・外ヨガ in 新宿御苑


マットなし

匂い
立つ
伸びる


・バガバットギーター
哲学ではない=宗教哲学
真理という触れ込みが嫌い
インド哲学の系譜
目を見つめる事
食べるヨガ
深まるヨガの謎、もしくは・・・・・。
立体曼荼羅と寺院と現代建築へ
また、インドいきてーなー

・『希望の扉を開く ヨハネパウロ2世』
読書感想
今のところ、キリスト、マホメッド、ブッダの役割が違うという解釈に驚く

宗教色が出てきたところで、
貯め込んである宗教本を
今年度は進めよう。

思いつく限り、
親鸞
道元


それから、宗教じゃないけれど、
松岡正剛の四冊を消化しよう。


間に
朝倉かすみと土屋賢二
十月にQEDの最終巻
建築探偵の最終巻もこなすとして、

あと、
何だっけ???

家にあったヨガの古本でも眺めてみて、
中島らも
椎名誠
米原万里

『二人の証拠』
『泥棒日記』

今読んでいる本が終わったら、

日本思想最大の書
『正法眼蔵』から

難しすぎて
少し気がめいる・・・笑。

ベトナム関連の本を読むといつも思う。
ホイアンは楽しかったなと。

さて、本作。
上下巻からなる物語。
では、何の物語だろう。

主人公らしき人物はいる。けれど、彼の物語とは言えない。
命とか密入国とかベトナムの警察とか日本のやくざとか色々ごちゃまぜになっているし、それらが激流のように読者を飲み込んで行く。

つまりは、大河。
誰々の物語でもなく、何かの物語でもない。
その時、その場で、何かをした、その事によって生じた一筋の小川。
時間の経過によって次第に流れは大きくなり、巻き込む人間も多くなる。
流れの速度が急激に速くなり、ある瞬間、流れから物語が乖離する。

この時点で漸く、読者は流れが物語で無い事にか気が付く。
ある程度のエンターテイメント小説はこういった自己否定に近いものを無意識のうちに内在しているけれど、この加減が絶妙である事は間違いないだろう。

と言う、他者の解釈を寄せ付けない感想なんて無いに等しいのだけれど、今、あえて言葉にするならこうなってしまう。


余談だけれど、
今、目の前に立つ女性が読んでいる本、メルカトルかく語りき、は面白いよね!と心の中から共感。

あと、目の前に座る結婚式帰りの女性よ。パンツ見えてるぞ!

