極左日和見主義とニセ「左翼」暴力集団(下) 東大闘争と宮本顕治 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

極左日和見主義とニセ「左翼」暴力集団(下) 東大闘争と宮本顕治

「(上)その用語法と本質規定」はこちら



では、1968年11月に何があったか。


川上徹・大窪一志『素描・1960年代』(同時代社、2007)での、大窪の回想によれば、東大の共産党や民青同盟の運動の現場は、「全共闘」と急進性を競うような状況だった。「全共闘」の運動にかなり多くのノンセクト学生が共鳴するような学生の「空気」があって、このノンセクト学生を共産党・民青の側にひきつけるにはその急進性を競う、という運動上の必要性があった。

学生が学生大会などの議決をへてストライキを行い、その際、ストを維持するためにピケをはり、建物の封鎖を行うこと自体は、共産党・民青の側も必要なこととしていたわけでそこはもともとは争点ではなかった。

急進性を競うとは、大学改革や大学民主化(大学の運営への学生の関与や発言権の強化)の方針や政策の有効性を競う、ということだ。共産党・民青の側から言うと、「全共闘」の要求と方針は、一見、急進的だが、実は現状復帰の要求にすぎず、より進んだ改革の要求と方針を示すほうがよりラディカルなのだ、と主張してノンセクト学生やノンポリ学生を引きつけようとした、ということだ。

もちろん、日本共産党・民青同盟は暴力路線を原則的に否定し、もともと「全共闘」との対立の溝は深いものだった、というを念のためにあらためて付言しておく。





当時の日本共産党書記長・宮本顕治が自ら出張り、共産党中央に対策会議を置き、共産党東大細胞をその直轄にして宮本顕治自らが対策会議の指導にあたる、という非常事態措置をとった。宮本は事前に周到に情報収集を行い、いろいろをよく知っていた、と同書で川上徹は回想している。

後述するカンヅメ団交の最中に対策会議は設置された、という。

大窪は当時、共産党東大細胞の幹部で、川上は民青同盟中央常任委員で東大闘争の担当だった。共産党中央の対策会議の一員に川上は招集され、東大闘争の現場担当として、対策会議と現場をつなぐのが川上の役割だった。

そこで宮本は東大闘争が収束に向かうようには、共産党東大細胞も共産党中央の青年学生部も動いていないことを問題視し、自ら転換をはかった、ということだ。


すなわち、とれるだけの成果をとって、学生運動と東大当局の妥結をはかり、学園の正常化をはかる、という現実的対応を宮本は志向した。大学紛争を口実に大学の自治に介入しようという政府・自民党の動きに対抗するには、その点では教授会自治を基盤にした大学当局との闘争を自己目的化している観を呈していた大学紛争・民主化闘争の状況を座視できず、特に学生運動が大きな勢力を持ち、全国的に注目される東大には、直接に介入する必要があると共産党中央は判断した、ということだ。


東大だけでなく、当時の全国の大学では、進歩的知識人や左翼知識人たちが一定の比重を占めていた。彼らは教授会自治の担い手の一角だった。紛争時の東大総長だった大河内一男も進歩的知識人の1人に数えられる。(大河内は68年11月1日に紛争の責任をとって辞任し、民法が専門で個人としては穏健保守の加藤一郎が総長代行として対応にあたる)

文学部生だった大窪は、文学部長・林健太郎とのカンヅメ団体交渉の当事者でもある。カンヅメ団交はもともと共産党・民青の学生が、11月4日に文学部秘密教授会の開催を察知して会場に乱入して始まったものだという。「全共闘」に与する「革マル派」も便乗して一緒にやったらしい。それが数日後に、共産党中央青学部から学生党員に対し、カンヅメ団交からの引き上げの指示があったとのことだ。現場学生党員たちへの早期収拾方針での説得には卒業生の先輩党員がオルグに入ってあたった。共産党・民青などの活動家が引き上げたその後も「全共闘」の学生たちはカンヅメ団交を続け、林健太郎が入院してようやく終わるような事態になったのはよく知られている。カンヅメ団交からの党員の退去は対策会議の指示によるものだったことがわかる。(カンヅメ団交を始めた段階では、学生党員は対当局では「全共闘」派と共存して運動することを排除してはいないことに留意)

11月16日に、現場の学生党員の知らないうちに共産党中央の対策会議と東大細胞幹部の一部によって新組織「民主化行動委員会」による新方針が公表され(当時のことだからビラだ)、その後、全党員集会で党中央書記局の直接の指導の下とすることが伝達された、と大窪は語る。(※1)


