今日の日系の経済教室に知識社社会と企業「暗黙知と形式知」が取り上げらていた。1年半ぐらい前にこの言葉に接し、それに関する研究をしている人と少々話をしたことがあった。

 形式知は言葉や文書で表現できる客観的で理性的な知であるのに対し、暗黙知は・・・主観的で身体的な知である。具体的には思い、視点、心象や、熟練、ノウハウなどがあげられるが・・・
 企業としては、まず個人が経験を共感することによって暗黙知を獲得する「共同化」により、独自の・・・そうして蓄積された暗黙知は、主に対話により明確な言語ないし概念として表現され形式知となる。経験を共有していない第三者にも理解可能な言語・概念・・・に暗黙知を変換していく・・・

 これは経済だけでなく日々の生活でも一緒のことだと思う。学者が分析して体系化し表現すると上のようになるのであろう。

 障害者の小規模作業所に参加した意義は、その中で短い期間であるが自分が情報誌の発行という経験を共有しそこのひとと共感し、そこの暗黙知を蓄積したことであろうか。
 ただそこでとどまっては単なる体験研修にすぎないので、蓄積した暗黙知を他者と共有するべくこのBLOGで客観化し、同様の他の形式知と組合せていかなければならないのだろうと思われる。
 その作業にはITの有効利用により効率的に行える時代になったのだ思う。
 自閉症を取り上げた番組で、そういった家族ががんばる姿を紹介した最後のほうで、自閉症を抱える家族のかたが必死にがんばらないで生きられる社会を作れるようになりたいものだと訴えていた。
 
 勝ち組と負け組み分かれてしまう社会状況の中でそれはなかなか難しいのではと思う。

 弱者を作り上げるあげる制度の中で、共生というおなじ目線での支えあいは成り立つのであろうか。

 そのさいの支えあいの土俵はスローライフ的でなければ共生関係は成り立ちにくいと思える。
 
 地域通貨等の様々な動きはあるのだがまだまだ限られた部分のみで普遍化のきざしは感じられないのだが・・・
 漫画に犬夜叉がある。アニメにもなり人気があるものだ。犬夜叉のシーンの中で犬夜叉は半妖のため、感情が爆発し制御できなくなるとみさかいなく殺戮をしようとするものがある。感情の制御が困難になるのが人間ということだがこれを制御することができないとわれわれの社会がうまく成り立たないのであろう。それは障害者であるか否かに関係ないことなのだろう。
 ある脳卒中障害者のコミュニケーションについて触れてある文書を読んでふと思い出しました。
 脳卒中障害者の小規模作業所に参加して、ふと「なさけは人のためならず」という言葉を思い出した。
 古典落語で読んだことがあったが、ようはなさけは人のためではなく、自分のために つまり まわりまわって情けをかけたことが自分のためになるということであった。
 障害のあるかたとの接し方にいまいちおさまりが良くないのだが、最近は子育てと同様でいいのではないかと思っています。
 肩肘張ると、どうしても障害者への注文が多くなりそうな気がするので、細かいことは気にせずというのがいいのかなと思っています・・・。
 以前TVでクラクションを鳴らすのに待てる時間をアメリカとの比較実験する番組をみたことがあった。日本人もほうがアメリカ人に比べて短いという結果であった。
 自分も短いほうだが、今回のNPOへ参加を通して意識への刷り込みがあっあのだろうが、弱者と見える人への対応が変わったようである。というのは、某高級スーパーの駐車場から出る際、前の車が駐車場を出て大通りでる出口の少し前で止まり、スーパーから出てきた年老いたご主人が車のトランクに積み込まれるということがあった。
 スーパーの屋上の駐車場から出たのであるが、そのスーパーにはエレベーターもありカートもあるので体が不自由であっても駐車場まで荷物を持っていけないわけではないので、単にめんどくさいのか、何らかの理由があり時間を短縮するため一方がレジしているところで一方が車を出しにいったのだろうと推察される。 事情がわからないので、その車が出るまでじっとまっていた。後続の車もしばらくはじっとしていたが、クラクションを鳴らし追い抜いていったのである。
 自分は老夫婦で何か事情があるのかと思いじっとまったわけであるが、以前であったら事情がわからなくても、交通ルールに基づき対処していたであろう。 そういう意味では、障害者の状況を知らせることも共生社会の構築には必要なのだろうと思う。
 ただ、この老父夫婦も詳しい状況はわからないが、ハザードランプをつけるとか後続車への配慮がないのは、逆に相手の譲り合いの精神をそぐ危険性があるということを認識してもらうようなことも同時に必要なのだと思う。 
 自分だけの努力ではいかんともしがたい状況を打破するべく、知り合いの某病院の理事のかたを交えて作業所のかたと話し合う場を設けました。
 
