ここからは私が生命倫理学についてなぜ、批判をするのか申し上げます。

おそらく、なんで私がこれほど生命倫理学批判をするのか、お分かりにならないかたも、おられると思います。

あなた方の周りに難病に苦しまれている方や、例えばSCIで車椅子の生活を余儀なくされていらしゃる方がおられますか?


私の周りにはおります。


そういった難病に立ち向かう多くの医学者がおられることも、多分、ご存知だと思います。例えば慶應義塾大学医学部の岡野栄之先生は、車椅子の生活を余儀なくされていらしゃる方が再び、立って歩けるようにと神経の再生の研究に取り組まれているときいております。



ところが、例えばヒトES細胞の研究をはじめ、医学基礎研究に様々な規制が掛かっていることはご存知のかたがどれほどいらしゃるでしょうか?



日経新聞2010年12月19日(岡山版)


*膵臓の疾患を待たれている方は以下の記事を注意深く、お読みいただきたい。
UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ

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「・・・・・・・・禁じられているため」というのはいつ、どの様な理由で、誰が「禁じた」のか、答えられる方が、国民の中に、何人いらしゃるでしょうか?・・・・でも禁じられているのです。


先ほどのSCIの方の治療には、必然的に高等哺乳類での実験が欠かせません。ところが大谷大学大学院の先生の中にはサルの背骨を人工的に折るなどは倫理上、あってはならないことだといわれる先生もいらっしゃいました。


ES細胞は正確には胚から由来する細胞であって胚そのものを利用する研究ではないのに、「人間の尊厳を冒すものだ」という学者の方も多くおられます。「人間の終焉のはじまり」(東京大学大学院教授:高名な宗教学者である島園進先生)と述べている学者もおられます。


我々が直接関わりあう医療の問題が、一部の生命倫理学者や、さらにはカルト宗教の研究者に決定権を委ねられてよいのでしょうか?





UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ




イランの大統領がネクタイをしないのは暑いからではない。


ネクタイをする事は相手に対して失礼だからである。



ネクタイの起源ははっきりとしないが、十字軍と関係があるとも言われている事を考えれば当然の事だ。イスラームの国々ではネクタイをはずしてくれと注意を受ける事もある。



日本の常識が世界中で通用するわけではない。欧米の常識が世界中で通用するわけでもない。国際化というのは、英語を学ぶ事でもないし、欧米の文化だけを取り入れる事でもない。イラク戦争でフセイン大統領が拘束された時のことだ。NHKの生放送を見ていたら英語の部分は同時通訳が出てきて訳している。ところがアラビア語の部分になると現地からのニュース中継が中断されて、日本のスタジオに戻る。NHKでさえ、すぐにはアラビア語の同時通訳を用意できなかったのだ。





長山はスポーツ団体の指導員の資格を持っているし、また、実際に指導もしてきた経験がある。ダイビングのインストラクター資格だ。はっきりいって簡単な資格ではない。修得には地獄のような訓練を経験してきた。毎日何キロも泳いだ後に、足の立たないところで重りをもって立ち泳ぎ1時間とかの世界だ。


ライセンス・カード
UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ

(*これは現在では、めったに見ることのできないPADI潜水協会のライセンスである。PADI潜水協会とは現在のPADI JAPANとは、完全に異なる団体である。訓練者はダイビング・インストラクターの神様とまで言われた友竹新一先生(故人)である。尚、現在のレジャー・ダイビングのライセンス・カードと同一視することは不可能であることを付言しておく。)


だから、こう見えてもスポーツには一家言ある。




野球の面白いところは教育に通じるところだ。

たとえば、他球団をリストラされた選手が移籍して、指導者(監督)が変われば大活躍とか鳴かず飛ばずの選手が監督が変わって首位打者とかである。


こんな話を聞いた。


2軍の試合で打者にボールがかすった。その打者がデッドボールだと審判に抗議。それをみた2軍のコーチがその選手を呼んでいった。


本当にデットボールだとしても、当たっていないと審判に訴えて、もう一球練習した方が君の将来のためになるのではないか?


