この記事は3455文字です。(読破予想時間:約8分13秒)
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はじめに
肺がんの緩和ケアをしていた私の母は、昨年11月の25日の朝、おそらく脳梗塞で口から泡を吹いて倒れているのを私が発見し、それから1日持たずに、令和5年11月26日、母は足早に私を置いて極楽浄土へ旅立ちました。
この物語は、今回で5話目となりますが、是非1話目から読んで下さると嬉しいです。
それでは5話目、始めたいと思います。
褥瘡予防との戦い
【2023年11月25日、夜】
前にも書きましたが、褥瘡(じょくそう)いわゆる床ずれの対策として病院では、看護師さんが2時間置きくらいに、自分で寝返りを打てない入院中の患者さんの体の向きを変えてあげるそうです。
なので、私も何度かチャレンジしましたが、母の体を横に向けようとすると、母の顔が毎回苦痛に歪むのです。
それが、また何か吐きはしないかと怖くて、そして可哀想で、看護師さんが忙しいのは分かっていながら、看護師さんに電話をして指示を仰ぎました。
指示通り、何とか母の体の下に、座布団を挟み込む事に成功はしたのですが、まだ、母は苦悶の表情を浮かべたままでした。
その事を看護師さんに伝えて、指示通り、枕の高さなどを調整して、気道を真っ直ぐにして何とか気道確保が出来ると、急に母の顔が穏やかになったのです。
母の介護によってなのか、昨年、重い機材と荷物を一人で運んでライブ活動を続けたせいなのか、日々の買い物で複数のスーパーを回って、いくつものエコバッグを抱えて買い物をしているせいなのか、この少し前、2023年の10月の前半頃に、私は腰を痛めてしまいました。
母の体の向きを変える作業は、腰にかなり堪えましたが、それさえ、嫌だとは思いませんでした。
ちなみに、今現在は、腰の痛みはかなりマシになりましたが、これと言って治療はしていないので、腰痛そのものは治っていません。
痛みが酷くなると、痛み止めや湿布で対処療法をしているといった具合です。
やっと食事、その時食べた物とは
【2023年11月26日、午前00 : 00】
日付が変わる頃、ようやく食事を摂る事が出来ました。
4話目『母が倒れた時から亡くなるまで(4)』に書きましたが、自分の食事をスーパーで買い忘れたので、冷蔵庫には何もありませんでしたが、買い置きのカップラーメンが1つだけあったのを見つけて、それを食べました。
この時母は呼吸をしていた
【2023年11月26日、午前00 : 30】
とにかく、母は、この先ずっとこの状態が続くのだと思っていた私は、流石に寝ずの看病をする訳にはいかないと、眠る事にしました。
出来れば、母のすぐ近くで眠りたかったのですが、母の部屋は介護ベッドでいっぱいで布団を敷くスペースなどありません。
私の部屋の扉と母の部屋の扉は、3階の小さな踊り場を挟んで向かい同士でしたので、そこで私は、もしも母に何か異変があればすぐに分かるように、両方の部屋の扉を全開にして自室のベッドで寝る事にしました。
ベッドに入る前、母は、相変わらず「ぷーっ、ぷーっ」と唇を弾きながら呼吸をしていましたが、特に変化はないので、私は自分のベッドに入りました。
母は静かに息を引き取っていた
【2023年11月26日、午前02 : 30】
ベッドに入ったものの、神経が高ぶって全く眠れません。
しかし、母の部屋からは苦しむ様な気配もなく、ずっと静かなままでした。
私は、その後も、ずっと母の部屋の様子を気にかけていました。
そして、トイレに行きたくなって2階のトイレまで行って用を足した時、時計は午前2:30を表示していました。
3階に上がって、自分の部屋に戻る際に母の様子を見るつもりで母の部屋に入ろうとした時、母の部屋の電気は消していたのですが、階段の電気が母の顔を照らして、母の様子が一目でわかりました。
右の口角に溜まった泡は既に乾いていて、私は、瞬時に何が起こっているのか理解しました。
そう、その時既に、母は、静かに独りで旅立ってしまった後なのでした。
