ンドラーのリスト》をたか? 

 ■映画「シンドラーのリスト」とは? ――

 

むかし、アンネナプキンはわが国の高度経済成長の真っ最中、昭和36年に発売されたといいます。発売1日目で問屋入荷分の9割が売れてしまったそうです。

「ほう、そうですか」と、ぼくがいうと、

「そのころ、田中さんは、何をなさっていました?」とその人は尋ねます。

「ぼくは高校生で、翌年の昭和37年に上京して大学に入り、銀座で過ごしました。あのころは、街には、生理用ナプキンが明け方の路上のあちこちに転がっていましたね」

「いやーね、フケツ!」と、女性はいいます。

「フケツといいましても、歩いていて、女性はよく落としました。だれも拾いませんから。ぼくなんか、アンネといわれましても、よくわかりませんでしたけれど、……」

 

映画「シンドラーのリスト」より

 

きのうは、これまで観た映画で、もっとも忘れられない映画は? とたずねられ、若いころのじぶんが映画をつくろうと勉強していたことを想いだしました。

映画をつくろうなんて、そんな簡単にできるはずもないと考えるのは自由ですが、やってみる価値はありそうです。つくるのは、観る以上にわくわくします。絵が好きで、いろいろと絵を見ていて、じぶんで絵筆をとって好きな絵を描く、というほど簡単な話ではありません。

 

さて、先年、――2015年ごろのことですが、――じぶんで「映画をつくろう」という企画講座を受講して、ますます映画のおもしろさに取り憑かれてしまいました。というのは、ぼくはときどき気が向けば短編小説を書いたりするので、映画もつくれそうだと考えてしまったのです。

で、つくってみました。

 

迷宮

 

そのくわしい話は、先年書きました。けれども、先日、ある本を読んでいて、とても深く考えさせられました。というのは、「知の論理」(小林康夫/船曳建夫編、東京大学出版会、1995年)という本なのですが、そのなかの高橋哲哉氏の「見ることの限界を見る」という文章を読み、彼の現象学をのべる一節に、「きみは《シンドラーのリスト》を見たか?」という文章があり、それを読んで、とっても熱い刺激を受けました。

ぼくも、この「シンドラーのリスト」という映画は、何回も見ています。

すくなからず衝撃を受け、映画による「ホロコースト」は失敗であるという考えをのべてきました。でも、そこに書かれていたのは、それとはぜんぜん違う話でした。で、まず、その話を少ししてみたいと思います。

 

 

 映画「シンドラーのリスト」より

 

 

 【ホロコースト】holocaustとは? 

 大虐殺、[現]、原義はユダヤ教で神への供え物の獣の丸焼き。 転じて全員を焼き殺すこと。

 Holocaust denialホロコースト否定《ナチスのユダヤ人大虐殺は存在しない、 あるいは誇張

 であるとする信念・主張》。

スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」は、1993年に公開され、世界の話題になったことは、まだ記憶に新しいでしょう。

この作家が娯楽映画ではなく、ホロコースト、――第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺――をテーマに真正面から取り組んだというだけあって、この作品は、莫大な私財をなげうって1200人のユダヤ人の命を救ったナチ党員オスカー・シンドラーの物語は、暁天の映画です。

それだけならいいのですが、ホロコーストに焦点を当てて描いたところに、映画としての問題があったという説です。なかでも、「ル・モンド」紙に掲載されたクロード・ランズマンという人の批評文は、辛辣です。「ホロコーストは、何であったかを同時にいうことなしに、シンドラーの物語を語ることはできない」というものです。

 

 

 

 

「なぜなら、圧倒的なユダヤ人は救われなかったのだからだ」と。

彼のいい分は、「ホロコーストは何であったか?」、それを抜きにして、この映画は語れないというのです。そういう意味では「シンドラーのリスト」は失敗作であるというのです。

現に、この映画を見た多くの救われなかったほうのユダヤ人は、この映画に反発しました。1200人のユダヤ人の救出と、全ヨーロッパで、600万人といわれる圧倒的多数のユダヤ人の死を比べるとき、絶対的多数である600万人のユダヤ人の死は、永遠になぐさめられないというのです。

ひとりの英雄的なシンドラーを引き立てる、映画の中の「書き割り」にすぎない。そんなことが書かれています。

こういう考えのあることを、ぼくは知っていましたが、この世界大戦を理解しようというとき、映画はどう描いてきたかを問題にした文章として、ぼくは注目しました。

映画「プライベート・ライアン」

 

