日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ -2ページ目

連合右派のなりたち(下) 逆前衛と逆統一戦線

ジャーナリストの青木彗が、70年代から80年代にかけて御用組合の実態のルポルタージュを何冊か書いている。

連合結成直前に上梓された『ニッポン偽装労連』では、富士社会教育センターほかの労務対策事業者(青木は「労務屋」と呼ぶ)の源流をたどり、佐野学、鍋山貞親、三田村四朗、佐野博ら、戦前日本共産党の最高幹部で転向していた人々が、戦後初期から「左翼対策」として反共右派労組活動家を養成する事業を始めていたことにたどり着いている。(※)

出版当時の民間連合の会長だった竪山利文は、労務対策事業を行っていた転向組の1人竪山利忠の弟であり、兄の影響と指導で反共活動家として東芝に入社し、第二組合の結成で左派の牙城だった堀川町労組を切り崩す様子を利文自身へのインタビューで明らかにしている。

70年代から80年代にかけて連合結成に尽力した人士には、転向組に養成された第一世代の人々が多いことが青木の著作で明らかにされている。



青木が、佐野学が設立し、学の死後、甥の佐野博が理事長を継承した「日本政治経済研究所」の受講生として参与観察して講座内容をレポートしているが、それは、意識的な会社派組織をつくり、その周囲に積極・消極の支持者を組織して、左翼活動家を包囲して孤立させる、という手法を伝授している。

確信的な左翼活動家は、会社からの攻撃や差別に対しては「屁のカッパ」だが、職場で孤立させてしまえば「陸に上がったカッパ」となり、無力化できるというのだ。

すなわち、意識的な会社派の逆の前衛組織の周囲に、下からの「逆の統一戦線」を形成して左翼活動家を包囲・孤立させる、というものだ。「逆の統一戦線」は青木の用語だが、その核として会社側がつくる秘密組織はまさに「逆の前衛」である。以前は、この「逆の前衛組織」を左翼側がインフォーマル組織と呼ぶこともあった。

「逆の前衛組織」は、組合員資格はあるが下級職制や下級管理職の人物のうち、会社への忠誠心とか出世心の強い人物を選んで、労務対策事業者の研修に秘密裏に送り込み、教育する。左翼や左派労組は「企業破壊者」「企業秩序びん乱社保」として差別してでも封じ込めるべき存在だという認識が管理職に必要なスキルとともに教育される。

重視すべきは、中間派で多数派の「ぞろそろ部隊」でこの人々は旗色のよさそうな方につく。左派労組が力を持っている限りで左派執行部を支持して、団体行動(ストライキなど)にも参加するが、左派が劣勢になり会社派側の差別の脅しや利益誘導などあの手この手を駆使して圧力をかけて会社派側につけて、第二組合に参加したり、労組役員選挙で会社派候補に投票したりするようになる。

会社派が労組執行部を握ったら、少数派が役員に当選しにくいような規約をつくったり改定したりするところまで徹底する。役員選挙に立候補するのに推薦人を数十人必要とするようすれば、その人数の左派支持者名簿のできあがりで、これがまた左派圧迫に使われる始末だ。

念のために確認しておけば、経営側が労働組合員を工作して、第二組合の結成をはかって、第一組合を圧迫したり、労組の役員選挙に影響を与えようとすることは、明白な不当労働行為だ。青木彗は、不当労働行為が違法な犯罪行為であることを強調しているが、同時に労働委員会が不当労働行為を認定しても、すでに結成された第二組合や、役員選挙で交代させられた労組執行部について原状回復を命じる権限がないことに、労務対策事業者が「やればやり得」と開き直っている実情をレポートしている。


共産党転向組を祖とする労務対策事業者は、戦前共産党転向組と旧特高・公安警察・公安調査庁と大企業と右派労組(総同盟右派→同盟)が結びついている。もちろん、占領期には米国占領軍の支援も受けているし、先ほど、共産党の組織手法を逆用する点を指摘したが、特高→公安のスパイ工作のノウハウも入っているし、戦後は米国流の労務管理手法も取り入れられている。労務対策事業を生業としたのは転向組だったということだ。

転向組はそれぞれが個人事業や個人企業や小さな事業所をつくり、連携・協力しながらやってきている。

現在は連合の正規の指定教育機関となっている富士社会教育センター(富士政治大学校)は、これら労務対策事業者たちのうち、1967年に旧同盟・旧民社党・旧民社研(民主社会主義研究会議)と直結する系列機関としてつくられ、成長してきたものだ。一群の労務対策事業者たちとは、同業者として協力関係にあって発展してきた。外部講師として、佐野博ら老舗の労務対策事業者も招いて講座の重要部分を担当させていた様子もうかがわれる。連合の公式の教育機関となって、富士社会教育センターはどうやら最大手の労務対策事業者になっているように見える。青木が80年代にレポートした労務対策事業者が現在、どうなっているのか、僕には情報がない。


もともと労務対策事業者は、不当労働行為を指南する、陰の存在である。

旧民社党・同盟に直結した組織として公然組織として設立された富士社会教育センターも、左派労組への秘密工作を担当するのは、秘密活動であった。

ところが、その秘密活動が奏効して連合結成にこぎつけると、富士社会教育センターは連合の公式の教育機関で、もはや逃げも隠れもしない。


現在の主力は御用組合だったとしても、ゼンセンは古くからの右派組合として富士社会教育センターの公然たる後ろ盾であった。肌合いが違ってもUAゼンセンは御用組合との協力をやめることはあり得なさそうだ。


(※)佐野学・鍋山貞親は、検挙後、公判中の1933年にいわゆる「転向声明」を連名で発表し、天皇制国家を擁護する見解を表明し党員たちに同様の転向をするように呼びかけた。これは特高警察によって獄中の共産党員・支持者の「転向」のはたらきかけで絶大な影響力を発揮したほか、日本共産党組織が衰退していく力も発揮した。青木彗の著作に登場する、戦後、反共労組活動家養成に従事した転向組の元共産党員たちは、佐野・鍋山「転向声明」に同調して転向した人々である。



参照文献

青木彗『日本式経営の現場』(講談社文庫、1987)[『ニッポン丸はどこへ行く』朝日新聞社、1982を増補・改題したもの]

青木彗『ユニオンジャック』(学習の友社、1984)

青木彗『ニッポン偽装労連』(青木書店、1989)




連合右派のなりたち(上) 右派6産別と御用組合

連合とは、日本労働組合総連合会の略称である。(※)

労働組合のナショナルセンターの歴史については省略して、ここでは日本の労働組合員の3分の2が加入していることだけを指摘しておく。ちなみに、日本の労働組合組織率は2022年度で16.5%で、その68.4%が連合加盟ということは、連合だけの組織率は11.2%ということになる。


2021年に芳野友子氏が連合会長に就任してから、芳野氏は共産党と共闘しないことを繰り返し表明し、立憲民主党にも共産党と共闘しないように求める発言をかなり強硬に言うことで注目されている。


これは彼女個人の問題ではなく、連合内で多数を占める連合右派6産別から彼女が与えられた役割であるように、僕には思われる。彼女が個性を発揮することは、おそらく右派6産別の組織的要請と合致するのだろう。


芳野氏はかなり異例の過程をへて連合会長に選出されていることに注意する必要がある


それまで連合執行部を担ってきた神津里季生会長・相原康伸事務局長の執行部に、出身母体の右派6産別が激しい批判を持つようになった。

確認しておくと神津里季生氏は基幹労連・新日鉄(現日本製鉄)労連の出身で、相原康伸氏は自動車総連・全トヨタ労連の出身だ。ともに右派・御用組合を母体に連合の最高幹部を務めていた。


2020年に旧立憲民主党と旧国民民主党の合流が行われた。この合流を推進し、両党の仲介役も果たしたのが連合神津執行部であり、なかんずく相原康伸事務局長が熱心だと言われた。相原事務局長は次期連合会長と目されていて、実績づくりのために両党合流に尽力してるよだという観測もあった。