こんな話も聞いた。


少年野球のコーチの役割はもっとも副作用の少ない指導をすることだそうだ。少年野球では、必ず一流のプロ野球選手のまねをする子供が出てくる。たとえばイチローのバッティング・フォームをまねをする子供とかである。


それを小学生が真似をすると変な癖がついてしまう。徹底的に基本に忠実な指導が少年野球には必要であるから変則投法などは厳禁だそうだ。

塾も同じ。低学年のうちはテクニックより基本に忠実な指導が必要だ。


阪神の試合。

ワン・アウトで2塁に代走大和。打者平野はセンター前ヒット。大和はホーム・インしたが平野は2塁を欲張ってアウト。2塁は絶対に無理だ。だれもがそう判断する場面。ところが解説の有田氏の話に感動。


皆さんは平野の暴走と思われるでしょうが、違います。平野が一塁で止まれば、それを見た外野手は躊躇なくバックホームしたでしょう。そうすれば、タイミング的に大和はアウトだったかもしれません。平野は2塁へ「暴走」することにより大和のホーム・インをアシストするとともに、仮にバック・ホームされた時に自分が2塁に残って次の打者へつなげる走塁をしたのです。


平野も凄いが、そう指導した走塁コーチはもっと凄い。



厳しい受験体制で生徒を枠にはめてしまう傾向があるとも思われる私立キビダンゴ中高の生徒を教えたことのことだ。あふれるばかりの才能をもっている生徒にはありがちなことだが、まわりの人間がバカにみえてしまう時がある。

 

キビダンゴ中高の先生の数学の問題はなんで、あんなに酷いのですか?既存の数学の問題の数値を複雑にしただけの難問を実力テストにだして高度な問題に見せかけているだけではありませんか?

 

 

 

中2でよく気がついたなと感心しながら、上には上がいる、謙虚になれとは一言も言わなかった。キビダンゴ中学の先生ならきっとそういうであろう。

 

 

 

私は言った:君は何百万人にひとりくらいの才能をもっている。多分、僕が30年以上教えた経験のなかでも、十指に入ると思う。キビダンゴ中高の先生方はかなり優秀だとおもうが、君はそれより、はるかに優秀なのであるからABNORMALという言葉を基準から外れたという意味で使うのであれば、君がABNORMALなのである。自分より上がいないことの孤独と恐怖に打ち震えなさい。

 

 

出る杭は打たれるといいますが、出すぎた杭はもう打たれません。君の当面の課題です。この自覚を持って自分の才能に恐怖しなさい。

 


 

といったら、それからキビダンゴ中高の先生の批判はもとより、一切の他者の批判はしなくなった。彼はいまでもキビダンゴ高校創立以来の天才といわれているらしい。

(*ここでいう「部活」とは、主としてスポーツを主体とする、いわゆる運動部(体育会)系のクラブ活動であることを前提として説明します。)





UBQの卒業生で、部活に打ち込んで全国的なレベルの好成績を収め、なおかつ、難関大学に進学した人がいます。


その人のことを、UBQのある後輩が、





「あれだけ部活をしっかりやりながら、それでも難関大学に進むなんて、すごいことだ」





と評しました。





私はその生徒に対し、こう答えました。





「それは違います。部活をしっかりしているからこそ難関大学に進んだのです。部活も満足にできない、部活でだらだらと練習するような人は、受験勉強でもやはりだらだらと時間を過ごしてしまうものです










これは何も、統計をとったわけでもありませんが、しかし、社会でリーダーとなって活躍しているような人には、学生時代、何かのスポーツに打ち込んでいたという方も数多くいらっしゃるようです。












そもそも、部活と受験勉強の両立という言葉自体がおかしいのではないでしょうか?







「部活が大変だから部活をやめて勉強に専念する」と言って、部活を中途半端にやめ、それで学業成績が上がったなどという話は、あまり聞いたことがありません。





部活をだらだらとしていたような受験生は、結局、部活をやめたところで、それで浮いたはずの時間までも、テレビを見たりゲームをしたりして、やはり、だらだらと過ごしてしまうものです。





はっきり言いましょう!





