のいる

 

「鍛冶屋(かじや)のおじさんから、こいつをもらってこい!」

と父はいった。

父は納屋で古びた発動機(はつどうき)の修理をしていた。油だらけの手で、プラグを取り出して、ピストンの具合を調整していた。

運転をはじめると重いはずの発動機が動きだす。地面にじっとしていないらしい。ポンポンはげしい音と白い煙を吐いて揺れている。父はなんとか発動機をなだめ、落ち着かせようとしている。まるであばれ馬をなだめるようなかっこうだ。

馬蹄(ばてい)を4個地面に埋め、それで固定していたが、1つの馬蹄のかたちが違っていて、それで発動機が浮き上がってしまうといっている。

「こいつとおなじ蹄鉄(ていてつ)をもらってこい!」といっている。

ぼくは長男だが、まだ小学生だった。

馬蹄をつけるのも鍛冶屋の浅野さんのおじさんにやってもらっていた。そういうときも、いつの間にか、じぶんが出かけるようになっていた。

ぼくは、馬の世話をするのが好きだった。餌をつくってやることも、寝わらを取り替えることも、馬の仕事が終わって、恵岱別川の浅瀬でやつの汚れた脚を洗ってやるのも、いつの間にかじぶんの仕事になっていた。   

父のどんないいつけでも、馬に乗って行けるので、ぼくは嫌だといったことはない。

馬房(ばぼう)の閂(かんぬき)を外すと、馬は外に出してくれるとおもって歓ぶ。鞍をつけ、腹おびをぎゅっと締め、くつわをはめると、やつはもう歩きだすのだ。

「おれを乗せてからにしろ!」といって、くつわを締めてやる。

野積みしている丸太の上に足をのっけると、そいつをポンと蹴って馬の背にまたがる。

街道に出るまでの一本道を、やつは速足で走る。街道に出ると右折して、やわらの街を一目散にめざす。

そこからの一本道は直線で、馬場でいえば第4コーナーを曲がったようなものだ。ディープインパクトもオグリキャップも、ハイセイコーも、そこからが勝負。直線に強い馬は、勝ちを制す。

浅野さんの鍛冶屋まで、2500メートルはあっただろうか。

日本ダービーの距離とおもえば、好きなだけ走らせてみたくなる。

そのころぼくは、競馬といえば、いなかの輓馬競争しか見ていない。馬体重が600キロはあったとおもうけれど、ぼくの馬は馬力に劣るけれど、走らせればけっこう速い。

ぼくの馬はむろんサラブレッドじゃない。母親も父親も知らない、血統のない平凡な農耕馬だ。

どこで生まれたのかもわからない。

父が、ばくろうの値を叩いて手に入れた駄馬だが、ふしぎなことに、ぼくは馬の気持ちがわかるようになった。寝わらを取り替えると、やつは馬房でひっくり返って、わらしべだらけになって喜ぶ。あまりの嬉しさで、やつは起き上がろうとしない。

眠いわけじゃない。嬉しいのだf!

そういうとき、ぼくはやつにご馳走を振る舞う。

みずみずしくて甘いレントコーンを切り刻んで飼い葉おけに流し込む。すると、やつは起き上がってくる。

にんじん、燕麦(えんばく)、そして塩をまぶしてやる。塩をやると甘くなる。そしてバケツ一杯の水をやる。やつの食欲は旺盛で、大きな飼い葉おけがいつも空になった。

「好きなだけ、持っていけ!」

と、おじさんはいった。

鍛冶屋の庭先に、馬蹄を大量に野積みしている。そのなかから、おなじかたちをした馬蹄を探しだすのだ。

屑鉄(くずてつ)みたいに、みんな錆びついている。なかなかおなじものは見つからない。馬の足は、こんなにも違うのかとぼくはおもった。前足と後ろ足でも大きさが違う。左右でもかたちが違うのだ。いい加減、時間がたってから、ぼくはおなじ馬蹄を見つけた。

