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恵翠(けいすい)書道教室

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街の本屋で聖書を買ってきて読む分には、哲学をしているに過ぎない。しかし、街の教会に通うとなると、宗教をしていることになる。

哲学をしている限りにおいては、そこには自由な発想があり、自分ならではの世界を構築できる。しかし、宗教をするとなると、組織の決めた考え方に依存しなければならない。

音楽を聴いて、その場で素晴らしいと言える人もいれば、評論家の論評が素晴らしかったからといって音楽を聴く人もいる。後者は自分の考えでは、その良さを判断できない。しかし、自力でその芸術の良さに気付き、素晴らしいと言えるのなら、そこに、その人ならではの哲学が間違いなく存在しているのである。

哲学には自由があり、無限の可能性がある。しかし、宗教は、組織の考え方が絶対的ゆえに、その人が自由に考えることを阻止してしまうのだ。

私は以前、知的障害者の施設で働いたことがある。そこの園生は、いつも「暇だ」と言って私の所に電話を掛けてきた。彼らは自力で本を読むことができない。つまり哲学できないのである。とはいえ、文字ではダメでも感覚で悟れる力はまだ残されていた。私は彼らのために、より幸せを感じられるためには、どうしたら良いのかを、彼らの失敗から学ばせようと試みたのである。

人間には、それぞれ人生に学ぶ段階のようなものが異なっているのかもしれない。ある人が2段階の人生を歩んでいれば、ある人は6段階の人生を歩んでいるという感じである。つまり、霊的レベルにおいては決して平等ではないのである。中には、健康面で恵まれずに、高い筈の霊的レベルが生かされていない場合もあるかもしれない。

私も、頭に大怪我をするなどして、急に霊的レベルの成長が阻害されてしまうことになるかもしれない。どんなに生きられたとしても、成長できる人生はすでに終わってしまうことになる。脳に大きな障害を持つと言うことは、なんとも悲しい現実なのである。

そうなると、霊的に成長できると言うことほど、大きな祝福と恵みは無いと言えやしないだろうか。哲学できると言うことは、何と言う幸せなのだろう。そこには自由の時間が流れているのである。

正常に働く脳を持ちながら、宗教に埋もれてしまってはもったいない。時代と共に消え去ってしまう価値観のみに人生のすべての時間を使ってしまうのももったいない。大いに哲学を楽しみ、生きている意義を謳歌しようではないか。








私はカトリックの信者である。カトリック教会を心より愛している。つまり、哲学しているからと言って宗教を軽蔑してはいないのである。教会があったからこそ、私はキリストに出会えたのである。その後、自力で聖書を読むようになり、自由を得るようになっていったのである。イエス・キリストには、いかなる状況においても、失望することなくモチベーションを失わないでいられる術を学んだように思う。宗教とは私の基本であり、次なるステップへの足掛かりであったと思う。そして、私の初心なのである。

良心に欠いた人間は、哲学できない。彼らは、悪という束縛に生きるしか無いのである。宗教心の全く無い人間が哲学できないという理由がそこにある。それは、良心こそが哲学と言う自由の世界に誘ってくれるエネルギーのようなものであると思えるからだ。




 どんなレベルでも教育は職業ではありません。単なる仕事ではないのです。それは献身的行為です。

            ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986 インド生まれの宗教的哲人、教育者)





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シュタイナーは、実に多くの説を提示しました。その中には、キリストが二人いたというものも含まれます。これは、伝統的キリスト教ではとても受け入れられるようなものではありません。しかも、その説が正しいと言い切れるだけの根拠もありません。しかし、それを正しいかどうか論じ合うことには、ほとんど意味のないことです。

シュタイナーは自由な人で、自由な発想を持っていたゆえに、実に多くの説を提示できたのです。私は、彼のそういった姿勢を支持しています。それゆえ、私自身も彼に習って、多くの説を見出すようになりました。ただ、私の説の方は、いくつも間違いが見出されて何度も訂正しています。とはいえ、単に覚える知識とは違い、説を打ち立てるということは、私自身に取って腑に落ちることであり、魂の成長に繋がっているように感じられるのです。

私は、シュタイナーの自由なファンタジーを愛してはいますが、シュタイナーの提示した説を全て正しいとは考えてはいません。シュタイナーの文献は、そもそも聖書のように一言一句精査されるようなものではないのです。私たちもシュタイナーのように自由にファンタジーを描くのなら、より真理に近づけるという意味なのだと捉えています。

