フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の四十三 | あかり姫と坂本龍馬伝説

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の四十三

前述した平井収二郎らの周旋活動を山内容堂に告げ口する等、事あるごとに勤王の志士たちの活動を妨害してきた中川宮が、薩摩藩と会津藩を扇動して、京の警護に当たってきた長州藩を追い出してしまったのです。大和行幸は中止となり、尊王攘夷派の七名の公卿は官位を追われました。久坂玄瑞は、失意の七公卿を先導して、長州への険しく長い道のりを歩き始めたのでした。

すぐに吉村たちにもその情報がもたらされました。

「もはや、久坂玄瑞も長州の同志も、我々を守るどころではなくなったということか。」吉村は茫然としました。

「中山様は、朝廷における地位を投げ打って、我々と共に行動をして下さる。命に代えてお守りしなければ!」

那須は拳を握りしめました。

天誅組は、朝廷の権威と長州の武力という強力な後ろ盾を失い、もはや朝廷を追われ官位を失った中山忠光の威光にすがるしかありませんでした。天誅組は、地域に縁のある者もおらず、自分たちを守るために農民たちが一揆を起こしてくれるような期待もできず、朝廷の後ろ盾を失った天誅組は、一夜のうちに孤立してしまいました。

まず、吉村たちは、十津川の郷士を集めて軍隊を作ろうとします。「長州では、久坂たちが農民を集めて軍隊を作っていると聞く。十津川の武士は後醍醐天皇をお守りした由緒ある部隊、いざというときに命を投げ出して戦ってくれるはずだ。」

そんなことで天子様を守るための軍隊であるとして徴兵を始めました。この徴兵に疑問を持ち、朝廷の命令が出たという事の真偽を確かめたいと、玉堀と上田という郷士が中山忠光に話を聞きに来ました。

中山は、熱意をもって二人を説得し、命令の主旨を説きました。しかし、二人は本当に天子様の命が出ているのかどうか確認してからにすべきであること、長州は京都を追放されたという情報もある、勅命に反する行動には十津川は参加することは出来ないと、半日経っても納得しません。呆れ果てた中山は

「もうよい!そなたたちは本当に十津川郷士なのか?」

と、声を荒げました。それに気付いた那須が詰め寄ります。

「何じゃ、無礼者が!中山様の命に従えぬとは!どういうことか!」

「これだけ長い間、我らがことを根掘り葉掘り聞きよるとは!それでいて勅令に従わぬとは・・・さては幕府の隠密だな!」と叫ぶと玉堀と上田を捕縛しました。

天誅組は、朝廷の大義に疑いを持ち、説得を試みようとは許されぬことだ。我らに同調した平野殿とは違う。幕府の隠密の疑いがある。秘密を握った以上、生かして返すわけには参らぬ!。

隠密ではないという証拠もなく、死刑を主張する那須たちの意見に反対する者は出ませんでした。ついには那須たちは、玉堀と上田を処刑してしまったのです。仲間が血祭りに挙げられれば、他の十津川郷士たちは恐怖におののき、従わざるを得なくなったと言えましょう。このようにして半ば恐怖心から集められた十津川郷士たちは960名にも上りましたが、その実態は、何らの戦闘訓練もなされておらず、意欲も乏しい烏合の衆に過ぎなかったのです。