おっ、男性が携帯を落として、真っ二つになった!大丈夫か⁉

さて、元に戻って、続けよう。というよりも、締めよう。


世の中には知らなければ幸せな事と言うのが沢山ある。
けれど、彼らの見た日本は、誰がどう言おうと『黄金の島』なのだ。

その輝きが失せる事は恐らく無い。
それ程に、貧困の差は想像を絶している。
だからと言って、彼らの生活をよりよくする術などありはしない。

ただ、日本では外人が起こす犯罪に過敏に反応するけれど、その背景にまで迫ったドキュメントに触れた事は無い。恐らくはあるのだろうけど。

それに触れていない、触れてこなかったことに若干の自戒を込めよう。







iPhoneからの投稿
ワイルドが言った、自然とは第二の自然である。と言う言葉を思い出す。

人はそもそも見えてると思っているものしか見えていない。

それは何によるのかと言えば、思い込みだろう。
思い込みはその人の世界を作っている。それは、信念であったり、弱さでもある。

見なくても良い部分、見ようとしない部分、見えない部分…そう言った判断自体が既に思い込みにとらわれている事になかなか気付けない。

世界は複雑だが、単純でもある。
それは見方次第だろう。
その見方はいかように養うべきなのか本書は教えてくれる。

元中学の美術の先生がいかに生徒たちの個性を伸ばしたかというドキュメントだが、その内容は固定概念という邪魔者を排除する術としても読み取れる。

題名を読み解けば、
りんごは赤い色をしていないという事になる。

いや、赤だ。と主張するならりんごを見てみる。

そこに今まで見ていなかったりんごの色がある。

だから、りんごは赤じゃないと当たり前の事を彼女は生徒に教える。

いや、教えるというよりも、気付かせる。
草の絵を描かせ、
『本当にこんな形、色をしている?』と問い、外に出る。

本物の草を目の当たりにした生徒たちは驚く。草として認識していたものの多様さに。

上手に書けなくても構わない。けれど、自分に正直である必要はある。
そこで、また問う。
『あなたに見えている草は本当にその絵?』と。


この後、発砲スチロールと紙粘土を使って、果物を作らさせる。

その後には、環境破壊について、解決策を考えさせ、発表させる。

その中で、生徒たちは人に見せる工夫を考え始める。…。


その教育の成果は本書の巻頭にカラー写真で載せられている。
色にしろ表現にしろ発想にしろ、うまいだけじゃない。楽しんでいる事がよく分かる。

その楽しさと言うのは、友達と遊んでいる時の楽しさとは違うだろう。

辛さを乗り越えて、ようやく辿り着ける楽しさ。


岡本太郎の言葉で、
『ピカソを越えようとピカソの真似をしても超えられるわけがない』と。


超えるべきは自分でしかない。
人と比べる理由などどこにもない。
自分に嘘をついていれば何をしていても楽しいはずがないのだから。


教育というのは難しい。
けれど、著者は素晴らしい形で教師が教師足るが所以をここで見せつける。

離婚して36歳から始めたという教員業。
何事も遅くないと言う強い言葉はここでは空回りする。
遅いも早いもない。
『やる』それだけがある。

そうった気迫が授業風景からも伝わる。
厳しくしつけ、思いっきり褒め、相手の事を100%認め、自分で決めさせる、考えさせる。

言葉にすればそれだけ。
けれど、実際やる事にもの凄い気づかいが伴う。


教員だけでなく、親にも、経営者にも勧められる本だと思う。

何度も挫折したスケッチを再開してみる気になった一冊。




りんごは赤じゃない―正しいプライドの育て方 (新潮文庫)/山本 美芽

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ザムザは起きた時、虫になっていた。
ならば、私はそれよりたちが悪い。

外ヨガをやると土の、草の匂いがする。その匂いがたまらなく好きだと気付いた。
なんなら、泥まみれになりたいと思うほどに。

この衝動は私がミミズか何かだからだろうか?
その昔、武田真治に似てるねと盲目的だった彼女に言われたことがあったが、もしかすると、彼女にミミズを見せても、武田真治に似てるね、と言っていたかもしれない。

むしろ、私には分からないだけで、誰からみても、ミミズと武田真治は似ているのかもしれない。

けれど、それでもてるのならミミズでも構わないが、人生を振り返りもてた試しがない事から私はミミズではないのだろう。


話は外ヨガに戻る。

夕方の外ヨガというのも楽しかった。
というか、ヨガはいつ、どこでやっても大抵楽しい。

何が楽しいのか?

普段しない動きをする事で、あんなとこやこんなとこの筋肉が意識できるのが楽しさの一つだ。

私は錆びた鉄骨で、そこに動きを与える事で錆が落ち、血が通い、筋肉に変質するような気がする。

そして、その為にはその部分に意識せざるを得ない。

そこで、身体と意識が同調し始める。
ここに呼吸のコントロールが加わるとバラバラになる。意識が散漫になってしまう。

いくら整えても、数えても、どこかがあさっての方向に行く。


あさっての方向に意識がいって、乱れて、もう一度。

週一もやっていない不真面目な人間だが、好きな動作がある。

前屈から直立に戻る際に背骨を一つ一つ積み重ねていくようなイメージをしていく事だ。

自分の関節がカチカチカチと縦に伸びて、重力に逆らっていき、一番重い頭を据えた時に、人形から生身になる気がする。


如何に自分の身体を無視しているかがよく分かる。
労わっていないわけでは無いし、酷使しているわけでも無い。傷付けもしなければ、ついた傷は放って置いても治るという絶対的な信頼すら寄せている。

けれど、やはり無視はしてる。

無視というのは、見て見ぬ振りをする、と言う意味でいいだろう。

例えば、日常の中で、楽な姿勢がある。足を組んだり、首を傾けたり、肘をついたり。

それを真っ直ぐにしようとすると疲れてしまう。

だから、すぐに元に戻す。

だから、無視している。


そういう無視している部分に気付かせてくれる。

こういう動きをすると自分の体は思った以上に力を使うんだ!!

ここがピキってなるなんて初めて!!

うー、なんとかしてここまでもっていきたい!