だから、シュタイナーの説は違うと思えたからといって、シュタイナーを学ぶ資格が無いと考えることは無いのだと思います。むしろ違うと考えることから、多くのインスピレーションが得られることが多いからです。そういう意味で、シュタイナーほどにインスピレーションを豊かに与えてくれる存在を私は知りません。私はそこにシュタイナーを学ぶ価値を見出しているわけです。まあシュタイナー信者には嫌われてしまうのかもしれませんが、まず、シュタイナーは神ではないのですから間違いを犯す存在であると認識するべきだと思うのです。

私は、シュタイナー信者ではなく、シュタイナーの支持者というニュアンスになるのだと思います。シュタイナーのオリジナルに忠実になるのではなく、シュタイナーの精神を学び、豊かに得られるインスピレーションにより、より良い世界を創り上げていきたいと考えています。シュタイナー信者になってしまうと、シュタイナーが絶対の存在で、シュタイナーの知識を覚えるだけに留まってしまうのです。そうなるとシュタイナー教育のオイリュトミーやフォルメンも伝統芸能と同じ次元のものとなってしまうことでしょう。そこには発展性がありません。果たして、自由を愛するシュタイナーがそんなことを望んでいるのでしょうか?

将来、そこのところのガイドラインができるのなら、シュタイナー教育は世界教育になるべき可能性を秘めています。しかし、シュタイナーが絶対のものと考えるのなら、カルトというべきものでしかありません。そもそもシュタイナーに絶対的なものを求めるべきではないのです。

シュタイナーを学ぶ人たちによって、実に多くの説が生まれてくることでしょう。そうなると全体の統一が取れなくなり、論争にまで発展するかもしれません。そうならないためにも、シュタイナー的な議論のルールが必要になってきます。そういう場合、まずお互いに説を生み出したことを称えるべきで、相手を打ちのめすことではないのです。シュタイナーの考え方とは実に気の長いものです。実現させるためには数千年も掛けるような考え方です。だから、説を打ち立てることに価値があるのであって、「それを数千年掛けて話し合えるか」ということが重要なのです。今すぐ変えることを求めるようではシュタイナー的ではありません。

自分の説がすぐに採用されなくても、後の世で見出されて価値を得るかもしれない。その時、自分がこの世に存在しなくても、自分が打ち立てた説が役立つかもしれないと思うだけでもロマンがあります。そういう意味では、シュタイナーの組織では、先人たちが書いた貴重な論文を厳重に保管し、学習者として相応しい者が閲覧できるようにすべきなのだと思うのです。そこにシュタイナーが唱える「秘儀の精神」があります。

きっと、数千年後、ファンタジーと思われていたシュタイナーの説の正しさが見出されるのかもしれません。少なくとも、膨大な説の中のいくつかはそうなっていくのだと私は信じています。と言うよりは、シュタイナーにヒントを得て、多くの真理が見出されていく方が多いのかもしれません。まさにシュタイナーとは、ヒントの宝庫なのです。

何を言いたいのかというと、シュタイナーの矛盾は、シュタイナー的発想で解決できるということです。矛盾を感じたからと言って投げ出してしまってはもったいなのです。矛盾を感じたその先に素晴らしい世界が開かれてくるのです。そこに、シュタイナーを多くの人に勧めたい理由があります。



シュタイナー教育が世界教育として発展するのなら、全人類を優れた哲学者へと導いていくことでしょう。いつしか人々の魂に束縛を与えてきた宗教と言う概念はなくなり、民族紛争も戦争の火種もなくなっていくことでしょう。そして、商業主義的な競争も存在しなくなることでしょう。魂の進化における停滞状態の歴史にピリオドが打たれ、人類の魂は大いに進化し、神に近づいた存在になっていくことでしょう。人類は高度な次元と繋がることができ、そこでキリストが二千年前の人々には語れなかった高度な教えについて学ぶことになるのかもしれません。

そうなるのは、千年後、二千年後、もっと先なのかはわかりませんが、私は、何度も生まれ変わってその時代に居合わせるような気がします。その時代の私は、自分自身の魂の記憶を取り戻す術を得ていて、さらに上の次元から宇宙の法則を自由に引き出して学んでいるのかもしれません。そう気長に考えるのなら、人生、何も急ぐ必要などないのです。




