バックボーンを理解して語っているのか、聞きかじった知識を言っているだけなのか | オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

ルー・タイスが始めた正統コーチングを、認知科学のパラダイムで理解した上でセルフコーチングプログラムとしたものがPX2・TPIEです。
プログラムとして受講し実践する限りでは、認知科学の何たるかを全く知らなくても、十分な成果が得られるように設計されています。


幸か不幸か最近では「TPIEらしきこと」「ルー・タイスコーチングらしきこと」を教える人が増えてきました。
なぜ「らしきこと」なのか。
それらを教える方々は「認知科学」という言葉を当然のように繁用しますが、果たして「認知科学」をどのように理解しているか謎であることが少なくないからです。
であるから、TPIEマスターファシリテーターである井上和也さんも、「バックボーンを理解して語っているのか、聞きかじった知識を言っているだけなのか」の問題を指摘されています。
参照:あなたを助ける【コーチング】が世界を変える Part3


そこでバックボーンとして認知科学の何たるかを、プログラムの設計者の著作から確認しておきましょう。

(「Dr苫米地の「脳力」の使い方」から引用)
認知科学の1番の基本は、存在をすべてファンクションとしてみることです。ファンクションというのは、役割、関数ということです。そして、ファンクショナリズムを信じている人たちを認知科学者といいます。
認知科学とは、部分と部分、もしくは、部分と全体とのかかわりのなかで意味が生まれてくるのです。そのかかわりをファンクションと言ったのです。
中略
そのファンクションのことを「内部表現」と呼ぶのです。これは認知科学者の言い慣わしです。
なぜなら、以前のパラダイムは、人間はブラックボックスだとするように、中身がないことが定義でした。そのパラダイムに対して、認知科学者は人間には中身があるというチャレンジだったのです。換言すれば、内部のファンクションが存在するということです。
中略
しかし、「内部表現」の内部という言葉には、とくに意味があるわけではありません。内部(インターナル)と言う言葉にこだわるのは、80年代に認知科学が生まれたとき、アメリカで過ごしていた現代では60代、70代の年齢になっているような学者です。
いま、宇宙の内部表現を調べているのは、量子力学者の超ひも理論です。それにあたるものを私たち認知科学者は脳の内部表現と呼んでいるだけなのです。
たとえば、物理学者にとっての波動方程式は、私たちにとっての内部表現です。しかも人間の頭の中の波動方程式です。
言いたいのは、式があるから存在があるという立場-。ファンクションが先で存在が後という立場なのです。

(引用終了)


波動方程式による証明があるから、ビックバンや超ひもが理論的な宇宙モデルとして、脳の中に存在し得るのです。脳内理論モデルとしてではなく、ビックバンや超ひもの世界を直接体験した人は誰もいません。ビックバン宇宙論や超ひも理論として共有されているのは、多数の人間の共通の脳内理論モデルとなっているからです。


日常サイズでの体験の同様です。脳は頭蓋骨で隔離されているので、外界を直接経験できません。感覚器から入力される情報を脳内モデルとして再構築する必要があります。直接体験した積もりでも、脳内モデルとして体験しているのです。
この場合の「脳」とは脳の機能(ファンクション)を意味します。ホルマリン漬けの脳標本やモニター上の脳画像の中には、どんなに頑張っても脳内モデルは生まれません。
よってファンクション(認知現象)があるから、脳内モデルとしての世界が存在し、その世界の一部である諸々の存在(人間や物体、概念)があることになります。認知現象(ファンクション)がなければ世界(宇宙)はないのです。


脳内モデルには、観測行為で確定した世界だけでなく、可能性世界の無数の分枝も含まれます。その可能性世界も、可能性を考えるファンクションによって存在し得るのです。可能性を考えない限り、分枝もないのです。別の可能性を考えると、別の脳内モデルに変わります。
ファンクションがあるから存在がある。ファンクションを定義すれば、存在が生み出される。ファンクションが変われば、別の存在に生まれ変わるのです。
ファンクションとは、「部分と部分、もしくは、部分と全体とのかかわりのなかで意味が生まれてくる、そのかかわり」のことなので関係性と換言できます。
関係性が有るから存在がある。関係性を定義すれば、存在が生み出される。関係性が変われば、別の存在に生まれ変わります。
別の存在に生まれ変わっても、記憶の連続性があるため、同じ存在と錯覚するのです。


この認知科学の立場によるものの見方は多くの人にとり、コペルニクス的転換を要求するはずです。現代社会は骨の髄まで資本主義に洗脳されているからです。
資本主義はプロテスタンティズムより発し、さらに源流をたどれば旧約聖書のユダヤ教にまで至ります。そしてユダヤ教・旧約聖書では「存在が先」、神が「在るもの」としてアプリオリに存在する世界です。
ユダヤ教から派生したイスラムを含む西洋社会の伝統的立場は、存在が先でファンクションが後、存在があるから関係性があるとするものです。西洋の先端科学では否定されている立場ですが、なぜか日常感覚では頑強に残存しています。
そして資本主義に洗脳されていると、西洋社会の伝統的立場に閉じ込められ、認知科学(ファンク
ショナリズム)の立場を全く理解できなくなってしまいます。


