戦車今昔物語(その1)5. 苦・快・恥
苦 ・ 快 ・ 恥
この揺りかご時代を顧みると、随分と血の出る様な思いをした事もあり、愉快な事もあり、また、恥しい思をする様な失敗もあった。
まず、当時の苦しかった実情を語るために、石井少将の言葉を無断で拝借する。
「当時は別に車廠の設備もなく、もちろん工場もなく、戦車は野天という状態であり、やむなく天幕を買って車廠式の屋根を作り、これに格納してやっと安心と思ったのだが、二、三日後に大風が吹いて天幕は倒れる。ようやく建て直せば又、風のために大破して再び雨ざらしと言うぐあいで、戦車の修理より天幕の修理に追われる有様、また、鍛工場は是非必要だと申請するが、なかなか取り上げられず、やむなく各所から木材やトタン等を集めて仮の五、六坪の建物を兵力で造り、検査の時には時は練兵場に担ぎ出すという様なことをして、何とか保存維持に努めながら、訓練、研究、学生教練に間に合わせていた次第である。また一方、当時の思想は将兵が油にまみれる者を軽蔑する様な考え方が強かった。下士官兵の被服は他の者と異なり汚れているので、校内でも異端者扱いをされるという有様、したがて将校で戦車の研究を進んでやろうという者は無いくらいであり、まことに残念に思った次第である。また、戦車が校庭へ出ると、やかましくて教育を妨害するとか、室内に塵が入って困るとか苦情を言う者も多くいた」
以上の様に述べているが、その通りであって、この様な状態は戦車隊創設の直後まで続いたのである。したがって、このような苦難時代に戦車の研究に従事した将校は、これが将来の国軍戦車隊として生れるものかどうか、海のものやら山のものやら判らないものを研究するものだという不安は確かにあったと思うが、また、戦車隊誕生の光明を目当てに国軍戦車の名誉と発達と、創設の光栄に感じつつ献身的な努力を払ったのである。石井少将においてはその間、大正九年から大正十四年の戦車隊創設まで連続研究に従事したのだから確かに創設の功労者であって私は常に同少将に感謝しているのである。
大正九年であったと思うが、戦車の威力を軍中央部の人々に認識してもらい、戦車に対する消極観念を一掃しなくてはならないと考え、歩兵学校の演習場で各種の障害を作って踏破力の実験をした事がある。ところが欲張って能力を最大限に近いものを作った上に、あいにく前日に雨が降ったため、どれもこれも滑って空転ばかりして通らない。まるで戦車は、このように動かないものだという事を見せたようなもので、校長には小言を言われ全く面目を潰した事がある。今から当時を想い出しても冷や汗が出る。
岡山県日本原における陣地攻防演習に三両のルノーを以て参加した時に。一両が村民の過ちにより火災を起こした。監視の重任を負う歩哨は、それを見ると身を挺して燃え上がる車中に飛び込んで油のコックを締め、戦車が炎焼することを防いだ、それから徹夜をして修繕し、翌、夜明けの戦闘に参加する事ができた。しかし、不思議な事に、調子の良かった他の二両の戦車が戦闘加入の直前になって尻を落ち着けて何としても動かない。馬ならばムチを当てれば飛び出すが、心なき戦車はいかにムチ打っても泰然自若、もし、歩哨の機転と勇敢がなかったならば、一両しか動いていないこのような状態では確かに切腹ものであった。この歩哨は教導隊長から表彰状を受け大いに評価を高めた。
越後関山の演習場に行った時の事であるが、戦車の操縦を誤って高さ数十丈傾斜六十度の断崖に墜落の刹那、車の外に乗っていたものはいち早く飛び降りたのにもかかわらず、車長であった森永軍曹は身の危険を顧みず、車中に躍り込み手でブレーキをしめながら戦車ともども勢いよく谷底に落ち込んだ。幸いにも谷底で少し傾斜が緩かったのと、下が柔らかかったため、乗組員一同怪我はなかったが、戦車は相当の損傷を受けた。その時は丁度数日後に、久邇宮殿下が御見学に御成り似なるという事で、歩兵学校まで修理の材料を取りに帰り、三日二晩不眠不休で修理し間に合わせたことは忘れられない思い出の一つである。その森永軍曹は広東攻略戦に武勲をたてた森永亀一中尉である。
