フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の七
龍馬さんは仲間を作るのが上手かったようだと書きました。しかし、それではどうして勝先生の門下になってから、友人や親戚を連れてきたのかという疑問がわきます。龍馬は凄い人なんだから、何もわざわざ地元の連中を呼び寄せなくてもいいんじゃないかという疑問です。
まず、龍馬の最初の江戸での剣術修行のとき、入門したのは小千葉道場という千葉周作の弟の道場でした。練兵館、士学館、玄武館が、幕末の江戸の三大道場でした。前述の井口村刃傷事件の山田広衛も玄武館で修行しました。
前述したように、土佐藩では上士と下士の身分格差があり、下士は日頃から不満を持っていました。江戸に出ても地元の身分格差はそのままです。恐らく、玄武館でも土佐藩の上士たちの師弟が徒党を組んでいたと考えられます。そんな中に下士が入ったらどうなるかは、容易に想像できます。
身分格差の格下がポンと入って来たら、袋叩きにされかねない怖さがある。コミュニケーションでは突破できないのが身分です。玄武館は遠かったという説もありますが、全国の著名な学生が集まっていましたし、剣豪の千葉周作に直接指導を受けられるのは何物にも代え難いメリットです。
でも、龍馬は危険を冒してまで玄武館には入らなかった。あいつらがいたら俺はどうなるか分からんぞ!という思いだったのでしょう。まあ弟さんの道場だけど、小規模でアットホームだし、娘の千葉佐那ちゃんも可愛いし、千葉道場なのは同じだし、いいかなあと。そんなところでしょう。
師匠にも気に入られ、娘の佐那ちゃんとは結婚寸前までいったようですから、龍馬にはこちらの方が合っていたということなのです。そういう意味で考えますと、自分に合うところを選ぶのは大事だなあと思います。一流だからここという発想ではなくて、自分がやっていけるかどうかを冷静に考える。要は、自分にとってのメリットとデメリットを冷静に考えて、あくまで自分にとって利の多い方を取るという発想です。龍馬の場合、そういう感覚が特に優れていたように思われます。
そうです。今は脱藩して勝先生の門下にしてもらったのはいいけれど、土佐藩の上士の師弟たちが大量に押しかけてくる危険があるわけです。そうなると、独りではブロックアウトされてしまう危険がある。だから、自分と同じ下士や友達を連れてきて、徒党を組む必要があったのです。いってみれば、土佐勤王党の結束を勝塾内でも作り出す必要があったわけです。その意味で、龍馬にとって仲間を作るのは、得意だからというのではなく、生きるための手段だったといえます。
それにしても、よくぞまあ勝先生も、土佐の下士連中を受け入れたものです。龍馬なんか、今や脱藩の身、今でいう「住所不定無職」ですよ。20代後半、住所不定無職の浪士(剣術は得意です)を雇って、その親戚や友達を受け入れるわけですから(間違って那須信吾なんかが来たらとんでもない話になりかねない)。
今だったら、どうでしょうか。船舶に乗る国家資格を取るには、専門の学校を修了する必要があります。住所不定無職では学校にも入れません。勝先生は、最初、龍馬を怪しく思っていたはずです。松平春嶽はなぜこんな奴をよこしたのかと。そこで、龍馬をテストした。「松平春嶽から資金を引き出して来い」と。
龍馬は見事、松平春嶽から5000両もの資金を引き出すことに成功したのでした。これによって初めて、龍馬は勝先生にその存在を認めてもらえたのだと考えられます。浪人なんて、そんなものです。結果を出してナンボなのです。
う~ん、勝先生、こうして見るとかなりハチャメチャなようにも見えます。ただ、今の時代を生きる私から見ても、勝先生の懐の広さは、とても眩しく見えるのです。龍馬は、藩を抜け出したところで初めて、自由を享受し、最高の師に出会うことができ、チャンスをつかむことが出来たのでした。
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