上田耕一郎『戦後革命論争史』と1961年綱領 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

上田耕一郎『戦後革命論争史』と1961年綱領


上田耕一郎『戦後革命論争史』の主として後半を再読する。




同書は上巻が1956年11月、下巻が57年1月発行の奥付。実際の発売はその1ヶ月程度後になるのが奥付事情の常識だ。

「はしがき」では、不破哲三との事実上の共著であるとし、不破が執筆分担をした章も明らかにしている。

第3篇だと第4章のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判への各国共産党の反応やそれを踏まえた理論論争を不破が担当している。(※1) 事実上の共著だと上田自身が言うのなら、本書の見地は上田・不破兄弟の共通の見解だと前提しておく。


日本共産党の党章草案(綱領と規約が一体化したもの)が発表されるのは、1957年9月。(※2)

党章草案発表後は、上田耕一郎は党章草案→1961年綱領草案を擁護する主張で論陣をはるようになる。(高内俊一『現代日本資本主義論争』三一書房、1961を参照)


『戦後革命論争史』は、戦後のマルクス主義者や社会主義者たちの社会認識や経済認識をめぐる諸論をかなり広い範囲でレビューし、論評したものだ。

日本共産党の「50年問題」の「6全協」での一定の収拾とソ連共産党第20回大会でのスターリン批判の衝撃で、百家争鳴状態の日本共産党とマルクス主義の界隈に、伝説的な影響を与えた労作だ。(※3)


上田の当面する革命論が示されるのは、最終章である第3篇第6章である。

党章草案が発表される前の、本書での上田は、対米従属の契機を重視しながら、日本独占資本主義の復活という契機との「矛盾」に苦しみ、民族民主革命の社会主義革命への連続的成長論をとる。すなわち、民族民主革命論と社会主義革命論とを折衷しようとしている。

上田は、反独占闘争の一般民主主義的な性格をかなり重視して『論争史』では繰り返し指摘している。これは本書での農業理論や東欧・中国の「人民民主主義革命」の理論の紹介の検討を踏まえたものとなっている。

民主主義革命と社会主義革命をできるだけシームレスなものとして描き、民主主義革命論と社会主義革命論の折衷をはかるのだ。上田は実は明確に民族解放民主主義革命論に立っているのを、それをうしろめたいことであるかのように、社会主義革命への連続的転化を論じる。

人民民主主義革命が社会主義革命に連続的に転化する、というのは、当時の東欧・中国の人民民主主義革命について言われていたことである。「人民民主主義革命をやっていたら気がついたら社会主義革命になっていた」式のものだ。(※4)


特に農業問題は、50年テーゼ論争と「51年綱領」の基本問題だった。徳田球一の50年テーゼ草案では、占領下農地改革の意義が過小評価されてるし、スターリン執筆の「51年綱領」では、農地改革はなきに等しいものとされ、日本を植民地型の従属国と規定し、そこから平和革命の全面否定を導き、武装闘争路線の根拠とされた。中国革命にならった農民工作が重視され、活動的な党員で山村工作隊が組織され派遣されたが無惨な失敗に終わった。この時期には、いくつも弾圧事件が起こっていて、それらは公安警察による冤罪やでっちあげであったが、日本共産党主流派(徳田派)が指導する極左冒険主義の方針をとっていたことに警察につけこまれたものであるのもまた事実だ。(※5)

「50年問題」の日本共産党の分裂で、コミンフォルムと中国が徳田派を正統と判定すると、国際派・統一派は瓦解し、徳田派指導下に「復帰」するしかなかった。

国際派の活動家だった、上田・不破兄弟にとって語るのも痛苦の経験だ。

『論争史』は、戦後農地改革で寄生地主制は基本的に解体され、零細自作農の創設が行われた、という認識を前提にしている。国際派の流れをくむ人々を担い手とする、茨城県の農民組合運動の活動の理論を参照しながら、反独占の農民運動を重視している。上田が反独占民主主義闘争の意義を強調するのは、この常東農民組合の運動の理論の存在が大きい。


この時期に反独占闘争の民主主義的性格を指摘するのには、旧東欧や中国の「人民民主主義革命」の理論が紹介されたこともかなりの影響があることも『論争史』の叙述からわかる。


上田は、最終章で、反独占闘争の一般民主主義的性格を指摘しながら、なお反独占は社会主義的任務であるとし、その隘路を探り折衷しようとする叙述をとっている。すなわち、反独占民主主義の政策をとる統一戦線政府は、独占ブルジョアジークとの激しい矛盾に直面し、おそらく社会主義革命に進まざるを得なくなる、という予測であると同時に、変革の志向を示す、という叙述になっている。


