「目的指向」について前回、前々回と書いてきました。
今回は輝かしい実績を残した前人の著作から「目的指向」を読み解きます。
その先人とは、プロ野球の故川上哲治監督。現役時代は「打撃の神様」と呼ばれ、監督生活14年で9連覇(V9)を含む日本一11回。空前絶後の実績です。
「目的指向」とは、「単純な要素が無数に積み重なると、全体として予測不能な複雑な振る舞いをする」という現代科学の「複雑系における創発」の概念で理解できます。
ルー・タイスは「起きることはコントロール出来なくても、起きたことへの反応はコントロールできる」と指摘しました。 個々の「反応」の影響は僅少な単純な要素でも、方向性を持った反応が無数に積み重なると、全体としては予測不能で複雑な「信じられないくらいの知恵と力の発揮」となります。
「方向性を持った反応(要素)を無数に積み重ねる」ための前提として、二つのことが挙げられます。
一つは当たり前ですが、方向性の設定、つまり目標(ゴール)設定。ゴールとは理想と言い換え可能です。
理想のない目的指向はありません。「出来事の意味付を変えることしか出来ない」とか何とかほざく「奴隷の処世術」と目的思考は根本的に相容れません。
もう一つは御利益主義からの完全脱却です。
御利益主義とは、「行為の見返りとして結果が保証される」との考え方です。具体的には「OOすればXXになる」と表現されます。
XXになる「OO以外の無数の条件・要件」を盲点(スコトマ)として、「OOさえしていればXXになる」との安直な帰結に至ります。すると目的指向で「反応(要素)を無数に積み重ねる」ことが出来なくなります。
「思いつきの方法論を墨守するだけで達成可能」、「計画にさえ従えば成功できる」、「オカルト法則を信じるだけで引き寄せる」、「自分たちの△△をさえすれば勝てる」・・・この類は「目的指向」の天敵とも言うべき代物です。
以下、著作からの引用と注釈を提示します。
私は、プロとはこうあるべきだという理想を求めて、技術的・精神的にチームの強化をはかったものである。したがって、少々勝っても、理想の方向に向かってプレーができなかったとか、ケガ勝ち、マグレ勝ちでは納得せず、プロらしい試合をしながら、実力によって勝つことを目標とした。
(川上哲治 「禅と日本野球」より引用)
注釈
これがV9を支えたゴール設定でしょう。別の表現で「野球道の確立」とも書かれています。
「高い理想を追求すれば結果が保証される」と考えるのは御利益主義そのものです。
理想を求める試行錯誤が始まります。方法や計画・法則が先にあった訳では決してありません。
とにかく、私の考え方は、勝つために役立つと思われることは、なんでもやってみようということだった。
こういう方法があるではないか、あのやり方はどうだろう、そして、その答えはこんな形であらわれるはずである、とまで考えたすえ、コーチたちにはかってみる。そこでよほどの反対がないかぎり実行に移すわけだが、やってみて不都合なことが出てきたり、うまくいかない面が浮かんでくれば、そこからさらに方法を考えて押してみる
その結果、どうしてもうまくいかないとわかったことは捨て、見通しが立ったことは残していくという方法をとっていた。それだけに、これを失敗したらどうしようかと、事態収拾に追われたり、痛手をこうむることはなかった。
はじめから、これしかないという形で計画を立ててやっていくと、万一失敗した場合の痛手は大きい。
(川上哲治 「禅と日本野球」より引用)
わたしは結果よりも過程を大事にする主義だが、自分が正しいと思い、よかれと思ってやったことでも、その過程でうまくいかないことがわかると思いきってやり方を変えた。つまり、いつも正しいことをやっていこうという姿勢を貫くのである。いつも正しいことをやっていこうという姿勢は間違った場合はすぐに直し、訂正していく姿勢に通じるのである。
(川上哲治 「遺言」より引用)
私も監督当時は一年一年が勝負だと思って戦っていた。だが、正しいやり方で選手づくり、チームづくりをやらないと勝てないので、そういう方向に向けて努力をした。それが結局は長続きしたので、あとで考えて「正しいやり方で進んだから、長続きしたんだな」と思ったわけである。
はじめから長続きする勝ち方とか、チームづくりは考えられない。「今年、どうやったら勝てるか」を目標に、バタバタしながらやったというのが、本当の話である。
(川上哲治 「禅と日本野球」より引用)
注釈
「なんでもやってみる」、「間違った場合はすぐに直す」、「バタバタしながらやる」、これらをルー・タイスは一言でまとめました。「invent on the way」、途上でやりながら発明するのであり、発明してから始める訳ではありません。
「あとで考えて『正しいやり方』と思う」ことが「正しいやり方」であり、最初から「正しい」と分かっているやり方は「正しくない」のです。「はじめから、正しいと分かるやり方」では、決して現状の外側には行けません。「正しいと分かる」、換言すると「結果の予想がたつ」のは現状の枠内であるからです。
私のいいたいのは、すべての「結果」捨てる、つまり考えないということである。結果を考えずに、その折々にやるべきことを一生懸命にやる。そうすれば、努力の集積が、おのずといい結果を生むということである。最初から結果を考えて、「こうやれば、こういう結果が出るだろう」と、はじめたことは、決して思うようにことが運ぶものではないし、好結果も得られないものである。
「グランドに金が落ちている」ということは、一生懸命、それこそグランドの泥にまみれながら訓練すれば、グランドに落ちている金が、ひとりでについてきてくれるという意味なのだ。したがって、結果を期待しながら努力したのでは、本当の意味で「結果を捨てた」ことにはならない。
といっても、何かをやるときには、誰しも輝かしい結果を脳裏に思い浮かべるにちがいない。しかし、やりはじまたら、結果を忘れるくらい「やること」に真剣にならなければ、好結果は決してついてこないものである。
