哲学をしている限りにおいては、そこには自由な発想があり、自分ならではの世界を構築できる。しかし、宗教をするとなると、組織の決めた考え方に依存しなければならない。
音楽を聴いて、その場で素晴らしいと言える人もいれば、評論家の論評が素晴らしかったからといって音楽を聴く人もいる。後者は自分の考えでは、その良さを判断できない。しかし、自力でその芸術の良さに気付き、素晴らしいと言えるのなら、そこに、その人ならではの哲学が間違いなく存在しているのである。
哲学には自由があり、無限の可能性がある。しかし、宗教は、組織の考え方が絶対的ゆえに、その人が自由に考えることを阻止してしまうのだ。
私は以前、知的障害者の施設で働いたことがある。そこの園生は、いつも「暇だ」と言って私の所に電話を掛けてきた。彼らは自力で本を読むことができない。つまり哲学できないのである。とはいえ、文字ではダメでも感覚で悟れる力はまだ残されていた。私は彼らのために、より幸せを感じられるためには、どうしたら良いのかを、彼らの失敗から学ばせようと試みたのである。
人間には、それぞれ人生に学ぶ段階のようなものが異なっているのかもしれない。ある人が2段階の人生を歩んでいれば、ある人は6段階の人生を歩んでいるという感じである。つまり、霊的レベルにおいては決して平等ではないのである。中には、健康面で恵まれずに、高い筈の霊的レベルが生かされていない場合もあるかもしれない。
私も、頭に大怪我をするなどして、急に霊的レベルの成長が阻害されてしまうことになるかもしれない。どんなに生きられたとしても、成長できる人生はすでに終わってしまうことになる。脳に大きな障害を持つと言うことは、なんとも悲しい現実なのである。
そうなると、霊的に成長できると言うことほど、大きな祝福と恵みは無いと言えやしないだろうか。哲学できると言うことは、何と言う幸せなのだろう。そこには自由の時間が流れているのである。
正常に働く脳を持ちながら、宗教に埋もれてしまってはもったいない。時代と共に消え去ってしまう価値観のみに人生のすべての時間を使ってしまうのももったいない。大いに哲学を楽しみ、生きている意義を謳歌しようではないか。

私はカトリックの信者である。カトリック教会を心より愛している。つまり、哲学しているからと言って宗教を軽蔑してはいないのである。教会があったからこそ、私はキリストに出会えたのである。その後、自力で聖書を読むようになり、自由を得るようになっていったのである。イエス・キリストには、いかなる状況においても、失望することなくモチベーションを失わないでいられる術を学んだように思う。宗教とは私の基本であり、次なるステップへの足掛かりであったと思う。そして、私の初心なのである。
良心に欠いた人間は、哲学できない。彼らは、悪という束縛に生きるしか無いのである。宗教心の全く無い人間が哲学できないという理由がそこにある。それは、良心こそが哲学と言う自由の世界に誘ってくれるエネルギーのようなものであると思えるからだ。
どんなレベルでも教育は職業ではありません。単なる仕事ではないのです。それは献身的行為です。
ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986 インド生まれの宗教的哲人、教育者)
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