栄光ある立主義の国、


 

ジョン・ロック。
 

 

おはようございます。

有史以前の太古のむかしから、ぼくらが進化の系統に属してきたというだけでも、考えてみれば、じゅうぶんに運が良かったといえるかもしれません。

人の生と死を受け継ぐことによって、進化はすすんだともいえます。

もしも1000年の寿命がある生き物がいるとしたら、人間のような進化はしなかったでしょう。逆に考えれば、生命あるものは、死を経験してこそ、次なる新しい生命になろうとして進化をつづけるわけですね。

38億年ものあいだ、山河や海洋が生まれるよりもっとむかしから、ぼくらの母方と父方、両方の祖先が、魅力ある配偶者を見つけ、繁殖可能な健康なからだを持ち、なおかつそれを実践できるほど長生きし、とても恵まれた環境にいたともいえます。

年があらたまって、なんとなくですが、そんなことを考えたりしています。

年があらたまったからといって、事新しいことに何か挑戦してみようなどという考えはなく、漫然と、過去を振り返るようにして、太古のむかしの出来事におもいを馳せています。

ばあさん、じいさんたちの時代、北海道の北竜村はどうであったのかとおもったり。そして、北海道の開拓時代はどうであったのか、100年前の話など、振り返ればついきのうの出来事のような気がしてきます。

そんなことをおもい描きながら、きのうはある青年と夕食を共にしながら、いろいろおしゃべりしました。

彼はこのほど就職が決まり、今年からスーツにネクタイを締めて、都内のオフィスに向かうわけです。初々しい彼の顔をながめながら、ぼくは「平等」と「不平等」について、少しおしゃべりをしました。経済学者のトマ・ピケティ氏のことばのなかにも、「inégalité(不平等)」という語が数多く出てきます。

これは、民主主義の基本的な理念である「平等」を否定することばです。

ちょっと考えてから、ぼくは、歴史というのは、まさに不平等の記事で埋まっているようなものだと話しました。不平等の最たるものは、教育でしょうか。経済的な不平等の話をするまえに、まずもって教育の不平等は、あってはならないとぼくは考えているからです。

ベンサムは、建学の父と思われているようです。

ベンサムは、しばしば、のちにユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London, UCL)となるロンドン大学の設立に関与したように受け止められていますが、それはどうも違うようです。

資料によれば、ベンサムは大学が開設された1826年には78歳になっており、その設立に直接的な関与はなかったといわれています。

しかし、当時は裕福であること、そして、英国国教会の信徒であることの両方が、オックスフォード大学とケンブリッジ大学に入学する必須要件だったのですが、ユニヴァーシティ・カレッジのほうは、人種、信仰、そして政治的信念のいかんに関わらず入学を許可した大学でした。

夏目漱石がロンドン大学に留学したのはそういう理由と、英文学の講座があったからです。ユニヴァーシティ・カレッジは王立ロンドン大学の最初のカレッジとなりました。

ベンサムについては先年も書きましたが、彼は、教育のチャンスは、富める者も貧しい者も広く享受されるべきと考えていましたから、教育の機会均等に重きをおいていました。

ベンサムのことばでいえば、「快楽や幸福をもたらす行為は善である」というのが彼の哲学です。それは功利主義に基づくものでした。

もっとはっきりいえば、正しい行為や政策は、「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)をもたらすものであると論じたわけです。「最大多数の最大幸福」というのは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という理念に基づくわけです。

これはのちに、「最大多数」という要件を落として「最大幸福の原理」(the greatest happiness principle)と呼ばれるようになりました。

ベンサムはまたおもしろいことに、「幸福計算」と呼ばれる奇妙な論文を提案しています。

これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するというものです。こんなことがはたしてできるものでしょうか? これは別名「量的快楽主義」とも呼ばれています。

やさしくいえば、ベンサムは、各個人の幸福の量を最大にすることが、国家の幸福度を最大限に高めるということを主張しています。これが「最大多数の最大幸福」と呼ばれる考え方の骨子です。

そのイギリスには、「栄光ある孤立(Splendid Isolation)」を標榜していた時期がありました。これは、19世紀後半におけるイギリス帝国の非同盟政策を象徴することばです。

