軍曹!時間だ!… -33ページ目

戦車今昔物語(その1) 2.自動車隊での思い出

2.自動車隊での思い出

 

 大正八年と云えば、ちょうど欧州大戦の終わった翌年であるが、大戦における戦車の価値が世界各国に認められ、我が国においてもこれの研究に着手することになった。当時、私は大尉で陸軍歩兵学校の研究部に勤務していたが、その研究をやれという御命令を受けた。まずそのために自動車というものを知らねばならないというので、今度の事変で戦車の部隊長として北支房山付近の戦闘で率先陣頭に立って勇戦奮闘したために両眼を失明し、現在は久留米で療養している馬場英夫少将(当時、我澤中尉)と二人で下士官数名と共に、先日まで名を残していた陸軍自動車学校の前身である陸軍自動車隊に自動車に関する学術練習のため六ヶ月間派遣される事になった。これが私の戦車入りをした初まりで、ついに足かけ十年の歩兵学校連続勤務の記録を作ることとなった。いかに御勤めとはいいながら足かけ十年というと技術本部などにはあるかもしれんが、ちょっと……。

 

 その当時、各方面から自動車隊へ将校が派遣され、堀池少佐(堀池末男少将)を先頭に七名ぐらいであったと記憶する。私共は戦車では、まず英国製四号型戦車で教育を受けた。

これは重量約三十トンの重戦車に属するもので、その速度たるや牛が駆ける程度でしかも少し長く動かすと過熱して動かない。故障は続出する、またその操縦のしかたは極めて原始的なもので、車長がバンバンと側板を叩くとその合図で中央両側にいる者が変速レバーを操作するという方法で、まことに珍妙にして厄介なしろ者であった。

しかし、この四号型戦車も1917年11月のカンブレーの戦闘では大いに功績を立てたのであった。その戦車は今でも靖国神社境内の国防館前にあのグロテスクな姿を残して雨風にさらされ黙ってうずくまっているが、いつも靖国神社に参拝するときは、そのまま通り過ぎるのが済まない様な気がして、自然に安否を訪ね、からだを撫でたり、中を覗いて見たり、なんだかもう一度中にはいって操作して見たい様な懐かしみを感じる。

 

その他に操縦したのは、英国製中型A戦車(別名ホイツペット)、これは欧州戦の末期頃に出て来た全備重量十六トン位で、その速度は馬が普通に駆ける程度で一時間十四キロというが、とてもその速度で連続一時間は考えられないものであった。しかし、それでもこの戦車は欧州戦当時では快速戦車としてその優秀さを誇ったものである。我々の操縦したものも弾痕があるから確かに歴戦の勇士であったに相違ない。その頃から見ると現在の戦車はまるで別種の兵器を見るほどの進歩で、種子ケ島と自動小銃か、月とスッポンの差がある。しかし、この牛馬式戦車でもそこに達するまでには並々ならぬ苦心があった事と信じる。

 英国でも欧州大戦当時作った戦車は一号型より八号型(九号型?)に及び、その各号が又いくつかに分かれ、その外に別型のA型(B型が出来たのは大戦間かもしれない)もできたのでその種類も三十種に及んでいると思う。これらは英国の戦車学校だっただろうか、製作順に陳列されてその苦心の跡を物語っているのである。

 それから英国製装甲自動車の操縦も教わったが、その当時は我が国でも四トンあるいは三トン自動車貨車に鉄板を張って武器を備え付けたものもあって、その頃シベリア事変なんかに役立ったように聞いている。

 

 自動車隊では自動車の学術が主であったが、操縦において私は派遣将校中で成績が最劣等であった。元来、人間が不器用の上に鈍く出来ているので、どうも脳の命令に対し手足がすぐに応じてくれないらしい。そのため、時には堅パンを積んだ荷車を泥道の真ん中にひっくり返して弁償させられたり、時には急カーブの所で前照灯を電信柱にぶっつけて壊したり、あるいは橋の欄干をへし折ったりしてずいぶん面目をつぶしたことを覚えている。もちろん、私ばかりではない。肥桶を積んだ馬車にぶっつけて大通りに糞尿の大洪水をつくった者もいる。また、夜間の無灯火行進で過って道路外へ飛出し断崖のある小川の寸前に急停止をして三斗の冷水を頭から浴びるほどびっくりした事もある。この時だけは私も帰り道に正宗の大きなのを一本求めて自宅で命拾いの祝杯をあげたことを今だに忘れられない。

 

【補足説明】

■欧州大戦、欧州戦

第一次世界大戦の事である。

当然のことながら太平洋戦争を含む第二次世界大戦は起こっていないから第一次世界大戦とは書きようがない。

■英国製四号型戦車

いわずと知れたMk.IV(マークフォー)菱形戦車

Mk(Mark)を「型」ではなく「号型」と訳していたようだ。

■英国製中型A戦車

英名では「Medium Mark A Whippet」であるから「A型中戦車ホイペット」となるのかな?と思うのだが、「中型A戦車」という訳しかたである

別名で「ホイペット」(原文では(一名ホイペツト)と記載)と、わざわざ書いているので、現場ではホイペットとも呼んでいたのだろう。

■三斗の冷水

四字熟語の冷汗三斗(れいかんさんと)のことである。

一斗は約18リットルであり、三斗は58リットルになるから、とんでもない量の冷や汗をかくほどの恐怖という意味だ。

■正宗の大きなのを一本

清酒正宗の一升ビン(だと思う)

■牛馬式戦車

速度が牛や馬の駆けるくらい遅い速度の戦車ということ。

牛式戦車→Mk.IV重戦車

馬式戦車→Mk.A中戦車(ホイペット)