部活が大変だから受験勉強ができない、成績が上がらないというのは、部活を言い訳にしているのです。





何でもそうですが、自分に言い訳をするような人間が、受験勉強であれ部活であれ、うまくいくとは思えません。







長山も、スポーツ団体の指導員の資格を持っていますから、スポーツの重要性については認識をしているつもりです。





特に体育系の部活の効能については、以下の3つがあると思います。












(■1)部活で厳しい練習をしておれば、その厳しさに耐えられるだけの精神的忍耐力・判断力が養われることです。それは受験勉強にも社会に出てからも、活きるはずです。単に根性論だけで、無意味な体力を損耗させるだけの部活は否定します。





(一例:地獄の東海大学潜水訓練センター:数キロ泳いだ後で、足の立たないところで立ち泳ぎを10キロの重りをもって訓練させられると。少々の海が荒れても冷静に対応できる。東海大学潜水訓練センターの厳しさについてはみんな誤解している。私の時も数人夜逃げしたが、ただ根性論や精神論で厳しい訓練をしていたわけではない。すべてが科学的な理論に基づいている。だから、私はライセンスを取った後も、2回も受講した。(警告ダイビングは体力でやるものではない!体力の限界を知ることにより安全管理に繋げるための訓練である。))


「部活で疲れた」。それはそうかもしれない。疲れたれたけれども、そこで養った忍耐力によって、もう少し頑張って明日の授業の予習をする。勉強を続ける。これが部活の目的なのです。










(■2)スポーツというのは、単にいたずらに、しんどい思いをすれば上達するという性質のものではないことです。





たとえば、水泳を練習していると、力の使い方がうまくなります。


平泳ぎをするとき、初心者は息継ぎの時に大きく頭を挙げます。練習することによって、エネルギーの使い方がうまくなるのです。ぎりぎりまで顔を上げ、息継ぎをすることを身につけます。


クロールでも、練習により力をセーブしながら速く泳ぐことができるようになります。上達している選手は、息継ぎの時に半分ぐらいしか水面に口を出していません。





このように、効果的な努力の仕方、すなわち、体力や時間をうまく使うこと、ひいては無駄な体力を使わないことを、部活をとおして学ぶことができるのです。





(■3)エネルギー・体力あるいは努力のバランス感覚が身につくことです。





どんなスポーツ(部活)でもそうですが、最初から最後までフルパワーでする必要はありません。





プロ野球の選手は、バッターボックスに立った時に、バットがすっぽ抜けて飛んで(飛ばして)しまうことがよくあります。


しかし、素人がそのようなことをすることはあまりありません。


つまり、プロ野球の選手は、比較的軽い力でバットを握り、瞬間的に必要な力を発揮しているそうです。





サッカーでも同じで、試合中、最初から最後までやみくもに全力で走っているわけではありません。


状況を判断して、ここぞという場合にこそ、全力を出しているのです。





ですから、たとえば、3時間練習をするとすれば、その3時間全部をフルパワーで練習するのではなく、効果的に乗り切ることのできる、バランス配分が身につくのです。












さて、以上の3点は、もちろん、スポーツだけに限った話ではありません。


勉強でもそうです。





ただやみくもに根性や精神論で、時間をかけてひたすら努力すればいいというものではありません。





社会に出てもそうですね。朝から晩までひたすら仕事をすれば成功するとは限りません。力の配分、時間の配分。努力の配分。





こういったことが身につくのが、スポーツの効能なのではないでしょうか。





これらはすべてにおいて通じることだと思います。







部活に打ち込み、その後難関大学に進学した、あるUBQの卒業生は、このような名言をおっしゃられました。





「部活というものは、それ自体が目的ではない。『努力をする」という才能を身につけることが目的である。受験勉強であれ、どんな仕事であれ、『努力をする』という才能は、いかなる仕事につこうが、どんな分野でも適用できるものである」








もう一つ:中学時代の陸上競技のコーチのお言葉です。20歳台までのベスト記録は・・・秒であった。それから。毎日、何時間も、練習を続けて引退するときのベスト記録は、それより1秒、縮めただけだ。1秒を縮めるために、毎日、何時間も猛練習を10年続けたことは無駄だとは思っていない。

























































































とても危険な教育論です。この前大阪で G 20が開催されましたね。

世界中からお偉いさんが集まってきましたね。

あの中で直接命令して人を殺したのは何人いるでしょうか?

