あかり姫と坂本龍馬伝説 -2ページ目

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其ノ四十六

8月18日の政変で、薩摩と会津に突然都を追われた土佐藩と長州藩の権威は地に落ちていました。元々外様の長州は別としても、譜代の土佐藩にとっては、藩と殿様の面子が地に堕ちた衝撃は大きなものでした。ただでさえ身分格差の強い土佐で、上士たちが尊皇攘夷を主導した土佐勤王党に怒りを向けたことは言うまでもありません。身分の低い勤王の志士、「草莽の志士」にとっては、勤王がいとも簡単に実力行使で倒されてしまった、幕府側の恐ろしさを思い知らされたのでありました。

 

「武市さん、今の土佐は、勤王派の弾圧に踏み切っているようです。戻るのはお止めになるべきです」

久坂玄瑞は真剣な眼差しでした。

 

武市は空を見上げました。

「私は土佐の殿様の家臣です。いついかなるときも、殿様のために尽くす義務があります。」

 

「お気持ちは分かりますが、我々も土佐についての新しい情報では、土佐勤王党に責任を被せるべく、吉田東洋一派が巻き返しを図っており、貴殿も帰れば身の安全すら危うい状況です。」

 

「命を顧みず、殿様のために働くのが勤王ではないですか?それとも命を惜しみ、お国よりもわが身を大事にせよと?」

 

久坂は下を向いてしばし考えた末に、顔を上げました。

「分かっていて命を粗末にすることはありますまい。松陰先生の飛耳長目です。土佐の情報も私たちの仲間が収集して日々伝えてくれております。京を追われたのは、土佐勤王党が吉田東洋を殺害し、土佐のご政道を歪めた結果であるとして、勤王党の人たちが次々と捕まっておるとのことです。」

 

「その情報が本当かどうか、私は確かめたいのです。松陰先生も、命がけで米国に渡ろうとしたではありませんか。お国にもし誤りがあれば、命を懸けて正論を申し上げ、ご政道をただすのが忠義ではありませんか?誰かが土佐の藩論を勤王に戻さなければなりません。」

 

瞳を見開いて、正面を見据えて語る武市の表情には、自信が漲っていました。藩の責任ある立場にある自分しか、土佐を引っ張っていくことは出来ないのだ、という強い自負が伝わってきました。

 

久坂は空を仰いでため息をつきました。この人にはもう何を言ってもダメかもしれない。身分が低く、何らの権限もない自分たち「草莽の志士」は完全に下に見られている。京を追われた自分たちの言葉で説得することは難しいように思えました。武市さんは藩の要職にあるものとして、藩の行政を改革する王道を突き進もうとしているのだ。武芸にも秀でていて、長身で鍛え上げた肉体には、土佐藩の将来を支えるだけの力があるのではないかとにすら思えましたが、他方で、やはりこの思い上がった態度は反発を買うのではないかという危惧を覚えました。

 

ー我々の確かな情報があるのに、逮捕されると分かっていて戻るのは、阿呆ではないですか!ー

 

久坂は自信に満ちた武市の顔に、正面から見据えて、鋭い視線を送りながら心の中で叫んだのでした。

 

武市は、動じませんでした。武士は藩の秩序の中でしか活動することが許されない、身分の低い者が勤王などと騒いだところで京を追われる体たらくではないか。藩全体を勤王に正していくこと、自分の与えられた立場の中で、日々尽くすことが大切なのだ。私は責任ある立場にある、一刻も早く戻らねばならない、答えは出ている、と。

 

藩の枠の中で、決まりの中でしか動けない、そんな中で殿様に尽くすことこそが勤王なのだという考えは、全ての武士が持っていた考えでした。草莽の志士が天皇の権威で幕府を倒すなど、長州と土佐が京を追われたという現実を前に、武市のような生真面目な性格の武士にとっては、所詮は夢物語でしかなかったのです。

 

さて、そろそろ夢から醒めて土佐に戻ろうかな、と武市が土佐に足を踏み入れたそのときに、どどっと押し寄せた土佐藩きっての武道の達人たちに囲まれた武市は、藩の動きのあまりの速さと有無を言わせぬ姿勢に内心驚愕しつつも、無言で肯いて、自ら任意同行に応じたのでありました。

 