ところで、旧立民・旧国民両党の合流は終始、旧立民主導で行われた。

そこで、合流直前になって、両党間で合意された合流新党の綱領の内容に連合右派6産別が激しく非難するに至った。綱領案の文言はかなり旧国民の言い分を丸飲みしてるのだが、そういうことが問題なのではなく、旧立民主導の合流で、旧国民が事実上、吸収合併されたことへの不満が右派6産別にあった。合流新党の名称には「立憲民主党」が選ばれたことは、その象徴だった。選挙での有利さを求めて、旧国民議員のほとんどが現立民に合流した。旧国民の議員が飲めるように文言調整はしてあるのに、綱領の内容に異を呈するのは、形式的に体裁のいいやり方にすぎず、その異論そのものはほぼ言いがかりのようなものだった。本当は旧立民主導で現立民がつくられることで、共産党との共闘が進展し、選挙に勝利すれば共産党と政権共闘に発展しかねない状況を右派労組は危惧した。

旧立民主導の合流に不満を持った、かなり右翼的な議員だけで現在の「国民民主党」がつくられた。現国民民主党の後ろ盾となったのが右派6産別であり、6産別の組織内議員が現国民所属の国会議員の中で大きな比重を占めた。


右派6産別は、旧立民・国民合流を推進した執行部を「断罪」し、自動車総連は、相原康伸事務局長を会長とする既定路線をひっくり返して相原氏の会長選出を拒否した。出身の全トヨタ労連の強い意向があった、との報道もあった。巨大企業労組から会長を選ぶのが通例なのに、巨大企業労組は後任の会長を出すことを拒否し、役員選考委員会を舞台とする連合会長選びは難航・迷走した。女性担当の連合副会長であった芳野友子JAM副会長に白羽の矢が立ち、会長に選出された。


旧立民・国民合流は、連合の組織事情として推進されたと理解されていた。すなわち、支持政党が2つに分かれているよりは、一本化した方がいい、という判断だ。ところが、連合内多数派の右派6産別は現立民綱領批判に土壇場で転じた。

初めての女性会長として注目された芳野友子氏だが、その発言は共産党と立民の共闘を否定するものが目立つ。発言内容は、以前からの連合の公式方針の枠内ではあるのだが、ふたことめには共産党批判をする、というところと、神津執行部だと立民の選挙事情への配慮も欠かさなかったのに、とにかく共産党批判をし、事実認識でも、共産党の力を過小評価し、共産党との共闘によって逃げる人々を過大評価し、国民民主党を実際よりも強いかのように言う、イデオロギー偏重ぶりだ。


芳野氏は比較的小さなJUKI労組委員長で、JAMや連合では女性部門を担当する役割で昇任してきた人物だ。

通常なら産別・単産のトップをつとめる実力者が組織バランスの上で会長・事務局長に選出される。

それが産別・単産のトップでない、比較的小さな労組出身の女性役員を会長に選ばれた。少なくともJAMは芳野氏の組織基盤ではなく、JAMには会長を含めて芳野連合執行部批判を公然とすることもある。


すなわち、芳野友子氏の会長選出は、右派労組が現立民のリベラル寄り路線と共産党との選挙協力を排除しない路線に不満を表出し牙をむいたことの帰結であり、彼女はそうやって牙をむくことが役割とされているように見える。

芳野会長とコンビを組む清水秀行事務局長は、日教組委員長。官公労からの連合事務局長選出は連合結成以来初めてだ。連合事務局長としては日教組らしいことはほとんど何も言わない。芳野会長が突出しすぎた言動をとった場合に、事務局長が談話やら会見やらで、会長を否定しないようにやんわりと修正するのが役割のようだ。芳野氏が右翼的偏見を丸出しに発言するのが役割だとすれば、清水事務局長は連合執行部の決定を正確に伝えるのが役割だ。清水氏が日教組委員長らしい発言をしたら、中央執行委員会で問題にされ場合によっては更迭されかねない立場だ。


ここでざっくりと連合(日本労働組合総連合会)加盟労組を分類すると

(1)御用組合(企業主義組合)

(2)経済主義組合(経済課題についてはゆるやかながら労働者保護に取り組む)

(3)社会民主主義組合(旧社会党支持の左派組合で平和運動や反原発運動に熱心で平和フォーラムに加盟)


この分類は、基本的に渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』(旬報社、1990)をベースにしている。ただし用語法は渡辺のものとは異なる。


(1)御用組合とは、経営側が関与して会社派組織を作り、労組を分裂させて第二組合をつくったり、労組の役員選挙で勝利したりして、会社派の多数派労組執行部を形成しているもの。労組執行部が会社派で占められて長期に及ぶ場合、インフォーマルな会社派組織が労組に解消され、直接に労組がその役割を果たす場合も多いようだ。

御用組合は「第二労務部」と揶揄されたり称賛されたりすることもある。会社派活動家や組合役員となることは出世コースで、管理職に昇任する前から管理職並みの権限を手にする、訓練の場ともなっている。

渡辺治の用語では「企業主義的協調組合」とされる。

御用組合では、左派活動家や共産党員だけでなく、少しでも体系的に企業にまつろわない態度を示す人々を「企業破壊者」「企業秩序びん乱者」と認定して、差別・抑圧する活動をする。御用組合からすれば、共産党は獅子身中の虫であり、全労連など不倶戴天の敵に他ならない。

右派6産別の主力は、御用組合だ。


(2)経済主義組合とは、労使協調路線をとるが、経済課題(賃金や労働条件や雇用)では一定の取り組みをし、企業主義/会社派とは違って、経営側から一定の自律性を持っている労組のこと。渡辺治の用語では「古典的協調組合」

産別・単産では、UAゼンセン、情報労連、JP労連などがここに分類できる。

UAゼンセンは、改憲を主張するなど、政治的には右翼的で右派6産別の一角として御用組合と常に共同歩調をとるが、加盟単組のそごう・西武労組のストライキに見られるように、労使協調の枠内での、経営側に異議を唱える取り組みはする。協調はするが労使一体ではない、ということだ。

情報労連とJP労連は、旧社会党支持だった労組ではあるが、平和フォーラム/平和センター(後述)には加入せず、連合内では中間派の位置を占める。

連合の労働政策・社会政策は、経済主義組合の主張の線で形成されている。御用組合は、自社の経営側に敵対的でない限りでこれに同調はする。


(3)社会民主主義労組は「フォーラム平和・人権・環境」(平和フォーラム)に属している、旧社会党支持労組。平和フォーラムは県段階では「平和運動センター」の名称をとっているところも多い。「総がかり行動実行委員会」の一翼を担い、市民連合の有力構成団体でもあり、野党共闘を推進している。

平和フォーラム/平和センターは、共産党・原水協・全労連と犬猿の仲だったが、労働法制や平和・護憲の課題での共産党系との共同は以前から部分的にしてきた。それが311後の反原発運動や安保法制での共闘に応じ、「総がかり」と市民連合では、市民派を接着剤に原水協・全労連系勢力と平和フォーラムの共闘が日常的なものとなった。


連合は、結成当初から政策・制度要求を重視してきた。経済闘争の政治闘争への転化という、左翼の志向とは逆に、社内で経営側と対立しないために、対政府要求や政策・制度の改善のための活動をする、という考え方だ。

中小企業の労組が、経営環境が悪ければ労組共倒れになりかねないから政策・制度を改善する運動をするとか、経営側との交渉力の弱い少数組合が、要求実現を政治に求めるのとは似て非なる考え方だ。

一般に御用組合役員であることは、会社での出世の踏み台である。逆に言えば、組合員資格のない管理職にならずに御用組合役員を長期にわたってつとめている人物は、大企業の出世コースからははずれている、ということだ。

単組・単産の中央役員や、連合の各級役員をする人物は、会社内での出世コースをはずれ、出世の別コースをたどった人々、ということになる。

連合の労働政策や社会政策に、御用組合出身役員が同調するのは、この組織的な位置に根拠がある。彼らは出身の社内事情よりも、連合の組織事情を優先する組織人である。


ちょっとだけ中間派の産別の事情を付記すると

情報労連は主力がNTT労組(旧全電通)