おじさんがやってきて、

「どれ、見せてみろ!」といった。

「うーん、……こいつは、和郎さんところの馬だな」といった。和郎というのは父の名前だ。そんなこと、どうしてわかるのだ! とぼくはおもった。

「おじさん、わかるの?」

「わかるさ」と、おじさんはいった。

いつだったか、馬が後ろ足を痛がっていたことがあった。おじさんは、馬の左の後ろ足を膝の上に置いて、

「レッテイを起こしている」といったことがあった。

蹄がタテに裂ける裂蹄(れってい)を引き起こしているといった。そして、おじさんは油のような、べとべとした薬を塗って治してくれた。そのときにつくった馬蹄だと、おじさんはいった。

おじさんは、山のようにあるダメになった馬蹄を、ひとつひとつおぼえているみたいだった。そして、おじさんはいった。

「蹄(ひづめ)なくして馬なしっていうんだ。どれ蹄を見せてみろ!」

蹄(ひづめ)は馬の第二の心臓。それぐらい大事なところだとおじさんはいった。真冬でもお湯はぜったい使わない。

「爪にとってお湯は大敵だよ」

「ふーん、そうなの?」お湯は爪をふやけさせるからだといっている。

そういって、おじさんはもう一度馬の鼻づらをやさしくなでた。おじさんは、やつの左側の後ろ足を膝の上にのせ、そして、じっと見てから、「いいだろう」といった。

「蹄(ひづめ)なくして馬なし。――馬にとって、蹄(ひずめ)がいかに大切なものかをあらわすことばだ。おぼえておけ」と、おじさんはいった。

そして馬にのって帰ろうとしたら、おじさんはまた声をかけてきた。「あぶみは、もう替えたほうがいいな、……」といい、「立ってみろ!」といった。

あぶみに足をのせたまま立つと、「ちょっと待て」とおじさんはいった。

そして鍛冶場の奥の小部屋にいき、べつのあぶみを持ってきて、取り替えた。

「小学6年生か、もう子ども用のものはやめろ!」といった。そしてあぶみの位置を直してくれて、

「立ってみろ!」とふたたびいった。

「いいだろう」といった。子ども用のあぶみも、おじさんからもらったものだった。おまえはもう大人だ、といわれたような気がして、ぼくは嬉しかった。

そして季節がながれ、北海道のふるさとの暑寒別岳の雄姿を見ながら、ぼくは中学校に通った。

浅野さんのおじさんの家がまた増築され、こんどは精米所もやるようになった。長男が田畑の仕事をやり、長女は小学校の先生になり、次女が教師を目指して札幌に移転し、浅野家は大きく変貌を遂げていた。おじさんは鍛冶屋の仕事にいっそう磨きをかけた。

そのころ、わが家は街道近くに引っ越し、第一次北海道入植者の富井家の隣りに居をかまえた。富井家は、三谷地区の大地主だった。その三谷街道は全長27キロにおよんだ。

そして、だんだん馬の姿が消えて行った。農家も機械化されるようになったからだ。

わが家の暮らしも一変した。電気のある生活がはじまった。ランプもろうそくもお払い箱になって、部屋は明るくなった。ラジオのある生活は楽しかった。

父は何をおもったのか、玄関先に、大きな生き物たちのパドックをつくった。豚やヤギ、ニワトリを放し飼いにし、動物たちの遊び場をつくった。

そこに父がつくったかっこいいベンチを置いて、よくそこで家族写真を撮った。写真のなかに豚やニワトリたちも写っていた。

ぼくは、小学生まではよく馬ま背にのって通学したが、中学生になってから馬にのることはしなくなった。

わが家は耕地面積が少なかったので、早晩、身の振り方をきめるときが迫っていた。そして昭和33年、ぼくは3つの高校に通った。

北竜高校と沼田高校、そして札幌南高校にも通学し、じゅうぶんな国内留学体験をした。そのうちに、馬のことをすっかり忘れてしまった。――欲張って通信課程の授業も受けていたので、地方の受け皿校にも通うハメになった。

そのころ、老馬はもう働かなくなったが、父は離農する日まで馬を養っていた。馬が死んだことを知ったのは、夏場のスクーリングで札幌の高校に通っていたときだった。やつは15歳くらいだった。

父の手紙に死んだことが書かれていたが、そのときは何の感情もなかったのに、いまごろになって、急に想い出されてくる。――名前ぐらい、つけてやればよかったとおもった。