恵翠(けいすい)書道教室

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お久しぶりです。

昨年、書道塾を一旦やめて、お弟子さんを他の塾に移動してもらいました。

そして介護の仕事をしたのですが、健康を激しく害して退職してしまいました。

近所のお子さんが2名、お習字を続けて習ってはいます。二人共、4月からは高校生です。

現在、私はテレワークのカウンセリングをやっています。

 

心理オフィス まごころ

 

今月、9日前からFacebookをやっています。嵐のようにチャットをもらい、チャット詐欺に巻き込まれてしったりもしました。怪しいチャットをしてくる人はことごとく友人を削除しましたが、それでも現在103人の友人登録がいます。20代の頃に生声を聴いたイタリアのバリトン歌手とも友人になりました、そうしたらイタリアの音楽ファンのご夫妻からも友人登録を受けました。私がパソコンを学んだスクールの校長先生ととも友人になりました。現役バリバリのオペラ歌手や指揮者、ピアニスト、ジャズアーティストともお友達になりました。近所に住んでいる人から、地方の政治家、有名な政治評論家、弁護士、大学の名物教授、神秘学関連、僧侶、そして書道家ともお友達になりました。

 

そんな中で、『天使論』という本を書き上げました。Facebookでは酷い目に会いましたが、そのことで追求してきた最後のピースを見つけられたように思います。

 

下記のリンクから、PDFファイルをダウンロードして読むことができます。

 

 

これからのことは、全くのノープランではあります。でも、いろいろ種まきをしたので、何かが起こりそうな予感というか、きっと良い導きがあるように思います。ですから直感を鋭くして、チャンスを逃さないようにしたいと思います。

 

ブログを本当に長いことお休みしていました。Facebookは確かにお友達作りには優れていますが、ブログのように検索は反映されないようです。このブログから、書道塾の問い合わせの電話を時々いただいております。そろそろ、このブログを再開させたいと思います。ただ、病み上がりなので、ゆっくりペースで取り組みたいと思います。

 

どうぞ、よろしくお願い致します。

 

 

昨日の午後、映画JAZZ KISSA BASIEを見た。

 

 

岩手県は一関市にあるジャズ喫茶BASEEのマスター菅原正二さんのドキュメント映画である(監督:星野哲也)。

 

日本一音の良いと言われるオーディオセットは、素人には扱えない微妙なな設定とメンテナンスの賜物だった。

 

映像では、次から次と、世界的な方々登場していたが、片田舎な筈なのに国際的な場所と化していた。とはいえ、盛岡駅近くのジャズ喫茶ジョニーのライブでおなじみの方の顔も映っていたりと実に不思議だった。にしても菅原さん。かっこいいカリスマだった。映画鑑賞の後、ジョニーに移動し、映画の話に花が咲いた。

 

 

東京でも上映中です。

 

東京・渋谷

アップリンク渋谷

2020年9月18日(金)から公開

 

東京都渋谷区宇田川町37−18 トツネビル

03-6825-5503

https://shibuya.uplink.co.jp/

 

その他の都市での劇場情報は、こちら

 


私もジャズ喫茶に魅了されている者の一人である。マスター、そしてお客さん、アーティストの方との語らいがとても楽しい。ジョーニーでは、私も何度か飛び入りで歌わせてもらった。クラシックの演奏でも受け入れてもらえた。

 

ジャズの現場には、とびっきりの笑顔があり、包容力のある音に包まれるのだ。

 

 

二週間ほど前から、便秘と下痢を繰り返しており体調が悪い。


今日は、布団に横になって、TSUTAYAから借りてきたDVD映画「インセプション」を見た。


監督は、クリストファー・ノーランで、『インターステラ」の監督と同じである。


主演は、レオナルド・ディカプリオで、渡辺謙さんが重要な役どころで共演をしている。


夢の中に入り込んで問題を解決するというドラマだが、夢の中が、多次元のように層をなして存在しているのには驚いた。深い次元に行くほど危険が大きいのだ。


実は、最近私は不思議な夢を見た。始めは日本の風景で、ビジネスをするためのテナントを探していた。狙っていたテナントは、すでに買われていて悔しい思いをした。そこでトイレに起きて、また眠りについた。次は、ニューヨークの風景で、素晴らしいテナントを私に譲ってくれるという人が現れた。私は英語が苦手な筈なのに、そこでは何故か流ちょうに話ができた。その親切な方のご家族と食事をした。ジュニア・ハイスクールに通う男の子もいて、その子に将来の夢をたずねたりした。実は、日本の風景も、ニューヨークの風景も私の知らない風景な筈なのに実にリアルで、登場人物も見知らぬ人たちである。私が創造した世界なのだろうか。それとも、誰かの夢に入り込んで展開されたものなのだろうか?