JP労連は、旧全逓と旧全郵政の合同体

ともに総評時代には公労協で重きをなした単産だ。NTT労組のサイトの沿革のページを見れば、全電通時代の戦闘的な運動を誇っているのがわかる。




芳野友子会長のお膝元のJAMの構成組合は、旧全金と旧ゼンキン連合の合同体が含まれていて、御用組合と経済主義組合と社民主義組合の混成で成り立つ産別だ。芳野氏が委員長を務めるJUKI労組は御用組合で、全労連加盟の少数組合を中傷する発言を連合会長になってからして、そのJMITUに抗議されたこともある。

JAMは右派6産別の一角をなしてはいても、芳野連合会長の右翼的突出にはJAMとしては距離をとり、ときに公然と役員や書記が芳野会長を批判することがある。

芳野氏は、おそらくJAM会長になることはない。だから、連合会長としては異例だが、単組であるJUKI労組委員長の職に芳野氏はとどまり続けている。



御用組合や会社派活動家(出世コース)を育成する富士社会教育センターという法人がある。年長世代の一部には「富士政治大学校」というコース名で知られている。「富士政治大学校」は現存するが、現在では政治家(労組組織内議員)養成コースの名になっていて、労組活動家養成を行っている課程は別にある。

同センターは、もともとはインフォーマルな会社派組織の教育機関だったのが、現在では公式の連合の組合員教育を行う機関になっている。

同センターは、反共主義と企業主義を注入する教育を行っている。




(※)

現在の連合は、全日本民間労働組合連合会(ここでは民間連合と略称、1987年結成)に官公労が加わる形で1989年に発足し、総評(日本労働組合総評議会)は解散した。民間連合は全民労協(全日本民間労働組合協議会)の改組で発足したが、略称に「連合」を採用し、協議体からナショナルセンターへの発展を印象づけた。また現在の連合の発足にあたって、民間連合の正式名称にあった「全」を取り、「総」を入れることで正式名称は総評のそれに近づけている。



参考文献

渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』旬報社、1990






野坂参三はソ連の工作員だったか?(2)コミンフォルム論評をめぐって

コミンフォルム論評「日本の情勢について」は1950年1月6日に、コミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』に掲載された。野坂参三の「占領下平和革命」論を激しく批判し断罪した。

当時の出版・印刷事情は僕にはわからないが、間違いなく最も早い日本語での発表はモスクワ放送の日本語放送だ。不破哲三は、モスクワ放送のラジオ日本語放送でこれを聴き、懸命に書きとめ、一回では書きとめきれないので、一定時間で繰り返し放送された全文を3〜4回で書きとめたことを回想している。ソ連を指導党だとするのが当然だった当時の日本共産党員にとって、モスクワ放送の日本語放送を聴くのはごく普通のことだった。

不破自身は、東大細胞の学生党員として、徳田球一指導部の占領軍との対決を回避する路線に違和感を持ち、コミンフォルム論評をその代弁として受け止めた。これは、コミンフォルム論評の受け入れを主張した宮本顕治ら日本共産党幹部と同じ思いだったと思われる。(不破『スターリン秘史』第6巻、2016)

宮本顕治は東大細胞の解散・再建や全学連結成などを党中央の担当幹部として支援し、全学連や東大細胞などの学生運動指導部と強い結びつきを持っていた。(※1)





野坂参三を主唱者とする占領下での平和的な人民政府の樹立→民主革命という路線は、1946年の第5回党大会で日本共産党の公式の方針となっていた。野坂は主唱者ではあっても、党大会を含めて正規の党機関で決定された公式の方針である。

これは、ソ連の米ソ協調路線とも合致していたし、徳田ら府中組がとった占領軍を解放軍と規定する認識や路線とも親和的だった。

1947年に、産別会議と総同盟が共闘して予定された2.1ストが禁止され、占領軍が反共政策をとるようになり、4月の総選挙で占領軍の干渉もあって日本共産党が後退すると、路線の修正が行われ、12月の第6回党大会では行動綱領に「完全な独立」が入り、民主革命を担う統一戦線として「民主民族戦線」が提唱され、日本共産党も参加する人民政府が連合国と公正な講和を結んで独立する、という路線もとられた。党大会前日に大会代議員による秘密会議を開いて占領軍批判を行い、大会決定の一部は当局の検閲で非公表となる事態にもなった。

公式の方針は修正されても、徳田指導部は、占領軍との対決回避路線を継続する。これが不破らには違和感となったのだ。民主民族戦線の結成への運動は展開されたが、「民族独立」すなわち人民政府の樹立による連合国との公正な講和と独立の道筋が具体的にイメージされた運動だったわけではない。もちろん、「民族独立」のスローガン自体が少しでも具体化しようものなら占領政策違反として弾圧されかねないものだった。徳田指導部が占領軍との対決を回避しようとしたのは何より弾圧を恐れたもので、闘争を回避すれば弾圧も回避できる、という予測にもとづくものだった。

1949年1月の総選挙では、社会党が政権参加した片山哲・芦田均両政権への批判票を集めて共産党は大躍進する。戦後、日本共産党が最も日本社会に影響力を持った時期が到来した。ソ連側は連絡ルートで非合法体制への移行を促しても、徳田らは占領軍による非合法化は、大量得票ひた党の非合法化はあり得ないと回答している。(49年11月のデレヴァンコと徳田野坂・伊藤律との会談)


1949年に国鉄の人員整理とともに開始されたレッドパージにも、占領軍との対決を回避する路線では有効に対応することができなかった。人員整理とレッドパージに乗じて労働運動の主導権奪取を実行した産別民主化同盟(社会党との結びつきが強かった)の問題も同時にあって、総評結成にはあからさまな占領軍の後押しがあった。


1950年1月6日発表のコミンフォルム論評は、ソ連共産党政治局が用意したものに、スターリン自身が朱筆を入れ、原型をとどめぬほどに修正し、攻撃的な表現は、すべてスターリンの修正によるものだという、ソ連の歴史家フィルソフの言葉を引用し、「スターリンが全文を執筆」と不破は評価している。

コミンフォルム論評がなぜ、徳田や日本共産党政治局や中央委員会ではなく、野坂を批判したのか? 野坂の「占領下平和革命論」は、日本共産党の公式の方針であり、占領軍の弾圧が始まるとやや修正されたが、占領軍との対決を回避する路線は、徳田球一指導下では維持されていた。

ソ連との連絡窓口だった野坂には、秘密連絡ルートを通じて、ソ連の意向を伝えることが可能なのに、なぜスターリンは表舞台で野坂を罵ったのか?

これについて、和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996)ではスターリンによる野坂への死刑宣告だと評価している。野坂がスターリンの権力下にいれば処刑されただろう、という意味だ。ゆえに徳田・野坂は、1月12日の政治局会議で多数決でコミンフォルム論評に反発する「所感」を議決・発表したのだとし、コミンフォルム論評受け入れを主張する国際派(政治局員では、志賀義雄と宮本)との対立が表面化する。中国共産党機関紙「北京人民日報」が1月17日にコミンフォルム論評を支持する社説を掲げることで、徳田派もコミンフォルム論評受け入れに至り、野坂自身も自己批判する。和田は、野坂の自己批判が中国の論説を受けて行われたことに注目し、ソ連よりも中国の方が野坂は心理的に近いのか、と疑問形で推測している。中国はソ連と友好同盟条約を結び、「向ソ一辺倒」を表明していた。コミンフォルムだけでなく中国も野坂批判に同調したのは政治的圧力としてはじゅうぶんだろう。(※2)

ただ、和田はスターリンがコミンフォルムを用いて野坂を公開で激しく批判したことについて「死刑宣告」以外の論評をしていない。その後、野坂を窓口とする連絡ルートをソ連側が維持して、徳田・野坂派を非合法体制に導くのに公開での「死刑宣告」がどう作用したかの検討を和田はしていない。





不破は野坂工作員説を前提に、野坂を裏から動かすのでは、徳田を動かせないおそれがあるから、表舞台で野坂を名ざしで批判することで徳田派を揺さぶって、より確実に日本共産党の路線転換をはかったのだとし、コミンフォルム論評が野坂を標的にしたのは工作員野坂へのサインだったとする。不破は同時に乱暴に日本共産党に干渉するスターリンの大国主義・覇権主義に批判を加えている。


