イングランドは

 

千葉の清水公園でのスケッチが楽しかったなとおもう。あれから5年がすぎた。

「二葉亭餓鬼録」日記には、2019年12月7日と書かれている。

ちょっと雨模様の日、ぼくらふたり――高橋俊景画伯とともに、千葉県・清水公園に行こうとしていました。ほんとうはそこで、紅葉を見ながらスケッチをするはずでしたが、その計画は雨のために、中止となってしまいました。

「先生、やっぱりきょうは、中止ですか?」というと、

「田中さん、われわれだけ、行ってみますか?」といいます。

「行きましょうよ」ということで、先生のクルマに乗って、雨のなか、公園を目指したというわけです。その車中で交わした話は、絵の話ではなくて、なんと、イギリスの海賊の話をしたいうわけです。

 

清水公園の紅葉(2019年12月7日撮影)

ふつう、近代国家が成長する歴史を説明して、つぎのような文言がならんでいます。

一般的には、技術革新、農業の近代化、産業革命、保護貿易、自由貿易、市場経済化、情報の自由化、改革開放など、国家の豊かさを求めてさまざまな政策を打ち出してきました。日本では、「富国強兵」ということばも目につきます。

しかし、それとは別に、一般的にはめったに触れられない特殊なやり方で近代国家になろうとした国がありました。それは、16、17世紀のイングランドです。

そこできょうは、車中、高橋俊景画伯と話したその海賊国家イングランドについて、あらためて考えてみたいとおもいます。――というのは、いつだったか、ある年配の男性とおしゃべりしていて、イングランドはむかし海賊国家であったといったら、妙な顔をして、「ほんとうですか?」というのです。「聞いたことがありませんなあ」というのです。

当時、現在のイギリスという国はありませんでした。あったのはイングランドです。

イングランドは海賊行為という野蛮な方法で大英帝国(British Empire)を築きました。表向きの歴史には、イングランドは、産業革命によって近代国家の仲間入りを果たしたと書かれているとおもいます。それは間違いではないのだけれど、そのまえに、その元手となる膨大な資金は、海賊がもたらしたものです。ほとんど金銀などの略奪品でした。

現在そんなことをすれば、たちどころに犯罪行為として世界から糾弾されます。

 

雨にたたられた一日でしたが、気分は芳醇

 

ところが、当時イングランドは、近代国家の基礎を築いた英雄として、海賊行為を合法化しているのです。

「海賊」行為を合法化するために、彼らは「探検家(Explorers)」、「航海家(Mariners)」、または「冒険商人(Merchant Adventures)」などということばをつくりました。

こうして、王室が関与した海賊行為を合法化していったわけです。現在のイギリスには、探検家はいても、冒険家はいないといわれています。もしいるとすれば、「それは山師だ」といわれています。

フランスのスクトー、ニュージーランドのヒラリー、日本の植村直己などは超一流の探検家ですけれど、けっして冒険家なのではありません。不必要な危険を察知して避ける才能は、探検家にとってなくてはならない資質です。

しかし、16、17世紀のイングランドで、とくにスペインやポルトガルを相手に略奪のかぎりを尽くした「略奪王」と称されるドレークは、女王エリザベス一世からナイトの称号を与えられました。その理由は、略奪によって、イングランドに多大な富をもたらしたからです。

イングランドではじめて世界一周の航海を成し遂げたフランシス・ドレークは、女王のお気に入りの海賊でした。世界周航に乗り出したドレークは、出資する多くの人びとに、巨万の富を与えました。なかでも、王室に与えた富は莫大な額にのぼり、手に入れた約60万ポンドのうち、30万ポンドはエリザベス女王に献上しているのです。

当時の国家予算は20万ポンドくらいでしたから、ドレークはじつに3年分の国家予算を稼ぎ出したことになります。

英語にCircumnavigationという語がありますが、「世界周航」という意味です。この語は、このころ生まれました。ポルトガル人で、スペイン船団を指揮したマゼランに次いで「世界周航」を成功させた二人目の偉人として、ドレークの名が歴史に刻まれました。

エリザベス一世の時代、つまりシェイクスピアの時代、イングランドはまだ二流国にすぎず、外貨を求めるにも、売るものといえば、羊毛しかありませんでした。羊毛をいくら売りさばいてもタカが知れています。当時イングランドは、アントワープの海外金融業者から多額の借金をしていました。そうやって宮廷の歳費をまかなっていたわけです。これとて、タカが知れています。