ロンドンといえば、霧がたちこめる街。チャールズ・ディケンズの小説にも描かれているように、テムズ川の川上から川下まで「どこもかしこも霧だ!」と書かれ、その霧がもたらすヨーロッパ大陸と切り離された乖離感が、独特の孤立感をもたらしました。

ドーヴァー海峡は浅いけれど、イギリスの孤高の独立を成し遂げている、ともいわれます。しかしイギリス人には「海峡に濃霧、大陸からの孤立(fog in the continent cut off)」というおもいが強く、それが国を守っていると考えます。

また、ドーヴァー海峡は、「海の堀」になっているともいわれ、近代になるまでそこは「馬が飛び越えることのできない堀」といわれてきました。多くの詩人は、この美しい海峡をながめて「サマー・アフタヌーン(夏の午後)」といいました。

ぼくは、イギリスの思想史に出てくるホッブスやロック、ヒューム、ペイン、ベンサム、J・S・ミル、スペンサーというそうそうたる思想家が生んだイギリスという孤立した国に、とてもつよい関心を抱いています。

イギリスの民主主義は、だいたい3つの層に積み重ねられた民主主義だったようにおもいます。王権、議会、ジェントリー。――イギリスでいわれる民主主義は、議会制民主主義のことをいい、民意は、ほんとうの民意ではありませんでした。

税金を多く納めた人間が議会に選ばれ、税金の少ない大多数の人びとの民意はどこにも諮られる機会がなかったのです。

二院内閣制による議会制民主主義は、てっとり早い政治システムをつくったけれども、国民の大多数の人びとの考えは、何ひとつ議会に諮られることなく重大な事態へと導かれました。

欧米の政治的理論には、理論としての出発点があります。

欧米の近代社会を構築する際の「理論の出発点」としたものの多くは、われわれ日本人には分かりにくいものです。分かるわけがありません。その筆頭にくるのが「自由」だからです。

いま、その自由を否定する人は、世の中では少数派でしょう。

しかし、この「自由」は、どう控えめに見ても、積極的に賞賛すべきものではないと、ぼくにはおもわれます。戦後は事あるごとに「自由」が強調されてきました。憲法、教育基本法をはじめ、さまざまな法律にも基本的な人間の権利としての「自由」がうたわれました。

それをわが国では「人権」といっているわけですが、この「自由」という名の化け物みたいなもののおかけで、日本古来の道徳、日本人が長い年月にわたって培ってきた伝統が傷つけられていきました。

「自由」というのは、欧米がつくり上げたフィクションである、そうおもわれてなりません。もともと「自由」なんてなかった国から、もともと「自由」のあったわが国に持ち込まれた思想なのですから。

近代国家としての「自由」は、あくまでも権力に対して用いられる自由でじゅうぶんです。

イギリスでいわれる「自由」は、強力な王権に対していわれる「自由」でしたし、権力に対する自由は、イギリス人ならばだれでも強く持っています。王権によっていためつけられてきた歴史が長かったからです。

議会制を生んだというのも、王権に対してものをいう議決機関として生まれました。

嫌なやつをぶん殴ったりする自由、立ちしょうべんをする自由、愛人と夢のような暮らしをする自由、……。そういう自由は制限されていいのだという考えが、イギリスにはありました。

17世紀のイギリスの思想家トマス・ホッブス(観念論者)は、この自由を「自然権」と名づけ、万人に自由を与えたならば、万人の万人に対する闘争がはじまり、無秩序と野蛮と混沌の世界になるだろうと警告しました。

国家とは、人民が自由を放棄した状態をいうのだといっています。――ついでにいいますと、この「人民(people)」という語は、王さまがいる国だけに使われることばです。リンカーンのゲティスバーグ演説でのべられた「人民の、人民による、人民のための政治(……government of the people, by the people, for the people ……)」という訳文は、一種の誤訳でしょう。アメリカには人民はいないからです。君主のいる国には人民がいます。

日本には天皇がおられるので、ぼくらは人民というわけです。

また、つぎにあらわれたジョン・ロックは、「他人の自由な権利を侵害しない限りの自由」が必要であるといい、「自己生存にかかわる(勝手な)自由」は制限されました。

民主主義の根幹は、いうまでもなく主権在民、国民主権です。ロックが祖としても、最初に民主主義を実践した国はアメリカではないでしょうか。

主権在民。――しかし、これはほんとうにすばらしいことなんでしょうか? これには、「国民が成熟した判断を下す」という無言の信頼を寄せた理屈です。つねに国民の考えが「成熟している」ことを前提にした考えです。しかし、国民はつねにそうだったとはいえません。