中北浩爾は、ソ連は水面下で平和革命路線の転換を求めたが、日本共産党が応じなかったので、占領軍との対決に転じることを公然と促した、と簡単に記述している。百年の通史として簡潔に記述してるだけだが、基本的に不破と同じ評価だと読める。




徳田・野坂派がコミンフォルム論評受け入れに転換したのには、不破は日本共産党内の論争をやや重視する。不破は1950年当時の学生党員だから、党中枢ではなく、現場の当事者だ。占領軍との対決を回避する徳田指導部の路線にもやもやしていたものをコミンフォルム論評が言語化・理論化してくれたと感じたという。これは、国際派と言われる、論評受け入れを主張した人々の共通の認識だったと思われる。

当時の日本共産党が内部論争をへて、綱領制定で徳田球一起草の綱領草案について公開討議を開始するとともに、「民族独立」の位置づけを明確にし、占領軍の検閲や弾圧の手前、はっきりとは言えなかったが、占領軍との闘争も行うことで中央委員会で合意形成したことを重視する。もちろん、中国の論説がコミンフォルム論評を支持して追い討ちをかけたことの意義を不破が軽視しているわけではない。すなわち、党内の意見の違いはあらわになったが、それは戦略問題は綱領論争を公開で公然とやりながら解決をめざし、行動綱領(民族独立=占領軍との対決路線を含む)で団結してやっていく、ということを中央委員会として確認したわけだ。党内の重要な意見の違いは討議しながら、当面の課題で行動していく、という原則を正規の機関では確認した、ということだ。

実際には、コミンフォルム論評受け入れを中央委員会で確認した直後に、宮本顕治政治局員・統制委員会議長を九州地方委員会議長に任命して派遣して東京から遠ざけ、統制委員会議長代理に椎名悦朗を政治局は任命した。これが椎野の議長就任として発表され、訂正されなかった。(※3)和田春樹は、徳田派による公式発表(機関紙での発表)を重視して、統制委員会議長は椎野に交替した、と記述している。

この手続き的正当性の部分は、現在の日本共産党には大事なことだが、和田も中北浩爾も、徳田派の専断を日本共産党の決定として扱っている。椎野を統制委員会議長代理と記す中北は、50年分裂の過程について、反主流派の排除は組織防衛上やむを得ず、分裂は椎名悦朗の回想を引用しているが、実際の経緯は明らかに椎野の言い分とは違うことを指摘している。


不破は『スターリン秘史』第6巻(2016)では、スターリンの世界戦略の中に、日本共産党の武装闘争路線への押しつけを位置づけてみせる。すなわち、米ソ冷戦が開始され、ベルリン封鎖など欧州での米ソ対立の緊張が高まる状況で、ソ連を直撃する戦争に発展しないように、北朝鮮の武力統一方針に承認を与え、朝鮮戦争を起こして「第2戦線」を開き、欧州での戦争を回避しようとした、とスターリンの戦略を読み解く。これは『スターリン秘史』が、スターリン路線の全面的検討を目的とした著作であることによるものだ。そして、スターリンは日本共産党には武装闘争で朝鮮戦争の後方かく乱をすることを求めた、ということだ。

ソ連・朝鮮研究者である和田は、『歴史としての野坂参三』ではあまり深入りしていないが、スターリンの戦略について基本的に不破と同様の筋書きを採用している。和田の朝鮮戦争研究ではスターリンの思惑を検討してるのかもしれないが。米ソの秘密文書から、スターリンが北朝鮮の南進に承認を与え、米国もそれを察知しその準備には入っていたことは明らかになっている。南進の具体的な時期までは米国は把握していなくて、米国は北朝鮮による不意打ちにバタバタと対応した様子がある。

日本国内で、日本共産党中央委員・アカハタ編集委員の公職追放が行われたのは、その準備の一環だったようで、それが北朝鮮の南進開始の直前になったのは偶然だった。米国は日本での占領政策では、日本をよく研究し、情報収集のうえ、慎重にことを運ぼうとしていた。マッカーサー司令官は日本共産党非合法化に前のめりだったようだが、米国務省が待ったをかけた。国務省はソ連の戦略の分析から、日本共産党の非合法化による武装闘争への転換はソ連の望むところだという認識で、日本共産党の非合法化に反対した。米国は、前述のようにソ連が北朝鮮の南進に許可を与えたところまでは把握していて、その情報から、日本共産党の非合法化による武装闘争への転換というのがソ連の意図だという、和田や不破の見解と同じ認識を、当時、すでに持っていた、ということだ。(※4)

日本共産党と在日朝鮮人運動(※5)の戦争への抵抗はそれはそれとして弾圧する必要が米国としてはある。それで日本共産党中央委員らの公職追放の他、機関紙を発刊停止とし、後継紙も発禁処分にした。党そのものは非合法ではない(戦前は党の存在そのものが非合法だった)が、その活動は大幅に制限される、という半非合法状態に日本共産党はおかれる。


不破哲三は、『スターリン秘史』で、スターリンの世界戦略の文脈でコミンフォルム論評についてあらためて分析している。

野坂の「平和革命論」批判の体裁をとっているが、第6回大会による路線修正の前と後の野坂の発言を意図的に混同している「理論的詐術」だとする。(※6)

すなわち、1949年6月の野坂報告は、共産党を含む人民政府の樹立で連合国との公正な講和・独立を求めることが平和的に可能になるとの主張で、不破はこちらの方は理論的可能性としてあり得る路線だったとする。公認党史では、占領下の人民政権樹立という、野坂の影響を受けた見通しの甘い路線には否定的な見解を示しているが、それは実際の占領軍との対決回避路線と一体のこととしての評価だ。49年6月の野坂報告では理論的可能性への言及で、コミンフォルム論評はその理論的可能性さえ否定している、と不破は分析し、武装闘争不可避論をコミンフォルム論評こっそり入れ込んでいる、とする。実際にはそこまで読み込んだ者は、当時の日本共産党の有力者にはいなかったのだが、ここで不破がこのことを示す意味は、続く「北京人民日報」社説が武装闘争不可避論を明示していたことが、中国共産党の勇み足なのではなく、中ソ間の合意事項であった、ということを示すものだ、と不破は言っているのだ。

『スターリン秘史』は、1949年の世界労連によるアジア・大洋州労組会議での「劉少奇テーゼ」の内幕を諸資料から解明している。公開の労働運動の大規模な会議で公然と武装闘争を呼びかける、というやり方に劉少奇自身が異を唱える手紙をスターリンに書いていた、というのだ(邦訳のない『建国以来劉少奇文稿』に掲載)。日本その他のアジア諸国で武装闘争路線でいくことに賛成かどうかとは別に、わざわざ西側の警戒心を高めるようなことをやるべきではない、という趣旨だ。結局、劉少奇テーゼはアジア・太平洋労組会議で提起された。スターリンがなんとかして劉少奇と中国共産党を説得した、ということだと不破は推定している。「劉少奇テーゼ」の提起は同会議の「開会あいさつ」で、主催者の世界労連執行部にも、ソ連代表団にも内容を知らせず行われ、ソ連代表団が泡を食って本国に、中国が勝手なことをしている、と急きょ報告したのに対して、本国からは逆に代表団を叱責する電報が返ってきた、という、スターリン時代ゆえに笑えないドタバタを演じている。中ソの連絡役のソ連スタッフもスターリンと毛沢東らのトップ間で決められたことの実相がわかっていなかった、とも不破はいう。

この「劉少奇テーゼ」も、以前は、中ソの役割分担で中国はアジアの指導にあたるとし、中国流の武装闘争を説いたのだと不破も理解してきいて、『干渉と内通の記録』(1993)でも踏襲している。ところが、その後の新資料や研究から明らかになったことは、「劉少奇テーゼ」を公開の場で提起させたことそのものが、アジアで「第二戦線」を開く挑発だった、ということだ。ソ連国家の安全保障のために各国の共産主義運動を手駒のように扱い、それぞれの運動の発展はソ連に従う限りでソ連の国家利益追求に役立つので許すが、運動の自主的発展はユーゴスラビアでのようにソ連にまつろわない勢力となる可能性があるのでむしろ妨害する、というスターリンの姿勢は、不破の全6巻の大著『スターリン秘史』の全編を貫くテーマとなっている。


