クリスマス会 | 恵翠(けいすい)書道教室

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12月19日(土) 10時半~12時 盛岡教室クリスマス会は、15名の出席が集まり、楽しいものとなりました。特に、ビンゴゲーム大会と、綿菓子作りが楽しそうでした。授賞式では、メダルや楯を授与しました。


























来年からベストテンのルールが変更になることについて説明をしました。来年からは、「精神性」を最も重要視すること。つまり、お稽古前の準備と、お稽古後の後始末をしっかりして、静かに練習に取り組めたかどうか。上手くなるために積極的に練習に工夫をできたかろうかを見るようにします。もう一つは「芸術性」で、競書やコンクールではできない、自由書による塾独自の取り組みをします。これは競うものではなく、頑張って取り組んだ時点で全員満点です。感動を与えてくれた作品には、さらにボーナス点をあげます。また、絵画や作文のコンクールでの受賞も大きなポイントとなることについてお話ししました。

書く枚数だと、「あと何枚」と子供に主導権を取られやすいのですが、このやりかただと先生が主導権を持つことになるので、子どもは「権威」について感じ取るきっかけになるでしょう。7歳以下の模倣期の子どもはいないので、このやり方は有効なのですが、7歳以下の子供が入ってきた場合は、「模倣」中心の教育になります。点数を付けることは、シュタイナー教育に反するのかもしれませんが、教師とのコミュニケーションを密にすることでカバーします。




年末年始のお知らせ

12月28日(月)~ 1月3日(日)までお休みさせていただきます。





「第六感が目覚めるCD」という付録が欲しくて、スーパーマーケットのブックコーナーで月刊誌の『ゆほびか 2月号』を買いました。そこでたまたま出会った大和田菜穂さんのノンデュアリティについての記事にショックを受けました。読んだ内容を私なりに解釈すると次のようになります。

owada 2015







本来個人など存在せず、全体しか存在してない。私たちが心に描く個人とは、人間の発達した脳が作り出した幻想に過ぎません。

確かに人間は、眠っている時、個人を失っていますし、死ぬということも個人を失うという意味なのかもしれません。もちろん人間はその幻想の中でより良く生きようと努力するわけなのですが、それゆえ苦しみが伴う訳です。人間以外の動物は脳が発達していないので、痛みはあっても苦しみはありません。苦しみとは、幻想を追い求める者に伴う感情だからです。動物には人間のような幻想が無いので、与えられた役割をひたすら生きるだけなのです。

赤ちゃんは生まれたばかりの頃には、私という考え方は持っていません。親が子に名前を付けて、親から名前を呼ばれて個を認識し、そこから発達した脳ゆえに、幻想世界の深みへと突き進んでゆくのです。

では、幻想の個人と異なる実在の全体とは何か。それは愛なのだというのです。

私という個人の存在を無くすることで、全体である愛そのものになれる。このことを知ったからといって生活の何の役にも立たないことでしょう。ただ、幻想世界に苦しみ疲れ切った人に、愛そのものになることで最大限に癒される感覚を与えることができるのだというものです。

所詮、現実世界は幻想に過ぎません。身体は存在していても、脳の作り出した幻想の私など存在していないのです(与えられた身体は存在する)。幻想である現実が苦しくなったら、愛そのものである実在世界に戻ればいい。そして、いつかは死ぬことにより(死を意識することも幻想である)、人は愛そのものである実在世界に戻ることができるのです。

残念なことは、愛と反対の方向に生きている人。特に自己中心の人は、実在世界へ繋がることができません。自分が強過ぎるからです。そういう人は、自分も苦しみ、周りの人も苦しめ傷つけます。人生を諦めて、だらしなく生きる人も実在世界に繋がることができません。実在世界の美しさに包まれ一体になるには、失望感を引きずっていてはダメであり、自分の存在を消すという積極的方向性により愛の光へ向かうことができるのです。といって自殺することは意味がありません。ネガティブな思いを引きずっているため愛とは反対方向と言えるからです。