※私はカトリックのクリスチャンなので、転生について積極的に述べられない立場にあります。ただキリストは、特に罪人にとって転生の教えでは、どうしても「どうせ…」といった諦めに繋がりやすく、良くなるためのモチベーションが得にくいので、過去(前世含む)でもなく、未来(来世含む)でもなく、今にのみ集中することを教え、十字架の贖いによって私たちのすべての罪が許され(リセットされ)、良くなるための再スタートが切れることを教えています。それは宇宙の法則(科学的真理)とは明らかに異なってくると思われるのですが、良くなるための気力を得ることで、その人はさらに上を目指せる者になれるという、ある種の方便なのだと私は受け止めています。人生、いつも良くなるためのモチベーションを持ち続けることが大切だと言うことです。私も多くの奇跡を体験していますが、一点の疑いなく信ずる心は科学を超えてしまうのです。何より、二千年前において、そうしなくては差別を受けている者や弱者に希望を与えられなかったことでしょう。キリストの教えは、「愛がテーマ」になっているということを、そういったところに見出すことができるのではないでしょうか。




母の精神状態が安定し、頻繁に呼び出されることがなくなりました。一切怒らない対応で落ち着いてきました。資格取得を目指してカウンセリングを勉強している効果なのかもしれません。

トレーニング・ジムでは、ほぼ毎日トレーニングをやっていて、ヨガやボディバランスのレッスンも受けている効果なのか、ゆとりで30分走れるようになったのですが、膝の痛みがなかなか取れないので、明日は病院で診てもらう予定です。今日はオフ日な筈でしたが、午前中から緊張感のあるスケジュールがあって疲れたので、今夜は久しぶりにゆっくり過ごそうと思います




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私にとって、東京での学生時代、高円寺のアパートでの自炊生活時代が、一番学びの多い時だったと思う。

前の記事にも書いたが、高円寺は、東京大空襲で焼け出された人たちによって作られた街であり、それゆえ人々の絆が深いのである。

高円寺は優しい街で、ある定食屋さんでは、とても不愛想な若いウエイトレスさんが働いていた。おかみさんは、彼女にとても優しく接していた。多分この子は、ファーストフードやコンビニでは働けないことだろう。また、刑務所を出所してから板前修業をしている男性もいた。店主は、彼にとても優しく接していた。このように、高円寺という街は人に優しい街なのである。その代わり、アダルトショップができたりすると、街ぐるみで協力して追い出すこともするような健全な街なのである。

私も授業で使う高額なオペラの楽譜が買えずに悩んでいたら、近所のパン屋のおじさんが、「返さなくていいから、頑張れよ!」と1万円渡してくれたのである。このように、きっぷの良いのも下町人情なのである。

行政によるのではなく素人によって作られた街なので、道路の幅がとても狭く、消防車も安易に入れない。それゆえ、危険地域に指定されているが、この道路の狭さが、隣近所との狭さが、高円寺の人たちの独特の人情を生んできたような気もする。








さて、私の塾生の中にも親の躾のなっていない子、発達障害の子、難病を抱えている子など様々いる。プライベートなことなので、ここで書くわけにはいかないが、私は性格に関しては、あまり問わないことにしている。

皆に嫌われている子であろうと、良くなった例をこれまで多く知っているからだ。こういう子に対しては、性格を直すことではなく、誰よりも上手くなって自信を持たせることに集中させている。きっと、これからの人生において、その性格のことで損をすることが多いだろう。でも、自分の才能を信じられることが、克服へと繋がっていくからだ。

ただ、スキルだけ教えるのでは良い未来へと繋がらないので、そういう子には、普段とは違ったおやつ付きの特別授業などやって、人間としてについて学ばせている。すぐにその子の性格を治すための授業ではなく、あくまで将来に生きるような内容である。つまり、その子が将来、素敵な大人になっているイメージを描かせるような内容である。今すぐやれというものではない、あくまで夢ならば、誰もが受け入れられるのである。

私は教え子がたとえ犯罪者になったとしても、良くなると信じたい。人生とは、死ぬまで可能性を追い求める価値があると思う。

シュタイナー教育とは、エリート教育ではない。子供の魂の発達に即したタイムリーな指導を教えていくものである。将来、真理に目覚めることができるような芸術性を教えている。なぜ、真理に目覚めることが重要なのか?