繰り返し、大筋の徳田・野坂派の動きを確認しておくと、1950年3〜4月には、地下潜航の準備を始め、4〜5月には徳田派による非合法体制への移行の合意が行われ、6月6日に占領軍が中央委員などの公職追放令を出したのを機に、徳田派は地下に潜り、9〜10月に武装闘争方針を出して、徳田派主要幹部は中国に亡命して北京機関を設立して国内の組織を指導した。この間、ずっとソ連の支援があったことは、旧ソ連秘密資料に明らかである。

野坂は工作員ではなかっただろうが、ソ連とのパイプ役として50年分裂とソ連主導の徳田派の武装闘争路線への転換に重要な役割を果たした、ということだ。


(3)以降では「北京機関」とソ連秘密資金の問題を検討する。


(※1)

東大細胞の解散は、渡辺恒雄細胞長を中心に東大細胞が「主体性論争」を掲げて反中央の分派結成を決議したことによるもので、宮本顕治政治局員が直接指導したもの。後に読売新聞のドンとなるナベツネの武勇伝としてもよく出てくる。


(※2)

1960年代までの日本共産党員たちが、中国革命と中国共産党に熱烈な共感と親近感を持っていたことは、上田耕一郎『戦後革命論争史』(1956〜57)からもうかがえる。

1950年6月26日付のソ連大使館政治顧問補佐官マーミンの調書では、メーデー集会での野坂の演説は中国革命について費やされ、ソ連とスターリンにふれず、デモでもほとんどスターリンの肖像が掲げられていないことを問題視しているが、まあ、そうだろうな、と思う。


(※3)

宮本顕治の九州赴任をめぐっては、安東仁兵衛は、妻の百合子すら反対するのに、顕治は機関の多数決で決まったことだから従う、として福岡に行っている。安東はここで宮本顕治を原則拘泥主義者だと評している。宮本の規約と民主集中制についての姿勢をよくあらわしている場面である。

(安東『戦後日本共産党私記』)


(※4)

米国務省がソ連の対米戦略について正確な認識を持っているのは、正確な情報をつかんでいるのならむしろ当然だった。スターリン存命中には、スターリンが各国共産党をソ連の国家利害のための手駒として考えていたことなど、少なくとも日本共産党員には思いも及ばなかった、という歴史の事実は、不破をスターリン研究と『スターリン秘史』執筆に駆り立てたものだと思われる。

不破は、旧東欧の共産党員たちがスターリンとソ連に従属する専制政権の支配の尖兵となったことについて、「同志の恥」と考えていると思われる発言を2010年ごろからするようになっていた。


(※5)

戦後の日本共産党では、在日朝鮮人党員がかなりの比重を占めていた。政治局員にも中央委員にも朝鮮人党員は含まれていた。日本の党が在日朝鮮人運動を指導することの矛盾はいくつもあったようだ。

レッドパージ、占領軍による弾圧、謀略事件、党の分裂、産別会議の崩壊、主流派による武装闘争路線の採用と展開といった中で、日本共産党は日本人の間では急速に支持を失っていくが、在日朝鮮人運動は健在だった。

朝鮮戦争が始まると、朝鮮人党員たちは祖国の統一と防衛を掲げて果敢にたたかった。ただ、その戦闘性は武装闘争路線とも親和的で、街頭での実力闘争を現場で支える役割も果たした。

1955年に北朝鮮が在日朝鮮人は在外公民だと声明すると、在日朝鮮人運動と日本共産党は分離される。

詳しくは、韓国の雑誌に掲載された故吉岡吉典(日本共産党幹部会委員、参院議員、政策委員長などの経歴のある幹部)のインタビューを参照。僕はハングルを読めないのでGoogle翻訳で読んだ。

吉岡吉典インタビュー「在日コリアンは私たちの恩人」

(『ハンギョレ21』571号、2005年8月3日)



(※6)

同一人物の時期も文脈も違う発言を恣意的に引用する理論的詐術は、レーニンの引用について、スターリンの得意技であることは、不破哲三のスターリン研究ではたびたび指摘される。典型的には、ネップを維持する時期にはレーニン晩年の発言を引用するスターリンが、農業集団化を強行するときには、「戦時共産主義」の時期のレーニンの発言を引用して自己正当化をはかる、といった具合である。


野坂参三はソ連の工作員だったか?(1) コミンフォルム論評以前

中北浩爾『日本共産党』(中公新書、2022)に、野坂参三はソ連の情報機関の工作員だった、という説を否定する記述がある。

中北が典拠としているのが和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996)での結論だ。
不破哲三『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(新日本出版社、1993)は、ディミトロフ(コミンテルン書記長だったが、コミンテルン解散後はソ連共産党国際情報部長として、各国共産党との関係を担当していた)が、野坂がソ連のヒモをつけるのに適任だという提案書に、国家保安人民委員部(KGBの前身)かソ連軍諜報部で連絡をとることとしていることを根拠に野坂工作員説をとっている。(※1)
野坂情報機関工作員説は、野坂の山本縣蔵告発をソ連の秘密資料から『週刊文春』で明らかにした小林峻一らの説だ。小林峻一・加藤昭の『文春』記事は、後に『闇の男 野坂参三の百年』という本にまとめられている。小林・加藤は、野坂が延安時代に中ソの同盟国の米側と接触し、それが帰国後の米占領軍の接触の糸口だったことから、野坂が米側とも通じていた可能性を指摘するが、その証拠は提示できていない。単行本に収録された解説座談会には立花隆もゲスト参加しているが、立花は野坂二重スパイ説を推定支持している他、日本の当局を含めて「何重スパイだったのか」とまで言っている。

和田著では、野坂は確かにソ連のヒモをつけられて帰国したが、党間外交ルートで遇され、野坂は日本共産党中枢との窓口となったのだとしている。裏ルートではなくて、公式の党間関係だったということだ。当時、秘密にされ、連絡ルートも秘密のものだったのは、ソ連が日本共産党を指導しているかのような印象を与えることは、ソ連側も日本共産党側も望まなかったからだとしている。それは日本国民の世論との関係はもちろん、当初はソ連も米ソ協調路線をとっていたことや、日本共産党も米占領軍との対決を回避する路線をとっていたことも大きかった。徳田球一の指導下での日本共産党は、日本共産党は自主性のある党だという主張も演出も懸命にしていて、それは占領下で日本共産党が勢力を伸ばしていくのに重要な役割を果たしたと思われる。