ここに身体はあるけれど、本来、私などいない。そう考えるには、自己愛ではなく他者愛に生きる必要があります。自分のことを忘れて相手のためにひたすら尽くすからです。そうやって生きる限り、そうやって仕事をすることで収入も得られますし、時々、愛そのものと一体感を得られることもできるのです。つまり、普通に生活することは十分に可能なのです。

全体という実在世界には苦しみが無く、個人と言う幻想世界に苦しみがある。そこのところを知ると、仮に肉体的痛みがあろうとも、苦しむことはありません。この苦しみが無くなった時、その人は、私というエネルギーが完全に消え去り、全体という聖なるエネルギーだけで生きる者となれるのです。死をすでに超越しているので、死を恐れることもありません。

「私」という人間が必要の無い存在であると言うのではありません。個人という幻想を消し去ることで、愛そのものと一体になり、そのことで何事にも動じないで生活を送ることができるようになると言うことです。

以前私は、エーテル体(根本的生命力)は善そのものと話しましたが、そのことと「全体とは愛そのもの」というところに共通点を感じられました。しかも、宗教や哲学さえも不要にする、とてもシンプルな考え方に大変ショックを受けたわけです。しばらく、この考え方が本当に真理といえるものなのか検証してみたいと思います。



ノンデュアリティは、残念ながら82歳の私の母には理解できなかったようです。しかし、私がノンデュアリティに出会う2日前に、母は自分がこれから生きていくための目的を見つけることができました。

その時私は、母とYouTubeでジョナサン・ウェルトンの動画を見ていました。彼は、イエス・キリストのように、彼のお母さんが聖霊によって身ごもり生まれた子なそうです。それは、キリスト教の名物伝道師のジド・ロスとの対談で、キリスト教の伝道番組のようでした。彼のメッセージを聞き、彼から視聴者への祝福を受けました。








その後、母は自分の若い頃、恐れが強い性質ゆえの失敗談を話してくれました。まるで何かに導かれるかのように話を始めたのです。そして、自分が恐れを乗り越えるには、イエス・キリストの信仰が必要なのだと話しました。宗教を極端に嫌う父の影響もあり、どちらかというと信仰に積極的になれないできた母がこのように話すことは、まさに奇跡と言えることでした。

ノンデュアリティは、シンプルな理論とはいえ知性的な人でないと理解が難しいことでしょう。しかし、ジョナサン・ウェルトンの方は、彼の祝福の力によるものであり、実に不思議な体験となりました。そして、ジョナサン・ウェルトンのことをもっと知りたいと思うようになりました。




[追記] 12月23日 AM8:30

ノンデュアリティを考えていたら、「生命は偶然の産物なのか」という問題にぶち当たってしまいました。これをエントロピー増大の法則や散逸構造論など科学的見地から考えると結構悩みそうです。頭を痛めながらもやってみます。ただ、教育に生かしにくいものと感じられてなりません。

古代人はなぜ神を見出したのか? その当時、神と思えるような別の人類が存在したのか? それとも地球人同様に偶然に生まれた別の人類が、地球人が出現する遥か昔に新しい次元を開拓し神のような存在となったのか? そんなことを考える意味があるのだろうか…

また、その解決法を『奇跡のコース』(ヘレン・シャックマン著)に探してみようと思います。私はオリジナルのものを読んでいますが、読み方に慣れていないとかなり難解です。私はまだ読んではいませんが、優しく解説したものもあるようです。『今までで一番やさしい 奇跡のコース』(アラン・コーエン著)です。読んだことのある方は、ぜひ感想を教えてください。




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12月15日(火) -0.6㎏(目標-17㎏)、-0.3%
12月16日(水) -1.7㎏(目標-17㎏)、-0.1% ジョイフィット:リラックスヨガ 100日チャレンジ
12月17日(木) -1.1㎏(目標-17㎏)、-0.5% ジョイフィット:100日チャレンジ
12月18日(金) -2.7㎏(目標-17㎏)、+0.3%
12月19日(土) -2.7㎏(目標-17㎏)、±0%