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恵翠(けいすい)書道教室

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元日から、母がクリスチャンになりたいと言う要請に答えるために全力で協力をしてきた。私には、複数の顔があり、あらゆる価値観に対応できる自分を築きたいと考えている。

母は、暴力的な父のために、ひたすら耐える人生を歩んできた。その父も多臓器不全に陥り、病院で寝たきり状態を余儀なくされている。そのことで宗教を極端な程に嫌い、キリスト教を目の敵にしていた父の影響が及ぼされることがなくなった。昨年末、ふと母が「クリスチャンになりたい」と言ったのは、ようやく自分の心が自由になれると思ってのことだったのかもしれない。

今日紹介する「クリスチャン宣言」は、クリスチャンとしてベストの人生を送るための手引きにするべきものとして書いてみたものである。内容的に、輪廻転生を支持するシュタイナーの教えとは真逆になってしまった。

それが真理であるかどうかは別として、クリスチャンの生き方も悪くないと私は考えている。一番よくないことは、真面目に生きている相手側の信仰、信条を挫くことであり、そういったエチケット違反はするべきでないと考えている。それゆえ、母と教会に通う限りは、クリスチャンの方々を立てていくべきという思いも込めた。

今週は、父の転院の件もあり忙しくなりそうである。書道塾でも新しい試みがいくつかあり、将来有望な子供たちのためにも全力で取り組もうと思う。






魂はリサイクル(輪廻転生)されているのではない。もし、リサイクルしているものなら、魂の数が足りなくなってしまう筈である。宇宙人の魂で補われているという説もあるが、前世と言っても無自覚なものゆえに、わからない前世によって魂を進化させられるとは考えにくい。また宇宙人は、卓越したテクノロジーを持っているからといって霊性までもずば抜けて優れているというわけでもなさそうである。地球人は教育があまりに遅れているゆえ、彼らより劣っていると思いがちになるのである。

魂は進化するものではない。あくまでテクノロジーが進化したに過ぎない。つまり進化とは、あくまで物質的な道具の進化に過ぎないのだ。どこの時代を取って考えても、人間の本質的な部分に相違を見出すことができないのである。物質の進化とは、新しくなると古いものは価値を失う。そこには永遠の価値観など存在しないのだ。

2000年前の人間でも、優れた信仰者は存在した。2000年経って、多くの人がその信仰者を超えているかというとそうではない。果たして画期的な魂の進化が見られるのだろうか。私たちの周りにいる人たちを見渡してみて、2000年前の賢者を超えている人が何人いるのだろうか。

前世と受け止めるのではなく、あくまで神から与えられた課題と考えるべきなのである。









その課題とは、宝くじに当たったようなもので、容姿と同様に、その人の前世の因果とは無関係である。ただ、神の意図は存在する。容姿に優れているから、才能に優れているからと有頂天になって、そうでない者を見下げてしまうようでは、神意に生きている者とは言えないのである。

潜在意識には、このように神から与えられた課題の部分と、生まれてから経験してきた中での忘れられた記憶が加えられる。夢とは、乱雑する潜在意識を整理しようとする無意識の働きなのである。それゆえ支離滅裂なのだ。眠りは傷ついた身体を修復させるだけではなく、混乱した精神を修復する働きもあるのだ。この身心を修復しようとする無意識の働きとは、神の息吹でもある。「良くしたい」という、ものすごくポジティブな働きなのだ。ただ、夢に神からの啓示が入って来ることもあるが、その人の心掛けによっては悪魔が入り込んで来ることもある。

潜在意識に含まれる神からの課題は、神の力を得ることで奇跡として乗り越えることができる。それが、信仰の証となるのである。ただし個人の力だけでは奇跡は起こらない。愛に基づく良い人間関係を築いた絆の上に奇跡は起こるのだ。そういった信仰の証を積み重ねていくことで、神との絆が深まっていき、神の世界(天国)に生きられる者へと成長していく。

神の他に、悪魔の存在がある。この世の王でもある悪魔はインスタントで成功をもたらせてくれるので、神よりも悪魔に魅力的を感じている人も少なくない。しかし、時代を超えた成功ではないため、消滅してしまう価値観に過ぎないのである。神の成功は、ある意味では地味に見えるが、永遠の輝きを持っている。悪魔は知者でもあるが、嘘つきでもある。悪魔の嘘に騙されてはいけない。あまりに悪魔から力を得ている人が多いので、この世は嘘だらけになっていることを知るべきである。