「存在が先」の世界に閉じ込められると、どうなるのでしょうか


一例を挙げると、コーチングで行う「自我とはなんぞや」の説明を全く逆に解釈することになります。
「自分」を定義しようとすると、必ず自分以外の人(家族や交友関係)、組織(学校や会社)、物体(趣味や嗜好)など、他者を引き合いに出さなければ何一つ説明できない。自我とは他者との関係によって定義されるものである。・・・と、ここまでは誰でも理解できます。問題はその先です。
「ファンクションが先」を前提とすればこうなります。
自我とは他者との関係性によって定義される。だからダイナミックに変わる関係性によって、瞬間毎に生まれ変わっている。よってなりたい自分は関係性を定義することで、いくらでも選択可能である。


「存在が先」を前提とするとこうなります。
自我とは他者との関係性によって定義される。他者は既に存在しているので、関係性は自分勝手には決められず、自分も自分勝手には決められない。
それから自分を受け入れるとか何とかの訳の分からない話になって、現状の枠内での高揚感を自尊心とか何とか称して有難がるだけに堕ちます。
ファンクショナリズムの立場からすれば、ダイナミックに生まれ変わっているものを受け入れるも受け入れないも糞もありません。受け入れた積もりになっているものは、記憶として合成した過去の幻影なのです。


例えば、親友関係にあるAさんとBさんがいたとします。親友関係が崩れるとA、Bという存在でなく、A'、B'という別の存在に生まれ変わります。そこでもう一度親友関係になりたければ、関係性を新たに定義すればいいだけの話です。新たに定義した関係は、元の親友関係でなく新たな親友関係で、A、Bに戻るのでなくA''、B''に生まれ変わるのです。かつてのA、Bは記憶としての幻影です。
親友関係が崩れたことを受け入れるとか何とかやる暇があったら、新たな定義に力を注ぐべきです。宇宙に同じ状況は二度とないのです。


より本質的な問題として「コーチングの意義(ファンクション)」が全く違ってしまいます


ルー・タイスコーチングでファンクション(内部表現)に相当する概念はブリーフ・システムです。ブリーフ・システムがあるから、脳内モデルとしての世界とその一部である諸々が存在します。
多くの人は成り行きで、多分に他人からの刷り込みでブリーフ・システムを形成してきました。幼少時は両親から、成長すると学校教育や社会習慣からの洗脳によります。今、見えている世界(存在含む)は、他人によって作られたファンクション(ブリーフ・システム)によって生み出されてものなのです。


従って、コーチングの目的はブリーフ・システムの意図的な改変にあり、その手段としてゴール設定およびゴール更新があります。別の表現をすれば、ゴールのファンクションが新たなブリーフ・システムを生み、新たなブリーフ・システム(ファンクション)が新たな世界(宇宙)を生むこととなります。
新たな世界とは、現状世界と全く無関係な別世界ではありません。記憶の連続性があるため、古い世界を包摂した新しい別世界です。現状世界を外側から俯瞰できる一段高い視点(抽象度)が、新たなブリーフ・システム(ファンクション)です。
常に視点(抽象度)を上げ続けることがコーチングのファンクションであり、自由意志(認知科学以降の定義による)への路となります。


「存在が先」とすると、世界が先(アプリオリ)に存在し、その結果としてブリーフ・システムがあることになります。すると、ブリーフ・システムが世界を生み出しているのではなく、既にある世界を歪んで見せるフィルターの様な偏見装置であると、ブリーフ・システムを誤解してしまう。
するとブリーフ・システムを改変する理由が、ゴール達成の障害除去となります。つまりコーチングの目的は目標(ゴール)達成で、手段としてのブリーフ・システム改変となります。
これの何が問題なのでしょうか。


その目標は間違いなく他人からの刷り込みであるからです。
自分のwant toで目標設定した積もりでも、他人に作られたブリーフ・システムでの判断であるので、他人の刷り込みとしてのwant toなのです。目標もまたファンクションの産物です。
目標が先(アプリオリ)に存在するとして、その目標に驀進すればするほど、ファンクションを作った他人の奴隷になってしまうのです。目標達成をコーチングのファンクションとすると、隷従への路となってしまいます。


たとえ当初の暫定仮ゴールが他人の刷り込みであっても、ゴール達成過程でブリーフ・システムを意図的に改変することで視点(抽象度)が上がるというのが、TPIEプログラムの妙味です。
視点(抽象度)が上がり現状世界を外側から俯瞰できれば、暫定仮ゴールを生んだファンクションを吟味できます。吟味した上で敢えて同じ目標を選択したのなら、元は他人に刷り込みであったとしても、奴隷ではない自由な選択となります。
その妙味の大前提が、「ファンクションが先で存在が後」とするファンクショナリズムです。「存在が先」とすると視点が現状に固定され、自由な選択はなし得ないのです。