戦車今昔物語(其の二)2.2 創業当時の事々
2.2.創業当時の事々
かくして戦車隊は花々しく産声を上げたが、何しろ国軍における初めての隊であり、幹部の大部分は全く経験のない人であり、そのうえ万事万端、極めて不揃いなため、創業の苦心というものは実に並大抵なものではなかった。
例えば高濱中尉は自動車の教官であったが、全く自動車の知識がないと言ってよかった。それで自動車隊で教育を受けた加瀬中尉に習いながら教育したものだ。しかも歩兵学校の戦車隊の兵員は第一師団管内の歩兵隊からの分遣兵であり自動車業に従事して居るものが相当含まれていたから、その教育はなかなか容易ではなかったと思う。
第一戦車隊でも隊長以下将校全員が毎日、一時間早く出勤して作業服に着換えて自動車の教育を受けられたと聞いている。
当時の戦車は、やはり英国の中型Aと仏国ルノー型の牛馬式であったが、これを隊に渡す前に一度修理を加え、それに射撃が出来る様に日本の銃砲を取り着けるため、その時に歩兵学校にあった戦車もひとまず取り上げられてしまったので、隊は出来たが戦車もなければまた車廠も、修理工場もない。ただ人間が集まってそれに数台の自動車と小銃があるばかり、そこで毎日自動車の訓練と小銃の教練と学科ばかりやっていた。
そのうちに戦車が一台ずつ両隊に渡されたが、相当の期間をただ一台の戦車で訓練したのだから、それこそ真の酷使で戦車の故障は続出する。仕方がないから翌日の訓練のため徹夜して修理するという様な事は普通であった。戦車が数台となり、車廠や修理工場が完成したのはその年も暮に近づいた頃だったと記憶している。
【補足説明】
光人社NF文庫『機甲入門』72ページにほぼ同様の内容が記述されている。
折角なので以下に原文を示す。
なお、環境依存漢字が含まれて居るのでPC等の環境によっては文字化けしてしまうと思われるが、御勘弁願いたい。
創業當時の事ども
斯くして戦車隊は花々しく産聲を揚げたが、何しろ国軍に於ける初めての隊であり、幹部の大部分は全く經驗のない人であり、其上萬事萬端極めて不揃ひなため、創業の苦心と云ふものは實に並大抵ではなかつた。例へて云ふと高濱中尉の如きは自動車の教官であつたが、全く自動車の知識がないと云ふてよかつた。それで自動車隊で教育を受けた加瀬中尉なんかに習ひながら教育したものだ。然るに歩兵學校の戦車隊の兵員は第一師管内の歩兵隊からの分遣兵で自動車業に従事して居るものが相當含まれて居たから、其の教育は仲々容易ではなかつたと思う。第一戦車隊でも隊長以下将校全員毎日一時間早く出勤して作業服に着換へて自動車の教育を受けられたと聞いて居る。当時の戦車は矢張り英國の中型Aと佛國ルノー型の牛馬式であつたが、之を隊に渡す前に一度修理を加へ、それに射撃が出来る様に日本の銃砲を取り着ける爲、其の時歩兵學校にあつた戦車も一先づ取り上げられてしまつたので、隊は出来たが戦車もなければまた車廠も、修理工場もない。唯人間が集まつてそれに數臺の自動車と小銃があるばかり、そこで毎日自動車の訓練と小銃の教練と學科ばかりやつて居た。そのうちに戦車が一臺宛兩隊に渡されたが、相當期間といふものは唯一臺の戦車で訓練したのだから、それこそ眞の酷使で戦車の故障は続出する。仕方がないから翌日の訓練の爲徹夜して修理すると云ふ様な事は普通であった。戦車が数臺となり、車廠や修理工場の完成したのはその年も暮に近づいた頃だつたらう。
戦車今昔物語(其の二)戦車隊の誕生< >戦車使用法案の編纂
戦車今昔物語(其の二) 2.1 戦 車 隊 の 誕 生
戦車今昔物語(其の二)
陸軍少将 三橋 濟
2.1 戦 車 隊 の 誕 生
我が国において戦車の価値が甲論乙駁[こうろんおつばつ]されている間に、世界の軍事界はこれを尻目にかけて研究が進められ、従来の欠点が除かれた幾多の新式戦車が続々と現われ、これにともない運用に関する研究もまた格段の進歩を遂げつつあったのである。 そこで我が国においてもその情勢に押され次第に我が党の士も増え、また転向者もでてきた。
