが即自的に一致する、という、多くの共産党員が持っている科学的社会主義の素朴なイメージの裏返しにすぎない。(※9)


(※1)もっとも、グズグズの全面妥協による早期収拾を指導した中央書記局に対して、現場の論理でかなり押し返した、と大窪は語る。これまでの運動との整合性が取れなければ、学生大衆との関係でもまずいだろう。「とれるものはとる」という宮本顕治自身の考えともこれは適合的だ。トップダウンの一方的で権力的な指導が現場を困惑させたとしても、循環型で妥当な線が打ち出された事例としても見ることができる。


(※2)左翼学者たちには、民主的学生運動出身者を含めて、学生運動の大学自治における役割の認識が薄すぎることに僕は苛立ってはいる。かといって学生運動を強めたりつくりだしたりという動きを教員がすることにどれだけの意識性が必要で、どれだけの困難があるのかはそれはそれとして僕は知っている。


(※3)木下真志「1969年総選挙と社会党の衰退ー戦後政治の第二の転換点」初出2006、木下『55年体制と政権交代』旬報社、2019に所収)


(※4)秩序派とはストや封鎖に批判的な保守的な学生たちのこと。日大のような、理事会による私物化が中心問題となる私学では当局によって組織された保守学生は当局派として行動した。多くの国公立大で保守派学生は当局派ではない。それまでは学生自治の一環として議論に加わっていても闘争に深く関与していなかった。


(※5)11月12日の「図書館前闘争」は、前述した共産党中央書記局による東大細胞の直接指導に移行する前ではあるが、すでに早期収拾路線で、共産党・民青側が動き始めていることを示している。

「図書館前闘争」についての報告ビラは共産党・民青側は「東大闘争勝利行動委員会」が発行している。これは大窪も共産党東大細胞幹部として関与した組織だ。同時代に刊行された資料集の東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』日本評論社、1969.1)では、「闘争勝利行動委員会」から「民主化行動委員会」への移行に特段の注意を払っていない。

僕は東大闘争の経緯に詳しくない。回想の類いもかなりあり、それなりに研究もある東大闘争の詳細に踏み込む能力はない。本稿は、日本共産党の「新左翼」観の転換点を抉出することに限定している。

その前から、「新左翼」諸派や「全共闘」の暴力路線との、ゲバルトを含む対決というのはあって(民青側では「正当防衛」の路線を確立して、必要な限りでの防衛的なゲバルトの行使を行っている。「正当防衛」論の確立の経緯や都学連の「あかつき行動隊」についても民青中央常任委員として担当者だった川上は回想している。




東京大学新聞研究所東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』に収録されている文書は1968年12月までで翌1月の「東大確認書」は収録されていない。


(※6)「革マル派」は、69年1月のいわゆる「安田講堂の攻防」に至る、機動隊導入の直前に、分担拠点を放棄して「敵前逃亡」した。逮捕者を出さず、組織を温存する狙いだったと言われる。東大での「革マル派」の敵前逃亡は、その後の凄惨な内ゲバの激化の導火線を用意する結果となった。


(※7)2018年の50周年の節目にいくつか行われた、「全共闘」回顧のシンポジウムの記録のどれかにそういう評価があったのをネット記事として読んだ。同時代の経験者には、割と当然の認識として図書館前闘争から日共は変わったと語られ、それをあらためて分析的に論じたものだったと思う。僕が読んだのはどれだったか、残念ながら記憶があいまいでちょっと検索をかけても特定できなかった。

それは当然、当時、「全共闘」側にいて今でも日本共産党には批判的な方の発言なのだが、日本共産党側にいて、しかもかなり詳しく内情を知っていた川上・大窪の回想を読んで、こういうことだったのか、と腑に落ちた。


(※8)加藤哲郎とフォーラム90sについては志位和夫「社会主義をなげすてた『タマネギの皮むき』」(志位『激動の世界と科学的社会主義』新日本出版社、1991所収)と加藤哲郎「東欧市民革命と『社会主義の危機』」(加藤『社会主義の危機と民主主義の再生』教育史料出版会、1990所収)を参照。加藤講演録は厳密には志位論文が対象にしたフォーラム90sでの講演とは違うが、講演内容の骨子は同じだと思われる。

志位論文の初出は、志位の日本共産党書記局長就任の直前だった。


(※9)科学とイデオロギーの関係については、上野俊樹「イデオロギーとはなにか」(上野『アルチュセールとプーランツァス』第2章、新日本出版社、1991)を参照。ただし、上野が「科学的イデオロギー」と表現しているものは、上野のイデオロギー理論によれば「科学にもとづくイデオロギー」の方が正確だと僕は考える。

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