あかり姫と坂本龍馬伝説 -4ページ目

歴史を学ぶことについて

吉村寅太郎の辞世の句は、自分たちが戦いで流した血の紅を、紅葉に喩えています。これは、自分たちの戦いを単なる今の功績としてなく、毎年訪れる紅葉に喩えることで、自分たちの戦いを後世に伝えたいという気持ちが表れているように思います。

 

ところで最近、龍馬否定本を読むことがある。

 

作者の人たちによると、坂本龍馬関連の資料がどうも信用できないらしい。

「船中八策」は無かったとか、これを言った人の言葉は根拠が無い云々と。

 

考えてみると、歴史上の人物について、録音録画が出来ない時代のことについて、資料が残っていることはそうは多くはない。

多くの人は無名のまま生涯を終え、存在そのものについて資料が無いことも多いだろう。

資料がある場合というのは、役所なんかで公文書に記録があって保管状態も良いような限られたケースだ。

 

幕末は、比較的資料が残っていたりして、人物の足跡を辿ることが出来る。

龍馬について、著名人がどう言ったこう言ったというのが残っているし、同時代人が評価した言葉が伝えられて、その一端を知ることが出来る。

 

龍馬の話を信じるかどうかは、同時代人の人たちの証言を詳しく聞いて資料にしたモノを信用するかどうかでしかない。

 

長州の歴史なんか、仲間同士で殺し、殺されるの繰り返しだ。

上の人たちはさっさと死んでしまい、残された連中が内で争い、生き残った一部の人間が明治の元勲になる。

 

明治の元勲たちが、死んでしまった人を振り返ることは、そうは多くはない。

自分より上の立場だったり、嫌な思い出があったりして、人のことなど誉めたりしないのは、いつの世も一緒だ。

 

過去のライバルたちを振り返る前に、自分の今、今の政府をどうにかしなければならない立場の人間が、龍馬はどうだったということを話すヒマはない。

 

必然的に、坂本龍馬の功績を掘り起こすのは、当時の新聞記者とか、文化人の仕事になっていく。時代は先へ先へと進んでいくので、過去のことをどう評価するかというのは、傍観者の仕事でしかない。

 

私は、学問的になどという距離を置いた目線で龍馬を見るのではなく、龍馬が何を考え、どう行動したか、どんな仲間がいたか、龍馬と友達になる感覚で、同時代を生きてみようと思っています。

 

幕末を生き残るのは大変です。噓くさいと思うか、龍馬さんに付いていくか、選ぶのは自由です。身分が低い分際で!と不愉快に思う人も大勢いたはずです。

 

俺はこんなことがあったとは思わないんだよな!と思う人もいれば、龍馬さんなら言いそうだよね、とすんなり受け入れる人、こればかりは読み手のフィーリングに委ねられることだ。

 

今という時代を、龍馬とその仲間たちと共に生きてみたい、私にとっては、歴史上の人物は、共に悩みながら前に進む友達です。

彼らも悩みながら生きていて、選択ミスや後悔もしている。本心は隠し、嘘を言うことも多いし、お上の様子をみて説を変えたり、陰謀もたくさんある。陰謀史観というモノもあるけれど、それはそれで一つの見方です。競争社会を勝ち抜くのに、きちんとした戦略を立てずに相手より先に出ることなどできません。手の内を見せたらやられてしまいます。常人に見透かされるような戦術で、生死を賭けた戦いに勝つことは出来ません。この意味で、読み手の能力が歴史上の人物に追いつかないという事態はごく当然のことです。

 

教科書に載っているからとか、評論家が認めているからとか、他人の評価で歴史を見るのはつまらない。人物は、今を必死で生きているのであって、他人との比較で評価されるために動いているわけではない。利害や考えが衝突すれば、昨日の味方が敵になるのが歴史です。

 