議会制民主主義といい、思想のはじまりは、いつもイギリスというおもいがしてきます。たとえば「ノブレス・オブリージュ」。――紳士の証ともいえるこのことばは、イギリスのジェントリー社会を考えるとき、この摩訶不思議なことばが、鐘のように心のなかでひびいてきます。ほんとうに、ノブレス・オブリージュなんてあるのだろうか? とおもうときがあります。

ほんとうにあるんですね。

英国紳士の正体を突き止めたくて、いろいろと本を読んできましたが、それでもぼくには、まだわかりません。

階級制度と紳士との関係は、東洋の日本人として、これを理解することは、なかなかむずかしいようです。以前にも書きましたが、イギリスには国を二分する国民がいます。上流階級の人間はけっして下層階級の人間と付き合おうなんておもわない。それどころか、お互いに憎み合っています。

学校も職場も、読む新聞も、それぞれ違っています。

日本にはそういう階級というものはなく、朝、電車のなかで日経新聞を読んでも、帰りの車内では東スポなんか読んでいます。イギリスの上流社会にくみする人びとは、けっして東スポなんか読みませんね。むしろそういう人間を嫌っています。

紳士が、いろいろな条件を具備するには、それなりの環境と教育が求められます。それを可能にする経済力も必要で、そうなると、下層階級から紳士がなかなかあらわれにくい。

それが不平等というのなら、まことにそうなのでしょうが、もともとイギリスには、本来は、人間は不平等に生まれついているという考えがあるようです。このことから、法律の上での平等だけは実現しているらしいけれど、現実は、貴族をふくむ土地資本家と、産業資本家とが実質的な実力者となり、このイギリス社会をリードしているというのが現在の図式でしょう。ぼくにはそう見えます。――くわしくは、イギリス法におくわしい国際派弁護士、舛井一仁教授にうかがうといいかも知れません。

けれども、ときどき例外があります。

保守党のメイジャー首相と、サッチャー首相がそうです。

ふたりとも中クラスの下、もしくは下の上クラス出身の苦学型の英国紳士・淑女です。

サッチャーは、肉屋? 小間物屋? の娘さんで、政治家を目指して彼女は英語を勉強しました。あのサッチャーさんの英語は、飛び切りきれいです。

サッチャーさんが首相として日本を訪れたときのことを覚えています。日本人記者が「イギリスではじめての女性首相として、……」と質問したとき、サッチャー首相は「わたしは女性首相ではありません。イギリスの首相です(I am not a woman prime minister of Britain. I am Prime Minister of Britain)」と、毅然として答えていました。

サッチャーさんの後継者として登場したメイジャー首相は、これまた飛び切り下層の出身。

メイジャー首相こそ、経歴、人格、物腰とも、どこをとっても多くのイギリス人にとって驚天の人で、非の打ちどころのない紳士然とした首相でした。

その彼は、じつはサーカス芸人の息子でした。ロンドンのスラム街に生まれています。古くて狭いアパートの部屋で生まれ、部屋にはトイレすらなかったといいます。

そういう人が、47歳でイギリスの首相に上り詰めます。

そういうことから、「生まれながらの不平等」というのは、なくなりつつあるようです。それでも日本とはくらべようもなく、極端な国です。国民がふたつの分かれて闘う国です。

もしも国家や社会に、国の存亡にかかわるような危機が訪れると、「ノブレス・オブリージュ」を意識しているエリートは、率先してことにあたる。第二次世界大戦で最前線で倒れた将校、下士官の多くはエリートでした。つまりパブリック・スクール出身のエリートたちだったわけです。「ノブレス・オブリージュ」とは、髙い身分や地位には、それにふさわしい義務、というよりは徳が備わっていることを意味している、とされています。

たしかに国力で考えると、大英帝国の燦然たる日はぐーんと沈んだけれども、世界の座標軸の中心には、いまだにイギリスがある、そうおもえてきます。――議会制民主主義はもとより、始まりは、いつもイギリスという気がします。みなさんは、どのように思われるでしょうか?