そういう意味ではドレークのもたらしたマネーは、とても貴重でした。

ドレークは16世紀を代表する探検家で、エリザベス女王に莫大な富をもたらした功労者であり、スペインの無敵艦隊との海戦を勝利に導いた軍人として、イングランド史に誉れ高い名を残しています。

イングランド国民のナショナリズムを高揚させ、ヨーロッパの辺境の地から打って出た世界の覇者として、ドレークはそのシンボル的な存在です。海賊ドレークの名が、世界にとどろきます。

女王がナイトの称号を彼に与えたのは、宮殿ではなくて、旗艦「ゴールデン・ハインド号」の甲板上であったといわれています。

さて、ドレークの略奪品の中身をちょっとのぞいてみると、金と銀、そしてコインや延べ棒が中心で、これに加えて大量の砂糖やワインなどが含まれていました。うちワインは、飲料水の代用として飲まれたものです。インドネシアからは高級スパイスのクローヴを6トンも購入しています。しかし最大の標的は、南アメリカ大陸のけわしい山岳地帯にある銀山から出る銀でした。

日本の島根県の岩見銀山は、世界遺産にも登録されましたが、16世紀から17世紀にかけて、世界通貨としての銀が大量に発掘されました。

こちらはオランダ商人によって世界に運ばれました。

当時の世界共通の通貨は銀でした。銀を手に入れることは、世界を手に入れることでした。

そのころのスペインは大国でした。イングランドの海賊船団といえども、スペインの護送船団を襲うだけのパワーはありませんでした。

そこで標的にしたのは、護送船団の枠外を航行しているスペイン船にかぎられていました。ドレーク船団は、こうしたスペイン船を、警備の手薄な輸送ルートで待ち伏せしてゲリラ的に襲撃しました。

スペインの銀輸送ルートの拠点であるパナマに向けて、南アメリカ大陸の太平洋岸を北上し、スペインの銀の輸送船を手当たりしだいに襲撃しました。1579年には、スペインの大型輸送船「カカフェーゴ号」を発見。銀塊を奪うことに成功します。銀塊26トン、金80ポンド。情報戦を制した巧みな張り込みで、これらを拿捕することに成功します。

竹田いさみ氏の「世界史をつくった海賊」(ちくま新書、2011年)という本には、たいへんくわしく書かれています。

「海賊(Pirates)、パイレーツ」にくわしい竹田いさみ氏の本によれば、イギリスは、海賊行為という手法で豊かさを追求し、200年以上にわたる歳月をかけて大英帝国(British Empire)を築いたと書かれています。

海賊というのは、海を舞台にして強盗をおこなう犯罪者のことですから、イングランド人のあいだでは、「海の犬(Sea Dogs)」と呼ばれ、海賊と特別な関係をなして大英帝国の礎を築いたエリザベス一世は、これを奨励したというのです。

エリザベス女王の時代、代表的な戦争で想起されるのは、スペインの無敵艦隊に勝利したことでしょう。1588年7月28~29日は、イギリスは大国スペインに勝利をおさめた記念日として、イギリスの歴史に深く刻まれています。

これが19世紀に向けて大英帝国を建設し、パクス・ブリタニカ(イギリス繁栄のもとでの平和)を築く出発点になったわけです。

海賊のシンジケート方式は、女王がみずから発案して採用されたモデルではありません。もともとは、ジョン・ホーキンズらの大物海賊たちが、大西洋やカリブ海で海賊船団を編成する際に、こぞって採用してきた海賊のビジネス・モデルだったのです。

海賊のビジネス・モデルを企業経営に取り入れたのがイギリスの「東インド会社」です。

――と、こんな風に書けば、イギリスはスペイン国王フェリペ二世に楯突き、ただ一度の海戦しかなかったかのようにおもわれます。たいていの本には、くわしく書かれていませんが、じっさいは、両国は15年間に5回も戦っていました。

スペインは、一度も勝利しませんでしたが、海戦国家を相手にやぶれたことで、スペインの力は急速に失います。

ほとんどイングランドが勝利をおさめたとされるのは、その第1回目の海戦ですが、制御不能の強風に翻弄され、スペイン艦隊は、ほとんど戦わずして自滅していったというのが、どうも真相のようです。