「全共闘」は左派教員たちをもまとめて敵視した。戦後民主主義そのものを否定する論調の中で、進歩的文化・知識人も「全共闘」は否定した。

東大当局の姿勢は、学生の権利の取り扱いの面ではもろもろの大きな問題があり、だから学生運動と激しく対立したのだが、政府・自民党という、より大きな「敵」との対決においては、学生がとれるだけのものをとって大学当局と妥結する必要がある、とするのが宮本の判断だったと思われる。そういう日本全体を見渡した情勢分析は、「選挙目当て」という以上のものは川上にも大窪にもない。


そして東大当局と各学部の学生代表が合意した、69年1月の「東大確認書」の締結につながる。大学の自治とは教授会自治にとどまらず、全構成員による自治である原則を確認する画期的なものだった。


全構成員自治をめざす学生運動が強力であってこそ、教授会自治も守られる、という点は、1990年前後の学生運動活動家だった僕たちにも、共産党青学対が重視して教育していたことだ。僕の学生時代はすでに学生運動の衰退局面ではあったが、その後、もっと民主的学生運動が衰退する中で「大学改革」として大学の教授会自治が掘り崩されていくのはある意味で必然だ。(※2)


大窪は、宮本ら共産党中央が東大当局と水面下でストライキ解除の条件についてボス交渉をした可能性にまで言及する。当時、学生党員たちの間でそういうウワサが流れた、ということだ。宮本は東大出身だし、共産党中央に東大出身者は何人もいたし、教員にも職員にも党員はいたので、確かにそれができる人脈はあった。実際に川上は、その秘密交渉が文学部長・林健太郎との間で行われていたことを後で知ったとしている。林と面識のある文学部卒業生の党員がその任にあたった、という。他の学部や全学幹部とも秘密交渉をやっている可能性はある、というのが川上の認識だ。


大窪は、この宮本顕治と共産党幹部会のやり方への不信を述べる。現場の頭越しに党中央で物事を決定し、現場にその方針を押し付けた、と。川上も、宮本の政治手腕には舌を巻いたが、同時にその手法に不信感を抱いた、と言う。

この2人の不信感の持ち方こそが、宮本自ら乗り出して緊急非常体制を敷くことの必要性を僕に感じさせた。

運動の現場の論理に引きずられて、東大闘争をいたずらに長期化させることが学生や国民の利益になるだろうか?

学生運動が建設的に大学当局と妥結して事態を収拾するのは必要なことだ。ストライキや封鎖で研究も教育も阻害される、という事態は成果をかちとる過程では必要なことだが、ストや封鎖自体が自己目的化するような状況は多数の学生にとっても国民にとっても、ロクでもない事態だ。封鎖によって生まれた「解放区」など、単なる祝祭空間に過ぎない。「ハレ」は「ケ」にいつかは戻らねばならない。

共産党東大細胞と党中央青学部が事態の建設的な収拾に向かってはいないことを見てとった、宮本ら共産党幹部会の「老人たち」が、現場に介入し、運動を建設的な妥結へと指導することは、民青同盟のような党派性を持つ青年学生運動団体が「親組織」を持つ利点の方を示すものだと僕には思える。民青同盟の共産党からの自律の重要性を一面的に強調する川上・大窪の論調に僕は賛同できない。

もともと僕は故・宮本顕治を尊敬しているが、擁護者からも批判者からもその評価や人間像は政治的な立場性で語られてきたと僕は思っている。聖人君子のような宮本顕治像も、陰険を絵に描いたようなミヤケン像も実像からズレていて、実像はおそらくその中間のどこかにある。一定の権威・権力を持つ政治家には必要悪を決然とやる悪人であることが必須条件だと僕は考えているが、倫理的に潔癖な左翼活動家の多くはそういう価値観に立たず、自らの指導者は聖人君子のようであるべきだと考える。

川上・大窪著を読んで、ミヤケンすげえな、と僕は思った。上田耕一郎が言っていたという「嫌なところはいっぱいあるが政治的にすごい」という宮本顕治のリアルに少しだけ触れた気がした。少しだが直に接した川上は、その少しの分だけミヤケンの嫌なところを感じ取っている。

川上・大窪は、共産党中央の介入を選挙のためだとし、党利党略の不純な動機だとみなしている。これも、学生でない国民の視線を気にすることは議会制民主主義の機能そのものであり、宮本顕治の収拾路線は妥当だと僕は考える。

1969年12月に行われた衆院総選挙では、「全共闘」に甘い態度をとった社会党が惨敗し、「全共闘」と対決した共産党は躍進した。これが選挙の帰趨を決めた決定的な要因ではなかろうが、いくつかの要因の1つではあった。政治学者の木下真志はこのとき「1970年体制」と呼ぶべき政党制が成立した、と論じる。(※3)つまり、日本共産党は69年総選挙で議会政党としての地位を確立したのだ。


