私は一応カトリック教会の信徒なのですが、3月以来、久しぶりに日曜日のミサに出席しました。
献金袋を回すことができなくなったので、集会献金は、お御堂の入り口の献金入れに用になっていました。その前に、手の消毒をするようになっていました。
教会備え付けの聖歌集も不特定多数の人が触れるゆえ、聖歌を歌わなくなりました。聖歌隊が、答唱詩編を歌うだけです。何か物足りない感じでした。
神父様がご聖体を配らず、信徒代表がご聖体を配る奉仕をしていました。多分、神父様は、県内の教会を歩き回っているゆえ遠慮されたのでしょう。
来週予定の敬老の会は、ソーシャル・ディスタンスができないゆえ中止となりました。特に来客が多く集まるクリスマスはできるのでしょうか?
今日の司祭は、いつも感動的なご説教をしてくださる堀江節郎神父様でした。本日のテーマは、道徳的に病んでいる人にいかに忠告をするかという内容でした。
忠告をする前に、お互いを理解し合うために「分かち合い」をするべきとのことでした。その人のことを何も知らないのに、その人の欠点だけ見て忠告するのはいかがなものか、と話されていました。それでも聞き入れない場合は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」の聖句に対しては、イエスは、小さき者や罪人を愛する方ゆえ、決して差別したり敵視することでは無いと教えていました。
忠告の聖句は、間違った生き方をしている人に対して、無視をするというのは、実に人間関係が浅いものであるから、お互いに忠告し合える、つまりは「分かち合い」できる深い人間関係を築いていくべきという意味ではないかと話されていました。
今日の朗読聖句には、「愛は隣人に悪を行いません」のみ言葉がありました。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とも書いてありました。
聖書には、差別的だったり、敵視するような、あれっと思うような聖句もあります。これは、聖書を書いた人たちが、あまりに酷い迫害を受けて敵視の気持ちが入り込んだものなのでしょう。しかし、イエスの基本の教え、つまりは愛の教えに立ち返るなら、今日の神父様のご説教のように、見事にすっきりする信仰へと高められるように思いました。
私たちは目に見えない悪魔に苦しめられている存在です。ミサの中の聖餐の儀式は、イエス様の遺言でもあったのですが、悪魔の誘惑を防ぐための儀式でもあります。
今週が、神の御心から離れずに生きられますように。新しい仕事に対する、良い準備が進められますように。