イタリア・オペラの大作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディの最後のオペラは喜劇だった。しかも最後のセリフは、「世の中全部冗談さ!」なのである。この言葉、とても奥が深いと感じられてならないのだ。

私も人生とは茶番であると思うことがある。人は、時代が過ぎ去れば価値の無くなるようなことに夢中になり、時には、そんな茶番に命を懸けてまで取り組まなくてはならないのである。もし、茶番な生き方だけで人生が終わったとしたら、何と空しい人生なのだろうか。

でも困難を乗り越えた数の多い人の人生は茶番ではないような気がする。そのことによって魂が大いに磨かれるからだ。

自分の出来ることだけやって、出来ない人を見下げ、上に上がって来られないように自信を失わせる。そうやってマンネリな人生を送って何になるだろう。むしろ、できないことを喜んでやって、困難を乗り越えた方が意義のある人生ではないだろうか。

私は、50歳を過ぎてからが価値ある人生がやって来るように思うのだ。何といっても経験値では若い人には負けない。だから50歳になってから大学で学べば、自分が世の中のために何ができるかをわかって取り組めるのだ。多分、多くの大学生にとっては、自分は何をすべきなのかわからないことだろう。自分が何者かを分かった上で、大学で学ぶのなら、社会のために大いに働ける第二の人生が得られるような気がする。私の友人には、主婦としてほぼ半生を生き、子どもたちを育て上げてから大学に学び英文論文を書き学位を得て大学の先生をやっている人がいる。

学生時代に勉強ができなくたって、家が貧乏で大学に行けなかったとしても、社会人として立派に生きられたなら、必ず、自分は何者かを知っている筈である。知れた上での、そこからの人生こそが面白いような気がする。織田信長が好んだ歌の歌詞「人生五十年~」なんて糞くらえである。何と不幸な時代の言葉だろう。

だから私は、今できる子だけをできる子とは決めつけない。50歳を過ぎてからでも人生は開けるものなのだから、私の塾生たちは全員優れた人材だと思っている。

シュタイナー教育は子供時代だけの教育ではない、一生の教育なのだ。シュタイナーの7年周期の教育論は、何と63歳まで続くのだ。人は、多くの困難を乗り越えて、真理に至るのだ。老人になるということは、経験値は最高潮な筈なのに、身体的にも能力的にも困難が増えることである。ということは、ある意味チャンスなのだ。頑張らなくてはならないからだ。しかし、何もすることが無く、ぼーっと過ごすとするのなら、ヴェルディの言う通り、「世の中全部冗談さ!」ということにはならないだろうか。


母の介護をしていて一番悲しいことは、わがまま放題となり、子供帰りをして、何も努力をしなくなったことである。優しくする人の言うことしか聞かない。私が子供の頃から、一度騙されるとその人に対して信じられない性質が強かった。人を信じられず、自分も信じられない。そのせいか、挫けやすいような気がするのだ。母には感謝することの方が多いが、反面教師として学んだことも多かったように思う。現在、わがままにさせることでしか良くしてあげられないことが残念でならない。




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※まだまだ勉強不足なので、これはメモ程度の内容と考えて欲しいです。ある意味つまらない妄想なのかもしれません。


★原点:「どうしようもない人間たち」…魂の進化を阻害する人間の気質
    (頭が良い分、道徳的には獣以下…暴力、盗み、殺し、輪姦、獣姦…)

<宗教の変遷・宗教のルーツ>     <秘儀の変遷・フリーメイソン系のルーツ>
どうしようもない人間たち(一般人)  国を治める側のエリートたち
初期の宗教は恐怖主義(人身生贄)   哲学(宇宙の法則)、数学、物理学、天文学…