真の自由とは、神から与えられた課題を乗り越えて、永遠の境地(真理)を切り開くことにある。つまり、永遠の命を得た者こそが、真の自由人なのだ。キリストの言葉「真理はあなたたちを自由にする」とはそういう意味なのである。

とても残念なことに、永遠の境地に至れる人はわずかなのである(そこには、天使の役割として短い生涯を与えられている子供も含まれる)。神と共に歩むのなら、誰もが到達できる境地であるのに、神を拒んでしまうのである。神を求めぬ者の魂は何度リサイクルされようと、やはり神を求めないだろう。その原因はどこにあるかというと、悪魔に心を向ける方がたやすいからなのである。前世の因果など関係ないのである。生きている今、全身全霊で神に心を向けるべきなのである。多くの場合、魂のリサイクルの考え方は魔術から来ているようである。本来の仏教では、輪廻転生を問題視せずに解脱を説いており、キリストの教えに近いものである筈なのだ。

宇宙人の存在を認めないかと問われたなら、私は宇宙人の存在を認めていると答えるだろう。彼らにも神の側と悪魔の側が存在していて、私たちと似ている存在なのだと受け止めている。彼らは、ものすごくテクノロジーが発達しているが、魂がそれだけ進化しているというわけではないようである。つまり、神の意図により、テクノロジーの発達した条件のもとに生まれただけであって、魂の輪廻転生の積み重ねでそこに至ったわけではないのである。神の意図により、それにふさわしい課題(役割)としての潜在意識が与えられていると考えるべきなのだ。とはいえ、多くの地球人よりは上であると認識している。ただ神のもとには、すべての生命に上もなければ下も無く、特別視されるものも、差別されるものも有り得ない。全てが平等なのである(特別視や差別は悪魔が作り出したものに過ぎない)。ただ、そこに神の意図は存在しているので、神の意図を読み取れた者は、素晴らしい悟りを得たことになるのである。

私たちの本当の成功とは、物質的な成功ではない。進化とは無縁の、しかも時代に左右されることのない永遠の価値観を得ることなのである。そのためには、「許し」がとても重要になってくる。「許し」が無ければ魂は浄化されないからである。そして、「安心」を得る必要がある。不安が諸悪の根源であると知るべきである。「安心」とは神から来るものであり、安心は「愛」を生み出すのである。「愛」に満たされた世界こそが、神の世界なのである。

私たちは、たった一度の人生を精一杯生きる必要がある。人生の成功者とは、物質的な成功を得ることではない。ひたすら神を求め、神の側の者になることなのである。その成功とは、人間に評価されるものではなく、あくまで神から評価されるものでなくてはならない。

とても残念なことは、教育の遅れから、人々が平和的に神への信仰を持てないでいることである。間違った正義感から、自分と異なる信仰者を傷つけることに矛盾を感じない人が何と多いことだろう。人は一生学ばなくてはならない。学ぶことと祈ることにより、神意の理解が深まっていくのである。

キリストの「十字架の贖い」により、私たちは命の限り何度でも「悔い改め」によるやり直しができるのである。つまり私たちは、命ある限り、神から招かれている存在なのである。

(この原理は、キリスト教の兄弟宗教ともいえるイスラム教にも当てはまると思う。キリスト教徒とイスラム教徒が互いを認め合い高め合い、世界に平和を創り出していけると私は信じている。)