人間は誰にも欲がある。はじめから結果がよくないと分かっていることをやる人はいない。最初は「こうやったら、結果がいいのではないか」と人に教えられ、自分でも考え、納得してやりはじめるのが普通だ。そして、やりはじめたら、やっていることに夢中になり、結果については一切忘れているうちに、結果がついてきてくれるということなのだ。
(川上哲治 「禅と日本野球」より引用)
野球の世界でいえば勝つか負けるかでなく、結果を恐れず全力を尽くすということだろう。結果を期待せずに無意識にやったことの方が、意識的にやることよりも優れた結果をもたらしてくれる。無我夢中になって努力をしていくところに、おのずと最高の結果が得られるというとらえ方だ。戦略、戦術をあれこれ練っていくのはそれを踏まえたうえのことだ。
(川上哲治 「遺言」より引用)
注釈
「結果を忘れるくらい、やることに真剣になる」、「結果を恐れず全力を尽くす」ことが可能であるのは、自分で考えた理想をゴールに設定していて、ゴールへの過程が「本当にやりたいこと」であるからです。他人から与えられた、欲得づくの「ゴールもどき」では不可能なことです。
「本当にやりたいこと」は多くの場合、青少年期に体験した「嬉しい・楽しい・誇らしい」情動記憶に根ざしています。好ましい情動体験の再現を期待しての「やりたいこと」なのです。やること自体・行為自体に価値を認める動機づけとなります。だから「やりはじめたら、やってることに夢中に」なれます。
欲得づくの結果を期待させて「本当はやりたくないことを、無理やりやらせる」のでは、無我夢中の努力は有り得ません。「やること」を最低限度で済ますため、御利益主義に飛びついてしまいます。
しかし「こうやれば、こういう結果が出るだろう」は、「こういう結果」が出るための、「こうやる」以外の無数の条件・要件が盲点(スコトマ)となり放置されているのです。このため「決して思うようにことが運ぶものではないし、好結果も得られない」のです。「折々にやるべきことを一生懸命にやる」とは、スコトマ(盲点)として放置されている無数の条件・要件を整えることを意味します。これが目的指向の本質です。一生懸命やれば結果が保証されるとの意味ではもちろんありません。
たしかに「勝つ」ということは結果である。しかし、そのための条件、その条件や要件が中途半端であったり、ごまかしであった場合は、勝ちにつながらない。審判の目をごまかして勝っても、あるいはルールぎりぎりの手を使って勝っても、そうした勝ち方は、決して長続きしない。
勝つために内容を充実させ、勝つための条件をととのえ、そのうえで勝っていく、これが「強さ」だと思う。
(川上哲治 「禅と日本野球」より引用)
「勝つために打つ、一つ一つの手がベストであるべきだ」ということである。こんな起用をすれば、選手はどんな感情を持つだろうか、あるいはここで投手を交代して万一失敗したら、マスコミはどう書くだろうかなどと、私の心、つまり私心を持って勝負をしても、いい結果は得られない。私心を捨て、勝負そのものに打ち込んで、「これしかない」というベストの手を打って勝敗を争う、これが勝負の心である。
中略
つまり「一瞬ごとのベスト」を追求しながら九回をやっていく、そして、その積み重ねで「一回ごとのベスト」を求めながら、百三十試合をやっていったのである。
たとえば、チャンスに点がとれなかったとしよう。打者が一生懸命やってダメだったのだから仕方がない。しかし、本当に得点したかったのなら、監督は打てる選手を起用する権限を与えられているのだから、監督自身の不明を責めなければいけないのであって、打てなかった選手を責めることはないのである。
と同時に、そうしたチャンスで打てなかったのは、選手の指導に欠けている点があったからではないかと反省することが大切なのではなかろうか。
(川上哲治 「禅と日本野球」より引用)
注釈
目的指向を考えるとき、情報空間での視点の高さ(抽象度)の概念が欠かせません。
視点の高さ(抽象度)に違いにより、見えている条件や要件が全く違ってくるので、「起きたことへの反応」が異なります。「チャンスに打てなかった選手を責める」ことと、「選手起用の不明や、選手指導の欠点を反省する」ことの違いは、視点の高さ(抽象度)の違いによる「反応」の違いです。
人間には部分情報しか認識できません。そして認識し得る部分情報世界の中では常にベストの判断をしています。見えている限りではベストの手を行っても、見えてない条件は中途半端のまま放置されます。条件さえ整えれば結果(勝利)が必ず保証されると考えると、御利益主義に陥ります。しかし長期的には、視点をより高くしてより多くの条件を整えた側が、有利な確率に収斂するということです。
「選手を責める」ことが絶対悪という意味ではありません。発奮して次回の好結果に繋がる可能性もあります。しかし、それより「選手起用や指導を反省する」ことの方が、視点が高く改善可能な条件が多く見出せるので、長期的に有利ということです。
同時に、その部分情報世界はリアルタイムに更新されており、重要度は成り行きで常に変化しています。常にベストの判断ではあっても、何に関してのベストなのかがリアルタイムに揺れ動いているのです。ある時は「勝負を最重要とする部分情報世界でベストの判断」をしても、次の瞬間には「人間関係やマスゴミ対策の重要度の高い部分情報世界でのベストの判断」に変化します。中には「自分の腹の虫」が最重要となることもあるでしょうが、それでは「勝つためのベスト」からは遠ざかります。
情報空間で高い視点(抽象度)からゴールを俯瞰することで、重要度の動揺が小さくなります。重要度を動揺させたまま条件を整えても、方向性が違うと打ち消しあってしまいます。「私心を捨て、勝負そのものに打ち込む」とは高い視点(抽象度)を保持することなのです。