歴史を学ぶことについて | あかり姫と坂本龍馬伝説

歴史を学ぶことについて

吉村寅太郎の辞世の句は、自分たちが戦いで流した血の紅を、紅葉に喩えています。これは、自分たちの戦いを単なる今の功績としてなく、毎年訪れる紅葉に喩えることで、自分たちの戦いを後世に伝えたいという気持ちが表れているように思います。

 

ところで最近、龍馬否定本を読むことがある。

 

作者の人たちによると、坂本龍馬関連の資料がどうも信用できないらしい。

「船中八策」は無かったとか、これを言った人の言葉は根拠が無い云々と。

 

考えてみると、歴史上の人物について、録音録画が出来ない時代のことについて、資料が残っていることはそうは多くはない。

多くの人は無名のまま生涯を終え、存在そのものについて資料が無いことも多いだろう。

資料がある場合というのは、役所なんかで公文書に記録があって保管状態も良いような限られたケースだ。

 

幕末は、比較的資料が残っていたりして、人物の足跡を辿ることが出来る。

龍馬について、著名人がどう言ったこう言ったというのが残っているし、同時代人が評価した言葉が伝えられて、その一端を知ることが出来る。

 

龍馬の話を信じるかどうかは、同時代人の人たちの証言を詳しく聞いて資料にしたモノを信用するかどうかでしかない。

 

長州の歴史なんか、仲間同士で殺し、殺されるの繰り返しだ。

上の人たちはさっさと死んでしまい、残された連中が内で争い、生き残った一部の人間が明治の元勲になる。

 

明治の元勲たちが、死んでしまった人を振り返ることは、そうは多くはない。

自分より上の立場だったり、嫌な思い出があったりして、人のことなど誉めたりしないのは、いつの世も一緒だ。

 

過去のライバルたちを振り返る前に、自分の今、今の政府をどうにかしなければならない立場の人間が、龍馬はどうだったということを話すヒマはない。

 

必然的に、坂本龍馬の功績を掘り起こすのは、当時の新聞記者とか、文化人の仕事になっていく。時代は先へ先へと進んでいくので、過去のことをどう評価するかというのは、傍観者の仕事でしかない。

 

私は、学問的になどという距離を置いた目線で龍馬を見るのではなく、龍馬が何を考え、どう行動したか、どんな仲間がいたか、龍馬と友達になる感覚で、同時代を生きてみようと思っています。

 

幕末を生き残るのは大変です。噓くさいと思うか、龍馬さんに付いていくか、選ぶのは自由です。身分が低い分際で!と不愉快に思う人も大勢いたはずです。

 

俺はこんなことがあったとは思わないんだよな!と思う人もいれば、龍馬さんなら言いそうだよね、とすんなり受け入れる人、こればかりは読み手のフィーリングに委ねられることだ。

 

今という時代を、龍馬とその仲間たちと共に生きてみたい、私にとっては、歴史上の人物は、共に悩みながら前に進む友達です。

彼らも悩みながら生きていて、選択ミスや後悔もしている。本心は隠し、嘘を言うことも多いし、お上の様子をみて説を変えたり、陰謀もたくさんある。陰謀史観というモノもあるけれど、それはそれで一つの見方です。競争社会を勝ち抜くのに、きちんとした戦略を立てずに相手より先に出ることなどできません。手の内を見せたらやられてしまいます。常人に見透かされるような戦術で、生死を賭けた戦いに勝つことは出来ません。この意味で、読み手の能力が歴史上の人物に追いつかないという事態はごく当然のことです。

 

教科書に載っているからとか、評論家が認めているからとか、他人の評価で歴史を見るのはつまらない。人物は、今を必死で生きているのであって、他人との比較で評価されるために動いているわけではない。利害や考えが衝突すれば、昨日の味方が敵になるのが歴史です。

 

歴史に名を残す人物に興味を持った場合、教科書や学問的な、ドライな視点ではなく、自分自身の目で、その人物の人生を追体験する方が、得るものが多いはずです。当たらずとも遠からずくらいまで人物像を絞れば、歴史上の人物の肉声が聞こえてくると思います。

 

どうしてこの人が評価されているのか分からないとしたら、それは、時代の価値観が変わり、感情移入が出来なくなっているからということもありえます。今を生きる我々も、おそらく後の時代の人に評価されるよりも、今の時代の人に評価されることの方がいいに決まっています。だから、歴史は評価するものというよりは、その過去の一時代を共に生きることだと思います。むろん、昔に戻ることは出来ませんが、歴史上の人物を友として、共にトライアンドエラーを繰り返すことで、今という時代のリアルワールドを力強く生きることができると思うのです。