ノンデュアリティの考え方と輪廻転生との類似点 2016.1.7

潜在意識という考え方が実に難しい。宇宙の集合的魂(全体)と考える人もいる。しかし、そういった考え方だと個の魂の存在を失うことになる。全体が存在しても、個は全体に溶け込んでいるゆえ存在しないということになるからだ(ノンデュアリティの考え方)。偶然が生命を生み出し、偶然によって人間は発達した脳を持ったに過ぎない。つまり発達した脳が勝手に幻想を突き進めているに過ぎない。私たちの世界そのものは単なる幻想なのだ。人間ほどに脳が発達していない動物たちは、痛みが存在しても苦しみは存在しないのである。人間のような幻想を生きていないからだ。この世は偶然によって出来たもので、さらに偶然によりできた高度に発達した人間の脳で幻想として描かれている世界ゆえに、本来、「わたし」も「あなた」も存在していないのだ。つまり、偶然の起こる前の状態の無が、本来の状態なのだ。だから死ねば、すべてが全体に溶け込んでいき無に帰すのだ。全体とは、愛といえるような世界である。個が無くなれば、愛が残るのだ。「あなたは本来存在しないのだから、悩む心配なんかないよ」と言われても、人生は幻想に過ぎない(無意味なもの)と割り切ることが出来る人はどれほどいるのだろうか。自殺は自意識(存在意識)の過剰からくるもので、自然な行為ではない。そこでの心の痛みなど何の意味もないからだ。自分は存在していないと流して生きる方がより自然なのだと考えるようである。こういう考えでは、隣人を愛そうという発想は出てこないのではないだろうか。隣人を愛すると、その隣人も影響を受けて隣人を愛するようになる。そういう連鎖が世界を平和へと導いていく。世界平和とは究極の神の奇跡なのだ。これはキリストの教えだが、果たして無意味なものなのだろうか。

輪廻転生は、魔術にルーツがあると考えられるが、宇宙の集合的魂(全体)があり、人間の魂は、何度も生まれ変わりながら、より進化した時代(物質的進化)を生き続けていくというものである。しかし、この考え方だと、因果律だけは残っても、その人の心(個)は消えてしまう。つまり心の部分は失われてしまうのである。物質的進化は有り得ても、個としての魂の進化は有り得ないことになる。つまり、因果律を司っている大宇宙の法則(全体)が永遠に存在するだけで、個(心)は無意味な存在なのである。つまり、輪廻転生は、ノンデュアリティの考え方とよく似ていると考えられるのである。

とはいえ、こう書くことも「決めつけ」といえるものであり、真理を探究する際には、常にニュートラルな状態に自分を置くべきではないだろうか。つまり、多様な考え方を羅列させることが、考えるための一つの方法なのであって、組み合わせを変えて考えるなどすると、また違った結果が引き出せるものなのである。こういった作業を私は黙想を通して毎日楽しんでいるのである。そしてこういった練習を普段していると、あらゆる価値観の人と同調することが出来るので、その人の良心を引き出すことができるように思うのだ。実は輪廻転生を肯定的に論ずることもできるのだが、今回は、あくまでクリスチャン視点で書いてみた。






恵翠書道教室 盛岡教室

恵翠書道教室 滝沢教室






1月 3日(日) -3.0㎏(目標-17㎏)、+0.3% ×夜食
1月 4日(月) -2.1㎏(目標-17㎏)、-0.7% ジョイフィット:100日チャレンジ ×夜食
1月 5日(火) -1.4㎏(目標-17㎏)、+0.7% ×夜食
1月 6日(水) -2.5㎏(目標-17㎏)、+0.1% ジョイフィット:リラックスヨガ ×夜食
1月 7日(木) -2.2㎏(目標-17㎏)、+0.5%

新年、あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


新年のお稽古は、1月4日(月)からとなります。
















昨年は、家族のことでかなり苦しんだ一年でした。そのことで健康を害してしまうなど反省点も少なくありませんでした。とはいえ、多くの良書に出会い学びの得られた一年でもありました。

今年は、昨年での学びを発展させ、生かしていく一年になるのだと思います。教育面ではもちろんのこと、もし再び3.11のような大災害が起こったとしても、最善の判断が出来、冷静沈着に行動力に移すことで人々の役に立てられるような自分でありたい。そのためにも、運動と食生活の習慣を大切に、健康を取り戻す努力に励んでいきたいと思います。




恵翠書道教室 盛岡教室

恵翠書道教室 滝沢教室




12月26日(土) -2.0㎏(目標-17㎏)、-1.2%
12月27日(日) -1.9㎏(目標-17㎏)、-0.8%
12月28日(月) -2.6㎏(目標-17㎏)、-0.9%
12月29日(火) -2.4㎏(目標-17㎏)、-0.2%
12月30日(水) -3.3㎏(目標-17㎏)、-0.8%
12月31日(木) -3.0㎏(目標-17㎏)、-0.1% ×夜食
1月 1日(金) -2.1㎏(目標-17㎏)、-0.1% ×夜食
1月 2日(土) -2.4㎏(目標-17㎏)、+0.4%