その最初の海戦でイングランドが戦ったのは、ほとんど海賊船が中心でした。

イングランドには当時、スペイン艦隊に見合うほどの艦隊はなく、私掠のかぎりをつくした海賊船を頼りにしていました。

ですから、彼らは台風にも強かったわけです。

ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの順で近代国家になっていきますが、スペインやポルトガルのように豊かな国へと成長するのは、どうしたらいいか、16世紀のイギリスはつねに自問していたに違いありません。

ヘンリー八世やエリザベス一世が統治していたイングランドは、世界を制覇しつつあったスペインやポルトガルの強大な経済力に押され、太刀打ちできなかったのです。16世紀末にはオランダが海洋進出し、アフリカ最南端の喜望峰まわりのアジアルートを開発し、17世紀には世界経済の覇者となり、イギリスの孤立感はいっそう深まりました。

そのころのヨーロッパ大陸の玄関は、現在のベルギーの北部アントワープ港で、それも、そこはオランダの一部でした。アントワープは16世紀のヨーロッパの商業と金融の中心地となり、現在は世界のダイヤモンドの集積する古都として知られています。

その後、ポルカドルはスペインに与(くみ)され、歴史からポルトガルの名が消えたこともありました。

経済の不況は、国家の存亡を左右し、スパイス、コーヒー、紅茶、砂糖、奴隷は、国力の消長に直結する貿易品だったといえます。そのため、世界は生き馬の目を抜く、すさまじい戦いの連続だったとおもわれます。

覇権国家誕生の原動力になったのは、戦争だけでなく、新しい市場を見つけ出し、競合相手につねに勝利して、海外市場をできるだけ多く手に入れることだったでしょう。強力な海軍を育てるいっぽう、戦略的に海外に派遣し、海賊船の活躍する海においては覇者となり、私的な略奪をとおして、国家へ利益を還流し、国際貿易、金融、多国籍企業といった、現代にも通じるシステムの成り立ちに深く関与していったのがイングランドでした。

そして、イギリスは産業革命をへたのちの19世紀末、――1897年、日本は円通貨の銀本位を取りやめ、金本位制を導入し、それと同時に、日清戦争で勝利した日本政府は、中国から受け取った賠償金2億テール(約3800ポンド、およそ3億1000万円)を、ロンドンのイングランド銀行に預託します。イングランド銀行にとって、日本の金は貴重な金準備(金塊)となったのです。

そして、1902年には日英同盟が結ばれました。

日本政府には、東アジアにおけるロシア帝国の外交・軍事面での対立、のちの日露戦争にそなえた同盟国の確保の必要性がありました。そのころユーラシア大陸規模で、ロシアとグレート・ゲームを展開してきたイギリスとは、仮想敵国が一致していました。

パクス・ブリタニカのシンボルとまでいわれた「光栄ある孤立(splendid isolation)」の外交政策の見直しが迫られ、イギリスははじめて、日本との同盟に踏み切ったのです。東アジア地域におけるロシアの領土拡張政策を封じ込める作戦をとりました。それに成功します。

日本は、ことばを換えていえば、かつての海賊国家と手を結んだわけです。

イギリスが外交戦略の大転換をもたらしたきっかけは、その日英同盟だったといえます。

世紀の転換期の日本は、ヘゲモニー国家イギリスのジュニア・パートナーとして、イギリスからさまざまなかたちの援助・支援を受け、近代国家の構築と日本帝国の樹立に邁進しました。

 

その結果、日露戦争に活躍した戦艦「三笠」をはじめ、最新鋭の戦艦・巡洋艦などが、イギリス北東部の工業都市ニューカールスで建造され、その後も多くの戦艦・巡洋艦が建造され、日本帝国海軍のために多くの造船がおこなわれました。

1913年までに、海軍の拡張をいそぐ日本は、都合13隻、約10万トンの艦船をつくらせたことになります。

――このように見てくると、19世紀末からイギリスをはじめ、世界は、アジア重視の政策の歴史がいろいろと見えてきます。そして日本は、第3次日英同盟を締結し、イギリスとは20年にわたる強い同盟関係を築きました。