 それなりに話はできましたが、昔TVで差別について実感させるためのワークショップのようなものを見たことを思いだしました。確か瞳の色で差別を設けて自己の行動が制限されることを体験させるというよなものだったと覚えています。

 また、情報誌の発行という技術的なサポートもさながら、こういう事業に関わる人へのカウンセリング的な機関がないものかと?とも思わされました。

 本屋で何か参考になる本はないものかと探したところ
  


著者: 安田 泰敏
タイトル: 命を救う「ふれあい囲碁」

 という本を見つけました。これに関するホームページもあります。
 
 ざっと見たところ、境界なく協働する目線をゲームをとおして自然と実につけれるいいものだと思われます。

 こういうものがあるとサポートの関心のないかたともコミュニケーションがはかれていいのではと思います。
 特徴的なことは、脳卒中の後遺症はダメージを受けた脳の部位により障害が異なるため、障害者のニーズが多様で個別支援が難しい。また若い世代でも発症し、20代から50代にかけての脳卒中障害者もいるということです。

 予算としては、収入が会費・行政助成金・民間助成金・事業収入・寄付出、支出が活動事業費・事務管理費・人件費です。不正確ですが規模会員数130名で約年間1600万円のようです。

 主な活動内容は、
外出    一泊旅行、ハイキング
リハビリ  言語教室、スポーツ教室、パソコン教室
趣味の集い うた会、グルメの会、鑑賞会・・・
外出支援  移送サービス
事業    情報誌、会報誌

 団体の目的
仲間の励ましが大きな役割を果たす
リハビリテーションの体制が不十分なのを補う
同じ仲間の集まりにより自身をつけて社会復帰への橋渡しをする
少しでも希望のある人生を送らせたい
仕事・生きがい・役割を見出したい

 このあたりまではどのような分析ノウハウを使おうと同じ結果になると思われます。このような団体は全国にかなりの数があるようです。

 行政が運営する場合、市町村ごとの協議会、県ごとの協議会、全国の協議会あるいは法人を作り、会費を徴収し、総会、各委員会を設置し・・・というパターンが多いかと思います。
 この方式では昨今は小回りがきかず、会員の個別のニーズにこたえられない状況におちいっていてNPOなどが代替機能を担わされているのだろうと思います。

 今後というか将来どのようにしていくか・・・
 



 グローバル化や技術革新によって社会環境が大きく変化し、個人主義が急速に広がりつつあるようですが、所属する組織や社会の方は、依然として旧来のパラダイムから抜け切れていないことを「囲い込み症候群」というそうです。
 組織や社会をどのように変えていくべきか考えるための言葉のようです。

 今日の日経新聞にその紹介記事があったのですが、パラダイムを変換していける組織は、所属する個人が、所属する組織以外の人たちと交流することによりそれを実現可能としているようなことが記載されていました。

 自画自賛になりますが、自分がNPOへの短期派遣研修に参加し、新たな人々との交流ができ、既存の交流者との交流方法に変化を生じさせていることは、ある種交流を活性化することにつながっていると実感しています。

 交流の促進にあたり、BLOG等は通常のコミュニケーションの限界を取り払う手段として有用に思えます。



著者: フィリップ カーター, ケン ラッセル, Philip Carter, Ken Russell, 藤野 邦夫, 七田 眞
タイトル: 右脳・左脳開発ドリル―バランスのいい脳をつくるMENSA式トレーニング

 いまいち案が思い浮かばないのでこの本で能力トレーニングをしています。確かにある部分はまだまだ鍛える余地があると実感しています。

 今日の中日新聞に痴呆の予防に簡単な計算等を音読してこなすことにより脳が活性化するという記事がでていたが、能力開発についてもっと研究が進めば脳の障害者にもよいと思うのだが。
(有)オブジェクトデザイン研究所を参考にしています。

販売するものの品質について 良質と言われるのに必要なものは以下のものである

 生き生きさ
    情報誌を読んでみて生気がわいいてくるか
 全体性
    部分は自由であるが全体あっての部分なので全体と共存共栄である
    情報誌という雑誌の統一性だけでなく
    作成者と読者も共存共栄可能な一体的になれることが必要?
 居心地の良さ
    情報誌を読んで役立つか
 とらわれのなさ
 正確さ
 無我(作り手の意図が強すぎない)
 調和がとた自己維持能力

上記のことを実現するのに重要な役割をはたすのは情報システム?
単なる部品の集合体ではない全体最適を実現するのがコーディネーターの役割