私は今日の戦車隊将兵の戦車精神はこの揺りかご時代から培われた伝統的のものであると確信する。
このように、この時代からすでにしばしば各師団または教育総監部が行なう演習等に参加したが、これは各師団において戦車に親しく接する機会を与え、特に対戦車戦闘の実地演習を行なう事が、戦車隊の無い我が国としては必要であり、自らもまた、研究の機会を得られるからでもあった。何しろ構造が幼稚な旧式戦車を無理に使用するのだから、そのたび毎に苦労も大抵ではなかった。しかし、またそれだけ愉快もあった。特に都市に行くと初めて飛行機を見る時と同様、数万の観衆が押し寄せてきたもので、これらの人に説明するだけでも並大抵ではなかったが、おかげで下士官以上の戦車の説明は蓄音機をかけた様に熟練したものである。この様子では観覧料を取って全国一回りしたら、戦車隊の二つや三つは立ち所に出来るぞと笑った事である。従って各地で王者の歓迎を受け、兵までニコニコしたものであった。
【補足説明】
■車廠(しゃしょう):車庫のこと
■天幕(てんまく):自衛隊用語では「テント」のことだが、この場合はキャンバスシートやターポリンと呼ばれる布地の事である。
■鍛工場(たんこうば):金属加工をするための作業場
■検査の時には練兵場に担ぎ出す:無許可の建築物だから検査時には隠す必要があった。また、建物があれば困っていないと思われるから困っているアピールの必要もあった。
昔も今も末端部隊の苦労は絶えないという事だな。
■越後関山の演習場:新潟県にあり、現在も陸上自衛隊関山演習場として使われている。
※なお、この戦車(A型)転落は、FN文庫「機甲入門」の66、67ページに細部記述してあり、大正13年の夏、高田師団の攻防演習間の事案である。
■数十丈:十丈は約30m
■観覧料を取って全国一回り:昔も今も考えることは一緒だ。
戦車今昔物語(その1) 4. 揺りかご時代苦心の数々
4. 揺りかご時代苦心の数々
さて、研究には着手したものの何分にも我が国では初めての事であり、戦車に関する知識が全くないので、その運用の事でも、戦闘法でも、技術上の事でも、制度に関する事でも、ほとんどど外国の書物を参考とするより仕方がなかったのである。
それでまず、それらを頼りにして、何より第一に実地研究によって戦車というものの各種の性能を知る事が最も重要であると考え、その運動能力、戦闘法、射撃法、指揮連絡法、歩兵との協同戦闘及び対戦車戦闘法など、およそ戦車戦術及び戦闘に関する基礎的研究資料となるものは概ね研究した様に思う。
運動性に就いては、各種の地形地物及び障害の通過力、走破力においてほとんど考え得ることは可能性の範囲において研究したと思う。又この牛歩式戦車で三泊行軍(内一日は夜行軍)を実施し、その結果、部隊行進は時速三キロ、一日の行程は約二十キロであれば数日間の連日行軍に堪え、一日の整備の後であれば充分戦闘に参加し得る能力があることを知った。(これはルノー戦車であってA型戦車では時速四キロは可能)。現在、各国の戦車が時速四、五十キロ、一日の行程が二百キロに及ぶ事に比べると、実に隔世の感がする。
射撃に関しては、行進、停止、躍進各種の射法について研究したが、特に前にも述べた通り、A型戦車に装備してあるヴィッカース軽機関銃の弾薬があったので不充分ながら実験射撃が出来て、だいたいの射撃効力を判定することが出来た。