秩序派(※4)と手を結び、実力闘争をやったことのない秩序派学生(「普通の学生」)を「全共闘」のゲバルトが襲う構図を、11月12日の「図書館前の攻防」はつくりだし学内外の世論を民主的学生運動は味方につけた(※5)。暴力も必要だととらえていた、「全共闘」支持だったノンセクト学生の多くは「全共闘」運動から離れ、「全共闘」は東大の学内世論から孤立した。「自己否定」とか「大学解体」とか、ノンセクト学生に対して、破壊的であるがゆえに魅力のあった思想が、今度は破壊的で非建設的であるがゆえにノンセクト学生が運動を離れていく要因ともなった。

1969年入試を中止した東大と、入試を実施した京大その他の大学とでは学園ごとの事情も経緯の細部も異なるし、僕はそれらに詳しくはないが、多くの大学で大学紛争は似たような経過をたどって「全共闘」運動は敗北した。

1969年上半期までは各地で「全共闘」運動の高揚も見られるが、下半期には下り坂をたどる。69年9月には「全国全共闘」が結成されるが、すでにノンセクト学生は離れ、実質的には「8派連合」、つまり「革マル派」以外の主要セクトの連合体だと言われる。(※6)この後、「新左翼」各派間の内ゲバの続発もあり「新左翼」運動は衰退する。


結論としては、「新左翼」諸派全体を「乗り超えて」高揚し、諸党派を飲み込んでいった「全共闘」運動は、大学破壊をこととする反社会的な運動に堕した、ということを東大闘争の推移から、宮本顕治と日本共産党は見てとった、ということだ。日本共産党は1968年11月に「新左翼」運動の評価を転換し、保守派と共同してでも撃退せねばならない、自由と民主主義の敵だという規定に到達したのだ。


「図書館前闘争」に、日本共産党の路線転換を見たのはもちろん僕のオリジナルではない。当時、「全共闘」側から見ても、共産党・民青の末端の側から見ても、「図書館前闘争」からの共産党の転換は明白だったようだ。(※7)

それは、宮本顕治自ら陣頭指揮をとった転換だった。


1968年の共産党東大細胞がとった、「全共闘」と急進性を競う、という傾向が、後の日本共産党による「新日和見主義」批判の口真似なんじやないかと思うくらい、普通に大窪や川上の口からでてくるのが、逆に驚きだった。「新日和見主義事件」の中心人物だった川上と、その分派には距離をとっていた大窪とでは違うはずなのに。

実は違わないのかもしれない。1972年に川上らが組織した「新日和見主義分派」に大窪が距離をとったのは、川上らが党官僚として大窪が不信感を持った共産党中央青学部幹部をも分派に取り込んだことへの反感が要因だと述べている。

「新日和見主義」は、ここでのテーマではないが、ニセ「左翼」(当時の用語ではトロツキズム)と、一定の共通性を持っている、という指摘をされる。「新日和見主義」の時期の民青活動家たち(一定部分は68〜69年大学民主化闘争の学生活動家が後に専従者となった人々が占める)には、ある種のメンタリティの共有があるのはそうだ。加藤哲郎がフォーラム90sに参加したことに、なぜバリケードのこちら側と向こう側で手を結ぼうとするのか僕にはわからなかったが、68年には東大法学部の共産党活動家だった加藤には、「68年11月」以前の感性や思考が残存していた、ということで了解可能だ。(※8)


日本共産党の公認党史では、ニセ「左翼」規定は、1950年代後半に、学生運動の多数派が極左化し、学生党員の多数派が大量脱党した時点にさかのぼって適用される。1984年に高校生で民青同盟に加盟し、87年に大学に入学して本格的な運動に入っていった僕は、そういう学習と教育の中にいた。(上)で言及した1987年刊行の河邑重光『「新左翼」は三度死ぬ』でも同様だ。

公認党史の叙述の仕方が誤りだとは思わない。歴史叙述としては、同時代での認識を欠落させる弱点をもたらすが、それは歴史叙述においてはよくあることで(例えば、鎌倉幕府という用語も概念も同時代には存在しない)、そこは特に関心の強い者だけが同時代の認識を勉強すればいい。現在の人々にとってのわかりやすさが、政治文書でもある公認党史にはどうしても必要だ。

それを神話だなんだと言うのは、政治と学問の関係についてナイーブで、それこそ科学とイデオロギーが即自的に一致する、という、多くの共産党員が持っている科学的社会主義の素朴なイメージの裏返しにすぎない。(※9)