とかなんとか。


自分の体だけれど、
なかなか思うようにはなっていないという不自由。

こんな間近に不自由な部分があった事に
毎回驚きを覚える。

うだうだと書いてきたけれど、
たとえ自分がミミズかもしれないと思っても
その発見が新鮮である事は間違いない。

その発見が顕著だからこそ、
ヨガと言うのは楽しいのかもしれない。












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読み終えたとき、抱いたのは


冒頭から至るところで記述された、アフリカの大地の鮮明さが
この物語の全てであったと。

『一度アフリカの手に抱かれたものは、
それからどんなに遠くに行っても生きている間に
必ずもう一度アフリカの地に戻ってくる』

という言葉が示すのは一体何なんだろうと、
その土地についてのイメージを、空気を、音を想像する。


ノンフィクションの部分もあるこの物語は
この先はどうなるんだろう?と途中でやめにくいし、
それは面白いと言う事になる。

けれど、読み終えたときに残るものは
その結末に至るまでの人間ドラマの成果
と言うわけでもないような気がする。


それはあまりにもアフリカの景色が原初的であり、
私たちの祖先がやってきたという遥かな土地に対する望郷の念であり、
宇宙に浮かんでいる地球、その地球の『始まりの場所』としての力強さ。

そういったものが、物語を食うほどに印象的だ。


だから、私の中で後半のある時期から物語は、主人公の態度は
アフリカと溶け込んだような気がして、筋自体はそれほど気にしなかった。

筋を気にしない小説なんて小説ではないと言う事にも
なりかねないが、そういう読み方も出来る小説なんてあるんだと
素直に自分の抱いた感想に驚いたりもした。


広大な大地の中でもがく人間達は滑稽に見えてもいいはずなのに
そう見えない。
気候に、金策に、同じ人間に翻弄されながら、一歩、せめて半歩、
時には歩みを止める事で物語は進む。


非常に多くの事が詰め込まれていて、
そのどれもが考えさせられるものを持っている。


それは『遊び』の考え方であったり、
人との付き合い方であったり、
外来の植物を根付かせることであったり、
部族間の対立、
建築作業の過酷さ、
酒の飲み方であり、
自分の立ち位置だったり。


今回はたまたま旅熱がぶり返してきていたところからの
本書だったので、アフリカに行きたい!!!
という強い願望がそんな感想を抱かせたのだろう。

けれど、これが他のタイミングだったら、
またきっと全く違う感想を抱いているに違いない。

恐らく私はまだアフリカには行けない。

だから、本書をかりそめのアフリカとすることにした。

だから、私はこの本にいずれ戻ってくるだろう。

その時どんな感想を抱くのか。
それが楽しみ。



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以下のリンクは凄いネタバレの可能性を秘めていますのでお気を付けください。笑。
http://www.mpata.com/index.htm

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総括は下巻を読んでから。


にしても、凄い。
漠然としたアフリカのイメージが
どんどん鮮明になってくる。

物語自体はアフリカの紹介文でもなんでもなく、
純粋にアフリカを舞台とした小説だ。

始めて読む作家だっただけれど、名前くらいは知っていたので
後は相性の問題だと思っていたが、

これは早すぎるくらいに『良し』とわかった。

自分でもなんで?と思ってしまうけれど、

目次でそう判断した。



三章  オロロロの丘


その名前に何とも言えない味を感じてしまった。

コミカルな泣き声の様でもあるし、

舌を転がす呪術の響きにも聞こえる。

突き抜ける程陽気な喉の音であったり、

森を抜ける風の音だったりもする。


そんな想像が、映像が一瞬で駆け廻る。


人類の起源はアフリカからと言われている。

その根源的な懐かしさを人は感じるらしい。

動物園でしか見た事のない動物たちが
本当の暮らしをしている場所。


そんな情景の中、読み進めていると、
いつの間にか私の新婚旅行の候補地になった。笑。

いつか?いやいや、そのうちに
ギアナ高地に行き、サファリクルーズをして、
ワニのステーキを食べ、
かの大地に抱かれてみたいものだ。







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名前も絵も知っているけれど、
その出自は全く知らないルノアール。

豊満な女性を描いているイメージくらいしかない。
けれど、一目で彼の作品だという事は、分かる。

本書には近代絵画の巨匠の名が踊る。

その中で何となく気になったのがルノアールだ。

決して、好きでもないし、好んで見ようとも思わない。
けれど、ふと、
「なぜ、ルノアールに興味がないのか?」という疑問が湧き出て来た。


絵描きの名前を知ったのは、ピカソが先かダヴィンチが先かルノアールが先かというくらい早くからだった。それ程有名だと言われればその通りだが、それなら他にも覚えていても良いはずだと思い当たる。

だとすれば、興味がないは妥当な表現とは言えない気がして来た。
仮に意識的に無関心であるという事は、意識が外れた際、彼の絵の前に佇んでいる可能性を秘めている。

なら、その前提を正とし、「興味がない」を「避けている」とするのが正確だろう。

ならば、なぜ?
私はルノアールを避けて来たのか?