また、幸いにもA型戦車の鋼板があったので、それと大阪工廠製鋼板に対する平射歩兵砲弾の侵徹力に関する射撃試験を各種の距離と角度で行ったが、A型鋼板に対しては弾丸が当たった瞬間に破裂して一つも貫かなかったので、更に弾頭に二重焼入れを施したところ難なく貫いた。また、大阪工廠製鋼板は堅いばかりで靭性がなかったため、鋼板が破れてしまった。
砲兵及び歩兵砲による機動中の戦車に対する実験射撃は、模型戦車を利用し野戦砲兵学校とも協同して各種の条件において実施した。その後、英国の砲兵学校で戦車に対する射撃実施を見学した事があるが、馬で模型戦車を牽引し各種のジグザグ機動を行ない、これに対する射撃実施を見て、その簡単にして巧妙なのに感心して報告を提出したことがある。
戦車の戦闘法、指揮連絡法、歩兵との協同戦闘並びに対戦車戦闘法等は最も主要なる事項として単車及小隊について絶えず実地の研究を重ねた。これらは歩兵学校だから常にその機会に恵まれた訳である。
その他、戦車の音響の到達する距離、夜間接敵、偽装、戦車兵衛生等においても研究を行った。
以上の研究は戦車隊創設後も相当に役立ったことはもちろんである。これらの研究記事は歩兵学校か戦車学校に、今なお残っているのではなかろうか。また、当時の研究部月報には常に掲載したから、もし残っていればわかる。
この様な実地研究を基礎とし、外国における研究及び戦史などを参考とし、更に図上及び現地の戦術研究等を行い、その結果を我が国の戦術原則に当てはめて戦車戦術に関する基礎研究を行ったのである。
また、実地の研究に使った戦車は旧式であったが、その頃すでに英国では高速度戦車が現出し、戦車運用上に新紀元を画しつつあったので、その情勢に遅れないように新式戦車についての机上研究だけは続けていた。それで大正十年に陸軍大学校の課外講義として三回にわたり戦車戦術ならびに戦史を話した際にも、その頃すでに新式戦車の運用を加味して述べたものである。
戦車を初めて迎えて< >苦・快・恥
戦車今昔物語(その1) 3. 初めて戦車を迎えて
3. 初めて戦車を迎えて
さて、その後、大正十四年五月に戦車隊が創設されるまでは大体において英国中型A戦車二両と仏国FT型ルノー軽戦車三両の五両をもって歩兵学校内に軍用自動車調査委員の嘱託というような名義で、二十数名の将兵をもって様々な実地研究を行った。その間、毎年概ね将校一名、下士官二、三名が自動車隊に練習を受けに行ったのであるが、それ等の人々は今なお多くが戦車関係の職務に就き、今度の事変にも参加し皆、はなばなしい武勲を立てている。馬場英夫少将、石井廣吉少将、兒島中尉(故人)、細見惟雄少将、吉松喜三大佐、加護武一中佐などの猛将は当時中尉か大尉で研究に従事した人々で我が国、戦車界の至宝である。
ヴィッカース軽機関銃が各車に四銃付いているほか、工具及び予備品は元より潜望鏡まで完全に備わり、それに弾薬千発というから、嫁入り道具一式に持参金といった有様であった。私はその当時から、戦車でも自動車でも作った時には工具はもちろん、部分品は必ず同時に備え付けるべきだな、ということを痛切に感じていたのだが今度の事変において、ますますその必要を痛感する次第である。
その後FT型ルノー軽戦車も迎えたが、これは全備重量六トン半、最高速度八キロ位のものであるが、それでも欧州戦当時は仏軍戦車の主体をなしていた事は一般に知られている通りである。先日、戦車学校開記念日に参列した際、校庭で行われた演習で優秀戦車の後について遅れまいと走って行く姿は、誠に可愛くもあり、懐かしいものであった。
これから戦車隊創設までの事は知る人も余りないのであるが、その間の苦心は真に並々ならぬものがあると共に、我が国の戦車発達史を研究する上において避けて通れないものである。
【補足解説】
■今度の事変
支那事変(日中戦争)の事である。
この時点では終わっていないので名称もない。