歴史に名を残す人物に興味を持った場合、教科書や学問的な、ドライな視点ではなく、自分自身の目で、その人物の人生を追体験する方が、得るものが多いはずです。当たらずとも遠からずくらいまで人物像を絞れば、歴史上の人物の肉声が聞こえてくると思います。

 

どうしてこの人が評価されているのか分からないとしたら、それは、時代の価値観が変わり、感情移入が出来なくなっているからということもありえます。今を生きる我々も、おそらく後の時代の人に評価されるよりも、今の時代の人に評価されることの方がいいに決まっています。だから、歴史は評価するものというよりは、その過去の一時代を共に生きることだと思います。むろん、昔に戻ることは出来ませんが、歴史上の人物を友として、共にトライアンドエラーを繰り返すことで、今という時代のリアルワールドを力強く生きることができると思うのです。

 

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の四十三

前述した平井収二郎らの周旋活動を山内容堂に告げ口する等、事あるごとに勤王の志士たちの活動を妨害してきた中川宮が、薩摩藩と会津藩を扇動して、京の警護に当たってきた長州藩を追い出してしまったのです。大和行幸は中止となり、尊王攘夷派の七名の公卿は官位を追われました。久坂玄瑞は、失意の七公卿を先導して、長州への険しく長い道のりを歩き始めたのでした。

すぐに吉村たちにもその情報がもたらされました。

「もはや、久坂玄瑞も長州の同志も、我々を守るどころではなくなったということか。」吉村は茫然としました。

「中山様は、朝廷における地位を投げ打って、我々と共に行動をして下さる。命に代えてお守りしなければ!」

那須は拳を握りしめました。

天誅組は、朝廷の権威と長州の武力という強力な後ろ盾を失い、もはや朝廷を追われ官位を失った中山忠光の威光にすがるしかありませんでした。天誅組は、地域に縁のある者もおらず、自分たちを守るために農民たちが一揆を起こしてくれるような期待もできず、朝廷の後ろ盾を失った天誅組は、一夜のうちに孤立してしまいました。

まず、吉村たちは、十津川の郷士を集めて軍隊を作ろうとします。「長州では、久坂たちが農民を集めて軍隊を作っていると聞く。十津川の武士は後醍醐天皇をお守りした由緒ある部隊、いざというときに命を投げ出して戦ってくれるはずだ。」

そんなことで天子様を守るための軍隊であるとして徴兵を始めました。この徴兵に疑問を持ち、朝廷の命令が出たという事の真偽を確かめたいと、玉堀と上田という郷士が中山忠光に話を聞きに来ました。

中山は、熱意をもって二人を説得し、命令の主旨を説きました。しかし、二人は本当に天子様の命が出ているのかどうか確認してからにすべきであること、長州は京都を追放されたという情報もある、勅命に反する行動には十津川は参加することは出来ないと、半日経っても納得しません。呆れ果てた中山は

「もうよい!そなたたちは本当に十津川郷士なのか?」

と、声を荒げました。それに気付いた那須が詰め寄ります。

「何じゃ、無礼者が!中山様の命に従えぬとは!どういうことか!」

「これだけ長い間、我らがことを根掘り葉掘り聞きよるとは!それでいて勅令に従わぬとは・・・さては幕府の隠密だな!」と叫ぶと玉堀と上田を捕縛しました。

天誅組は、朝廷の大義に疑いを持ち、説得を試みようとは許されぬことだ。我らに同調した平野殿とは違う。幕府の隠密の疑いがある。秘密を握った以上、生かして返すわけには参らぬ!。

隠密ではないという証拠もなく、死刑を主張する那須たちの意見に反対する者は出ませんでした。ついには那須たちは、玉堀と上田を処刑してしまったのです。仲間が血祭りに挙げられれば、他の十津川郷士たちは恐怖におののき、従わざるを得なくなったと言えましょう。このようにして半ば恐怖心から集められた十津川郷士たちは960名にも上りましたが、その実態は、何らの戦闘訓練もなされておらず、意欲も乏しい烏合の衆に過ぎなかったのです。