夏休みの自由研究にしてみましょう。

100%先生から発表を止められると思います。

私は四人まで見つけられました。

世界の権力構造の大変な勉強になりますね。

発展課題としてノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領の殺した人数とどちらが多いのか調べてみましょう。

あくまで直接の命令によって殺された人だけにしましょう。

見て見ぬふりをしたり、無関心によっての間接的な人殺しは数えないようにしましょう。そうしないと(カッコ内は危険すぎるので自主規制しました)

それが学習塾であれピアノ教室であれ会話教室であれ生徒を募集するということが最も経営の根幹になります。

小さな教室というのは経営が行き詰まって閉鎖しても新聞に載るような業界ではありません。

それまであった教室がなくなったからといって誰も気に留めません。

客観的なデータがあります。

ある私立の中高一貫校では学習塾対象の説明会をするために岡山県内をはじめとする学習塾のリストを作り説明会の案内を毎年出しています。

次の年にそのリストに基づき学習塾に案内を出します。

そうすると大体半分ぐらいが宛先不明で帰ってくると言われています。

学校の元先生が集まって学習塾を作ったことが岡山であります。

本当は公務員の兼業規定に触れますからあまり良くないのですが現職の方向の先生がたくさん教えに来ておられました。

そこに経営顧問として声がかかりました。

どうも話が合わないのは学校の先生というのは生徒がいるのが当たり前だ。ということで生徒が辞めるという発想がないのですね。

私がこの生徒は近いうちに辞めるでしょう。次に辞めるのはこの生徒だ。

といってもその感覚自体がないのですね。

その通りに順番に生徒がやめます。

学校の先生方はどうしてわかるのですかと聞かれますから生徒の目を見ればわかるじゃないですかと言いました。

さて本題に戻って一番大変なのは立ち上げです。

と言いますのは飲食店と違って開店セールとか言って物珍しさで送る人がいないからです。

ある程度実績を積んでいないと保護者も不安ですから全く知らない塾に通わせることはあり得ないと考えます。

平成3年に学習塾を立ち上げたときのことです。当時はネットも普及していませんでしたから、新聞の折り込みチラシを撒いたのです。

現在では新聞の広告チラシというのはほとんど効果がないと言われています。

と申しますのは新聞自体を取っていない家庭が増えていること。何よりも新聞を購読しているご家庭の高齢化です。

現在新聞をご覧になられれば高齢者向けの介護や老人ホーム、健康情報相続、等ばかりですね。子供もいないお年寄り世帯にどんな人広告を出しても効果がないわけです。

マーケティングリサーチをしてみると新聞の配達数というのは地域によってこれほど違うのかということがわかりました。

地元のローカル紙が少なくて日経新聞とかの全国紙の購読率が高いところを中心に新聞広告チラシを出したのです。

当時携帯とかメールは事実上ありませんでしたから教室でガタガタ震えながらずっと電話番をしておりました。まだ暖房つけるお金がなかったのですね。

そうしてちらほらと問い合わせが1日に一件二件あります。

そうこうするうちに口コミで少しずつ生徒が増えてなんとか今まで学習塾を経営してくることができました。

こういう苦労したことのない人間は生徒がいるのが当たり前だと思っている方は学習塾経営には向いていないのではないかと思われます。

さらに本題です。当時は個人情報にやかましくありませんでしたから一番効果があるのは DM を発送する代行業にお願いすることです。

どうやって名簿を手に入れてるのかはわかりませんが少なくとも必ず中学生や高校生のいらっしゃる家庭に届くことは間違いありません。

費用を考えれば最も効果があった広告と言えます。

ある中高一貫高校のご家庭に DM 発送を依頼すれば一人や二人ぐらいの生徒は人必ず入ってきました。

ところがその学校ではニュースで知ったのですが交通事故で在学中にお亡くなりになられた方がいました。