和田著では、野坂は定期的にソ連側の人物と会って連絡をとっているが、伊藤律を伴ったり、ときに徳田球一や志賀義雄がソ連側の人物と会ったりもしていることを旧ソ連秘密文書から明らかにしている。これはおそらく、1993年の日本共産党の調査では入手していないと思われる文書にある情報だ。
ただし、公式の党間関係といっても、野坂、徳田、伊藤、志賀らがソ連との連絡の実情を政治局や中央委員会といった党の正規の機関に正式に報告し、討議の機会があったかは定かではない。正規の機関ではなく、後述するトロイカとか徳田の側近といったごく少数の実力者だけが関与していた可能性がある。原則主義者であった、政治局員宮本顕治はこのルートに加わっていない可能性がある、ということだ。不破は、後の著書『スターリン秘史』第6巻(新日本出版社、2016)で和田著を検討することなく『干渉と内通の記録』の内容を前提し見解の修正もしていないが、野坂のソ連との連絡は「党に隠れたもの」として糾弾している。公式の党機関には報告されていなくて、宮本は関与していなかったということであれば、和田著の叙述と両立する。しかし、徳田・志賀がこのソ連と連絡ルートに加わっていたのなら、一時期は徳田・志賀・野坂で「日本共産党のトロイカ」と言われていた実権を握っていた最高幹部であり、これを党として公式の関係だと和田が見なすのはおかしなことではない。
ただ、野坂は党に隠れてソ連と連絡をとっていた、という不破の見解は、日本共産党とは誰のことか、という問題にかかわる。占領下の分裂前の日本共産党のあり方は、当然、「50年問題」での党の分裂のあり方に関わってくる。ソ連との秘密の連絡ルートは正規の党機関への報告も討議も承認もへておらず、後の「50年問題」での徳田・野坂派の原型をソ連との連絡ルートの形成に見るのは不当ではない。この場合、それは「党に隠れて」とはならないが、徳田・野坂らによる党の私物化とソ連との連絡ルートの問題は直結しているという批判なら妥当することになる。「50年問題」では徳田派に排除された志賀が、トロイカの一員だったころにはソ連との連絡ルートに加わっていたことは、この時期から見られる志賀のソ連盲従傾向とともに、60年代の志賀の言動(※2)との関係で興味深い。
政治局員の宮本顕治がソ連との連絡ルートから外されていて、政治局として正式にその連絡に関与していたかどうかは、現在の日本共産党にとっては大事なことだ。和田はそこを関心の外側においている。後の「50年問題」の総括では、宮本顕治の行動と路線が正しいとされ、徳田派の行いのいろいろに宮本が関与していないことが、宮本が主導権を確立した後の日本共産党の路線と行動の正しさの前提とされているからである。
不破と和田がともに検討している、野坂の帰国後初のソ連宛の手紙では、野坂、徳田、志賀、袴田の4人を「政治局員」としている。この時期、野坂はまだ政治局員に選出されていないが、帰国後すぐに徳田・志賀らと協議し、事実上の最高幹部として活動していた。中央委員ではあったが政治局員でなかった袴田がここに入り、宮本など他の政治局員の名がない。不破は、後の「ソ連の内通者のリストとなっていることは、歴史の皮肉」としているが、むしろ、野坂がここで名を挙げたから、その後、ソ連との連絡ルートに加えられた人物のリストとなっている可能性があるのではないか。
野坂以外の3人には終戦時に府中刑務所に拘禁されていた「府中組」という共通点がある。「府中組」は戦後日本共産党再建の中心をなし、網走刑務所で釈放となった宮本は遅れて党再建に参加している。宮本と袴田は、戦前共産党の最後の中央委員でもあった。徳田と志賀は「3.15事件」(1928年)に逮捕された「獄中18年」組だが、検挙時、2人とも中央委員ではなかった。

当時、日本共産党といえば、まず徳田球一のことだった。後に家父長的指導と批判される、徳田による専断的指導が横行した時期だ。正規の機関にかけていない、というのは宮本顕治らの徳田の意のままにならない原則主義のうるさ型の人物を関与させない、という判断でなされた可能性がある。そして、野坂参三が単独でソ連に接触したわけではなく、徳田の承認があり、共産党のトロイカと言われた最高幹部(徳田・野坂・志賀→徳田・野坂・伊藤)がこの連絡ルートに加わっていたのだから、和田の評価は不当ではないが、やはり徳田の家父長的指導の問題がそこにはある。志賀は、徳田にとっては煙たい人物ではあっても、ソ連にとっては好ましい人物で、徳田派に排除され党が分裂した際にも、ソ連との連絡ルートについて漏らすことはなかった、ということか。

不破は、1949年11月に対日理事会ソ連代表のテレヴァンコと徳田・野坂・伊藤律が会談していることにふれて、ここでソ連が非合法体制への移行を徳田らに促したことを記しているが、不破はこれを徳田・野坂派とソ連のつながりと見なしている。

同じ会談について、和田は日本共産党としての公式の会談としている。和田としては当時の共産党のトロイカとソ連の高レベルの代表の会談だから公式の会談だと評価している。(1950年6月26日付のマーミン意見書。和田著の巻末資料として全文掲載)

和田著では、徳田球一書記長自らソ連側の人物と会い、日本の情勢をソ連側に説明・論評し、ソ連の指導を自ら仰いでいる。コミンテルン時代以来の、ソ連を指導党とみなす感覚そのままだ。
和田が強調しているのは、この時期の徳田はソ連から自立した党であることを国民に印象づける戦術をとっていて、その裏でソ連の指導を自ら仰ぐということをやっていた、ということだ。やはり、ソ連と連絡をとり指導と承認を求めるのは、徳田・野坂らにとって不都合な事実だった、ということだ。
コミンフォルムは、ソ連・東欧の共産党・労働者党にフランスとイタリアの共産党を加えた構成だった。コミンテルンの簡易版のようなものだと日本共産党員たちも解釈した。ソ連が中心に座っている以上、当然の思考だったようだ。宮本顕治もソ連を国際共産主義運動の指導党とすることを当然とみなしている。
当時、日本共産党の対ソ事大主義はかなり深刻だった。コミンフォルム論評の受け入れを主張し「国際派」と呼ばれた人々は、主張の上では徳田・野坂派よりも親ソ的だった。宮本顕治は中立政策を否定し、あくまでソ連に与することを主張していた。(例えば、50年テーゼ草案への意見書)
50年問題の経緯でも、統一派がソ連に袴田里見を使者として送ったりしていて、やはりモスクワ詣をしている。袴田は、スターリン出席の御前会議を前にソ連側に圧力をかけられて屈服した。コミンフォルムと中国が徳田・野坂派を正統と認めると、統一派は瓦解する。統一派組織は徳田派指導下への復党を呼びかけて解散する。それくらい、ソ連を指導党と仰ぐメンタリティは現場の日本共産党員たちにとっても当然だった。例えば、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』はそのあたりのメンタリティを伝えている。(※3)
だから、ソ連と連絡をとり、ソ連に指導を仰ぐという態度は、徳田・野坂派や志賀に特有のものとは言えない。問題はその連絡・指導のルートを一部の実力者で独占し、政治局にさえ報告しなかったと思われることで、これが徳田による家父長的指導と分派形成の原因と結果の一部をなしている、ということだ。

また、不破は野坂参三が帰国前の訪ソ時に「党に隠れて」資金提供要請をしていることを批判している。ソ連側は資金提供に前向きだったが、実際に提供されたかどうかは確定できないようだ。ソ連と野坂の双方とも、資金提供を秘密にするのが得策だと考えていて、そのための資金の出所の偽装のやり方まで具体的に検討している。実際には、技術的な問題で実現しなかったのではないかと不破は見ている。

和田著では、野坂は帰国して日本共産党政治局員になってからも資金提供要請を行い、ソ連側はこれに応じたとある。これも不破が知らない文書だと思われる。
不破もふれている1950年6月のマーミン意見書では、「特定の個人名義になっている党の基金」にふれ、党内指導部にさえ「スパイや挑発者がいるが存在するもとでは、これらの基金は一般に摘発され、一掃されてしまいかねない」とある。これらが使えないから日本共産党の財政基盤が脆弱なのだ、という報告ではある。ソ連からの資金が原資かどうかはわからないが、党指導部内にも秘匿された個人名義の党基金が存在した、という実情があることを示している。「挑発者」に、志賀・宮本らが文面上は入っていないように読めるが、この時点でソ連は徳田・野坂派の側にいることは明らかなので、少なくとも徳田派に排除された政治局員の宮本顕治が知らない個人名義の党の基金が存在した、ということになる。
宮本顕治も知らない個人名義の基金に、ソ連からの資金を原資としたものが含まれている、ということはあり得る。今となっては新史資料が出てこない限り、真相は藪の中である。

(※1)
不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(新日本出版社、1993)
小林峻一・加藤昭による『週刊文春』記事を受けて、野坂参三の山本縣蔵告発やソ連資金受け取りの問題などで、日本共産党は独自に資料収集し解析したうえで不破哲三が論文化し、『赤旗』に連載し、後に書籍化した。不破の著作は、志賀義雄ら「日本のこえ」派へのソ連の関与を中心にしたものだったが、『週刊文春』で報じられた、野坂と袴田里見によるソ連資金の受け取りの問題も当然、扱い、日本共産党とソ連が対立関係になっても野坂と袴田がソ連との内通を継続しようとしたことも明らかにしている。さらに最終章で占領期にさかのぼり、ソ連と野坂の関係を明らかにした。そこで不破は小林・加藤の工作員説を支持している。