そんな中、京の状況の変化を察した高取藩が兵士の提供を拒否して離反しました。

―皇軍に対する離反は、即天誅を下すべきである―

この方針は諸藩に対しても貫かれ、戦闘が勃発しました。

高取藩兵は二百名しかいませんが、地元を知り尽くし、組織された高取藩兵が砲撃を開始すると、天誅組は何もできずに逃げ惑うだけでした。

そのうちに朝廷も天誅組の追討を推奨します。幕府は紀州や津から討伐軍を送り、天誅組は、民家を焼き払ってかく乱する等しました。

これを聞いた中山は、かような行為は皇軍の名誉を汚す行為であるとして、厳しく叱責し、自ら指揮を執ると宣言したのです。しかし、中山の指令も二転三転し、部隊は混乱するだけで、ついに逃げ出す者も現われました。困り果てた十津川郷士たちが中山に提言したのは、次のような内容でした。朝廷から天誅組の討伐命令が出て、我々はもはや賊軍となったという情報は事実である可能性が高い。朝廷の命令が事実であれば、十津川郷士としては逆らうことは出来ないので、中山様に戦闘の停止を提言したい。しかし我らの大将は中山様であるから、大将の中山様に命運を委ねます、と。

これを受けて中山は、「天子様の命令が出たのではもはや戦えまい、君たちを守るために、天誅組を解散する。私は武士ではない。君たちは玉砕するまで戦うなどというが、それでは朝廷に弓を弾くことになる。君たちは命を粗末にしてはならぬ。これで戦いは終わりにする。皆の無事を祈る!生き延びて新たな勅命が出る日を待とうではないか。」と、天誅組の解散を宣言しました。

かくして天誅組は、一斉に逃亡を始めたのであります。

途中の山道で、彦根軍の赤い鎧が見えました。中山は「もはやこれまでか・・・」とため息をつきました。那須信吾は「このままでは我らもろともやられてしまいます。私が彦根軍に突っ込み、時間を稼ぎます。その間に中山様はお逃げ下さい。私は奸物吉田東洋を斬った罪で追われており、国に帰ることも叶わぬ身です。本来ならとうに打ち首になるべきところ、これまで中山様のため、天子様の国作りのために働くことが出来たこと、誇りに思うちょります。私のこの腕で、幕府に一泡吹かせてやるつもりです。さあ、お逃げ下さい!」 

そう言うと、数名の精鋭部隊で出向き、情報があるのでお話したいと、彦根の陣中に入りました。「天誅組は見つけ次第殺害すべしとの命令が出ている」と聞かされます。

那須は、「我らが御大将が中山忠光様であることを承知の上でのことか!中山様の御身に危害を加えることまかりならぬ!代わりに我らが首を差し出す覚悟の上で出頭したものである。幕府による長年の圧政を正さんがために立ち上がりし我らを問答無用に討ち果たせとは不義不忠の極みである!義は我らにあることは明らかである。幕府に天誅を下さん!」

そう叫ぶと、敵将に向かって飛び掛かり斬り合いが始まり、武将を討ち取りました。その後、仲間と共に縦横無尽に動き回り大暴れした後に、銃撃を浴びて倒れたのでありました。紀州軍は、中山たちを追い詰めることはしませんでした。

吉村虎太郎はすでに味方の誤射で重傷を負っており、本隊に付いていけず、別行動をとっていました。

「辛抱せよ、辛抱せよ、辛抱を押したら世の中は変わる、それを楽しみにしろ」そう言って籠に乗り、去ったのでした。

しかし、途中で津藩兵に見つかり、武士らしく切腹をと申し出ましたが、許されずその場で撃ち殺されたのであります。天誅組の生き残りは七名、中山忠光と池内蔵太は命からがら逃げ延びたのでした。池内蔵太は後に、坂本龍馬の海援隊に参加することになります。 

吉野山風に乱るる紅葉葉は我が打つ太刀の血煙と見よ

 これを辞世の句として、吉村虎太郎はこの世を去ったのでありました。

吉野山が紅葉で赤く染まり、風に揺れているときは、乱れた世の中を正すために私が振るった刀から上る血飛沫が煙として立ち上っている姿である。私のこの辞世を聞いた皆が、吉野山の紅葉を見たら、私の戦いを思い出し、時が来たら勤王の志士として勇敢に戦って欲しい!

