「時間は未来から過去に流れる」を本当に理解しているのか その2 | オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

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故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

「時間は未来から過去に流れる」とは、
宇宙は瞬間瞬間(刹那)で新たに生み出される離散的な情報状態である」との宇宙観を比喩的に表現したものです。
人間にとって、今この瞬間の脳内情報状態だけが宇宙の全てであり、それ以外は認識不可能であるからです。
刹那瞬で生まれる宇宙(脳内情報状態)は、可能性未来の選択(未来予測)の枠内で、整合的に現在・過去の認識・解釈がなされます。この整合性を「時間は未来から過去に流れる」と表現しました。

 

認識活動と無関係な(アプリオリな)、「時間」という実体が実在して、何処からか流れて来る意味ではありません。
ましてや、「ゴールを設定した」と言葉で主張すれば、「未来から時間を流せる」特権的な超能力を発揮できるとかできないとかの、カルト話ではありません。

 


目の前の世界は記憶で合成されている

 

時間は未来から過去に流れる」宇宙観について改めて強調しておくことがあります。
「未来の可能性世界は、想像力の及ぶ範囲内で選択できる」ということです。
そこで質問
想像力は有限でしょうか、無限でしょうか。
答え
想像力は有限です。
答えに驚いた人は、「想像力は無限」という言葉を他人から刷り込まれているからかも知れません。

 

 

部分情報に生きる人間は、知識のないことはそもそも認識できません。それでも既存の知識(記憶)を抽象化することで、認識範囲を広げることはできます。黒板の知識を抽象化することで、ホワイトボートや電子黒板が認識できます。
知識がなければ想像もできないのであり、知識(記憶)抽象化の限界が想像力の限界ということです。黒板の既存知識がなければ、黒板に変わる未来の掲示装置を想像することはできません。想像される掲示装置がどれだけ画期的かは、黒板の既存知識をどれだけ抽象化できるか次第です。画期的とは、誰もの想像を超えている意味です。それは予測不可能なランダムな選択であることを意味します。
つまり未来の選択(未来予測)は、既存知識とその抽象化の程度により枠組みが決まり、その枠内でランダムな選択が可能というわけです。

 

人間の認知は、未来予測の枠内で整合的に現在の認識がなされます。ということは現在の認識は、既存知識と抽象化能力の枠内でのランダムな選択のそのまた枠内ということになります。
時間は未来から過去に流れる」をルー・タイス風に言い換えると、「ゴールが認識を作る」プリンシプルとなります。
しかし「ゴール」とは完全自由なランダムな選択ではなく、既存知識と抽象化能力の枠内でのランダムな選択です。

 

既存知識と抽象化能力による選択の限界があるということは、簡単に言い換えると、記憶による限界があるということです。
つまり「目の前の世界は記憶で合成されている」ということです。
これは所謂・苫米地理論と呼ばれるもののコアをなすものです。

 

目の前の世界が、時間経過にも係わらず連続している様に見えるのは、記憶の連続性があるかです。目の前に見えている「存在」が実在している訳ではありません。
「存在」とは、今この瞬間に記憶から合成される脳内情報状態です。それが認識活動とは無関係に先験的(アプリオリ)に実在している様に思えるのは、経験的に感じているだけの錯覚、つまり幻想です。
これは、「脳内情報状態のみが認識可能な全てである」との前提を正(true)とするならば、当然の帰結となります。

 


ゴールがなければ死んでしまう

 

改めて「ゴールが認識を作る」プリンシプルを考察します。
逆に見れば、ゴールを失うことは認識作用を失うことを」意味します。記憶の範囲内であっても、現在の認識は未来予測(可能性未来の選択:ゴール)の枠内で整合性が保たれているからです。

 

アメリカでの研究ですが、職業キャリア上のゴールを達成し引退した人は、平均18ヶ月で死去しています。
引退から死去まで18ヶ月あるのは、職業キャリア上のゴールは人生の一部に過ぎないからと思われます。一部のゴールを達成してから全てのゴールを失うまで平均18ヶ月ということでしょう。
ゴールを失うとは、生きる理由を失うことであり、整合的に生命活動も静止します。

 