母の死を確認
私は、部屋の電気をつけて母のそばに歩み寄りました。
そっと、母の顔に手をやると、母の顔は既に冷たくなっていました。
呼吸の確認もしましたが、呼吸はしていませんでした。
そして、念のため、脈もとってみましたが、やはり脈はありませんでした。
この話は、私がこのシーズンの最後のライブを終えて、約1ヶ月後の出来事で、次のシーズンはライブ活動をしながら母の介護をどうして行こうかと考えていた頃の話です。
肺がんはまだそこまで進行しておらず、母は肺がんで亡くなるものと思っていたので、まさか、脳に異変(おそらく脳梗塞)が起きて急死するなんて想像も出来ず、最後のライブを終えた時は、次のシーズンも母は生きているものだと私は信じ切っていました。
そんなさなか、母は永眠しました。
死亡診断
【2023年11月26日、午前3:46】
私は、看護師さんに最後の電話をかけました。
しばらくして、主治医の先生が来てくました。
先生は、母を看て、その後に静かに「3時46分、死亡」と時計を見ながら告げました。
そして死亡診断書を書いて、少しだけ話をして先生は帰られました。
母は、2時半には既に亡くなっていたので、死亡診断書の時間は、お医者さんが確認した時刻を書くものの様です。
そして、死因は「肺がん」と書かれていて、先生がおっしゃるには、「脳梗塞か何か、脳で何かが起きて亡くなった事は間違いないと思いますが、事件性もないので解剖して死因を調べる事もないので、死因は肺がんとしておきました。」と言う事でした。
母の最後を知らない人が母の最後を調べたとしたら、歴史の上では、肺がんで亡くなった事になるのかと、私はぼんやりとそんな事を考えていました。
ブログに書き残そうと思った理由はいくつかありますが、これもその理由の一つだと思います。
体と髪を綺麗に
この後、看護師さんに、母の体を拭いて貰いました。
その時私は、部屋の外へ出て待つ事にしました。
そして、髪を綺麗に洗って貰った時は、母の頭を持ち上げたり私も少し手伝いました。
もう何も話さない母に話した事
その後、私は朝まで母のそばを離れませんでした。
母は、肺がんでの緩和ケアだったので、私は、徐々に弱って母は亡くなっていくものだと思っていました。
母本人もそう思っていたに違いありません。
しかし、母は突然、脳梗塞で亡くなりました。
母は、生前、肺がんの治療が出来ず緩和ケアに入ってから、伝えなくてはならない事は紙に書いて遺すと言っていました。
でも、死因は肺がんではなく、脳梗塞(先生がおそらくそうだと言っていました)だったので、私達親子にとっては、あまりの急で青天の霹靂とでも言う様な、突然の死でした。
なので、母は、何も書き遺していません。
私も、母には思っていても一度も言えなかったお礼の言葉だとか、謝りたい事だとか、たくさんの話したい事を、いつか話さなければならない日が近づいてきているんだなとは思っていましたが、余りに突然逝ってしまったので、何も話せないままでした。
やっとその一部を口にしたのは、母が意識を失って倒れてからでした。
意識を失っている間にも話せなかった事をたくさん話しましたが、意識がないとはいうものの生きてる内に言いにくい事はたくさんあるものです。
だから、既に遅いのですが、母が永遠の眠りについてから母の亡骸に、再度、産んでくれたお礼や、育ててくれた事や、謝りたかった事や、もっと話したかった思い出話だとか、これまで一度も言えなかったたくさんの事など、いろいろな事を母に話しました。
最終回に続く
この話は長くなりそうなので、複数回に分けて書かせて頂きました。
いよいよ、次で最後の予定です。
次回も最後まで読んでいただけると嬉しいです。
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☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
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