『戦後革命論争史』での上田耕一郎のつきあたった隘路に解決を与えたのが、宮本顕治起草の党章草案(後の1961年綱領の大要を示す)だったということだ。

後の1961年綱領とほとんど同じ線まで、上田はきているが、なお、当面する革命は民主主義革命だと確言するのを躊躇し、社会主義革命への連続的転化を論じて、民主主義革命論をとる言い訳を懸命にしているかのようだ。

後の1961年綱領にも民主主義革命が社会主義革命に連続的に転化するかのような叙述がある。ただ、宮本顕治の綱領問題での報告での説明では、民主主義革命と社会主義革命は明確に区別されたうえで、連続的に転化するのを共産党はめざすとしている。


上田にとって、いかに党章草案が福音に満ちたものだったことかを僕は想像してみる。上田がなおモヤモヤとしていたものを党章草案とその説明をする宮本顕治の報告はすっきりさせたのではないかと思う。

丸山眞男は、戦後しばらくは天皇制国家のイデオロギー的呪縛の中にいて、その呪縛を解いたのは、政府憲法改正草案だったことに似ている、というとどうだろうか。(※6)


以上の上田耕一郎の逡巡を傍証すると僕が思うものを示す。推測の域を出ないものだが。

上巻掲載の下巻目次と、実際の下巻目次に違いがある。


(上巻掲載の下巻目次)



(下巻の実際の目次)


第3篇の副題が「日本人民民主主義革命のために」から「社会主義への日本の道」に変更されている。

上巻「はしがき」は1956年11月15日の日付、下巻「あとがき」は57年1月15日の日付。

実際の上巻刊行は12月。下巻「あとがき」には「下巻の仕あげをすっかり終わったのは本年の元日の夕方」「昨年末出版された上巻にたいして寄せられた、読者諸賢から寄せられた御激励・御批判に感謝」とある。上巻の出版からのわずかな期間にどんな批判があったのか、と想像したくなる。

上田・不破兄弟の見解は、実は民主主義革命論であることを上巻掲載の下巻目次ははっきりと示している。(最終章の論自体は民主主義革命論であることとも一致する)

明らかに「社会主義へのイタリアの道」を意識している下巻3篇副題は、『論争史』の叙述のもとになった研究会メンバーやその周辺のごく近しい人々の意見によるものではないか?


『論争史』のもととなった研究会とは、石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦で構成され、最年少で、上田耕一郎は記録係だった、という。いずれもそうそうたる構造改革派の理論家である。

この6人は50年問題当初の国際派(全国統一委員会)の学生対策委員で、上田はまだ学生だった。内野がまとめる予定だったが、内野は遅筆で上田にまかせた、という。上田は弟(不破哲三)にも執筆分担させるといって各メンバーの了解を得た、とのこと。出版社からは、無名の上田の名前では本が売れないという懸念が示され、実際にはよく売れて上田の知名度を一気に高めた、という。マルクス主義理論家上田耕一郎の出世作だということだ。

この裏話は、石堂清倫の宮地健一への手紙を宮地のサイトで公開しているものだ。



上田が気にしたのはこういう近しい人々からの批判だったのではないか。


イタリア共産党のトリアッチによる構造改革論をマルクス主義を刷新する新しい理論として取り入れることには、構造改革派の理論家たちと上田・不破兄弟には一致があった。

ところが、当面する革命が民主主義革命か社会主義革命か、という、綱領論争の根本のところで、構造改革派は社会主義革命論をとり、上田は民主主義革命論をとった。

自立従属論争で、構造改革論をとることでは一致のあるはずの佐藤昇と上田は、自立帝国主義説ー社会主義革命論をとる佐藤と、従属資本主義説ー民主主義革命論をとる上田とで、激しい論争を論壇で繰り広げている。


(補説・『論争史』でのソ連・中国の扱い)

スターリン批判で有名なソ連共産党20大会決定を全面賞賛して、それが基調になっている。スターリン批判というと、同大会での秘密報告の方が有名だが、表の決定でも、スターリン路線の批判と路線転換が行われた。

スターリン批判は多面的で広範囲にわたるが、本書では理論面に限定してレビューしている。

上田・不破兄弟にとっては、50年問題と「51年綱領」に基づく極左冒険主義路線と、その失敗による右往左往に苦しんできたとか、スターリンの理論・政策面での圧制を、ソ連が自己批判し路線転換を示したことは新鮮に響いたのだろう。


その直後に開かれた、中国共産党の8全大会についても同様の賞賛が行われる。そして、中共が実際の活動や社会主義建設において、スターリン批判を先取りしていたことも賞賛している。


当時の日本共産党員の中国共産党への親近感は相当なものなんだと感じた。


1980年代までは、僕の世代にとって、中国は近くて遠い国だった。貿易関係は限定的だったし、中国の経済成長もまだ端緒的で、人的交流も限られていた。それは60〜70年代の圧倒的なアメリカナイズの文化の中で育った世代の感覚で、戦争経験のある世代だと、それはまったく違うのだろう、ということだ。