ということは、生きて認識活動をしている限り、何らかのゴールを有していることになります。今、生きている人に限れば、ゴールが有るとか無いとかが問題になることは、そもそも有り得ない話です。
ただし「何らかのゴールを有していること」と「それを自覚(意識)していること」は全く別の話です。

 

そして大問題となるのは、その「ゴール」が自分で本当に望んだものか、あるいは他人から刷り込まれたものであるか、とうことです。
なぜなら、ゴールには記憶の限界があり、記憶とは外部から偶然やって来た情報であるからです。

 

 


トンチンカンな話

しかし不思議なことに、ゴールが有るとか無いとかを問題にする人がいます。
さらに輪をかけて不思議なことに、「ゴールが無い人のゴール設定を手伝います」とか何とかをいう、コーチを名乗る有象無象がいることです。

 

「ゴールが無かったのにコーチのお陰でゴール設定できました」
とかいうトンチンカンな話も聞こえてきます。
ゴールがないと死んでしまう事実から、この話を解釈するとこうなります
「死んでいたのにコーチ様のお陰で生き返りました」
まるでカルト教団に洗脳された信徒のようです。

 

この手のトンチンカンは「ゴールを設定できた」としてドンチャン騒ぎをします。
「ゴールを設定した」と言葉で主張するだけで何かの偉業を成し遂げた積りになる、だからトンチャン騒ぎです。
しかし「ゴールを有していること」と「それを自覚(意識)していること」は全く別の話です。「設定できたゴール」が、今この瞬間の認識活動の基準(ゴール)として機能している保証はありません。どんなにドンチャン騒ぎをしても確約はされません。
より大きな問題として「設定した積りになっているゴール」が「本当に自分が望んだゴール」である保証もありません。「他人から刷り込まれたゴール」である危険があります。

 

今この瞬間の認識活動の基準として機能しているゴールは、目の前の世界を観察すれば分かります。目の前の世界とは現在の脳内情報状態であり、それは先験的(アプリオリ)に実在しているのではなく、認識活動の結果であるからです。

 


トンチンカンな話の出所

 

ゴールが認識を作る」プリンシプルも、「脳内情報状態のみが認識可能な全てである」との前提から帰結されるものです。「宇宙は刹那瞬で新たに生み出される離散的な情報状態である」との宇宙観を別の言葉で表現したものといえます。

 

脳内情報状態以外は知り様がないので、宇宙観のモデルに含めない」とするのが認知科学のパラダイムです。
網膜に写った二次元画像を、脳内で三次元に合成した情報状態が、日常的に経験する三次元空間です。そこに光の速度を加味した相対論の知識が加わると、四次元時空間のモデルが脳内に合成されます。さらに量子論の世界では11次元ないし5次元の脳内情報状態(モデル)となります。
脳内情報状態を生み出すに至った情報処理(関数:ファンクション)には目を向けますが、情報処理される以前の「生の真実の宇宙」は知り様がないので考慮しません。

 

そこから百尺竿頭に一歩を進めると、超情報場仮説のパラダイムとなります。脳内情報状態以外は知り様がないといえども、情報(関数も含む)は全て外部からくる。そこで情報の出所を仮説として提示することは、科学として矛盾しない。情報同士がダイナミックな相互作用をなす超次元の「」を、脳内情報状態の由来として想定するのが、超情報場仮説です。

 

では認知科学以前ではどうであったのでしょうか。
脳内情報状態のみが認識可能な全てである」とは考えていなかったのです。
なんと、認識活動とは無関係に「真実の宇宙」が実在し、原則として誰もが「生の真実の宇宙」を直接的に知覚可能と思っていたのです。
認識活動とは無関係に宇宙が実在していることを前提とすれば、「認識活動がなくても生きている=ゴールがなくても生きている」と帰結されます。「ゴールが認識を作る」ではなく、「ゴールがなくても真実を直接知覚可能」というプリンシプルになります。
だから「ゴールがないことが普通」であり、万一「ゴールを設定した」と言葉で主張するだけで「普通ではない=有り難いこと」となるのでしょう。

 

これでトンチンカンな話の出所が分かりました。
認知科学のパラダイムで語られる様々な説明を、認知科学以前のパラダイムで理解しようとするところに根本原因があったのです。