(※2)
志賀義雄は、ソ連の支援を受け、部分的核実験禁止条約の国会での承認に際して、ソ連副首相ミコヤンが傍聴する眼前で、日本共産党の反対の態度に反して賛成投票をして除名され、その後、ソ連派の組織を立ち上げた。
このとき、志賀と行動をともにした中野重治や神山茂夫は、後に志賀と袂をわかつが、そのとき、志賀をソ連盲従だと評している。ソ連に賛同して日本共産党に反旗をひるがえした仲間からも志賀のソ連盲従は極端だと映っていた。(中野・神山『日本共産党批判」三一書房、1969)

(※2)
この点について、当時の日本国民のハビトゥス(固定的習慣的な思考・行動様式)が関係があると僕は仮説をたてている。
共産党員といえども、日本国民の一部であり、日本人のハビトゥスとして、教育勅語や全生活にわたる天皇制教育や軍隊式教育が思考と身体性においてしみついていた、ということだ。教育勅語を暗誦するとか、暗誦時には直立不動だとか、「天皇陛下」の語を言及し聞くときに直立不動の姿勢をとるとかの形式は、心のあり方にも影響を及ぼし、天皇に対する尊崇感と上官の命令は絶対、というような思考と行動を生活習慣化していたのではないか。これが、戦後初期の対抗運動の思考と行動の様式にも影響している、ということだ。僕は参照できていないが、小熊英二が『民主と愛国』(新曜社、2002)でこの手法を用いたと言っている。なお、ハビトゥスはブルデューの概念である。
例えば、1947年の2.1ストは、整然たる行動で、中止指令で山猫ストはほとんど起こらなかった、という。後年、賞賛されることもある行動だが、これは軍隊式だと言える。
天皇は人間宣言で神でなくなり、新憲法で象徴となり、絶対的な統治者であることもやめた。マッカーサーを天皇のような崇拝対象とした保守的中間指導者の記録は枚挙にいとまがない。戦争体験から天皇や天皇制に反対するようになった人々が、その対象に、共産党や徳田球一やソ連をおいたということはある意味で当然なのだ。

上田耕一郎『戦後革命論争史』と1961年綱領


上田耕一郎『戦後革命論争史』の主として後半を再読する。




同書は上巻が1956年11月、下巻が57年1月発行の奥付。実際の発売はその1ヶ月程度後になるのが奥付事情の常識だ。

「はしがき」では、不破哲三との事実上の共著であるとし、不破が執筆分担をした章も明らかにしている。

第3篇だと第4章のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判への各国共産党の反応やそれを踏まえた理論論争を不破が担当している。(※1) 事実上の共著だと上田自身が言うのなら、本書の見地は上田・不破兄弟の共通の見解だと前提しておく。


日本共産党の党章草案(綱領と規約が一体化したもの)が発表されるのは、1957年9月。(※2)

党章草案発表後は、上田耕一郎は党章草案→1961年綱領草案を擁護する主張で論陣をはるようになる。(高内俊一『現代日本資本主義論争』三一書房、1961を参照)


『戦後革命論争史』は、戦後のマルクス主義者や社会主義者たちの社会認識や経済認識をめぐる諸論をかなり広い範囲でレビューし、論評したものだ。

日本共産党の「50年問題」の「6全協」での一定の収拾とソ連共産党第20回大会でのスターリン批判の衝撃で、百家争鳴状態の日本共産党とマルクス主義の界隈に、伝説的な影響を与えた労作だ。(※3)


上田の当面する革命論が示されるのは、最終章である第3篇第6章である。

党章草案が発表される前の、本書での上田は、対米従属の契機を重視しながら、日本独占資本主義の復活という契機との「矛盾」に苦しみ、民族民主革命の社会主義革命への連続的成長論をとる。すなわち、民族民主革命論と社会主義革命論とを折衷しようとしている。

上田は、反独占闘争の一般民主主義的な性格をかなり重視して『論争史』では繰り返し指摘している。これは本書での農業理論や東欧・中国の「人民民主主義革命」の理論の紹介の検討を踏まえたものとなっている。

民主主義革命と社会主義革命をできるだけシームレスなものとして描き、民主主義革命論と社会主義革命論の折衷をはかるのだ。上田は実は明確に民族解放民主主義革命論に立っているのを、それをうしろめたいことであるかのように、社会主義革命への連続的転化を論じる。

人民民主主義革命が社会主義革命に連続的に転化する、というのは、当時の東欧・中国の人民民主主義革命について言われていたことである。「人民民主主義革命をやっていたら気がついたら社会主義革命になっていた」式のものだ。(※4)


特に農業問題は、50年テーゼ論争と「51年綱領」の基本問題だった。徳田球一の50年テーゼ草案では、占領下農地改革の意義が過小評価されてるし、スターリン執筆の「51年綱領」では、農地改革はなきに等しいものとされ、日本を植民地型の従属国と規定し、そこから平和革命の全面否定を導き、武装闘争路線の根拠とされた。中国革命にならった農民工作が重視され、活動的な党員で山村工作隊が組織され派遣されたが無惨な失敗に終わった。この時期には、いくつも弾圧事件が起こっていて、それらは公安警察による冤罪やでっちあげであったが、日本共産党主流派(徳田派)が指導する極左冒険主義の方針をとっていたことに警察につけこまれたものであるのもまた事実だ。(※5)

「50年問題」の日本共産党の分裂で、コミンフォルムと中国が徳田派を正統と判定すると、国際派・統一派は瓦解し、徳田派指導下に「復帰」するしかなかった。

国際派の活動家だった、上田・不破兄弟にとって語るのも痛苦の経験だ。

『論争史』は、戦後農地改革で寄生地主制は基本的に解体され、零細自作農の創設が行われた、という認識を前提にしている。国際派の流れをくむ人々を担い手とする、茨城県の農民組合運動の活動の理論を参照しながら、反独占の農民運動を重視している。上田が反独占民主主義闘争の意義を強調するのは、この常東農民組合の運動の理論の存在が大きい。


この時期に反独占闘争の民主主義的性格を指摘するのには、旧東欧や中国の「人民民主主義革命」の理論が紹介されたこともかなりの影響があることも『論争史』の叙述からわかる。


上田は、最終章で、反独占闘争の一般民主主義的性格を指摘しながら、なお反独占は社会主義的任務であるとし、その隘路を探り折衷しようとする叙述をとっている。すなわち、反独占民主主義の政策をとる統一戦線政府は、独占ブルジョアジークとの激しい矛盾に直面し、おそらく社会主義革命に進まざるを得なくなる、という予測であると同時に、変革の志向を示す、という叙述になっている。


『戦後革命論争史』での上田耕一郎のつきあたった隘路に解決を与えたのが、宮本顕治起草の党章草案(後の1961年綱領の大要を示す)だったということだ。

後の1961年綱領とほとんど同じ線まで、上田はきているが、なお、当面する革命は民主主義革命だと確言するのを躊躇し、社会主義革命への連続的転化を論じて、民主主義革命論をとる言い訳を懸命にしているかのようだ。

後の1961年綱領にも民主主義革命が社会主義革命に連続的に転化するかのような叙述がある。ただ、宮本顕治の綱領問題での報告での説明では、民主主義革命と社会主義革命は明確に区別されたうえで、連続的に転化するのを共産党はめざすとしている。


上田にとって、いかに党章草案が福音に満ちたものだったことかを僕は想像してみる。上田がなおモヤモヤとしていたものを党章草案とその説明をする宮本顕治の報告はすっきりさせたのではないかと思う。

丸山眞男は、戦後しばらくは天皇制国家のイデオロギー的呪縛の中にいて、その呪縛を解いたのは、政府憲法改正草案だったことに似ている、というとどうだろうか。(※6)


以上の上田耕一郎の逡巡を傍証すると僕が思うものを示す。推測の域を出ないものだが。

上巻掲載の下巻目次と、実際の下巻目次に違いがある。


(上巻掲載の下巻目次)



(下巻の実際の目次)


第3篇の副題が「日本人民民主主義革命のために」から「社会主義への日本の道」に変更されている。

上巻「はしがき」は1956年11月15日の日付、下巻「あとがき」は57年1月15日の日付。

実際の上巻刊行は12月。下巻「あとがき」には「下巻の仕あげをすっかり終わったのは本年の元日の夕方」「昨年末出版された上巻にたいして寄せられた、読者諸賢から寄せられた御激励・御批判に感謝」とある。上巻の出版からのわずかな期間にどんな批判があったのか、と想像したくなる。

上田・不破兄弟の見解は、実は民主主義革命論であることを上巻掲載の下巻目次ははっきりと示している。(最終章の論自体は民主主義革命論であることとも一致する)

明らかに「社会主義へのイタリアの道」を意識している下巻3篇副題は、『論争史』の叙述のもとになった研究会メンバーやその周辺のごく近しい人々の意見によるものではないか?