                   アトランティス文明?(文明出現の謎)
シュメール文明(忽然と出来上がる)    ↓
 ↓(アブラハム) バラモン教(差別的)  エジプト文明(一般人:宗教、エリート:秘儀)
ユダヤ教     ↓            ↓
(宗教/旧約) ブッダ(差別から解放/哲学的) ギリシャ文明(一般人:宗教、エリート:秘儀)
 ↓       (↓)弟子たちの背教   ↓
 ↓    イエス・キリスト(愛を説く/宗教的) ↓
世界に散る  ネロ帝の迫害↓        ↓
 ↓     新約聖書〈正統〉  グノーシス(秘儀を学ぶキリスト者)
タルムード          ↓      聖書外典〈異端〉…グノーシスの聖書(現実的)
(反キリスト)  (ニケア公会議)    ↓
 ↓         カトリック(宗教) ↓ (異端狩り) ギリシャ正教〈分離した正統〉
 ↓ イスラム教   ↓       ↓ ( 〃 )
 ↓ (宗教/聖書に由来) ↓ 十字軍  ↓ ( 〃 )ユダヤ人の大迫害(イスラムに逃れる)魔女狩り
アシケナージ  ↓サラセン帝国から↓        ↓ テンプル騎士団(火刑に滅ぶ→魔女狩り拡大)
 ↓    ↓ユダヤ人材移動↓      シオン修道会(万能人達、ダ・ビンチ・コード)
 ↓    ↓ヨーロッパの繁栄↓ プロテスタント 薔薇十字会(錬金術師~産業的技術革新へ)
 ↓    ↓(ス→ポ→  ↓  ↓     ↓   (魂の錬金術→スピリチュアル)
 ↓    ↓ 蘭→英) ↓  ↓   フリーメイソン(産業発展のための有志達)
 ↓    ↓ ユダヤ人移動↓  ↓     ↓
 ↓    ↓ 繁栄の変遷↓  ↓   イルミナティ(王制を倒すための実力主義者達)
 ↓    ↓       ↓  ↓     ↓
 ↓    ↓       ↓  ↓   アメリカ(フランスと並びイルミナティによる建国、ユダヤ人材集結)
 ↓    ↓       ↓  ↓     ↓ 自由主義の限界 (魂の進化の停滞依然続く)
 ↓    ↓       ↓  ↓  シュタイナー(独) ↓ 第一次世界大戦 (魂の進化のための破壊?)
アウシュビッツ ↓        ↓  ↓ ↓ 第二次世界大戦 (魂の進化のための破壊?)
シオニズム   ↓原油の富大 ↓  ↓ 軍事拡大(米) ↓復興と共に世界的に教育が普及→能力格差続く
 ↓  9.11 ↓イラク戦争  ↓  ↓        ↓ 若者の精神の堕落(音楽/ファッション…宗教離れ加速)
 ↓   イスラム国    ↓  ↓     ↓ 【現在地】※第三次世界大戦?(対イスラム 対テロ)
 この世の神(ユダヤ教)の勝利=宗教の役割終える  ↓ 人類、破壊された世界を復興させる
                       ↓※世界教育が広まる(シュタイナー教育?)
                     ★「どうしようもない人間たち」からの脱却
                  人類の魂の画期的向上(全人類が優れた哲学者)
                    ↓(地球外生命体とのコンタクト 天使と悪魔の秘密解明)
                  神との交流(真のキリスト=あの世の神 の教えの解明、再臨)
                     ↓(人類のほとんどが、高次元界に転生する)
                  地球の役割が終わる





日本人は、東日本大震災では素晴らしかったと思う。暴動が起こらなかったし、奪い合うようなこともなく、絆を大切にお互いに助け合ったのだ。これは世界から称賛され奇跡とまで言われた。そして、日本人が世界から尊敬される光景となった。もし他の国だったら、暴動が起こり、食料や物資を巡り奪い合いとなったことだろう。

過去にも、広島や長崎に原爆を落とされても、日本人は見事に復興している。私は、東京は杉並区の高円寺で学生時代を送ったが、なぜ高円寺の人たちが仲が良いのかと近所の年配者たちに取材したことがある。それは、かの東京大空襲にあった。人形町で焼け出された人たちが、高円寺の地に逃げて来て、お互い力を合わせてゼロから街を作ったのだという。お祭りは、復興のために頑張りぬいた人と人との絆の証なのだと言う。

さて、こういった日本人の素晴らしさはどこから来るのか。幼稚園や保育園の教育が優れているのか。それも少しはあるとは思うのだが、一番大きいのは母子教育にあると思うのだ。日本人の子どもは母子密着型で育てられる。それゆえ、優しい子に育つのだ。欧米型の母子隔離型教育は、確かに子供の自立心を養い競争に強い子には育つが、優しさは育ちにくいのだ。いつも戦争を意識して生きるのなら、母子隔離型教育が良いと思うのだが、平和な世界を築くには、母子密着型教育であると思うのだ。