父から学んだことは、修正不能な人間がいるということ。その生涯のほとんどを暴力的に生きてきた。母は、その暴力に障害を掛けて耐え抜いてきた。

私が教育に情熱を持って取り組んでいることは、この父への挑戦なのだと思う。すぐに暴力に走るので、何も伝えられない。父からすれば、そのことでいつも自己中心でいられたのだろうが、結果的に何も学べない人生を歩むしかなかったのだ。現在は重病のため無力な人間となってしまったが…

修正不能? 私はこのことにチャレンジしている。子供を健やかに育てる知恵を教えるシュタイナー教育とは逆の発想である。つまり、一度狂ってしまった子供をいかに修正させることができるか。

年明けからは、そのことに取り組もうと思う。前年にそう感じた子は、今年は別人のように良くなった。教育効果が出たものと信じている。来年は、2~3名取り組みたい子がいる。その2~3名の影響で、他の子にも良い影響が波及することだろう。将来的には、修正教育を表にした塾としてやっていきたいという構想もある。

書道は、他の学習塾とは異なり、字を書くだけなので、子供たちと心と心の交流がしやすい点がある。字の中に心の状態が如実に表れていることもある。そこを生かした教育なのである。

学校を通して出品する書写コンや県の芸術祭は、全員に良い結果を出させられる自信はある。しかし、塾から出品する全国展等のコンクールは、残念ながら特別賞や特選もある代わりに、金賞、銀賞、銅賞もやむを得ないのである。人数に対する割り当てのようなもので、書写コンで特選を取るような作品であっても人数割りによって銅賞となってしまうのである。

つまり、銀賞や銅賞とは、こういった大人が決めた悪しきルールにおける犠牲者なのである。だから、銀賞、銅賞を取った子は、来年度は主役にさせなければならないと考えている。前年度、良い成績を取った子は、ランクが落ちるかもしれない。しかし、上がった下がったということに左右される子になって欲しくない。他者評価ではなく、自己評価できる人間になって欲しいのだ。そうなってこそ、シュタイナーの理想に近づくことができるのである。

シュタイナー教育では、子どもに成績を付けることをしない。なので、これもシュタイナー教育とは真逆な発想である。と、そう言えるのもシュタイナー教育をベースにしているから言えるのかもしれない。子供たちはシュタイナーの小学校に通っているわけではないので、テレビや流行等の現実的影響を強く受けている。そういう子供たちをシュタイナー教育の路線に乗せていくには、子どもと正面から向き合って自分の壁を乗り越えることに挑ませるべきなのだと思う(ただし第2-7年期の子どもから)。そして、成績を超えた次元で自分も他者も見られる人間へと育てていくのである。

残念ながら、大人の修正教育に関しては自信が持てないでいる。父の件もある。また多くの失敗例もある。カウンセリングとは、あくまで興奮状態(危険状態)を冷ますことができれば成功と考えるしかない。根本から良くすることは難しい。とはいえ、修業を積み、いつか大人の修正教育もできるようになりたいと思う。生きている限りチャレンジしていきたい課題である。

とはいえ、両親の介護もあるので、あまり手を伸ばすことはできない。現在は、子どもの教育活動に集中し、未来ある子供たちのために奉仕していきたいと考えている。



今日は一日具合が悪く、休みの日ということもあり、ずっと寝込んでいました。起き上がってこの記事を書いたのですが、書く内容を全く決めていなかったにもかかわらず書いてしまっていました。私のブログの読者にコメントを書いたりしているうちに、いつの間にか出来上がっていたようです。そう考えると、バーチャルなものとはいえ、ブログの交流も悪くないと思うのです。
ブログの仲間たちに感謝を込めて!









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12月20日(日) -2.6㎏(目標-17㎏)、+0.1%
12月21日(月) -1.5㎏(目標-17㎏)、-0.6% ジョイフィット:リラックスヨガ エアロバイク
12月22日(火) -2.2㎏(目標-17㎏)、-0.5% ジョイフィット:100日チャレンジ ×夜食 
12月23日(水) -2.4㎏(目標-17㎏)、+0.1%
12月24日(木) -2.8㎏(目標-17㎏)、+1.0% ジョイフィット:100日チャレンジ ×夜食
12月25日(金) -2.5㎏(目標-17㎏)、+0.5%