吉野山を紅く染める紅葉の葉が風に揺れてざわめくとき、吉村虎太郎が正義の刀を振るい、飛び散った血煙の狼煙を上げて見る者に知らせているのであります。

 

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の四十二

「坂本さんの言う通りじゃった。ワシは長州に行く」

長州から戻ってきた吉村虎太郎が、大柄な体を震わせて、息を弾ませて興奮した顔でそう言って土佐を脱藩したのは龍馬が脱藩する一か月のことでした。

大柄で普段はおっとりしている吉村が、龍馬が語る久坂玄瑞の話を熱心に聞き、話の真偽を確かめるべく長州に久坂に会いに行ったのは、龍馬が帰ったすぐ後のことです。

武市は理論派で、久坂の話を話すときは、要点を語るに止まるのに対して、龍馬は久坂玄瑞の話を詳細に語りました。龍馬は吉村たちと焼酎を飲みながら、その魅力を身振り手振り、玄瑞のモノ真似を交えながら面白おかしく語りました。久坂が高い調子で熱い持論を語り続け、ついには感極まって自作の漢詩を吟じる姿の真似をすると、龍馬の表情の可笑しさに、一同は大笑いするのでした。龍馬の話を前のめりになって聞き入っていた吉村が、龍馬の話の内容を逐一質問しては考え込んでいました。龍馬に、まあまあ、ワシの理解が間違っているかもしれないから、久坂に直接聞くようにと念を押され、吉村は今度は自分が武市の書状を届けに萩に行くことを申し出たのでした。

久坂玄瑞は、他国には媚びへつらい、不平等条約を結びながら、下々には厳重な身分制度で高圧的な態度を取り続ける幕府と諸藩に代わり、天皇の国を作る、そのためには藩の枠、身分の枠を超えた草莽の志士の力が求められている、是非、私たちと共に行動して欲しい!と吉村に頼んだのでした。新しき国を作るのは自分たち草莽の志士であり、あなた自身が動かなければなりません!そんな久坂玄瑞の言葉は吉村を奮い立たせました。

長年下士が上士に苛められてきた土佐に比べて、身分の低い武士が生き生きとしている萩に来て、吉村が土佐を見限る決断をするのに躊躇することはありませんでした。吉村は、筑前の平野国臣に聞いた、島津久光公が上洛するらしいですよ、との情報に興奮し、さらなる脱藩への意欲が否応なく高まったのでした。

 長州が米仏艦隊に敗れた後、813日に孝明天皇が神武天皇陵を参拝する大和行幸と攘夷親征の詔勅が発せられました。吉村は仲間らと共に、天皇の先駆けとならんと天誅組を組織しました。去る五月十日の下関での攘夷決行で久坂たちを率いた中山忠光卿を首領に抱き、義挙を計画したのです。

「領民に重税を課して苦しめ、上の者ばかりが良い思いをしちょる幕府に一泡吹かせ、天子様の政府を作っちゃろう!」

そんな血気盛んな若者の中に、那須信吾もいました。龍馬の脱藩を手助けした後に引き返して吉田東洋を暗殺した張本人です。那須は、行動で世の中を変えていこうという久坂の思想を龍馬から聞いて即実行したのでした。那須は、東洋暗殺後に脱藩し、久坂たちに合流し、天皇の国を作るという理想の実現へと向かっていったのです。