スピルバーグ監督には、「プライベート・ライアン」という歴史に名高いノルマンディ上陸作戦を描いた映画があります。これはあきらかに、「史上最大の作戦」(1962年)にたいするアンチテーゼであり、「史上最大の作戦」は、いわば歴史の表舞台に登場する、上官らの立場から描いた公式記録のような映画です。スピルバーグは、これを否定しました。

戦争は、そんな悠長なものじゃない。もっと過酷で、もっと残忍なものだ、という視点で描かれたのです。

そのため、上陸する兵士らは、腕をもぎ取られたり、からだ半分を失ったりと、リアルなシロクロ映像がぶれながら動きまわります。カメラも手持ちカメラを使って、臨場感たっぷりに描かれました。この映画もまた、順光で、ノーマルに写した映画とはぜんぜん違い、とんでもなく歴史に挑戦した映画、そんなふうにも見えます。

時代の知性は、のちの時代になって評価される。――むかし、ピーター・ドラッカーによって「知識社会への移行」と呼ばれた世界の大転換をうながす著作は、たいへん映画のように劇的だったなとおもいます。情報戦略の話です。それは、意味のある情報、――そしてそれは「人が社会との関係性のなかでつくられる資源」という人もいます。そのなかには、浮いた話もあれば、真実性に富んだ話もあります。

ぼくは先日、絵の会合に出ていて、みんなの戦争の話を聞きながら、ひとりオスカー・シンドラーという男をおもい浮かべていました。

大事なのは、ホワイトヘッドのいう「モノ」ではなく、生成消滅する「コト」、――つまり出来事によって情報が進化を遂げるということ。ある人は「それは川ではなく、絶え間ない流れである」といいましたが、「いかにも」と、ぼくはおもったものです。

で、ぼくはシンドラーの話を切り出しました。

「これは、スティーブン・スピルバーグの映画ですね。彼自身、ユダヤ人ですから、この映画をつくる気になったんでしょうね」と、ぼくはいいました。

「スピルバーグはユダヤ人ですか。それは知らなかったな。《シンドラーのリスト》は、衝撃的な映画でしたね。……」と、ひとりがいった。

「……この映画は、1993年じゃなかったかな。ぼくが六本木の会社にいたころ、女の子といっしょに見ました。いい映画だったですよ。これで、アカデミー賞7部門を獲得しましたね」

 

 

「シンドラーのリスト」、パールマン。ニューヨークフィル

 

すると、そこにおられた日本画の高橋俊景画伯は、身をのりだして、「もっとくわしく」といったので、コーヒーを飲んで、ぼくはいつもより熱を入れておしゃべりしました。

「シンドラーって、――まあ、話せば長くなりますが、かんたんにいうと、オスカー・シンドラーは、1908年、オーストリア・ハンガリー帝国時代のレーメンという町で生まれていますね。彼はズデーテン・ドイツ人なんですよ。――ドイツの実業家として名を上げた人で、第2次世界大戦中、ナチスドイツによって強制収容所にいた1200人ものユダヤ人を彼の工場で働かせ、ナチスの虐殺から救った、その人物です」

「そうですってね」と、女性がいった。

「これには、もともと小説がありましてね、シンドラーを主人公にした小説なんですが、新潮文庫にその翻訳本がありました。作家の名前は、トーマス・キニーリーという人なんですが、……これはすごい物語ですよ」

すると、画伯はいいます。

「ポーランドは、ドイツ軍の侵攻で占領されましたからねぇ。ナチスの党員であり、実業家だったオスカー・シンドラーは、大儲けをたくらんで、占領下のポーランドにやってくる。金にものをいわせて、軍の幹部らを垂らしこんでゆく。……」

「ほう。……ナチスの党員が?」

「そうですよ。これは歴史上じっさいに実在した人物で、シンドラーは、シュテルンというユダヤ人を部下に持ち、彼とパートナーを組んで事業にあたらせるんですよ。この男はなかなか才能ゆたかな人物で、その男に工場の経営をまかせる。シンドラーの工場にゲットーから狩り出されたユダヤ人労働者を囲い込み、工場で働かせる。それがどんどん増えていって、しまいには1200人のユダヤ人であふれるんです。……1943年、つまり、ドイツ軍の末期状態になったころ、ゲットーが解体され、ナチスの恐るべき虐殺が行なわれる。……」

 

 

 

 