旧制高校で漢籍に親しみ、中国革命に歓喜した左翼青年だった上田の中国への親近感は、ちょっとばかり驚くほどだ。


(※1)

どうでもいいことだが、「はしがき」では不破を「畏友」と表現し、不破に対して謙譲語を用いている。不破は当時、鉄鋼労連の書記を務めていて、共産党機関誌『前衛』にもたびたび執筆していた不破を上田耕一郎の弟・建二郎だと明かすわけにはいかなかった。不破は結局、ペンネームが有名になって、衆院選にはペンネームで立候補し、著者の名前としてはもちろん、日本共産党書記局長、委員長、副議長、議長をすべて「不破哲三」の名で務めることになる。


(※2)

党章草案が審議される第7回党大会は1958年7月開催。党章草案のうち、政治綱領部分については採決が行われず、継続審議となり、規約部分が独立させられ、採択された。

2000年に全面改定されるまで、日本共産党規約にはかなり長文の前文がついていたが、これは党章草案の組織原則や党のあり方などについての部分が規約前文となったものだった、という経緯がある。このことを知ったのは、この本稿を書く過程で、第7回大会決定集を引っ張り出して参照してのことだ。


(※3)

1982年の『日本共産党の60年』発刊を機に、1983年になって、上田耕一郎と不破哲三は、『戦後革命論争史』の刊行について自己批判する論説をそれぞれ共産党の月刊誌『前衛』に発表した。

1956〜57年当時は、同書の出版はとても党規約にもとづく規制ができる状況ではなかったが、同書の出版は当時の党規約に照らして、規約違反であることを、83年には副委員長と書記局長という最高幹部になっていた上田・不破兄弟が、20年以上後になって自己批判した、ということは憶測を呼んだ。


(※4)

旧東欧「人民民主主義革命」の政権と政権ブレーンによる公式の説明は、もちろん全面的にフィクションである。東欧では、当初、米ソ協調を背景に、反ファッショ統一戦線政府の下で穏健な民主主義的改革が行われていたが、冷戦の開始・激化とともに政権の共産党独占がソ連占領軍の圧力と秘密警察の暗躍を背景に行われた。「社会主義化」とは「スターリン化」のことだった。この東欧の「人民民主主義革命」の虚構性を、日本共産党が認識するのは、1968年のチェコスロバキアへのソ連など五カ国軍の侵攻の衝撃を受けての再検討の過程である。

日本共産党は直接的にソ連・東欧の国内体制を批判するのではなく、日本共産党のめざす社会主義社会がソ連・東欧・中国の体制とは別物であることを示す綱領的文書「自由と民主主義の宣言」の制定(1976年)を中心に行われるが、その主要な内容は1970年にはすでに出ている。

日本共産党の勢力拡大と革新自治体の広がりで、社会党との統一戦線による政権参加も現実視される情勢で、理論と政策体系の怒涛のアップデートをはかる。


(※5)

この時期の日本共産党徳田派も闇雲に中国式の「農村が都市を包囲する」「鉄砲から政権が生まれる」といった闘争を行ったわけではない。それはいたずらに弾圧を招くだけであることは徳田派にとっても自明だったからだ。

それでも、非現実的な路線の破たんはあちこちで起こり、占領軍による弾圧と党分裂の前には、現在以上の勢力と影響力を誇った日本共産党は壊滅的な打撃をこうむる。

むき出しの武装闘争路線はすぐに戦術ダウンとなり、逆揺れの各種の右寄り路線すらとられたが、自己批判も総括もなく、表向きは武装闘争路線が維持され、異論には党内締めつけで応じる状況だった。

「6全協」で武装闘争路線が一応、否定され、分裂からの回復がなされ、党再建のための討議の呼びかけが行われると、党内にはさまざまな病理現象が表面化し、蜂の巣をつついたような状態になり、規約通りの規律など有名無実の状況になった。


(※6)

天皇を象徴として政治的権能を有しない儀礼的な存在とした憲法草案は、多くの知識人たちの想定をはるかに超えた民主化案だった。その呪縛から自由だったのは、日本共産党や「憲法研究会」の知識人ら、日本人ではごく少数だった。日本共産党の天皇制廃止論はもちろん、GHQ草案の基調となったとされる「憲法研究会」草案での天皇を形式的な存在とする、という案すら、戦争と軍部に批判的だったオールドリベラリストには考えつかなかった。天皇制国家の解体が確定的になったところで丸山は天皇制国家の批判的分析に取り組むことができるようになり、有名な「超国家主義の心理と論理」が生まれることになった。