そんな中、京の状況の変化を察した高取藩が兵士の提供を拒否して離反しました。

―皇軍に対する離反は、即天誅を下すべきである―

この方針は諸藩に対しても貫かれ、戦闘が勃発しました。

高取藩兵は二百名しかいませんが、地元を知り尽くし、組織された高取藩兵が砲撃を開始すると、天誅組は何もできずに逃げ惑うだけでした。

そのうちに朝廷も天誅組の追討を推奨します。幕府は紀州や津から討伐軍を送り、天誅組は、民家を焼き払ってかく乱する等しました。

これを聞いた中山は、かような行為は皇軍の名誉を汚す行為であるとして、厳しく叱責し、自ら指揮を執ると宣言したのです。しかし、中山の指令も二転三転し、部隊は混乱するだけで、ついに逃げ出す者も現われました。困り果てた十津川郷士たちが中山に提言したのは、次のような内容でした。朝廷から天誅組の討伐命令が出て、我々はもはや賊軍となったという情報は事実である可能性が高い。朝廷の命令が事実であれば、十津川郷士としては逆らうことは出来ないので、中山様に戦闘の停止を提言したい。しかし我らの大将は中山様であるから、大将の中山様に命運を委ねます、と。

これを受けて中山は、「天子様の命令が出たのではもはや戦えまい、君たちを守るために、天誅組を解散する。私は武士ではない。君たちは玉砕するまで戦うなどというが、それでは朝廷に弓を弾くことになる。君たちは命を粗末にしてはならぬ。これで戦いは終わりにする。皆の無事を祈る!生き延びて新たな勅命が出る日を待とうではないか。」と、天誅組の解散を宣言しました。

かくして天誅組は、一斉に逃亡を始めたのであります。

途中の山道で、彦根軍の赤い鎧が見えました。中山は「もはやこれまでか・・・」とため息をつきました。那須信吾は「このままでは我らもろともやられてしまいます。私が彦根軍に突っ込み、時間を稼ぎます。その間に中山様はお逃げ下さい。私は奸物吉田東洋を斬った罪で追われており、国に帰ることも叶わぬ身です。本来ならとうに打ち首になるべきところ、これまで中山様のため、天子様の国作りのために働くことが出来たこと、誇りに思うちょります。私のこの腕で、幕府に一泡吹かせてやるつもりです。さあ、お逃げ下さい!」 

そう言うと、数名の精鋭部隊で出向き、情報があるのでお話したいと、彦根の陣中に入りました。「天誅組は見つけ次第殺害すべしとの命令が出ている」と聞かされます。

那須は、「我らが御大将が中山忠光様であることを承知の上でのことか!中山様の御身に危害を加えることまかりならぬ!代わりに我らが首を差し出す覚悟の上で出頭したものである。幕府による長年の圧政を正さんがために立ち上がりし我らを問答無用に討ち果たせとは不義不忠の極みである!義は我らにあることは明らかである。幕府に天誅を下さん!」

そう叫ぶと、敵将に向かって飛び掛かり斬り合いが始まり、武将を討ち取りました。その後、仲間と共に縦横無尽に動き回り大暴れした後に、銃撃を浴びて倒れたのでありました。紀州軍は、中山たちを追い詰めることはしませんでした。

吉村虎太郎はすでに味方の誤射で重傷を負っており、本隊に付いていけず、別行動をとっていました。

「辛抱せよ、辛抱せよ、辛抱を押したら世の中は変わる、それを楽しみにしろ」そう言って籠に乗り、去ったのでした。

しかし、途中で津藩兵に見つかり、武士らしく切腹をと申し出ましたが、許されずその場で撃ち殺されたのであります。天誅組の生き残りは七名、中山忠光と池内蔵太は命からがら逃げ延びたのでした。池内蔵太は後に、坂本龍馬の海援隊に参加することになります。 

吉野山風に乱るる紅葉葉は我が打つ太刀の血煙と見よ

 これを辞世の句として、吉村虎太郎はこの世を去ったのでありました。

吉野山が紅葉で赤く染まり、風に揺れているときは、乱れた世の中を正すために私が振るった刀から上る血飛沫が煙として立ち上っている姿である。私のこの辞世を聞いた皆が、吉野山の紅葉を見たら、私の戦いを思い出し、時が来たら勤王の志士として勇敢に戦って欲しい!

吉野山を紅く染める紅葉の葉が風に揺れてざわめくとき、吉村虎太郎が正義の刀を振るい、飛び散った血煙の狼煙を上げて見る者に知らせているのであります。