吉村、那須が長州に向かったのに対して、同時期に脱藩した龍馬たちが東に向かったことには、大きな違いがあったと言わざるを得ません。

吉村たちは理想に燃えていました。

 中山卿は、夕暮れの方広寺に呼び出されて行くと、数十名の志士たちが夕暮れの中で出迎えました。

 「吉村、今度は何用か?また長州に行くのか?」

「中山様、我らは大和の国にて天子様の大和行幸の先駆けをなそうと思います。天子様の御親政を実現したいのです。是非、主将としてお迎えしたく・・・」

「池君もおられるとは、何と頼もしいこと!」

五月十日の光明寺党の米国船砲撃に加わった池内蔵太がニコニコして一礼しました。

かくして中山忠光は、再び尊王攘夷派の神輿に乗ったのでありました。

かくして吉村たちは「天誅組」を結成したのです。

「諸藩の領民を幕府の重税から解放しよう」

天皇の国を作るとは、領民の暮らしやすい国を作ることでした。幕府の力の及ばない、天皇が支配する地域を作る。幕府に代わって天皇の威光が支配する地域を少しずつ増やしていくことが、皇国を現実化することである、まさに自分たちこそが幕府を倒し、理想の国を作るのだと思うのでした。

 しかし、吉村たちには、大和の国の地元の農民らの支持は全くありません。地元の領民に支持されずに領民を治めることなど出来ません。そこで、中山忠光卿に頼んで地元の狭山藩の大名に圧力をかけてもらうことにしました。

「私は天子様の侍従長である中山忠光である。帝の臣である。朝廷の命として、義挙に参加することを命じる。」

「はあ・・・」

対応した家老はあっけにとられました。すでに殿様は逃げ出していました。

徳川将軍の家臣である大名たちは、朝廷という権威にどう対処すべきか、全く分からなかったのでありました。中山たちは、狭山藩に銃などの武器を差し出させ、義挙に参加する約束をさせました。

かくして菊の御紋と七生族滅天後照覧と書いた旗を掲げた天誅組は、武器を準備して幕府の天領である五条に到着すると、代官所を包囲して代官鈴木正信に降伏を求めました。池内蔵太が空砲で威嚇します。そして、吉村たちは代官所に突入して制圧し、代官を捕縛したのです。

「ただ今より、ここ五条は天領直轄地といたし申す。」

吉村虎太郎が大声でそう叫ぶと、那須たちが歓声を上げました。中山忠光も、感動の涙を流しました。

天誅組は、桜井寺を本陣として、御政府を設立しました。

翌日、御政府は「本年の年貢は前年の半額とする」旨を宣言しました。かくして草莽の志士たちが、農民を幕府の圧政から解放したのです。

この話が京に伝わり、三条実美が使者として平野国臣を派遣し、平野は天誅組に自重を促すようにと説きました。

吉村は落ち着いた口調で、「本来、我が国の土地は朝廷の土地であり、幕府の土地ではありません。幕府は朝廷より統治を委任されたに過ぎません。朝廷が幕府の圧政から農民を解放することの何が悪いのですか!天子様の民である農民には、無駄飯食らいの幕府の役人どもを養う義務はないのです。我らは農民の年貢を半減します。当然のことをしたまでです。違いますか?」と説きました。

それを聞いた平野は言い返せませんでした。

「吉村さんの仰る通りです。民のこと、先々のことまで考えての勇気ある行動、この国臣、皆様のご覚悟に感服しました。素晴らしきことです!京の公卿の皆様に伝えます!」と、態度を翻しました。

一瞬で態度を翻した平野に、吉村は、そうであろう、そうであろうと得意げに笑いました。池内蔵太もニコニコと笑いました。中山忠光は、「はっはっは!」と大笑いしました。その晩、平野を交えた酒宴が開かれ、一同は新政府の樹立の喜びに酔いしれたのです。

この瞬間がいつまでも続いて欲しい、そんな天誅組の切なる願いはどれだけ続くのか。天のいたずらであろうか、まさか一夜にしてついえてしまうとは、誰も思わなかったのであります。八月一八日に、京で政変が起こったのでした。(続く)