そればかりか前の欧州大戦及びその後において世界列強の兵器は非常な進歩を遂げ、いわゆる大戦後型の装備に達していたにもかかわらず、ひとり我が国軍のみはほとんど大戦前型で停滞している有様であったので、これは何としても近代的装備に改めなければならないという声が盛んになり、それによって戦車隊創設の機運も醸成されるようになった事も自然の勢いであった。
しかしながらその頃は軍縮の声がやかましい時代だから、近代的装備に変えるという様な莫大な金のかかる仕事は到底実現困難なので、やむを得ず師団数を減少して、その金で実施することとなり、その結果、大正十三年春頃になって中央部から戦車隊創設に関し編制上の意見を歩兵学校へ求めてきたので、早速学校でも調査に取りかかり、作戦上必要とされる兵力を準備するためには、最小限でも平時には独立の四個大隊(その頃は独立部隊として大隊編成が多くあった)を必要とし、これを基礎として学校から意見を中央部に提出したのである。
当時、中央部においても同様の意見が相当あったようであるが、経費の関係もあり、また、いわゆる反対党の圧力がかけられたということもあっただろう。次第に影が薄くなり、その間、何回となく意見を求められ、また、陸軍省や教育総監部へ御百度を踏んだものだった。
ここで付け加えて言っておくが、この編制に関し研究する上において最も良い参考となったのは、ドイツ戦車隊の編制であった。当時ドイツでは、もちろん戦車隊もなければ戦車もない。これはヴェルサイユ条約で禁じられていたからである。それにもかかわらず、その編制表は実に詳細を極めたもので、そのまま整備をすれば立ち所に戦車隊はできるようになっていたのである。
それはともかくとして、
ついに大正十四年五月一日をもって改善の結果、四個師団を廃止してその代わりに飛行隊の拡張と高射砲隊及び陸軍科学研究所の創設等を行なうと共に、長年切望してきた戦車隊もまた誕生することとなったのである。私はこの最も意儀深き戦車隊誕生の日、すなわち五月一日を戦車記念日(又は機甲記念日)と定め、我が国民の軍機甲化熱を昂揚することを当局にお勧めしたいと思う。
ところが、その生まれた戦車隊は久留米に第一戦車隊、歩兵学校内に歩兵学校教導隊戦車隊の二隊であって、しかも第一戦車隊は中佐を長とする本部と一個中隊、歩兵学校の方は少佐を長とする一個中隊に相当するもので、いわば月足らずの双児の奇形児といった様な貧弱にして珍妙なものであった。私共のように創設の六年も前から戦車の研究に携わった者としては少なからず期待が裏切られた感じがした。しかし何分にも陸軍としては自らが自らの袖を切って自分の着物の綻びを縫った様なものだから、当時としては致し方がなかったのかも知れない。
ただ、これは戦車ばかりの問題ではないが、その当時、陸軍将校の中にも活眼達識の士は国軍の前途を憂慮し、近代装備が絶対に必要であることを声の限り叫んだのであるから、陸軍当局は真に我が国軍の装備が世界の水準線から遥に遅れている実情を国民に素直に訴え、国民もまた、えせ平和論にのみ耳を傾ける事なくその実情を認識し、相共に携えて国軍装備の改善のため真剣の努力を尽くすことが出来たならば、今次の事変もなお一層迅速に、しかも効果的に、あるいは軍事行動だけで大体の解決がついたのではなかろうか。又、ノモンハンにおいてもあの様に皇軍将兵が苦戦死闘しなくともよかったのではないかと、今でも心底残念に思う次第である。
それはともかくとして、戦車隊の誕生は確かに国軍の一大慶事であって、少しでも創設に微力を致した私共としては真に喜びに堪えなかったのである。なお、その後満州事変、上海事変及び今次事変において、戦車隊は無敵鉄甲軍として、抜群の功績をたて、旭日昇天の勢いをもって発展し、一方ドイツ軍は大機甲軍の驀進[ばくしん]と大空軍の爆撃との緊密なる協同戦により全欧州を席捲して、近代戦における戦車の偉大なる価値は国軍全般に認められ、いま正に国軍は大機甲軍の建設に向い、必至の努力が傾注されるに至った現状を見ることは誠に喜びに堪えない次第である。