『論争史』のもととなった研究会とは、石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦で構成され、最年少で、上田耕一郎は記録係だった、という。いずれもそうそうたる構造改革派の理論家である。

この6人は50年問題当初の国際派(全国統一委員会)の学生対策委員で、上田はまだ学生だった。内野がまとめる予定だったが、内野は遅筆で上田にまかせた、という。上田は弟(不破哲三)にも執筆分担させるといって各メンバーの了解を得た、とのこと。出版社からは、無名の上田の名前では本が売れないという懸念が示され、実際にはよく売れて上田の知名度を一気に高めた、という。マルクス主義理論家上田耕一郎の出世作だということだ。

この裏話は、石堂清倫の宮地健一への手紙を宮地のサイトで公開しているものだ。



上田が気にしたのはこういう近しい人々からの批判だったのではないか。


イタリア共産党のトリアッチによる構造改革論をマルクス主義を刷新する新しい理論として取り入れることには、構造改革派の理論家たちと上田・不破兄弟には一致があった。

ところが、当面する革命が民主主義革命か社会主義革命か、という、綱領論争の根本のところで、構造改革派は社会主義革命論をとり、上田は民主主義革命論をとった。

自立従属論争で、構造改革論をとることでは一致のあるはずの佐藤昇と上田は、自立帝国主義説ー社会主義革命論をとる佐藤と、従属資本主義説ー民主主義革命論をとる上田とで、激しい論争を論壇で繰り広げている。


(補説・『論争史』でのソ連・中国の扱い)

スターリン批判で有名なソ連共産党20大会決定を全面賞賛して、それが基調になっている。スターリン批判というと、同大会での秘密報告の方が有名だが、表の決定でも、スターリン路線の批判と路線転換が行われた。

スターリン批判は多面的で広範囲にわたるが、本書では理論面に限定してレビューしている。

上田・不破兄弟にとっては、50年問題と「51年綱領」に基づく極左冒険主義路線と、その失敗による右往左往に苦しんできたとか、スターリンの理論・政策面での圧制を、ソ連が自己批判し路線転換を示したことは新鮮に響いたのだろう。


その直後に開かれた、中国共産党の8全大会についても同様の賞賛が行われる。そして、中共が実際の活動や社会主義建設において、スターリン批判を先取りしていたことも賞賛している。


当時の日本共産党員の中国共産党への親近感は相当なものなんだと感じた。


1980年代までは、僕の世代にとって、中国は近くて遠い国だった。貿易関係は限定的だったし、中国の経済成長もまだ端緒的で、人的交流も限られていた。それは60〜70年代の圧倒的なアメリカナイズの文化の中で育った世代の感覚で、戦争経験のある世代だと、それはまったく違うのだろう、ということだ。

旧制高校で漢籍に親しみ、中国革命に歓喜した左翼青年だった上田の中国への親近感は、ちょっとばかり驚くほどだ。


(※1)

どうでもいいことだが、「はしがき」では不破を「畏友」と表現し、不破に対して謙譲語を用いている。不破は当時、鉄鋼労連の書記を務めていて、共産党機関誌『前衛』にもたびたび執筆していた不破を上田耕一郎の弟・建二郎だと明かすわけにはいかなかった。不破は結局、ペンネームが有名になって、衆院選にはペンネームで立候補し、著者の名前としてはもちろん、日本共産党書記局長、委員長、副議長、議長をすべて「不破哲三」の名で務めることになる。


(※2)

党章草案が審議される第7回党大会は1958年7月開催。党章草案のうち、政治綱領部分については採決が行われず、継続審議となり、規約部分が独立させられ、採択された。

2000年に全面改定されるまで、日本共産党規約にはかなり長文の前文がついていたが、これは党章草案の組織原則や党のあり方などについての部分が規約前文となったものだった、という経緯がある。このことを知ったのは、この本稿を書く過程で、第7回大会決定集を引っ張り出して参照してのことだ。


(※3)

1982年の『日本共産党の60年』発刊を機に、1983年になって、上田耕一郎と不破哲三は、『戦後革命論争史』の刊行について自己批判する論説をそれぞれ共産党の月刊誌『前衛』に発表した。

1956〜57年当時は、同書の出版はとても党規約にもとづく規制ができる状況ではなかったが、同書の出版は当時の党規約に照らして、規約違反であることを、83年には副委員長と書記局長という最高幹部になっていた上田・不破兄弟が、20年以上後になって自己批判した、ということは憶測を呼んだ。


(※4)

旧東欧「人民民主主義革命」の政権と政権ブレーンによる公式の説明は、もちろん全面的にフィクションである。東欧では、当初、米ソ協調を背景に、反ファッショ統一戦線政府の下で穏健な民主主義的改革が行われていたが、冷戦の開始・激化とともに政権の共産党独占がソ連占領軍の圧力と秘密警察の暗躍を背景に行われた。「社会主義化」とは「スターリン化」のことだった。この東欧の「人民民主主義革命」の虚構性を、日本共産党が認識するのは、1968年のチェコスロバキアへのソ連など五カ国軍の侵攻の衝撃を受けての再検討の過程である。

日本共産党は直接的にソ連・東欧の国内体制を批判するのではなく、日本共産党のめざす社会主義社会がソ連・東欧・中国の体制とは別物であることを示す綱領的文書「自由と民主主義の宣言」の制定(1976年)を中心に行われるが、その主要な内容は1970年にはすでに出ている。

日本共産党の勢力拡大と革新自治体の広がりで、社会党との統一戦線による政権参加も現実視される情勢で、理論と政策体系の怒涛のアップデートをはかる。


(※5)

この時期の日本共産党徳田派も闇雲に中国式の「農村が都市を包囲する」「鉄砲から政権が生まれる」といった闘争を行ったわけではない。それはいたずらに弾圧を招くだけであることは徳田派にとっても自明だったからだ。

それでも、非現実的な路線の破たんはあちこちで起こり、占領軍による弾圧と党分裂の前には、現在以上の勢力と影響力を誇った日本共産党は壊滅的な打撃をこうむる。

むき出しの武装闘争路線はすぐに戦術ダウンとなり、逆揺れの各種の右寄り路線すらとられたが、自己批判も総括もなく、表向きは武装闘争路線が維持され、異論には党内締めつけで応じる状況だった。

「6全協」で武装闘争路線が一応、否定され、分裂からの回復がなされ、党再建のための討議の呼びかけが行われると、党内にはさまざまな病理現象が表面化し、蜂の巣をつついたような状態になり、規約通りの規律など有名無実の状況になった。


(※6)

天皇を象徴として政治的権能を有しない儀礼的な存在とした憲法草案は、多くの知識人たちの想定をはるかに超えた民主化案だった。その呪縛から自由だったのは、日本共産党や「憲法研究会」の知識人ら、日本人ではごく少数だった。日本共産党の天皇制廃止論はもちろん、GHQ草案の基調となったとされる「憲法研究会」草案での天皇を形式的な存在とする、という案すら、戦争と軍部に批判的だったオールドリベラリストには考えつかなかった。天皇制国家の解体が確定的になったところで丸山は天皇制国家の批判的分析に取り組むことができるようになり、有名な「超国家主義の心理と論理」が生まれることになった。