12月19日(土) 10時半~12時 盛岡教室クリスマス会は、15名の出席が集まり、楽しいものとなりました。特に、ビンゴゲーム大会と、綿菓子作りが楽しそうでした。授賞式では、メダルや楯を授与しました。


























来年からベストテンのルールが変更になることについて説明をしました。来年からは、「精神性」を最も重要視すること。つまり、お稽古前の準備と、お稽古後の後始末をしっかりして、静かに練習に取り組めたかどうか。上手くなるために積極的に練習に工夫をできたかろうかを見るようにします。もう一つは「芸術性」で、競書やコンクールではできない、自由書による塾独自の取り組みをします。これは競うものではなく、頑張って取り組んだ時点で全員満点です。感動を与えてくれた作品には、さらにボーナス点をあげます。また、絵画や作文のコンクールでの受賞も大きなポイントとなることについてお話ししました。

書く枚数だと、「あと何枚」と子供に主導権を取られやすいのですが、このやりかただと先生が主導権を持つことになるので、子どもは「権威」について感じ取るきっかけになるでしょう。7歳以下の模倣期の子どもはいないので、このやり方は有効なのですが、7歳以下の子供が入ってきた場合は、「模倣」中心の教育になります。点数を付けることは、シュタイナー教育に反するのかもしれませんが、教師とのコミュニケーションを密にすることでカバーします。




年末年始のお知らせ

12月28日(月)~ 1月3日(日)までお休みさせていただきます。





「第六感が目覚めるCD」という付録が欲しくて、スーパーマーケットのブックコーナーで月刊誌の『ゆほびか 2月号』を買いました。そこでたまたま出会った大和田菜穂さんのノンデュアリティについての記事にショックを受けました。読んだ内容を私なりに解釈すると次のようになります。

owada 2015







本来個人など存在せず、全体しか存在してない。私たちが心に描く個人とは、人間の発達した脳が作り出した幻想に過ぎません。

確かに人間は、眠っている時、個人を失っていますし、死ぬということも個人を失うという意味なのかもしれません。もちろん人間はその幻想の中でより良く生きようと努力するわけなのですが、それゆえ苦しみが伴う訳です。人間以外の動物は脳が発達していないので、痛みはあっても苦しみはありません。苦しみとは、幻想を追い求める者に伴う感情だからです。動物には人間のような幻想が無いので、与えられた役割をひたすら生きるだけなのです。

赤ちゃんは生まれたばかりの頃には、私という考え方は持っていません。親が子に名前を付けて、親から名前を呼ばれて個を認識し、そこから発達した脳ゆえに、幻想世界の深みへと突き進んでゆくのです。

では、幻想の個人と異なる実在の全体とは何か。それは愛なのだというのです。

私という個人の存在を無くすることで、全体である愛そのものになれる。このことを知ったからといって生活の何の役にも立たないことでしょう。ただ、幻想世界に苦しみ疲れ切った人に、愛そのものになることで最大限に癒される感覚を与えることができるのだというものです。

所詮、現実世界は幻想に過ぎません。身体は存在していても、脳の作り出した幻想の私など存在していないのです(与えられた身体は存在する)。幻想である現実が苦しくなったら、愛そのものである実在世界に戻ればいい。そして、いつかは死ぬことにより(死を意識することも幻想である)、人は愛そのものである実在世界に戻ることができるのです。

残念なことは、愛と反対の方向に生きている人。特に自己中心の人は、実在世界へ繋がることができません。自分が強過ぎるからです。そういう人は、自分も苦しみ、周りの人も苦しめ傷つけます。人生を諦めて、だらしなく生きる人も実在世界に繋がることができません。実在世界の美しさに包まれ一体になるには、失望感を引きずっていてはダメであり、自分の存在を消すという積極的方向性により愛の光へ向かうことができるのです。といって自殺することは意味がありません。ネガティブな思いを引きずっているため愛とは反対方向と言えるからです。

ここに身体はあるけれど、本来、私などいない。そう考えるには、自己愛ではなく他者愛に生きる必要があります。自分のことを忘れて相手のためにひたすら尽くすからです。そうやって生きる限り、そうやって仕事をすることで収入も得られますし、時々、愛そのものと一体感を得られることもできるのです。つまり、普通に生活することは十分に可能なのです。