(※1)もっとも、グズグズの全面妥協による早期収拾を指導した中央書記局に対して、現場の論理でかなり押し返した、と大窪は語る。これまでの運動との整合性が取れなければ、学生大衆との関係でもまずいだろう。「とれるものはとる」という宮本顕治自身の考えともこれは適合的だ。トップダウンの一方的で権力的な指導が現場を困惑させたとしても、循環型で妥当な線が打ち出された事例としても見ることができる。


(※2)左翼学者たちには、民主的学生運動出身者を含めて、学生運動の大学自治における役割の認識が薄すぎることに僕は苛立ってはいる。かといって学生運動を強めたりつくりだしたりという動きを教員がすることにどれだけの意識性が必要で、どれだけの困難があるのかはそれはそれとして僕は知っている。


(※3)木下真志「1969年総選挙と社会党の衰退ー戦後政治の第二の転換点」初出2006、木下『55年体制と政権交代』旬報社、2019に所収)


(※4)秩序派とはストや封鎖に批判的な保守的な学生たちのこと。日大のような、理事会による私物化が中心問題となる私学では当局によって組織された保守学生は当局派として行動した。多くの国公立大で保守派学生は当局派ではない。それまでは学生自治の一環として議論に加わっていても闘争に深く関与していなかった。


(※5)11月12日の「図書館前闘争」は、前述した共産党中央書記局による東大細胞の直接指導に移行する前ではあるが、すでに早期収拾路線で、共産党・民青側が動き始めていることを示している。

「図書館前闘争」についての報告ビラは共産党・民青側は「東大闘争勝利行動委員会」が発行している。これは大窪も共産党東大細胞幹部として関与した組織だ。同時代に刊行された資料集の東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』日本評論社、1969.1)では、「闘争勝利行動委員会」から「民主化行動委員会」への移行に特段の注意を払っていない。

僕は東大闘争の経緯に詳しくない。回想の類いもかなりあり、それなりに研究もある東大闘争の詳細に踏み込む能力はない。本稿は、日本共産党の「新左翼」観の転換点を抉出することに限定している。

その前から、「新左翼」諸派や「全共闘」の暴力路線との、ゲバルトを含む対決というのはあって(民青側では「正当防衛」の路線を確立して、必要な限りでの防衛的なゲバルトの行使を行っている。「正当防衛」論の確立の経緯や都学連の「あかつき行動隊」についても民青中央常任委員として担当者だった川上は回想している。




東京大学新聞研究所東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』に収録されている文書は1968年12月までで翌1月の「東大確認書」は収録されていない。


(※6)「革マル派」は、69年1月のいわゆる「安田講堂の攻防」に至る、機動隊導入の直前に、分担拠点を放棄して「敵前逃亡」した。逮捕者を出さず、組織を温存する狙いだったと言われる。東大での「革マル派」の敵前逃亡は、その後の凄惨な内ゲバの激化の導火線を用意する結果となった。


(※7)2018年の50周年の節目にいくつか行われた、「全共闘」回顧のシンポジウムの記録のどれかにそういう評価があったのをネット記事として読んだ。同時代の経験者には、割と当然の認識として図書館前闘争から日共は変わったと語られ、それをあらためて分析的に論じたものだったと思う。僕が読んだのはどれだったか、残念ながら記憶があいまいでちょっと検索をかけても特定できなかった。

それは当然、当時、「全共闘」側にいて今でも日本共産党には批判的な方の発言なのだが、日本共産党側にいて、しかもかなり詳しく内情を知っていた川上・大窪の回想を読んで、こういうことだったのか、と腑に落ちた。


(※8)加藤哲郎とフォーラム90sについては志位和夫「社会主義をなげすてた『タマネギの皮むき』」(志位『激動の世界と科学的社会主義』新日本出版社、1991所収)と加藤哲郎「東欧市民革命と『社会主義の危機』」(加藤『社会主義の危機と民主主義の再生』教育史料出版会、1990所収)を参照。加藤講演録は厳密には志位論文が対象にしたフォーラム90sでの講演とは違うが、講演内容の骨子は同じだと思われる。

志位論文の初出は、志位の日本共産党書記局長就任の直前だった。


(※9)科学とイデオロギーの関係については、上野俊樹「イデオロギーとはなにか」(上野『アルチュセールとプーランツァス』第2章、新日本出版社、1991)を参照。ただし、上野が「科学的イデオロギー」と表現しているものは、上野のイデオロギー理論によれば「科学にもとづくイデオロギー」の方が正確だと僕は考える。