私は完全に寝ているわけなので、意識的に創造したとは考えにくい。誰かの夢に同調して入り込んだのだろうか?


人間は、およそ三分の一の時間は眠っている。しかし、眠っている時間には意味がある。免疫系が修復されているらしい、しかし、意識の方向性が悪いと免疫系が修復しにくい。夢の中のドラマは、免疫修復と何らかの関りがあるのかもしれない。意識から、プラス思考を落としてやれば、夢の中のドラマで自分が過去の自分の記憶を修正し、層になって存在している次元のそれぞれを浅い所から深い所へと移動して修復していくのかもしれない。映画では、死んでいる筈の主人公の奥さんが、夢の次元では生きていて、数々の問題を起こすのである。


夢とは脳による作業なのか? それとも肉体から離れた異次元での出来事なのか? 


現実の肉体は、いつかは死ぬ。さて、夢の世界の方は、消えるのだろうか。別次元の出来事として残るのだろうか。


病気の話に戻るが、スッキリとした便が出ないのが苦しい。胃の痛みがとても気になる。


あまりにだるくて仕事をする気力が出ず、寝ていると苦しくなる。それゆえ、映画DVDを見て紛らわしている感じだ。

 

私は一応カトリック教会の信徒なのですが、3月以来、久しぶりに日曜日のミサに出席しました。

 
献金袋を回すことができなくなったので、集会献金は、お御堂の入り口の献金入れに用になっていました。その前に、手の消毒をするようになっていました。

 
教会備え付けの聖歌集も不特定多数の人が触れるゆえ、聖歌を歌わなくなりました。聖歌隊が、答唱詩編を歌うだけです。何か物足りない感じでした。

 
神父様がご聖体を配らず、信徒代表がご聖体を配る奉仕をしていました。多分、神父様は、県内の教会を歩き回っているゆえ遠慮されたのでしょう。

 
来週予定の敬老の会は、ソーシャル・ディスタンスができないゆえ中止となりました。特に来客が多く集まるクリスマスはできるのでしょうか?

 
今日の司祭は、いつも感動的なご説教をしてくださる堀江節郎神父様でした。本日のテーマは、道徳的に病んでいる人にいかに忠告をするかという内容でした。

 
忠告をする前に、お互いを理解し合うために「分かち合い」をするべきとのことでした。その人のことを何も知らないのに、その人の欠点だけ見て忠告するのはいかがなものか、と話されていました。それでも聞き入れない場合は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」の聖句に対しては、イエスは、小さき者や罪人を愛する方ゆえ、決して差別したり敵視することでは無いと教えていました。

 
忠告の聖句は、間違った生き方をしている人に対して、無視をするというのは、実に人間関係が浅いものであるから、お互いに忠告し合える、つまりは「分かち合い」できる深い人間関係を築いていくべきという意味ではないかと話されていました。

 
今日の朗読聖句には、「愛は隣人に悪を行いません」のみ言葉がありました。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とも書いてありました。

 
聖書には、差別的だったり、敵視するような、あれっと思うような聖句もあります。これは、聖書を書いた人たちが、あまりに酷い迫害を受けて敵視の気持ちが入り込んだものなのでしょう。しかし、イエスの基本の教え、つまりは愛の教えに立ち返るなら、今日の神父様のご説教のように、見事にすっきりする信仰へと高められるように思いました。

 
私たちは目に見えない悪魔に苦しめられている存在です。ミサの中の聖餐の儀式は、イエス様の遺言でもあったのですが、悪魔の誘惑を防ぐための儀式でもあります。

 
今週が、神の御心から離れずに生きられますように。新しい仕事に対する、良い準備が進められますように。

 

 

ここ数年、私は「天使論」についての研究をしています。

 
1945年に、エジプトのナグ・ハマディで発掘された古文書、ナグ・ハマディ写本が基本となっている理論です。これは、失われた初代教会の教えです。初代教会について調べていると、ギリシャ人によって作られたキリスト教がいかなるものか、ユダヤ教の第二聖典である「タルムード」がいかなるものかが見えてきました。


天使論とは、生きながら天使の境地に達するというものです。ですから、天使論に生きる人にドグマ(対立する概念)があってはいけません。事実を追求しても批判者になってはいけないのです。

