戦車今昔物語(その1) 6. 反対党・我が党
反対党・我が党
この様に我が国で歩兵学校の一隅で、五両の戦車を動かして研究している間に、世界列強では、どしどし新しい戦車を造り、その運用上にも実に画期的な進歩を遂げつつあったのである。それなのに我が国軍においては、中央部初め戦車に対する認識は極めて不充分であって戦車の価値について意見が往々に分かれ、戦車不用論者はあんな大きな図体で、しかも、のろまなものは大砲で撃てば訳もない。
また、東洋の地形は戦車の運用が容易ではない。あるいは整備に莫大な金を要するので、なんとか使わずに勝てるものなら、戦車隊なんか作らない方が良いという様なことを盛んに主張する。 この様な反対党は特に砲兵の将校に多かった。それで学校に配当される研究費もたびたび削減され、ついには学校の戦車研究もこの程度で中止しようではないかという声までも耳に入り実に嫌な思いをした事もあった。また、一般将校から見れば、戦車なんかの研究は明日の戦争準備ということから考えれば、およそ縁遠いものの様に思い、戦車に関する研究記事のごときは余り読まれなかった事と思う。 しかし、模型戦車を作り演習に使用するという奇特な隊もあった。我が国の戦車もこの様にイバラの道を踏み分けながら進んだのである。
もちろん、前の欧州大戦間においても、1916年秋、奇想天外的に戦場に飛び出して以来、非常な苦難時代を経過したのであって、英仏軍内にも戦車に対する信頼心を失い、極端な無用論者のみならず有害論者までも多かったのであって、その喧々囂々[けんけんごうごう]とした非難の間にも両軍当局は百折不墝[ひゃくせつふとう]の意気をもって万難を排して技術の研究と生産の拡充に努め、一方、用法上の研究を重ね、ついに最後にあの様な華々しい功績をたてたのである。それでもなお戦後においても決して淡々とした道を進んでいはいない。我が国においても満州事変、支那事変において多大の功績をたてたにもかかわらず、そうとう猛烈な反対の声もあったのであって、ようやく、ノモンハン事変や、ドイツの電撃作戦によってその様な暗雲が一掃され、天気晴朗になったのである。そんな状態だから揺りかご時代において、反対党や無関心者の多かった事は無理もないと言わねばならない。
そこで私も以上のような反対論に対し常に列強においては最新式の優秀戦車が現出し、その将来戦における価値の大きい事を叫んで反省をうながしたりしたが、歩兵学校の一隅からでは蚊の声のように響かなかった。ところが面白いことには戦車反対党の人々が歩兵学校長とか教官に転任してきて牛馬式ながらも戦車の活動を見ている間に、いつの間にか大の我が党に転向してしまう。また、一方においてその頃から随分戦車に理解を持つ我が党の士もあったのであるが、何しろ中央部に戦車に対して世話をする機関がないので、なかなか認められなかった。私共が提出した意見は恐らく少佐、大尉あたりの人達の箱底深く押し込められて、世の味気無さを嘆いていた事だろうと思う。その証拠に、いくら叩いても鳴らなかったのである。この様な世話する機関のなかった事が、我が国軍において戦車とか軍の機械化という事が発達しなかった大きな原因であると、いつでも私は考えていた。
このたび機甲本部が出来た事はこの点において国軍のため真に喜びに堪えない事である。
【補足説明】
『機甲』創刊二号(昭和16年12月号)掲載分は以上になる。
本来は「戦車今昔物語」なのだが「戦車今昔物語(その1)」とした。
途中で前後関係が分からなくなってきたので文節ごとに数字を入れてみたが、原文には入っていない。
■反対党・我が党:戦車反対派・戦車派
■百折不墝(ひゃくせつふとう):何度失敗しても信念を曲げないこと]