ある日、仕事を終えた時に、突然、野良猫が玄関から入ってきた。人にいじめられたようで目のあたりが傷ついていて、かなり興奮していた。そして私にかみついたり引っかいたりしてきた。餌や水を出しても食べようとしない。そこで、猫を私のお腹の上に載せて、私は一休みすることにした。始め私の手を引っかいていたものの、ゆっくりとした私の呼吸に安らぎを感じられたのか、いつの間にか猫は寝てしまった。そして、猫が目を覚ましたタイミングでまた餌を出したら、喜んで食べた。水も飲んだ。身体を密着して安らがせることで、猫は一時的にでも優しい気持ちになったのである。

大きくなった人間の子どもを自分のお腹に乗せて安らがせるわけにはいかない。赤ちゃんの時期が重要なのだ。世界教育に生きるかは別として、日本人の素晴らしさを見直して見たいと思う。




※私は、書道塾を経営しているが、そこではシュタイナー教育を取り入れ展開している。教育方針としては、子供たちの「良心の向上」と「芸術性の向上」により、「生命力」と「あらゆる能力」が向上していく考え方を基本とし、様々なワークに取り組ませている。そして、他者評価にとらわれない、しっかりとした自己評価の出来る子供に育て、過去でも未来でもなく、今に集中できる精神を身に付けさせられるように指導している。また、大らかに生きることで幸運を貯蓄し、いざという時に強運を生かして人生を切り開いていけるイメージを描かせ、宗教者的ではなく(「キリスト意識」は重要)、哲学者的発想力により現実的に物事を分析でき、あらゆる困難を乗り越えていける人間へと育てることを重要視している。




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盛岡芸術祭 声楽部門演奏会は、無事終了いたしました。応援してくださった皆様の応援のお陰です。心より感謝申し上げます。

前々日の木曜日の夜、母が自宅の玄関先で転倒し、翌朝、病院に連れて行ったところ左腕を骨折していることがわかり、ギブスを付けることになりました。母は、痛みを訴えて大変だったことと、自分で食事をしたりトイレをすることも困難となり、私は歌の練習どころではありませんでした。

本番の日は、妻に休みを取ってもらっていたので、どうにかなりました。母に関しては、怪我をする数週間前から探し物のために練習を妨害されました。補聴器を失くし、メガネを失くし、杖を失くされました。結局、補聴器以外は見つかりましたが探し物にずいぶん時間を失ったことになります。そういったこともあり、練習不足のまま本番を迎えてしまいました。普段なら、録音を取りながら詳しくチェックしていく練習や、ステージを意識して鏡の前で練習したりもするわけですが、今回は、そういったことが全くできませんでした。

当日に、練習不足の焦りから、練習室での練習をし過ぎ、かつリハーサルでしっかり歌い過ぎたこともあり、本番では声がかすれて全く出ない状態になってしまいました。

私は、偉大なるF1レーサーのアイルトン・セナのことを頭に描いていました。彼は、母国ブラジルグランプリだけは、マシントラブル等でなぜか優勝したことがありませんでした。そんな彼が、1991年ブラジルグランプリでついに優勝したのですが、それはあまりに過酷なレースでした。残り6周前後の時点で6速以外のギアが全て使用不能となる事態に陥っており、そのためセナは残り周回を全て6速ギアだけで走りきらなければならなりませんでした。セナはそれまでトップを走っていたものの、守り切るところか完走することすらままならない困難な状態だったのです。彼は、神業ともいえる走りをしてチェッカーフラグまで辿り着いたのでした。その時のTV映像が蘇って来て私に勇気を与えたのです。

本番、第一声で声がかすれて上手く出ないことに気付きました。第二声で、高音は割と音が抜けることに気付きました。ということは、音が抜けるそこのポジションだけを使って歌い切ろうと思ったのです。そこのポジションは、高音を出すには問題がありませんが、低音を出すことに関しては至難の業です。それゆえ、私は低音域を出すのには普段の十倍もの力を込めて歌わなくてはなりませんでした。しかも、高音にしても声帯のコンディションが悪すぎるため、ちょっとでも気を抜くとひっくり返ってしまいそうでした。そういう意味では、いつもでは考えられないほどの集中力が求められたのです。

