極左日和見主義とニセ「左翼」暴力集団(上) その用語法と本質規定 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

極左日和見主義とニセ「左翼」暴力集団(上) その用語法と本質規定

日本共産党の「新左翼」観の転換点は、どうやら1968年11月にあるらしい。

東大闘争での、この時期の本郷キャンパスでの図書館前の攻防というのが、どうやら「全共闘」vs民青・秩序派(保守派)との勝敗を決した「天王山」だったらしい。1968年11月に東大闘争で何があったかは「(下)東大闘争と宮本顕治」で論じる。

この時期、日本共産党の「新左翼」観に何があったか、というと、「極左日和見主義」から「ニセ『左翼』」に本質規定が変わった、ということだ。


日本共産党による「新左翼」史の見方は、河邑重光(出版当時「赤旗」編集局長)『実録「新左翼」は三度死ぬ』(1987)で知ることができる


日本民主青年同盟中央委員会『ニセ左翼暴力集団批判』(1987)

ニセ左翼をタイトルにした本はあまり多くない。ニセ「左翼」の語を用いた時代には「新左翼」諸派はかなり衰退していたため。



「極左」だと、一応、左翼なんだけど、未熟な左翼主義小児病に陥った運動、ということで、運動の妨害者と規定することはあっても、支配層との対抗関係の方が重要だという扱いだった。

「ニセ『左翼』暴力集団」だと、暴力で自らの少数意見を社会に押し付けようとする、自由と民主主義の敵対者、という規定だ。外見的に左翼的な主張をしていても、その本質は民主主義社会に敵対する反社会的な暴力集団で、極右や反社会集団(通常、右翼的な傾向を持つ)などと同質のもの、という規定だ。

実践面では、自由と民主主義の擁護という一致点で議会主義保守・自民党と共闘することはあり得ても、自由と民主主義の敵である「新左翼」とはその共闘はありえない、ということになる。


ニセ「左翼」暴力集団という用語は、1980年代に登場した用語だ。日本共産党の左翼の意味づけは、自由と民主主義と平和の促進者ということで、社会主義・共産主義とは、社会の全領域で自由と民主主義と平和を実現する、という理想を追求するものということだ。暴力主義路線をとる人々はニセ「左翼」だという規定は、民主主義の敵対者という意義づけである。

それ以前はトロツキスト暴力集団と呼んでいて、ニセ「左翼」という用語は、日本共産党のトロツキー評価の変更と連動したもののようだ。トロツキーに決して高い評価を与えたわけではないが、スターリンによる不当な評価の影響からは脱した、ということで、これも脱ソ連化・脱スターリン化の一局面だ。(※1)


ニセ「左翼」の用語は80年代のものだが、その内容となる「新左翼」運動は自由と民主主義の敵対者であるとの評価はどうやら1968年11月に当時の日本共産党書記長・宮本顕治の主導で固まったもののようだ。トロツキストという規定は、1956年以来の全学連指導部(≒共産党全学連中央グループ)と島成郎(共産党東京都委員)らがつくった共産主義者同盟(ブント)の当初からしていた。日本トロツキスト連盟が改組した革命的共産主義者同盟(革共同)は言わずもがなだ。暴力集団という規定は68年11月以降のものだ。(※2)

「全共闘」運動と「新左翼」諸派が自由と民主主義の敵なのであれば、秩序派=保守派と、民主主義擁護と学園の正常化の一致点で共同して「全共闘」に対抗する、という話になる。かつてコミンテルン(共産主義インターナショナル 1919〜43)による反ファシズム人民戦線の提唱(1935年)がブルジョア民主主義勢力(議会主義保守派)との共闘を主張したように。(※3)


68年11月の前から、日本共産党と「新左翼」諸派は激しく対立していた。それは運動内の勢力争いという感じで、「新左翼」の一揆主義・実力闘争至上主義は運動にとってマイナスだというのが、日本共産党の立場だった。もちろん、「新左翼」が持っていた暴力主義的な主張と体質は、学生自治会や全学連の非民主的な運営をもたらしたことも全面的に批判し対決する立場だった。「新左翼」を極左日和見主義だと規定して対立したというのは、こういうことだ。


労働組合などで、共産党が旧社会党と対立したのと似て非なる競合の関係だというのが感覚というか距離感というか。

運動そのものや統一戦線形成を妨害・破壊し、暴力的な行動で運動をかく乱するトロツキストとは共闘できない、とするのはブント(共産主義者同盟)や革共同(革命的共産主義者同盟)の形成当初からの、日本共産党の方針ではあったが、各学生自治会や全学連など同じ組織の中で共存・競合する限りで共産党は自ら運動の分裂を招くことはせず、「新左翼」側が分裂行動をするのを批判して主導権の確保や奪取をめざす、というやり方だった。社会党支持勢力とは共闘をして統一戦線をつくることを呼びかける関係で、統一戦線に消極的だから社会党勢力とたたかって、労組など運動団体の主導権を共産党員が奪取することが統一戦線形成に資する、というロジックとはかなり異なってはいて、やはり敵対的だとは言える。(※4)