DM 発送の代行業者にお聞きしますと古い名簿に基づいてるのでそこまではチェックしていないとのことですのでDM 発送をやめました。

亡くなった娘の成人式に合わせて着物の案内の DM が来るほど辛いことはありません。

だからその学校に DM を送ることは一切止めたのですが誰も褒めてくれません。学習塾って悲しい仕事ですね。

さて話をさらに続けます。時代は変わりました。現在ではネットで調べて教室を選ばれる方が増えているようです。

大手塾には大手塾の良さがありますが、資本力とは無関係に小さな教室が頑張っていらっしゃることをハッシュタグを使って理解できます。

特に私がすごいなと思う学習塾やピアノ教室英会話教室で具体的な内容を書いている教室です。

数学の問題を自分で解いてその模範答案をブログであげている塾というのは信頼がおけると思います。英語塾で具体的な英語の用例をネットで解説してる教室も信頼がおけます。

本当に教える事が好きな先生方ばかりなのでしょうね。

私はネットで模範解答を上げるのは怖いのです。
もし間違っておれば致命傷になりますからね。

大手塾の一部に見られるようにセールストーク専門の営業スタッフがいるわけでもなければ資本力があって大量の広告も出していらっしゃらないようですが、本当に生徒のことを考え一所懸命自分で問題を解いているということは学習塾選びの重要なヒントになるかと思われます。













 

 

かつて、愈愈、身辺不如意になったときのことだ。
毎日モーツアルトのレクイエムを聴いていた。
カール・リヒターの指揮だ。静謐極まりない演奏は慰藉そのもの。

次に身辺不如意になったときにはもうレクイエムは聴けなかった。

私の悪知が増したからだ。知恵にも色々ある。
ラテン語の歌詞が理解できるようになっていた。

♪われらツィオンの丘に・・・

ツィオニズムの名の下に如何に多くの血が流されたか。

♪かつてアブラハムに約束したように・・・・

あの約束さえなければ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

ワーグナーと言うのは派手な音楽であり、勇壮なハデハデしい軍歌のような音楽だと勘違いしてる方が多いように思います。これは映画「地獄の黙示録」のテーマ等に見られるように映画で戦闘シーンで使われること。なんといってもショルティの指輪の演奏に基づく誤解だと思います。

 

ワルキューレの騎行というのは戦闘シーンではなく死者をワルハラに連れていくための鎮魂のシーンです。そして愛する二人の情に打たれて、ボータンの命令に背き・・・・という伏線なのです。そのあとの情愛の切なさ!



実際にバイロイト音楽祭でワーグナーを聞いてみると最も感動する部分は弱いppなのです。音楽がデ・クレッシェンドしてすーっと暗闇の中に消えていくこの切なさ悲しさ苦しみ。

 

*オペラと楽劇の違い・前奏曲と序曲の違いは、途中で拍手が起こらないことです。

 

 

これがワーグナーの最大の魅力だと思っています。

 

カリブ海のパック旅行にいった時のことです。


とりあえず自由行動時間に、日本人有志が集まってタクシーを借り切って観光地を巡ることになった。と言ってもみんな不安ですし、日本的文化により同行のお客様全員が集まった。



なんとなく、私がまとめ役を頼まれた。知らない街で一人じゃ不安なの。みんなで一緒に行動しましょってさっきから話し合っていたの。そのなかでも長山さんが一番交渉ができそうだからお願いしようってみんな言ってたので・・。

 

 

わかりました、ドライバーさんとの交渉は私がします。その前にぜひとも記念写真を撮りましょう。

 

その中の一枚。

 

 

後でなんでトイレの前でこんな写真を撮ったの?

 

と聞かれたから。

 

私がこんなにニコニコしているときは何かを企んでいるの。ちゃんとタクシーのナンバープレートとドライバーさんが写っているでしょ。すでにGPS情報付きでSNSにあげましたから。

 

皆さん絶句。でも、やっぱり長山さんに頼んで正解だったとみんな言ってくださいました。