野坂参三はソ連の工作員だったか?(1) コミンフォルム論評以前 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

野坂参三はソ連の工作員だったか?(1) コミンフォルム論評以前

中北浩爾『日本共産党』(中公新書、2022)に、野坂参三はソ連の情報機関の工作員だった、という説を否定する記述がある。

中北が典拠としているのが和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996)での結論だ。
不破哲三『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(新日本出版社、1993)は、ディミトロフ(コミンテルン書記長だったが、コミンテルン解散後はソ連共産党国際情報部長として、各国共産党との関係を担当していた)が、野坂がソ連のヒモをつけるのに適任だという提案書に、国家保安人民委員部(KGBの前身)かソ連軍諜報部で連絡をとることとしていることを根拠に野坂工作員説をとっている。(※1)
野坂情報機関工作員説は、野坂の山本縣蔵告発をソ連の秘密資料から『週刊文春』で明らかにした小林峻一らの説だ。小林峻一・加藤昭の『文春』記事は、後に『闇の男 野坂参三の百年』という本にまとめられている。小林・加藤は、野坂が延安時代に中ソの同盟国の米側と接触し、それが帰国後の米占領軍の接触の糸口だったことから、野坂が米側とも通じていた可能性を指摘するが、その証拠は提示できていない。単行本に収録された解説座談会には立花隆もゲスト参加しているが、立花は野坂二重スパイ説を推定支持している他、日本の当局を含めて「何重スパイだったのか」とまで言っている。

和田著では、野坂は確かにソ連のヒモをつけられて帰国したが、党間外交ルートで遇され、野坂は日本共産党中枢との窓口となったのだとしている。裏ルートではなくて、公式の党間関係だったということだ。当時、秘密にされ、連絡ルートも秘密のものだったのは、ソ連が日本共産党を指導しているかのような印象を与えることは、ソ連側も日本共産党側も望まなかったからだとしている。それは日本国民の世論との関係はもちろん、当初はソ連も米ソ協調路線をとっていたことや、日本共産党も米占領軍との対決を回避する路線をとっていたことも大きかった。徳田球一の指導下での日本共産党は、日本共産党は自主性のある党だという主張も演出も懸命にしていて、それは占領下で日本共産党が勢力を伸ばしていくのに重要な役割を果たしたと思われる。

和田著では、野坂は定期的にソ連側の人物と会って連絡をとっているが、伊藤律を伴ったり、ときに徳田球一や志賀義雄がソ連側の人物と会ったりもしていることを旧ソ連秘密文書から明らかにしている。これはおそらく、1993年の日本共産党の調査では入手していないと思われる文書にある情報だ。
ただし、公式の党間関係といっても、野坂、徳田、伊藤、志賀らがソ連との連絡の実情を政治局や中央委員会といった党の正規の機関に正式に報告し、討議の機会があったかは定かではない。正規の機関ではなく、後述するトロイカとか徳田の側近といったごく少数の実力者だけが関与していた可能性がある。原則主義者であった、政治局員宮本顕治はこのルートに加わっていない可能性がある、ということだ。不破は、後の著書『スターリン秘史』第6巻(新日本出版社、2016)で和田著を検討することなく『干渉と内通の記録』の内容を前提し見解の修正もしていないが、野坂のソ連との連絡は「党に隠れたもの」として糾弾している。公式の党機関には報告されていなくて、宮本は関与していなかったということであれば、和田著の叙述と両立する。しかし、徳田・志賀がこのソ連と連絡ルートに加わっていたのなら、一時期は徳田・志賀・野坂で「日本共産党のトロイカ」と言われていた実権を握っていた最高幹部であり、これを党として公式の関係だと和田が見なすのはおかしなことではない。
ただ、野坂は党に隠れてソ連と連絡をとっていた、という不破の見解は、日本共産党とは誰のことか、という問題にかかわる。占領下の分裂前の日本共産党のあり方は、当然、「50年問題」での党の分裂のあり方に関わってくる。ソ連との秘密の連絡ルートは正規の党機関への報告も討議も承認もへておらず、後の「50年問題」での徳田・野坂派の原型をソ連との連絡ルートの形成に見るのは不当ではない。この場合、それは「党に隠れて」とはならないが、徳田・野坂らによる党の私物化とソ連との連絡ルートの問題は直結しているという批判なら妥当することになる。「50年問題」では徳田派に排除された志賀が、トロイカの一員だったころにはソ連との連絡ルートに加わっていたことは、この時期から見られる志賀のソ連盲従傾向とともに、60年代の志賀の言動(※2)との関係で興味深い。
政治局員の宮本顕治がソ連との連絡ルートから外されていて、政治局として正式にその連絡に関与していたかどうかは、現在の日本共産党にとっては大事なことだ。和田はそこを関心の外側においている。後の「50年問題」の総括では、宮本顕治の行動と路線が正しいとされ、徳田派の行いのいろいろに宮本が関与していないことが、宮本が主導権を確立した後の日本共産党の路線と行動の正しさの前提とされているからである。
不破と和田がともに検討している、野坂の帰国後初のソ連宛の手紙では、野坂、徳田、志賀、袴田の4人を「政治局員」としている。この時期、野坂はまだ政治局員に選出されていないが、帰国後すぐに徳田・志賀らと協議し、事実上の最高幹部として活動していた。中央委員ではあったが政治局員でなかった袴田がここに入り、宮本など他の政治局員の名がない。不破は、後の「ソ連の内通者のリストとなっていることは、歴史の皮肉」としているが、むしろ、野坂がここで名を挙げたから、その後、ソ連との連絡ルートに加えられた人物のリストとなっている可能性があるのではないか。
野坂以外の3人には終戦時に府中刑務所に拘禁されていた「府中組」という共通点がある。「府中組」は戦後日本共産党再建の中心をなし、網走刑務所で釈放となった宮本は遅れて党再建に参加している。宮本と袴田は、戦前共産党の最後の中央委員でもあった。徳田と志賀は「3.15事件」(1928年)に逮捕された「獄中18年」組だが、検挙時、2人とも中央委員ではなかった。