「ゲットーって、つまり、何なの?」と、ひとりがきく。

「まあ、……強制収容所ではなく、ある程度自由のきくといいますか、ユダヤ人村、といっていいでしょうね。ユダヤ人は腕に腕章をつけられて、その一画に押し込められます。それをゲットーといってるんですが、そこで大虐殺が行なわれるんですよ。彼らは、床下に隠れたり、壁や天井に隠れたりするんですが、みんな見つかり、銃殺される」

「まるで、映画だね。……」

「そう、まさにこれは映画なんですよ。映画では、この銃殺と悲鳴のごった返すゲットーの再現が圧巻です。銃声は深夜になっても鳴りやまず、ことばに絶する光景が繰り広げられます。それを丘の上で見たシンドラーは、ナチスのやり方に怒りを覚える、という筋書きです。事実、実在したシンドラーは、そこで彼らを救う道はないものかと考えたんでしょうね?」

「ふーむ。……」

「まず、このユダヤ人虐殺を説明するには、ユダヤ人という民族の歴史を話さなければならないんですが。――これは重い映画ですね。紀元1世紀ごろに起こった、ローマ帝国によるエルサレムへの攻撃からはじまります。ユダヤ人は、これ以来2000年にわたる放浪、迫害の歴史をたどることになります」

「2000年にわたる放浪? ……」

「そうです、まさに彼らは、2000年にわたる放浪・迫害の歴史をたどります。イエスを磔刑にして、亡き者にしたのもユダヤ人だった。ユダヤ人こそ、悪の根源、というわけです」

「なるほど、……」

「この反ユダヤ主義は、オーストリア・ハンガリー帝国にまで広がり、ウィーンはその中心でしたからね。ヒトラーが青年のころ、そこで過ごします。ヒトラーの考えは、アーリア人種を人類の文化の創始者、ユダヤ人は文化の破壊者と位置づけ、その人種理論を先鋭化していった人物ですね。……ユダヤ人の学者で、ベン=アミー・シロニーという元ヘブライ大学教授の本を読むと、ユダヤ人のことがよくわかります」

「むずかしいことばが出ますねえ。……そのオーストリア・ハンガリー帝国って、何なの?」と、若い彼女はききます。

「それを話すと、ちょっと横道にそれるので、後で話すとして、まず、そういうことで、《すべてのドイツ市民は、アーリア人でなければならない》というニュールンベルク法というのができます。第2次世界大戦がはじまる数年前ですよ。そして、ドイツ市内で、100人近いユダヤ人たちがとつぜん惨殺される。これは、見せしめです。俗に《水晶の夜》と呼ばれる事件です」

「《水晶の夜》?」彼女は驚いたような顔を見せます。

「ええ。ドイツの各地で発生した反ユダヤ主義の暴動です。ナチスによるポーランド系ユダヤ人の追放がはじまったんです。――でも、そんなことは覚えなくてもいいとおもいます。……肝心なのは、そうしてユダヤ人の殺戮が平然と行なわれるようになったという事実です。そういう事実をふまえて、この映画の見どころを整理すると、いかに真実に近い、20世紀の恐怖が描かれているかが分かりますね」

ニーチェの思想や、ダーウィンの進化論思想は、この間違った人種思想を正当化するために利用されました。この考えはドイツではなく、アメリカで花咲いた考えでした。

映画「シンドラーのリスト」は、オーストリアの作家トーマス・キニーリーの原作をもとに、脚本の構想を含めて7年ほどの歳月をかけてつくられたそうです。最初の脚本は、原作者のトーマス・キニーリーが執筆しましたが、スピルバーグは満足しませんでした。

その後脚本は二転三転し、最終的にはマイケル・クライトンという人が書きます。彼は1990年の映画、「レナードの朝」の脚本家としても知られています。スピルバーグは、ほんもののアウシュビッツで撮影したいと考えていたらしいのですが、ポーランド政府の許可が下りず、セットを組んで撮影が行なわれました。

そして、この映画には、モノクロ画面とパートカラー画面がいろいろ組み合わさったシーンが出てきます。

歴史的なシーンはモノクロで、そうでないシーンはパートカラーでというふうに。――これは、スピルバーグが尊敬する黒澤明監督の映画「天国と地獄」を真似たもので、劇中に赤い服を着たひとりの少女に使用されます。少女だけがパートカラーで撮影され、バックの風景は、すべてモノクロのシーンです。

これは、スティーブン・スピルバーグが初のオスカーに輝いた映画です。