自分の仕事に自信と誇りを持ち、自負を持っていましたから、この突然の藩の対応が理解できませんでした。各自の自主性を重んじ、皇国の為に何が出来るかを各自が考えて行動してきた土佐勤王党にとっては、吉田東洋の暗殺は、少なくとも首領である自分は知らなかったことであるから、堂々としていれば良いと思う武市でありました。

 

しかし、組織ともなれば、あらぬ疑いをかける者あり、妬みや嫉妬から、いかに他人を追い落とすかに執心する者がいるのはいつの時代でも世の常なのであります。

 

事情の変化に合わせて、行動を変えていくことも重要なのではないかという久坂の助言がありながら、情報を生かして行動につなげていくためには、忠義や義務という武士の職務を犠牲にしなければならなくなるので、武市にとっては受け入れ難いことだったのです。藩内での職務を全うすること、殿様への忠誠と云えども、勤王のためであれば犠牲にして構わない、そんな長州の者たちの助言は、軽くて無責任で、無邪気にすら思えた武市なのでありましたが、牢に入れられて、無意味に時間が過ぎてゆく今となっては、久坂の助言が身に染みる武市ではありましたが、職務を放棄して、脱藩してまで命を懸けるべき勤王などというものの、虚と愚かしさは、吉村虎太郎たちが身を以て示したことではないかと思うと、やはり土佐に帰る決断は正しかったと思うのでありました。

 

聞けば、岡田以蔵ら同志が次々と捕えられているという。一斉に詮議を受けるのであろう。ああいう実際に殺人に携わった連中の処刑は免れまい、だが、自分には害は及ばないだろう。

こんな楽観的な気持ちも出てきました。

 

今のお国に、藩を仕切れる人物が、自分以外に誰がいる?いないではないか。腰抜けで無能の上士どもに我らを処分することが出来るのか、出来るはずはあるまい。武市にはそんな自信がありました。

 

藩が滅んでも良いなどと久坂は言うが、薩摩と会津という幕府寄りの国の実力で、我が土佐は都を追われたのではないか。やはり土佐藩を勤王に変えていくことが必要であることに間違いは無い。かくなる上は、吉田松陰がそうしたように牢の中で出来ることをやるのみである、との決意を新たにする武市でありました。

高知りょうまスタジアム「あかり姫カップ」ー野本順三さんの思い出ー

2016年3月4日、あかり姫カップは決勝日を迎えた。

 

高知は500バンクということもあり、予想が難しく、なかなか当たらない。

山口幸二(ヤマコウ)氏の予想会も、結局当たらなかった。

 

あかり姫は、本場のスタンド付近とイベント会場の辺りでお客さんの応対をしていたけれど、弾けそうな感じで緊張感を漂わせていた。やはりプロである。

 

山口幸二氏は、姫カップのピンクのTシャツを着ていたが、どこかピリピリと怖い感じがして、迂闊に近寄れない雰囲気を感じた。大柄ではないけれど、無駄な肉が全く付いていない。予想会では、競輪の予想は難しいと言っていた。気難しい感じだが、正直な人なのかもしれない。

 

勝利者インタビュー後のタオル投げ入れで、見事タオルをもらった私は、そのまま相談コーナーの野本順三さんにサインを頼んでみた。

 

すると、野本さんは腰の低い方で、謙遜されながらも、快く応じて下さった。

 

野本さんは、ヤマコウさんにもサインをもらってくれると仰って下さり、タオルを預かって下さった。

 

その後、私はあかり姫をつかまえて、姫タオルへのサインをしていただいた。生で見るあかり姫も、冠大会ということもあってか、非常に緊張感を感じたが、サインに応じて下さった。

 

車券は全然だったが、間近で金網柵もなく見る競輪のレースは、他の競輪場では決して味わうことの出来ない迫力あるものだった。

 

これで入場料が無料なのだから、近くに住んでいる人は、高知競輪を観に行かない手はない。

 

そろそろレースも終盤、一抹の寂しさを感じながら、レースを観ていた。

 

すると、後ろから、トントン、と肩を叩いてくる人がいた。振り返ると、野本順三さんが笑顔で立っていた。

 

あのJJさんがスタンドまで来て下さり、ヤマコウ氏のサイン入りのタオルを渡して下さったのだった。

 

