北海道開拓農民の無学な3代目として
英国のエリザベス女王陛下が亡くなった。
14号台風が荒れ狂う夜、わが家はエリザベス女王の国葬のきぶんで遅い夕食となった。
じぶんが英国をはじめて訪れたのは1964年の夏だった。
渡航の自由化が実現してからのことである。――1964年4月1日。 この日に観光目的のパスポートの発行が開始された。留学は観光とは違うが、ほとんど同一視された。ひとり年1回、海外持ち出し500ドルまでの制限付きで海外への観光旅行が可能になったのである。
「海外渡航の自由」とは、海外に自由に渡航することができる権利のことで、いま、そんなことをいう人はいない。それは、日本国憲法第22条第2項によって保障されているからだ。
第2項「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」とうたわれている。大学の壁に海外の大学への留学あんないがところ狭しと貼られていた。
じぶんは、米スタンフォード大学を目ざしたが、試験に落ちたので、試験のない英国を目ざしていた。――つまり、その話に乗ったのである。北海道の開拓農民の無学な3代目が、ロンドン大学を目指すって?
金持ちの札幌の叔母の援助がなければ、所詮むりな話。
それを信じた叔母の慧眼もほんものというわけ。明大3学年のまま、学位を取らない方法で英国にわたろうというわけ。
ある日、横浜にフランスの大型貨物船がやってきて、それに乗って、まずはヨーロッパのオラン港を目ざした。途中、ベトナムのハノイ沖で2日ほど停泊し、スキを見て燃料である石炭を補給した。
ベトナム戦争が開始される寸前だった。
フランス領のオラン港に着いたのはその32日後だった。戦後17年目の渡航である。そして、パリからドーバー海峡を渡ったのは、それからさらに40日後だった。
フランスの諺に「人生を広く渡るには、海峡を三つ越えねばならない」というのがあるらしい。ホームスティした郵便局長の話だった。
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一日中、雨が降りつづき、小説のほうは、2ページほど修正したに過ぎない。
詩はどんどん書けるのに、小説の文章はなかなか書けない。――しかしシェイクスピアという男は、小憎らしいほど、詩文に長けているとおもう。
私はしばしばあなたを詩神として呼びかけて祈り、詩を書くのにおおいに助けていただきました、そのため私の知らない詩人までみんな私をまねてあなたを詩神と崇め、その詩を世にひろめています。
ものも言えなかった私に高らかに歌うことを教え、その鈍重な無知に空飛ぶ術を授けたあなたの目は、学識高い詩人の翼にさらに羽をおぎない、その優雅な美しさに二重の壮麗さを与えました。だが、あなたは私の作品を最高の誇りとしてください、あなたにいのちを吹きこまれて生まれたものだから。
ほかの詩人の作品ではあなたは文体をなおすだけです。学識はあなたの優雅な美を飾りとするだけだから。だからあなたは私の学芸のすべてであり、この私の低俗な無知を学識の高みにあげてくれるのです。
(シェイクスピア「ソネット」第78番、小田島雄志訳)
私だけがあなたの助けを求めて祈っていたころ、私の詩だけがあなたの優美な恩恵を受けていました。だがいまは私の優美な詩も恩恵を失って朽ち果て、私の病める詩神は別の詩人を受け入れました。たしかに(愛する人よ)、あなたの美を歌うのは、私よりりっぱな詩人にふさわしい主題でしょう。
だがそういう詩人があなたのことを書きあげてもそれはあなたから奪ったものを払い戻すだけです。彼があなたに美徳を貸してもそれはあなたの見せるふるまいから盗んだもの、彼があなたに美を与えてもそれはあなたの頬に見つけたもの、彼があなたを称讃してもそれはあなたの中に生きているもの。だから彼がどう言おうと感謝することはありません、彼が支払うのはあなたが自分に支払うものだから。
(シェイクスピア「ソネット」第79番、小田島雄志訳)
これは、学生時代に痛く感動してしまった思い出の詩である。
ここでいう「あなた」というのは、エリザベス女王のこととされている。
「あなたの美を勝手に盗んできて、これを詩に書いて、ふたたびあなたに献上している。そのことに、サンキューとお礼することはないのです。なぜなら、もともとあなたの美なんですから……」というような詩である。
「私よりりっぱな詩人」というのは、当時、シェイクスピアのライバルだったベン・ジョンソンという詩人を指している。――この詩は、シェイクスピアのなかでもよく知られている。
ジョンソンは、オクスフォード大学出の、ギンギンの古典主義の大御所。ラテン語、古代ギリシャ語を解する大詩人。だれもが認める雲の上の人。
いっぽう、シェイクスピアは、小学校しか出ていない。まだ無名の、詩人になることを夢見る田舎者である。
事実、ストラトフォード・アポン・エーヴォンという水郷の村から出てきたばかり。村の人口は2000人くらい。ロンドンにきて、ある芝居小屋に雇われ、いまは馬の番をやったり、ときどきは舞台の袖で、走りづかいをやっている。
村には、結婚したばかりの妻と生まれたばかりの双子の息子たちがいる。――どうか、私を「学識の高みにあげてください」というわけである。
そういう内容の詩だ。
はげしい嫉妬に燃えて書かれた初期の作品。26、7歳のころの詩と思われる。――彼自身、名もない市民だったので、市民の気持ちが痛いほど分かる。
――だれだって、最初は名もない市民だって?
それはそうだけれど、イギリス社会では今もって血統がものをいう社会。
あのサッチャー首相にしてからが、「たかが、小間物屋の娘じゃないのさ」と小間物屋の娘に揶揄(やゆ)されていたから、名門の貴族社会の出でもなければ、大学を出たわけでもないシェイクスピアにとって、この「名もなき市民」は、ことのほか大事な市民で、生まれ落ちる瞬間から世間や歴史に名が通る名門貴族を悼み、痛烈に諷刺しているようにも聞こえる。
シェイクスピアが尊敬し、敬愛してやまない相手は、ただひとりだった。
ほんものの名門の出にして、悲しい出生を背負っているエリザベス女王、――ティーダー王朝最後の女王。いかに女王への堅信をゆるぎないものにしているか、――いつかは世間に読まれて、世に知られることを期待して書かれたはずのこのソネットは、おそらく本音で書かれたに相違ない。
おもしろさのなかにある、感動。――笑ってすますことのできない感動。庶民の口は悪いけれど、どこよりもあったかいと思ったに違いない。
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「幸いなるかな、歴史書に記録なき民よ」といったのはトマス・カーライル(1795-1881 イギリスの歴史家。歴史における個人の力を強調。「フランス革命史」ほか)だった。
歴史上に記録なき庶民を羨むのではなく、自分を知り、自分に目覚め、自分を明確にしていく詩の主題は、記録なき民のなかにこそあるというのである。
イギリスらしさ、イギリス人らしさとは、王侯貴族の振る舞いや該博な知識のなかにあるのではなくて、じつは、生きた庶民の、重みのない空気にようなもののなかにあり、そうした熱望や絶望に直面する民こそ、イギリス文芸の値打ちを高めていったのだと思われる。
また悲劇の本質と、虚構の実体はおなじ重さであり、バランスをとっているものだけれど、てんびんにかけようのない名前には実体がなくて、重さもない。
そういっているのだとも思える。シェイクスピアが熱望した若き日の嫉妬は、きっとわれわれの熱望を刺激してくれると思いつつ。