当時、日本共産党といえば、まず徳田球一のことだった。後に家父長的指導と批判される、徳田による専断的指導が横行した時期だ。正規の機関にかけていない、というのは宮本顕治らの徳田の意のままにならない原則主義のうるさ型の人物を関与させない、という判断でなされた可能性がある。そして、野坂参三が単独でソ連に接触したわけではなく、徳田の承認があり、共産党のトロイカと言われた最高幹部(徳田・野坂・志賀→徳田・野坂・伊藤)がこの連絡ルートに加わっていたのだから、和田の評価は不当ではないが、やはり徳田の家父長的指導の問題がそこにはある。志賀は、徳田にとっては煙たい人物ではあっても、ソ連にとっては好ましい人物で、徳田派に排除され党が分裂した際にも、ソ連との連絡ルートについて漏らすことはなかった、ということか。

不破は、1949年11月に対日理事会ソ連代表のテレヴァンコと徳田・野坂・伊藤律が会談していることにふれて、ここでソ連が非合法体制への移行を徳田らに促したことを記しているが、不破はこれを徳田・野坂派とソ連のつながりと見なしている。

同じ会談について、和田は日本共産党としての公式の会談としている。和田としては当時の共産党のトロイカとソ連の高レベルの代表の会談だから公式の会談だと評価している。(1950年6月26日付のマーミン意見書。和田著の巻末資料として全文掲載)

和田著では、徳田球一書記長自らソ連側の人物と会い、日本の情勢をソ連側に説明・論評し、ソ連の指導を自ら仰いでいる。コミンテルン時代以来の、ソ連を指導党とみなす感覚そのままだ。
和田が強調しているのは、この時期の徳田はソ連から自立した党であることを国民に印象づける戦術をとっていて、その裏でソ連の指導を自ら仰ぐということをやっていた、ということだ。やはり、ソ連と連絡をとり指導と承認を求めるのは、徳田・野坂らにとって不都合な事実だった、ということだ。
コミンフォルムは、ソ連・東欧の共産党・労働者党にフランスとイタリアの共産党を加えた構成だった。コミンテルンの簡易版のようなものだと日本共産党員たちも解釈した。ソ連が中心に座っている以上、当然の思考だったようだ。宮本顕治もソ連を国際共産主義運動の指導党とすることを当然とみなしている。
当時、日本共産党の対ソ事大主義はかなり深刻だった。コミンフォルム論評の受け入れを主張し「国際派」と呼ばれた人々は、主張の上では徳田・野坂派よりも親ソ的だった。宮本顕治は中立政策を否定し、あくまでソ連に与することを主張していた。(例えば、50年テーゼ草案への意見書)
50年問題の経緯でも、統一派がソ連に袴田里見を使者として送ったりしていて、やはりモスクワ詣をしている。袴田は、スターリン出席の御前会議を前にソ連側に圧力をかけられて屈服した。コミンフォルムと中国が徳田・野坂派を正統と認めると、統一派は瓦解する。統一派組織は徳田派指導下への復党を呼びかけて解散する。それくらい、ソ連を指導党と仰ぐメンタリティは現場の日本共産党員たちにとっても当然だった。例えば、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』はそのあたりのメンタリティを伝えている。(※3)
だから、ソ連と連絡をとり、ソ連に指導を仰ぐという態度は、徳田・野坂派や志賀に特有のものとは言えない。問題はその連絡・指導のルートを一部の実力者で独占し、政治局にさえ報告しなかったと思われることで、これが徳田による家父長的指導と分派形成の原因と結果の一部をなしている、ということだ。