東京から来て、感極まった一瞬だった。この瞬間、高知で人の心の温かさに触れたのだった。

 

思えば、いろいろな会社の現場に派遣され、膝を壊すまで働いた。派遣屋は、次から次へと、間髪を入れず予定を入れてくる。

さすがにもう痛みに耐えられないと、逃げるようにして旅に出た私だった。野本さんにも、相談コーナーで競輪の話をしながら、そんな身の上話をしてしまった。野本さんは、温かく聞いて下さったのだった。

 

高知りょうまスタジアムには、競輪と共に、人の大きさ、包容力、温かさが溢れていると思う。

 

野本順三氏と山口幸二氏、両選手のサイン入りタオルは、私の宝物です。

 

野本順三さんには、心より感謝申し上げます。

明治維新150年を考えてみたー坂本龍馬は二度死ぬー

明治150年を終えるに当たり、どうしても書いておきたいことがあります。

 

今年は、坂本龍馬が教科書から消えるという話題がありました。

また、船中八策は無かったという説は、現代の価値観を色濃く反映していた視点であるように思います。

 

現代では、組織の責任ある役職の人が主役とされ、裏方やお膳立てをした人のことを主役と扱うことはしません。

 

偉い人がこう言ったから、その人が全てやっているという風に受け止められがちで、実際、そういう風に報道されて、社会はそういう扱いをする。

 

でも、実際は、裏でシナリオを書いて、お金を出す会社や組織が引っ張っているというのが実情だったりする。でも、その人たちが前面に出ることはしない。そういう視点で見ると、偉いのは藩の有力者であって、その背後で活躍した坂本龍馬が何かをしたとは言えないということになる。

 

実際、船中八策否定論者は、そういう視点で議論をしています。例えば、薩土盟約は、土佐では後藤象二郎がやったという扱いをすることになる。果たして、保守的な土佐藩で、勤王党を弾圧した後藤が、龍馬の助言無しに、薩摩と対等に議論をして、討幕に前のめりになったかと言えば疑問です。

 

そもそも土佐藩の役人が、積極的に幕府に敵対するような思想と行動に前のめりになるということ自体がありえない。坂本龍馬や中岡慎太郎のような下っ端のある意味、無責任な行動にそそのかされて引っ張られる形で土佐藩が薩長になびいていくという形を取るようにしたかった、というのが藩の立場ではないかと考えられます。また、後藤象二郎は、アイデアマンではなく、課題を人にやらせて自分の手柄にする代わりに、その人を立ててあげるよというタイプの人です。実際、後藤には、地下浪人の岩崎弥太郎に課題をやらせて自分がやったことにして提出した前科がある。先生の吉田東洋にお前が書いたんじゃないって見破られている。

 

「船中八策」という文書自体は未確認としても、ほぼ同内容の案を事前に相談し、共有していたからこそ、後藤は薩摩との協議に臨むことが出来たのです。

 

龍馬に限らず、海援隊は一級の頭脳集団でした。土佐にあって大政奉還をリードしたのは、龍馬とその仲間たちであることが分かります。

 

およそ幕府の肩を持つべき藩が、幕府を倒すような政治運動をすることは、認められていません。藩という秩序、ルールの中で行動すべき公務員である武士に出来ることには自ずと限界があるのです。

 

藩との関係が薄いからこそ出来る、その代り、何か疑いが向けられれば真っ先に斬られるという立場にある、それが龍馬たちでした。

 

文書が残っていなければ、無かったことになるのであれば、薩長同盟も存在そのものが怪しいということになります。木戸孝允が文書で龍馬に確認を求めなければ、薩長同盟は無かった説が支配的になっているかもしれません。

 

ではなぜ、文書が無いのか。それは、問題が重要であり、文書として残すには問題が大きいから、というのが最も大きい。ましてや龍馬のような身分の低い人が、お上を改革するような文書を残すのは時期尚早ということです。 龍馬の親戚の弘松宣枝や、ジャーナリストの坂埼紫瀾がこういうものがあったという口伝を元に書いたものが龍馬たちの思想の実体である「船中八策」として作られ、「新政府綱領八策」に発展したということです。「船中八策」程度の思想の実体があったからこそ、薩摩にとっても土佐藩が信頼に足りるとして盟約を結ぶだけの基礎があったということです。龍馬たちがお膳立てしなければ、薩摩に、お前ら徳川じゃんと言われかねない。

