戦車今昔物語(その1) 1.はしがき
5月1日、元号も令和に変わった。
そこで、今更であるが、クイズ5月1日って何の日?だ。
そもそも5月1日って何日前だ!!という愚問は無しだ。
メーデー(May Day)は有名だ。
実は、
戦車記念日、もしくは機甲記念日だったかもしれないらしい。
・・・「だったかもしれない」じゃクイズの回答にもならんか。
遂に大正十四年五月一日を以て軍備改善の結果、四個師團を廃して其の代わりに飛行隊の擴張と高射砲隊及陸軍科学研究所の創設等を見ると共に、多年待望措かなかった戦車隊も亦誕生することゝなったのである。私は此の最も意儀深き戦車隊誕生の日即ち五月一日を以て戦車記念日(又は機甲記念日)と定め、我國民の軍機甲化熱を昂揚せんことを當局にお勧めしたいと思ふ。
これは、陸軍機甲本部高等官集会所発行の機関紙である「機甲」昭和17年1月号に掲載された文の一節で、寄稿者は三橋 濟(みつはしわたり)陸軍少将である。
日本帝国陸軍戦車関係では、日本戦車の開発者であるとともに戦後においても国産戦車開発に助言をしていたという原 乙未生(はらとみお)氏(終戦時陸軍中将)が有名である。原中将が戦車そのものを造った生みの親(母)であるとすれば、三橋少将は戦車(隊)の育ての親(父)と言えるのであろうか。
先の一節は機甲(昭和16年12月号)から三橋少将寄稿により掲載された「戦車今昔物語(其の二)」からである
※白黒コピーだったのでカラーイメージで色付けしてみた。
機関紙「機甲」は昭和16年(1941年)11月号が創刊号であり、創刊2号からの掲載となる。昭和17年1月号掲載文中に太平洋戦争(昭和16年12月8日)が始まったことが書かれており、そこまでの日本帝国陸軍の戦車部隊はどうあったのかという、戦後の負のデバイスがかかっていない、また戦争中の情報規正もかかっていない状態で書かれているので貴重な資料といえるのではないかと考えた。
残念ながら私が持っているのは機甲創刊号(昭和16年11月号)から昭和17年2月号までの4冊分の部分コピーであり、したがって掲載分は(その3)までとなり戦車今昔物語がどこまで続いたのかは不明である。(その3)では三橋少将の第一戦車隊長時代までが記述されている。
ところが、20年ほど前のコピーのため読み返したら数枚無いという事実に気づいた。当時、資料館長の御厚意で持出厳禁のところを「軍曹だから特別だよ」という事で時間限定で借り受け急ぎ必要と思われる部分だけコピーしたので抜けがあったようだ。
しかし、日本戦車に対する研究の一つの道しるべになるかもしれないと考えた。
掲載のままの文では旧漢字、旧仮名遣いや言い回しなどがあるため、不完全ではあるが、(その3)までを標準漢字と、なるべく平易な文体に直し紹介したいと思う。
戦車今昔物語
陸軍少将 三橋 濟
は し が き
我が国に初めて戦車が渡って来たのが大正七年であって、私はその翌年から昭和七年まで十三年間、ほとんど我が国の戦車の揺りかご時代から創業時代を経て建設時代に進み、さらに拡張時代に入ろうとするまで、その軌道の痕をそのまま辿ってきたが、その後、戦車関係の職務から離れても常に思いは戦車にあり、できる限りの研究もし、現在でも、財団法人機械化国防協会が機械化兵器協会として発足した当初より常務役員として戦車に関係深い職務に微力ながら就いている事は、よくよく戦車とご縁が深い事だと思う。
それで、今、心静かに目を閉じて想いを二十二年の昔に馳せて記憶の痕をあれこれ思い起こすと漠然と夢を見ているかの様に色々の事が前後のへだてもなく頭に浮かんで来て、まことに感慨を禁じ得ない。そこで、この戦車の発達の跡を書くと云う事も私に与えられた一つの義務とも思われるので、細見少将の御依頼もあり、ここに思い出すままにこれをを綴るとともに現在から将来にわたる感想の一端も述べてみたいと思う。ただ、今昔物語の様なものはどうも自己中心的になって、はなはだ心苦しいのであるが、その点はご勘弁をお願いしたい。また、固ぐるしい専門的な事はなるべく差し控えて、まず右手にうちわ、左手に盃の気分でのんびり書いてみたいと思う。また、この今昔物語は思い出の一端を述べるにとどまるのであるから、なにとぞ古い時代の事は久留米で心静かに療養する馬場少将や、石井少将、細見少将などの方々に補ってもらいたいと思う。