そこで、最初の久留米の第一戦車隊長は尾高亀蔵中将(当時の大谷中佐)、歩兵学校の戦車隊長は不肖私が任命された(当時少佐)。かの張皷峯の戦いでソ連軍戦車二百両をほとんど我が陣地に到達させなかった部隊こそが実に尾高中将麾下の精鋭であって、成るほどなとうなづく次第である。
その当時、戦車の事に知識ある将校は極めて少なかったので、いままで関係のあった人々はもちろん、そのほか全国から戦車隊将校としての適任者と思われる人が選抜されて、まず隊付きとして任命された訳である。それで隊の創設前に顔見知りと研究のために、ちょうど創設の一ヶ月余り前に、これらの隊の要員に内定した将校が歩兵学校に参集した。別に戦車隊将校たる資格の一つとして特に選ばれた訳ではなかったのだろうが、相当に左の腕利きも多かったので、意思の疎通はまず、この方面からというので大いに飲んだ事は申すまでもない。今、当時集まった人々を挙げて見ると。
第一戦車隊
中佐 大谷 亀蔵
少佐 高橋 儀蔵
大尉 松本 彝男
大尉 乃臺 兼次
大尉 馬場 英夫
大尉 田中 和一郎
中尉 吉松 喜三
中尉 加藤 清
中尉 高澤 英輝
中尉 上田 信夫
少尉 百武俊吉
歩兵学校戦車隊
少佐 三橋 濟
大尉 細見 惟雄
中尉 村田 皎三
中尉 高濱 武夫
中尉 須々木 勇
中尉 五島 正
中尉 加瀬 武一
少尉 小林 修二郎
であって、私を除いてはいずれも劣らぬ全国選り抜きの一騎当千の武人であった。
このなかで高橋、松本両君は既に不幸にも病気のため故人になられたが、その他の大部分は戦車隊将校として、戦場において抜群の武勲をたて、あるいは内地の勤務において大きな貢献をなしつつあるのである。
特に高濱中佐は今次事変の初め、北支房山の戦いに阿修羅のごとき奮戦をなし、ついに戦車と運命を共にして壮烈極まる戦死を遂げた。また、かの満州事変における熱河戦では全国的にその勇ましさを褒め称えられた百武中佐は、山西省泝口鎮の戦いに於て勇戦奮闘ついに戦傷の後、日本武士道の真髄を発揮して山西の華と散ったのである。誠に我国戦車界の至宝たる両君を失ったことは国家のため痛惜に堪えないと共に、私個人としても真に追慕の念を禁じることは出来ない。私は一昨年の冬に幸いにも九州講演行脚の機会を得たので、その道すがら久留米と佐賀に両君の御遺族に心からなる慰問をなし、また、百武君の墓に詣づることが出来た。私はこの機会において両君の万世に輝く武勲を称え、その冥福を祈り、かつ、また御遺族が将来御幸福に送られる事と、幼き愛児の方々が成人をして共に父君の御意思を立派に継承する日を心の奥底から御待ち申す次第である。
このほかに歩兵学校には教官だった山地坦中将(当時少佐)と福田峯太郎大佐(当時大尉)の両氏がちょうど戦車隊客員といった様な形で、主として研究に当たり、ここに隊の外に戦車研究部といった様なものが出来た。
そこで私はこの奇形児的編制の歩兵学校教導隊戦車隊の編制を本部、中隊及び材料廠に分け細見大尉を本部の庶務係(副官)とし、石井大尉を教育係(中隊長)とし村田中尉を材料廠長とし、その他を中隊付きとして、大体これにおいて校長の認可を受け、ようやく私も歩兵大隊長と同格となり、かくして体制だけは整った。
【補足説明】
■甲論乙駁(こうろんおつばつ):互いにあれこれ主張して議論がまとまらないこと
■ドイツ:原文では「濁逸」
■左の腕利き:文脈から「酒飲み、酒豪」の事だと思うが調べきれなかった。
■勇ましさを褒め称えられた:原文は『驍裕を謡はれたる』