 

後の「新政府綱領八策」でも、具体的な内容を記すのは、やはり身分の低い龍馬としては、慎重にならざるをえなかった。○○○の部分は、みなさんの議論で決めましょうということです。この腰の低さが、龍馬が多くの人たち、特に身分の高い人たちにも受け入れられた理由ではないでしょうか。誰を盟主とするかは、万機公論した結果、自然と決することであって、特定の誰が入るということはないのです。

 

文書が無いもう一つの理由、それは、文書に書けない類のものは、全て暗唱していたということです。薩長同盟も、内容はその場にいた人しか知らないことで、自分たちが藩を引っ張るという立場になる。あまり指摘されないことであり、そして重要なことは、薩長の英雄+坂本龍馬は、合意内容を丸暗記出来る能力がある人として、仲間内で認識されていた人たちだったということです。合意した内容を忘れてしまったら大変なことになります。おっそろしく記憶力が良かったのは間違いありません。正直なところ、覚えていて当然という態度を取る薩摩の連中には、ちょっとイラッと来ます(笑)。このことに気付いたとき、私は、勉強しなきゃなあ、と痛烈に思いました。

 

龍馬が教科書から消されたのは暗記偏重の学習の弊害というタテマエなのですが、やはり暗記力って重要だなって思います。私は大人になってからというもの、暗記を軽視しがちなところがあり、それで損をしてきた面があって反省しています。暗記力の本を読むと、暗記は訓練が大事とのことであり、そういえば、中学高校の頃は、学校で覚える訓練をさせられていたっけ、と思い出します。大学に入って、そういう暗記力が弛緩してしまった気がします。

 

話を戻すと、明治時代になり、天皇の下の平等化が進み、評価されるべき龍馬の業績に光が当たりました。紫瀾たちがまとめた「維新土佐勤王史」は宮内庁公認、すなわち明治政府公認だったのです。つまり政府の評価に耐えるのが龍馬の業績だったのです。

 

戦後も、龍馬への評価が変わることはありませんでした。それは、平等的価値観が続いたことによります。

 

文書が無いからと言って否定するのは、もはや価値観が違うからということでしかありません。無かったことは証明できません。龍馬は意地で役人を志望したということを言う議論もありますが、龍馬を役人にしようという周囲の人たちの声は強くても、龍馬本人が、維新後、突然役人志望になるというのも奇妙な話です。

 

坂本龍馬を過小評価する人、危険視する人ってどんな人?と言えば、それは江戸幕府です。幕府は龍馬の危険性を一番よく知っていたのです。幕府の調査能力を舐めてはいけません。例えば、ある学者の家に長州の連中が集まっているという噂を探り、その学者の食事中を狙って新撰組が押しかけて連行し、拷問にかけて殺害して、遺体を家に帰した、といったように、恐るべき弾圧を行っていました。

 

龍馬が薩長同盟成立直後に幕府に襲撃されたのも同じです。坂本が薩長の間で動く重要人物であり、何かを知っているということくらいは、幕府は調査していたのです。また、土佐藩の大政奉還への陰に坂本龍馬あり、という確実な情報があったからこそ、龍馬は殺されたのです。

 

維新150年、坂本龍馬が教科書から消されたということは、明治維新の精神が終わりを告げ、ふたたび封建時代に戻った、ということを意味するように思えます。封建時代とは、身分制秩序が形成され、民衆はその階層パズルのピースとして息を潜めて生きていくことを求められる時代ということです。

 

幕末にタイムスリップしたのであれば、どうせなら土佐勤王党の仲間たちと勝塾に入門したり、亀山社中を作ったりしてみるのも悪くは無いのではないでしょうか。あいつらには近寄るなよ、危ないからな、という当時の村人の善意の忠告は聞こえてくるかもしれません。そんな中でお父さんの忠告を聞かずに隠れて松下村塾に通ったのは高杉晋作です。官学では対応できない事態に直面した時代には、実践的な学習と仲間が必要であると説く久坂玄瑞の熱弁に、龍馬は迷いが吹き飛んだことでしょう。150年前の志士たちの言葉に耳を傾けるとき、怖いけれどやっぱりカッコいいなって思ってしまいます。