また、不破は野坂参三が帰国前の訪ソ時に「党に隠れて」資金提供要請をしていることを批判している。ソ連側は資金提供に前向きだったが、実際に提供されたかどうかは確定できないようだ。ソ連と野坂の双方とも、資金提供を秘密にするのが得策だと考えていて、そのための資金の出所の偽装のやり方まで具体的に検討している。実際には、技術的な問題で実現しなかったのではないかと不破は見ている。

和田著では、野坂は帰国して日本共産党政治局員になってからも資金提供要請を行い、ソ連側はこれに応じたとある。これも不破が知らない文書だと思われる。
不破もふれている1950年6月のマーミン意見書では、「特定の個人名義になっている党の基金」にふれ、党内指導部にさえ「スパイや挑発者がいるが存在するもとでは、これらの基金は一般に摘発され、一掃されてしまいかねない」とある。これらが使えないから日本共産党の財政基盤が脆弱なのだ、という報告ではある。ソ連からの資金が原資かどうかはわからないが、党指導部内にも秘匿された個人名義の党基金が存在した、という実情があることを示している。「挑発者」に、志賀・宮本らが文面上は入っていないように読めるが、この時点でソ連は徳田・野坂派の側にいることは明らかなので、少なくとも徳田派に排除された政治局員の宮本顕治が知らない個人名義の党の基金が存在した、ということになる。
宮本顕治も知らない個人名義の基金に、ソ連からの資金を原資としたものが含まれている、ということはあり得る。今となっては新史資料が出てこない限り、真相は藪の中である。

(※1)
不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(新日本出版社、1993)
小林峻一・加藤昭による『週刊文春』記事を受けて、野坂参三の山本縣蔵告発やソ連資金受け取りの問題などで、日本共産党は独自に資料収集し解析したうえで不破哲三が論文化し、『赤旗』に連載し、後に書籍化した。不破の著作は、志賀義雄ら「日本のこえ」派へのソ連の関与を中心にしたものだったが、『週刊文春』で報じられた、野坂と袴田里見によるソ連資金の受け取りの問題も当然、扱い、日本共産党とソ連が対立関係になっても野坂と袴田がソ連との内通を継続しようとしたことも明らかにしている。さらに最終章で占領期にさかのぼり、ソ連と野坂の関係を明らかにした。そこで不破は小林・加藤の工作員説を支持している。

(※2)
志賀義雄は、ソ連の支援を受け、部分的核実験禁止条約の国会での承認に際して、ソ連副首相ミコヤンが傍聴する眼前で、日本共産党の反対の態度に反して賛成投票をして除名され、その後、ソ連派の組織を立ち上げた。
このとき、志賀と行動をともにした中野重治や神山茂夫は、後に志賀と袂をわかつが、そのとき、志賀をソ連盲従だと評している。ソ連に賛同して日本共産党に反旗をひるがえした仲間からも志賀のソ連盲従は極端だと映っていた。(中野・神山『日本共産党批判」三一書房、1969)

(※2)
この点について、当時の日本国民のハビトゥス(固定的習慣的な思考・行動様式)が関係があると僕は仮説をたてている。
共産党員といえども、日本国民の一部であり、日本人のハビトゥスとして、教育勅語や全生活にわたる天皇制教育や軍隊式教育が思考と身体性においてしみついていた、ということだ。教育勅語を暗誦するとか、暗誦時には直立不動だとか、「天皇陛下」の語を言及し聞くときに直立不動の姿勢をとるとかの形式は、心のあり方にも影響を及ぼし、天皇に対する尊崇感と上官の命令は絶対、というような思考と行動を生活習慣化していたのではないか。これが、戦後初期の対抗運動の思考と行動の様式にも影響している、ということだ。僕は参照できていないが、小熊英二が『民主と愛国』(新曜社、2002)でこの手法を用いたと言っている。なお、ハビトゥスはブルデューの概念である。
例えば、1947年の2.1ストは、整然たる行動で、中止指令で山猫ストはほとんど起こらなかった、という。後年、賞賛されることもある行動だが、これは軍隊式だと言える。
天皇は人間宣言で神でなくなり、新憲法で象徴となり、絶対的な統治者であることもやめた。マッカーサーを天皇のような崇拝対象とした保守的中間指導者の記録は枚挙にいとまがない。戦争体験から天皇や天皇制に反対するようになった人々が、その対象に、共産党や徳田球一やソ連をおいたということはある意味で当然なのだ。