 
天使との対話(エンジェルガイダンス)といっても、始めは自己問答に過ぎません。つまり、自分と天使の対話なので、天使役が必要となります。相手は聖なる存在の天使なので、自分の心の中に存在する聖なるものを引き出すことになります。それを毎日続けていると、対話がどんどん自然なものとなっていきます。単に美しい返事をしてくれていた天使役が、それまで自分が知り得なかった知恵を与えてくれるようになるのです。何かと繋がっているという感覚が得られてきます。天国(プレローマ)の本物の天使と対話している自分に気が付くことでしょう。

 
スピリチュアルな内容ですが、このことが科学的な真実かどうかを確かめるには、私たちの短い一生では、とても足りません。最先端の科学が追い付ける日が来るのでしょうか。

 
ただ、一つ確かなことは、もしあなたが天使になろうとするならば、あなたの魂の質は格段に向上し、そのことで、あなたも、あなたの周りの人たちも幸せになっていくということです。

 
その天使の境地に達した魂が死後どこに行くのか。残念ながら、そこから先のことは「わからない」と言うしかない神秘の世界ではありますが、私はだまされたとしても、その素晴らしい理想世界に生きてみたいと思うのです。

 
永遠の命は、私たちが夜空を見上げて観測できる宇宙のどこにも存在しないことでしょう。その宇宙とは、始めがあり、いつかは終焉する有限の存在であるからです。また、人間の目には見えない次元がいくつも存在してとしても、その次元すら有限の世界に過ぎません。

 
永遠の命とは、宇宙を超えた世界に存在するものなのかもしれません。

 
とはいえ、ものすごく遠い筈の世界が、私たちのすぐ近くに開かれているというのです。

 
そうなると、物理学でいうテレポーテーション(瞬間移動)よりさらに凄い現象が存在していることになりますが、私はあると信じています。21世紀において神の存在を信じるということは、そういうイメージになってくるように思います。

 
あなたは、科学的証拠が得られないからといって、確実に得られる目の前の幸せを放棄しますか。それとも確実に得られる幸せを実感した上で、その神の証を自らの確信に変え、神が約束してくれている更なる幸せの世界を目指しますか。

 
「天使論」では、現在を「静かなる昇栄の時」と位置付けます。多くの人が知らぬ間に天国の門が開き、知らぬ間に天国の門が閉じられてしまうというイメージです。そして、門が閉じた後で、多くの人が気づき出し、嘆き悲しむのです。その後、何らかの理由で人類が滅亡するのか、それともゴイム(異邦人)が滅ぼされてユダヤ人だけが勝利に至るのかについては、過ぎ去った後の世界に過ぎないわけです。いつかは宇宙にも終焉が来るのですから、人間の勝利など空しいものです。

 
天国(プレローマ)では、子羊の婚宴と人間と天使の婚姻がなされ、片側だけの性を持つ聖なる存在たちが結ばれて完全となるのです。われわれ人間が天国(プレローマ)に戻ることで、ソフィアの過失(ここでは内容を割愛)以前の完全性より、より堅固な完全性が得られるとされています。失敗を克服すると、失敗する以前よりも優れた性質が得られるのと同じです。失敗は投げ出さないない限り失敗ではないのです。ちなみに、「天使論」では、天使と結婚することが重要となりますが、この世の結婚は修行と位置付けており、生きている間だけの関係であり、仲の良し悪しに関係なく、お互いの本当の配偶者は天使と考えるものです。また、結婚相手がいないことを嘆くこともありませんし、何度も結婚に失敗し、理想の相手がいないと嘆くこともありません。

 
「天使論」は、幸せになるための理論です。もし、あなたが人生に絶望しているのなら、本当の幸せを得るチャンスなのかもしれません。

 
これは、あくまで私の描くイメージであって、他の人には腑に落ちないかもしれません。エンジェルガイダンスは、聖なる対話によって、その人が腑に落ちる理論へと仕上げてくれることでしょう。天国(プレローマ)にあなたの希望をそのままぶつければいいのです。

 
イエス・キリストの直弟子(ユダヤ人)の伝承であるナグ・ハマディ写本が、新約聖書(ギリシャ人による)と大きく異なる点は、ナグ・ハマディ写本には一貫性が無いことです。つまり、書いた作者によってその理論が若干異なっているのです。そのことを批判している人もいるようですが、私は一方的に押し付けられるものではなく、一人一人異なる性質に応える理論であるべきと考えています。単に聖句を暗記するのではなく、エンジェルガイダンスを通して、その人らしく聖なる存在へと変わっていくのです。


誰もが人生に絶望したくはありません。しかし絶望に直面したとしても、終わりではありません。絶望を克服するとき、永遠の世界に至れるからです。それまでの方法を捨て、天使の方法に切り替えるのです。