全学連の分裂が起こるのは、1960年の安保闘争さなかの全学連大会でブントが主導する主流派が反主流派を会場から締め出して排除したところが始まりだった。定足数を満たさず、大会は不成立と主張した反主流派は、これで全学連は崩壊した、として再建運動を始める。それでも、地方学連では執行部が規約違反を行わない限りで共存していたが、全学連再建にあたって、再建全学連に結集する地方学連結成に至る。

日本共産党・民青同盟が主導する運動が全学連再建をするのは1964年。「全学連」を自称する集団はいくつか存在するが、「民青系全学連」はその最大勢力になっていく。(※5)


(※1)

トロツキスト規定には、たぶんにレッテル貼り・ラベリングの意味が大きかったし、呼称としても不正確だったが、安保ブント崩壊後の四分五裂した「新左翼」各派を総称する便利さもあって、日本共産党の運動圏で用いられていた。

実際には、革共同とブントは、トロツキズムの影響を受けていたのだが、「文化大革命」の時期には「鉄砲から政権が生まれる」中国革命方式の武装闘争主義をとる毛沢東主義派も登場する。スターリン批判を批判してソ連と対立したのが毛沢東だったことから、むしろスターリン主義の流れなのだが、日本トロツキズムと毛沢東主義は相互に影響を与えあった。件の「連合赤軍」はトロツキズムの流れのブント赤軍派と毛沢東主義派グループの連合体だった。

構造改革派やソ連派も「全共闘」運動には合流するのだが、ここはむしろ「修正主義」に妥当する。

この点、ニセ「左翼」であれば、暴力路線をとっている諸派の総称としては不正確さは免れる。

現場では略して「トロ」といっていた。総称がニセ「左翼」に変更されても、言いにくいのでやはり「トロ」だった。略称であるだけでなく蔑称でもあった。

もちろん、各流派にはそれぞれに略称・蔑称があって、毛沢東主義派は「中盲」(中国盲従主義の略)、構改派やソ連派は「しゅう」(修正主義の略)というが、暴力路線を放棄していたソ連派以外は、いちいちそんな区別をするのが面倒だった。

日本共産党のトロツキー評価の変更は、不破哲三『スターリンと大国主義』(1982年に「赤旗」で連載されたものを新日本出版社から上梓)によるもののようだ。


(※2)

「新左翼」諸派は四分五裂していてゴチャゴチャしているが、トロツキズムの流れは基本的に革共同とブントの2つにさかのぼることができる。

これに構造改革派やら毛沢東主義派やらが加わってややこしい上に、第4インターには加入戦術をとって他の組織を乗っ取ろうとする、ということを伝統的戦術とする流派もあってややこしい。

比較的に知られた事例を2つ

1)革共同はブントへの加入戦術をとり、安保闘争後のブント崩壊の際に、ブント内の革共同同盟員が全学連主流派書記局を占めていたために、全学連主流派は革共同が主導権を握った。

2)第四インター日本支部を名乗る別の組織は、社会主義青年同盟(社会党系の青年組織)への加入戦術をとり、東京都本部を握るまでに勢力を拡大したが、社青同は大会でこれら暴力集団を除名した。除名された勢力は「社青同解放派」を名乗って知名度を得る。学生運動史で「社青同」というと、社会党系青年組織の学生組織ではなく、「解放派」(学生組織としては「反帝学評」)の方をさすことすらある。


(※3)

周知のことだが、現在、近畿では維新の会に対抗するのに、共産党が自民党と協力するのはよくあることになっている。維新の会はファッショ政党だという共産党の認識を示す)


(※4)

共産党主導の運動圏内では、労組内での自らの運動を統一戦線派・統一派と規定し、社会党支持の勢力は社会民主主義派・社民と呼んでいた。労農派マルクス主義を指導理論とする社会党左派にとって、社民呼ばわりは蔑称だった。


(※5)

1960年の全学連崩壊後、排除された日本共産党系の学生自治会は全自連を結成して全学連再建運動を始めるが、全自連執行部は1961年綱領反対派なかんずく構造改革派が占めていて、共産党を脱党し、全自連は解散し、構改派主導の学生自治会は全学連再建協議会を再組織して「新左翼」諸派との統一協議を開始。「新左翼」諸派との協議は何度か行われるが不調に終わる。

共産党・民青同盟が主導する運動は、1962年に平民学連(安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議→平和と民主主義を守る全国学生自治会連絡会議)を結成して、非暴力路線の運動の結集による全学連再建をめざし、平民学連を母体に1964年に全学連再建を果たす。

平民学連幹部を務め、全学連再建大会で委員長に選出された川上徹の回想では、構造改革派を含めた全学連再建(すなわち暴力主義をとらない範囲での学生戦線統一)を模索したが、準備の会議で対立が深刻になり、全学連再建に構造改革派は参加しなかった、とする。

1968〜69年には、「全共闘」運動の高揚の中で、構改派の学生運動の主流は「全共闘」運動に参加し、暴力路線に身を投じていく。

構改派の大人たちも四分五裂するが、知識人グループ(再刊『現代の理論』の編集部や執筆陣)は社会党江田派と行動をともにし、社会市民連合(社市連)→社会民主連合(社民連)に近い立場をとる。