■軍事行動だけで大体の解決:この場合の軍事行動とは戦闘ではなく、移動、集結等の戦闘前行動により相手(敵)の戦闘意欲を無くすこと。つまり、抑止力
戦車今昔物語(その1) 6. 反対党・我が党< >創業当時の事々
戦車今昔物語(その1) 6. 反対党・我が党
反対党・我が党
この様に我が国で歩兵学校の一隅で、五両の戦車を動かして研究している間に、世界列強では、どしどし新しい戦車を造り、その運用上にも実に画期的な進歩を遂げつつあったのである。それなのに我が国軍においては、中央部初め戦車に対する認識は極めて不充分であって戦車の価値について意見が往々に分かれ、戦車不用論者はあんな大きな図体で、しかも、のろまなものは大砲で撃てば訳もない。
また、東洋の地形は戦車の運用が容易ではない。あるいは整備に莫大な金を要するので、なんとか使わずに勝てるものなら、戦車隊なんか作らない方が良いという様なことを盛んに主張する。 この様な反対党は特に砲兵の将校に多かった。それで学校に配当される研究費もたびたび削減され、ついには学校の戦車研究もこの程度で中止しようではないかという声までも耳に入り実に嫌な思いをした事もあった。また、一般将校から見れば、戦車なんかの研究は明日の戦争準備ということから考えれば、およそ縁遠いものの様に思い、戦車に関する研究記事のごときは余り読まれなかった事と思う。 しかし、模型戦車を作り演習に使用するという奇特な隊もあった。我が国の戦車もこの様にイバラの道を踏み分けながら進んだのである。
もちろん、前の欧州大戦間においても、1916年秋、奇想天外的に戦場に飛び出して以来、非常な苦難時代を経過したのであって、英仏軍内にも戦車に対する信頼心を失い、極端な無用論者のみならず有害論者までも多かったのであって、その喧々囂々[けんけんごうごう]とした非難の間にも両軍当局は百折不墝[ひゃくせつふとう]の意気をもって万難を排して技術の研究と生産の拡充に努め、一方、用法上の研究を重ね、ついに最後にあの様な華々しい功績をたてたのである。それでもなお戦後においても決して淡々とした道を進んでいはいない。我が国においても満州事変、支那事変において多大の功績をたてたにもかかわらず、そうとう猛烈な反対の声もあったのであって、ようやく、ノモンハン事変や、ドイツの電撃作戦によってその様な暗雲が一掃され、天気晴朗になったのである。そんな状態だから揺りかご時代において、反対党や無関心者の多かった事は無理もないと言わねばならない。
そこで私も以上のような反対論に対し常に列強においては最新式の優秀戦車が現出し、その将来戦における価値の大きい事を叫んで反省をうながしたりしたが、歩兵学校の一隅からでは蚊の声のように響かなかった。ところが面白いことには戦車反対党の人々が歩兵学校長とか教官に転任してきて牛馬式ながらも戦車の活動を見ている間に、いつの間にか大の我が党に転向してしまう。また、一方においてその頃から随分戦車に理解を持つ我が党の士もあったのであるが、何しろ中央部に戦車に対して世話をする機関がないので、なかなか認められなかった。私共が提出した意見は恐らく少佐、大尉あたりの人達の箱底深く押し込められて、世の味気無さを嘆いていた事だろうと思う。その証拠に、いくら叩いても鳴らなかったのである。この様な世話する機関のなかった事が、我が国軍において戦車とか軍の機械化という事が発達しなかった大きな原因であると、いつでも私は考えていた。
このたび機甲本部が出来た事はこの点において国軍のため真に喜びに堪えない事である。
【補足説明】
『機甲』創刊二号(昭和16年12月号)掲載分は以上になる。
本来は「戦車今昔物語」なのだが「戦車今昔物語(その1)」とした。
途中で前後関係が分からなくなってきたので文節ごとに数字を入れてみたが、原文には入っていない。
■反対党・我が党:戦車反対派・戦車派
■百折不墝(ひゃくせつふとう):何度失敗しても信念を曲げないこと]