馬はもちろん、牛も本気出して走れば速いのだが、農耕馬や農耕用の牛が働いているイメージであろう

■堅パン

堅い乾パン(保存食で普通に売っている)

 

 

はしがき< >初めて戦車を迎えて

戦車今昔物語(その1) 1.はしがき

5月1日、元号も令和に変わった。

そこで、今更であるが、クイズ5月1日って何の日?だ。

そもそも5月1日って何日前だ!!という愚問は無しだ。

 

メーデー(May Day)は有名だ。

 

実は、

戦車記念日、もしくは機甲記念日だったかもしれないらしい。

・・・「だったかもしれない」じゃクイズの回答にもならんか。

 

遂に大正十四年五月一日を以て軍備改善の結果、四個師團を廃して其の代わりに飛行隊の擴張と高射砲隊及陸軍科学研究所の創設等を見ると共に、多年待望措かなかった戦車隊も亦誕生することゝなったのである。私は此の最も意儀深き戦車隊誕生の日即ち五月一日を以て戦車記念日(又は機甲記念日)と定め、我國民の軍機甲化熱を昂揚せんことを當局にお勧めしたいと思ふ。


これは、陸軍機甲本部高等官集会所発行の機関紙である「機甲」昭和17年1月号に掲載された文の一節で、寄稿者は三橋 濟(みつはしわたり)陸軍少将である。
日本帝国陸軍戦車関係では、日本戦車の開発者であるとともに戦後においても国産戦車開発に助言をしていたという原 乙未生(はらとみお)氏(終戦時陸軍中将)が有名である。原中将が戦車そのものを造った生みの親(母)であるとすれば、三橋少将は戦車(隊)の育ての親(父)と言えるのであろうか。

先の一節は機甲(昭和16年12月号)から三橋少将寄稿により掲載された「戦車今昔物語(其の二)」からである

 

※白黒コピーだったのでカラーイメージで色付けしてみた。


機関紙「機甲」は昭和16年(1941年)11月号が創刊号であり、創刊2号からの掲載となる。昭和17年1月号掲載文中に太平洋戦争(昭和16年12月8日)が始まったことが書かれており、そこまでの日本帝国陸軍の戦車部隊はどうあったのかという、戦後の負のデバイスがかかっていない、また戦争中の情報規正もかかっていない状態で書かれているので貴重な資料といえるのではないかと考えた。

残念ながら私が持っているのは機甲創刊号(昭和16年11月号)から昭和17年2月号までの4冊分の部分コピーであり、したがって掲載分は(その3)までとなり戦車今昔物語がどこまで続いたのかは不明である。(その3)では三橋少将の第一戦車隊長時代までが記述されている。


ところが、20年ほど前のコピーのため読み返したら数枚無いという事実に気づいた。当時、資料館長の御厚意で持出厳禁のところを「軍曹だから特別だよ」という事で時間限定で借り受け急ぎ必要と思われる部分だけコピーしたので抜けがあったようだ。

 

しかし、日本戦車に対する研究の一つの道しるべになるかもしれないと考えた。

掲載のままの文では旧漢字、旧仮名遣いや言い回しなどがあるため、不完全ではあるが、(その3)までを標準漢字と、なるべく平易な文体に直し紹介したいと思う。

 

戦車今昔物語

 

陸軍少将 三橋 濟

 

は し が き

 

 我が国に初めて戦車が渡って来たのが大正七年であって、私はその翌年から昭和七年まで十三年間、ほとんど我が国の戦車の揺りかご時代から創業時代を経て建設時代に進み、さらに拡張時代に入ろうとするまで、その軌道の痕をそのまま辿ってきたが、その後、戦車関係の職務から離れても常に思いは戦車にあり、できる限りの研究もし、現在でも、財団法人機械化国防協会が機械化兵器協会として発足した当初より常務役員として戦車に関係深い職務に微力ながら就いている事は、よくよく戦車とご縁が深い事だと思う。

 それで、今、心静かに目を閉じて想いを二十二年の昔に馳せて記憶の痕をあれこれ思い起こすと漠然と夢を見ているかの様に色々の事が前後のへだてもなく頭に浮かんで来て、まことに感慨を禁じ得ない。そこで、この戦車の発達の跡を書くと云う事も私に与えられた一つの義務とも思われるので、細見少将の御依頼もあり、ここに思い出すままにこれをを綴るとともに現在から将来にわたる感想の一端も述べてみたいと思う。ただ、今昔物語の様なものはどうも自己中心的になって、はなはだ心苦しいのであるが、その点はご勘弁をお願いしたい。また、固ぐるしい専門的な事はなるべく差し控えて、まず右手にうちわ、左手に盃の気分でのんびり書いてみたいと思う。また、この今昔物語は思い出の一端を述べるにとどまるのであるから、なにとぞ古い時代の事は久留米で心静かに療養する馬場少将や、石井少将、細見少将などの方々に補ってもらいたいと思う。

 

>自動車隊での思い出

入院治療

先週から体調が思わしくなく90式戦車の記事や、戦車、偵察教導隊の解散(25日)、機甲教導連隊の発足(26日)等書くこと満載だったのにこの蟻さま。

更に「このままだと窒息死するよ」と医者に宣告され入院に至った昨日(3月26日)は渡辺麻友の誕生日、もとい、娘の誕生日だった。
誠に申し訳無い。

振り返れば平成元年に手術入院、平成が終る年に又入院するという因果な年号となった。
全然平成じゃあ無かったな。

病室は7階なので眺めは良いな。
画像は7階から見た未開の地、群馬だ。

建物は全てプロジェクションマッピング