全体という実在世界には苦しみが無く、個人と言う幻想世界に苦しみがある。そこのところを知ると、仮に肉体的痛みがあろうとも、苦しむことはありません。この苦しみが無くなった時、その人は、私というエネルギーが完全に消え去り、全体という聖なるエネルギーだけで生きる者となれるのです。死をすでに超越しているので、死を恐れることもありません。

「私」という人間が必要の無い存在であると言うのではありません。個人という幻想を消し去ることで、愛そのものと一体になり、そのことで何事にも動じないで生活を送ることができるようになると言うことです。

以前私は、エーテル体(根本的生命力)は善そのものと話しましたが、そのことと「全体とは愛そのもの」というところに共通点を感じられました。しかも、宗教や哲学さえも不要にする、とてもシンプルな考え方に大変ショックを受けたわけです。しばらく、この考え方が本当に真理といえるものなのか検証してみたいと思います。



ノンデュアリティは、残念ながら82歳の私の母には理解できなかったようです。しかし、私がノンデュアリティに出会う2日前に、母は自分がこれから生きていくための目的を見つけることができました。

その時私は、母とYouTubeでジョナサン・ウェルトンの動画を見ていました。彼は、イエス・キリストのように、彼のお母さんが聖霊によって身ごもり生まれた子なそうです。それは、キリスト教の名物伝道師のジド・ロスとの対談で、キリスト教の伝道番組のようでした。彼のメッセージを聞き、彼から視聴者への祝福を受けました。








その後、母は自分の若い頃、恐れが強い性質ゆえの失敗談を話してくれました。まるで何かに導かれるかのように話を始めたのです。そして、自分が恐れを乗り越えるには、イエス・キリストの信仰が必要なのだと話しました。宗教を極端に嫌う父の影響もあり、どちらかというと信仰に積極的になれないできた母がこのように話すことは、まさに奇跡と言えることでした。

ノンデュアリティは、シンプルな理論とはいえ知性的な人でないと理解が難しいことでしょう。しかし、ジョナサン・ウェルトンの方は、彼の祝福の力によるものであり、実に不思議な体験となりました。そして、ジョナサン・ウェルトンのことをもっと知りたいと思うようになりました。




[追記] 12月23日 AM8:30

ノンデュアリティを考えていたら、「生命は偶然の産物なのか」という問題にぶち当たってしまいました。これをエントロピー増大の法則や散逸構造論など科学的見地から考えると結構悩みそうです。頭を痛めながらもやってみます。ただ、教育に生かしにくいものと感じられてなりません。

古代人はなぜ神を見出したのか? その当時、神と思えるような別の人類が存在したのか? それとも地球人同様に偶然に生まれた別の人類が、地球人が出現する遥か昔に新しい次元を開拓し神のような存在となったのか? そんなことを考える意味があるのだろうか…

また、その解決法を『奇跡のコース』(ヘレン・シャックマン著)に探してみようと思います。私はオリジナルのものを読んでいますが、読み方に慣れていないとかなり難解です。私はまだ読んではいませんが、優しく解説したものもあるようです。『今までで一番やさしい 奇跡のコース』(アラン・コーエン著)です。読んだことのある方は、ぜひ感想を教えてください。




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恵翠書道教室 滝沢教室




12月15日(火) -0.6㎏(目標-17㎏)、-0.3%
12月16日(水) -1.7㎏(目標-17㎏)、-0.1% ジョイフィット:リラックスヨガ 100日チャレンジ
12月17日(木) -1.1㎏(目標-17㎏)、-0.5% ジョイフィット:100日チャレンジ
12月18日(金) -2.7㎏(目標-17㎏)、+0.3%
12月19日(土) -2.7㎏(目標-17㎏)、±0%






12月は芸術書道月間。子供たちは、いつもの書道とは異なり、どの子も楽しんで芸術書道の世界に没頭しています。「あと何枚」っていう子はいません。まるで絵を描くように静かに取り組んでいます。書道とは違い、絵には失敗がありません。間違ったと思えるようなことでも、むしろそこを生かすことで世界にたった一つの芸術作品へと繋がっていくからです。皆と同じように考えて描いたのでは芸術作品とは言えません。その人の個性が輝いてはいないからです。普段の書写書道では、そこのところを教えられないでいるのです。