一曲目のジョルダーノのオペラ〈アンドレア・シェニエ〉より、「祖国の敵」は、必死の思いで歌いきることが出来ました。特に、最後のロングトーンは、いつも以上に長くのばし、かつフォルテッシモに持っていくことができたので感動的な終わり方が出来たのだと思います。すると、一曲目にもかかわらず会場から大きな拍手がしたのです。その日、一曲目で拍手がもらえたのは全出演者の中で私だけでした。

2曲目のルッツィ―のアヴェ・マリアは、ソプラノのオリジナルのままで歌ったので、高音を酷使します。冒頭と前半、後半にも二度、問題の高音が出てきます。それが、全て問題なくクリアできました。ただ、最後に低音で「アーメン」と歌うところがついに声がかすれてしまい声になりませんでした。最後は、声ではなく顔で歌った感じになりました。その日の私は、オペラ・アリアもそうでしたが、いつも以上に感情移入をしたように思います。しかも全力で歌ったこともあって、お客さんにビシビシ届いたようでした。これまでのステージで、一番大きな拍手を得ることが出来たと思います。

今回、自負していることは、その日の声帯のコンディションで、諦めずに歌える人は、多分いなかったのではないかと思うことです。そういう意味で、今回の歌唱は、私らしいというか、私ならではの歌唱だったと思います。医者に見捨てられた身体障害を克服し、水泳、陸上競技では、どん尻からトップになり、声楽においては、教師に「深海魚」とあだ名を付けられる最低で能力の無い状態からスタートし、卒業時には学校でトップになったそういった経験が、全て生かされた演奏ができたように思います。とにかく、「諦めないこと」が私の持ち味なのです。そう考えると、今回の歌唱は、私の人生で一番の演奏だったと思えるのです。


男子楽屋では、出演者の澤村楽人君(武蔵野音大研究員)と、伴奏者の佐々木駿君(岩手大学教育学部3年)と、同じく超ベテラン伴奏者の生平祐二先生(元二期会ピアニスト)と楽しく語り合いました。澤村君は、二曲目にプッチーニのオペラ〈トゥーランドット〉より「誰も寝てはならぬ」を歌い、会場を盛り上げました。彼は、これから大いに伸びる歌手だと思い応援していきたいと思います。何と言っても生平先生のお話は貴重なもので、本人が係るものを含む数々の伝説の名演奏について教えてもらったばかりか、先生は名オペラ歌手、勝部太さん(バリトン)が日本音楽コンクールで優勝した時の伴奏者だったとのことを知り驚きました。私の師匠、栗林義信先生の伴奏もされた方なのだそうです。生平先生の方から、「次回は僕に弾かせてくれないか」と言ってくださりとても光栄というか恐縮しました。

今回、私の伴奏者を務めてくれた関 久子さんは、カトリック四ツ家教会の聖歌隊のオルガにストで、全く畑違いの伴奏を務めてくださいました。ジョルダーノのオペラアリアは、特にイタリア語が読めないと伴奏が弾けないため、随分苦労をされたようです。私としては、オペラアリアの含まれる演目の時は、生平先生のようなオペラの専門家に、日本歌曲とキリスト教音楽の演目の時は、関さんにお願いしようと考えています。キリスト教音楽に関しては、信仰者として尊敬している関さんが私にとって一番なのです。


今回は、滝沢教室の子供たちに絵を描いてもらった募金箱が大いに活躍しました。ほぼ四万円募金が集まりました。半分を東日本大震災に、残りの半分を熊本地震の方に送るのだそうです。

今回も、東日本大震災の直後に癌で亡くなた女性3人組のアイドルグループ、キャンディーのスーちゃんが、子供たちが描いた絵として復活して活躍しました。スーちゃんは、熊本のためにも頑張りましたよ。

本当は、写メを交えて記事を書けたなら、もっと感動的にお伝えできるのでしょう。しかし、現在の私にはそういったゆとりが全くないことが残念に思います。そうであったとしても、今回のことは、私にとって生涯忘れることの無い、感動的な演奏会だったと思います。




今日は、高円宮杯の最終審査をします。つまり子供たちの出品作品を決める予定です。今回は、千枚書きに挑んだ子もいました。全国展で特別賞を取ったような子たちは卒業していませんが、今年のメンバーが一番練習をしたのは確かです。



母の状態が安定するまで、しばらくブログの更新はお休みいたします。






(小論文)「芸術性とインスピレーション」





世界でいちばん貧しい大統領 ムヒカ来日緊急特番~日本人は本当に幸せですか~










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