競書よりも、こっちの書道の方が、子供たちの心の成長に良いのではないかとさえ感じられてなりません。競争は、たいていの場合、主としてエゴを満足させることに繋がっていくからです。エーテル体(生命力)の健康にとってあまり良くないのです。ですから、競争することなく頑張らせる方法が大切だと思うのです。








これは小3の女の子の作品です。100歳の詩人で2年前に亡くなった柴田トヨさんの詩集から「自分に」という詩なのですが、参考として元AKBの仁藤萌乃さんの書いた作品を見て書いてもらいました(仁藤萌乃さんは、テレビで放映された芸能人の書道初代TEPPENで優勝した腕前を持つ人です)。

とても丁寧に作品を仕上げ、まるで大人が書いたような仕上がりでした。絵の上手な子で、挿絵のカップに自分の名前を入れるこだわりようでした。








これは小4の男の子の作品です。宮沢賢治の詩「アメニモマケズ」の後半部分です。「涙を流し」をかすれで表現。「オロオロ歩き」も感じがでています。「木偶の坊」を大きめに書きインパクトを与え、褒められもせずを弱めに書くも、「私はなりたい」と特に大きく書くことで、作者の強い決意を表現しているのだと言います。




さて次に、これまでにネットに公開した私の声楽の演奏録音を紹介します。先週は、私自身が2か所の病院で手術・入院と大変でした。怪我の治療に専念したいことと、師走は超忙しいため、ブログの記事の更新を少しの間ですがお休みします。


(※注 リンクをクリックするとシーサーブログに飛びます)

千の風になって 2007年05月01日


千の風になって 2008.10.12 滝沢村ふるさと交流館 大ホール 岩手滝沢市 高杉ピアノ音楽教室 Piano Mini Concert より


シューベルト アヴェ・マリア(ラテン語版) 2006年11月08日


シューベルト アヴェ・マリア(ラテン語版)


Ave Maria  G.Caccini / Panis Angelicus  C.Franck


J.S.バッハ カンタータ BWV78


U.ジョルダーノ作曲 オペラ〈アンドレア・シェニエ〉より 祖国の敵


③は以前ブログの友の結婚祝いのために歌ったものですが、それまで15年以上声楽を封印していました。この録音と⑧の録音(1990年の日本声楽コンクールの予選で歌ったもの)を岩手声楽研究会の故・掛川精一先生に認められ盛岡芸術祭と岩手芸術祭で歌うことができました。①をきっかけに、カトリック教会の葬儀ミサや告別式で歌う機会が増えました。16年振りの生演奏。②も感動的な演奏となりました。高杉先生のナレーションが素敵です。⑦はオーケストラとの初共演です。⑤のカッチーニのアヴェ・マリアは、教会の私の歌のファンの方から最もリクエストをいただく曲です。


両親の介護が大変なこともあり、今年に入ってからは、歌う機会を失った状態にあります。いつ何があるかわからないため、残念ながら控えるしかありません。とはいえ、ほぼ毎日、歌の練習はしています。数か月前、全く声が出なくなる体験もしましたが、現在では完全に取り戻し、人生で一番の歌声のパワーが得られているように思います。

それと、北日本書道専門学院の聴講生として学ぶ計画も実現できないでいます。来年こそは… 

今年は、おばあちゃん先生が初個展と高円宮杯で特別賞を受賞するなど大活躍。来年は、「家康公の遺訓」を書いて出品するとのこと。私の目標は、高円宮杯で銀賞だった子に特別賞を取らせるために千枚書きの猛特訓(強制せずに、そこまで持っていくのが大変かも)をすることです。しばらくは、子供の書が私の書となりそうです。


私の場合、書道は始めてから約1年は10級のままでしたし、声楽もぶっちぎりビリからのスタートでした。よくもまあ、最も才能の無かったものを続けてきたものと自分でも驚いています。

苦手を経ているゆえに、出来ない子に教えたいという想いが人一倍強いのかもしれません。




[追記] PM14:00

子供たちの入選作品を見に県民会館の展示室に母と一緒に行ってきました。たった今、帰って来たばかりです。書道部門の展示は運よく地下展示室だったので、車いすの母も見ることが出来ました。絵画部門で入選した子もいたのですが、1階で階段がある場所で車いすでは無理だったことから、私が代わりに見て写真を撮ってきました。

学校で書いて提出したものでしたが、普段の練習がとても生かされていて素晴らしい作品でした。




















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