それを念頭に本書を読み進める事とした。



言葉の一つ一つが積み重なって彼の輪郭が浮き上がってくる。
その姿は、偏屈そうな優しいおじさんだ。

当時、流行していた印象派を否定するような発言も見受けられる。
けれど、Wikipediaで調べてみると、印象派、後期ではポスト印象派と位置付けられている。

おそらくはそういった区分けが無意味だと思っていたのだろう。
好きなように描き、見て楽しいそんな絵を描いている人間には確かに不要なものであるし、むしろ不純物に近いだろう。

彼の絵には人物画が多いらしく、確かに思い浮かぶのはふっくらとした女性だ。

セザンヌは、ルノアールを評して、
「パリの女を作った」といったらしい。

そこで、彼の絵の持つ質感が蘇る。

それは「湿度」

触れたら吸い付くような質感。
触れてしまえるような曖昧な輪郭がそこにはある。
そして、そこで私が体感するのは体温でも息遣いでもなく、しっとりとした肌の感触なのだ。

その感触が余りに自分の中で現実味を帯びていて、怖かったのかもしれない。

なら、私はもう引き込まれていたに違いない。
好きとか嫌いではなくて、
その絵から制御出来ないほどの情報を得てしまったら、それはもう、虜と言って良いだろう。

まるで、思春期のつっぱりみたいだ。笑。


さて、本文に戻る。

ルノアールは小手先の技術を嫌っていたように思える。
色の数だとか、光の表現だとかそういった部分から立ち上がってくるものの良さを理解した上で、はぐらかす。

古典の表現力に感嘆し、
廃れて行く職人技とも言うべきものを大事にした。

それはまるで今の建築業界にも言えるだろう。

新しい素材を使う事に躍起になって、新しい表現が出来たとしてもその発想が既に新しい事に多くの人は気付いていない。

だから、納まりの知らない建築家がもてはやされ、雨漏りの事実を伝えない文化がある。

表現力と手職の整合性が取れなければ現実に建ったとしても、絵に描いた餅に等しい。

好奇心がここまで文明を進めたというのなら、関わる殆ど全てについての知識程度は持たなければ、到底、収束しない位まで密接に関わりあい、寄り添っている。

それが、何かを作るという業種についた人間の責務ではないだろうか?

というよりも、そうなってしまう気がしてならない。

ルノアールという人物は、人生とは楽しく健康的である事を知っていた。
だからこそ、安易な表現に逃げず、ひたすらに自分が楽しいと思う絵を書き続けたのだろう。
だからこそ、古典に秘められた本質を見失わずにいれたのだろう。

好きな絵しか描かないのでは無くて、好きな絵を描くが為に、絵を描く事が楽しいと行き着いたのではないだろうか?

近代絵画 (新潮文庫 こ 6-5)/小林 秀雄

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そういえば、今月末からだったかな?会社の近くでホッパーが見れるらしい。これは、楽しみ!

http://american2011.jp/







iPhoneからの投稿
マジでビビった!
(中学生以来か?)

この本
(この場合、落書き等してあるノートも、文字が書いてある冊子と言う定義で本とみなす事が出来る)

はさ、なんか、百カ国以上旅した人が書いたらしいんだけどさ、マジで、ハンパねーって感じ。
(小説は主に極端なものが多い事から、普通という意味である。また、本書ら広義な意味での小説とした。)

主人公はバックパッカーって、旅と浮浪者を混ぜたような事をしている奴
(これは当時の私を思い浮かべると他に言葉が見つからない)

で、不法就労
(イリーガルなものは無条件でカッコ良いっぽい)

してるパリ
(オシャレ三原則の一つ)

のレストランのオーナーから頼まれ事して、
ヤバイ事
(書いてある事よりも端的でわかりやすい表現のつもり)

に巻き込まれてくって話なんだけど、人身売買とかダイヤモンドとかその辺のやべー話が盛りだくさんでさ、その上、お約束の美女との××なんかもあったりして、もう、ページをめくる手が止まらないって、感じ?



ふう、疲れた。


に、しても、こんな本あるんだなってくらい、……っかった!!


ここから、アフリカ絡みを続けて行こう。


ここまで、お読み頂いてしまって申し訳ありません。m(_ _)m








iPhoneからの投稿アフリカ・アンダーグラウンド (祥伝社文庫)/岡崎 大五

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サイゴンからきた妻と娘を読んで早数年。

ベトナムへ行き、直に彼らに触れる事であの国が好きになり、その途中で出会ったバックパッカーに教えてもらった本が、それであり、気になりながらも読むタイミングを逃していたのが、本書。

ベトナム戦争の直前から直後までのベトナム人の視点から当時を綴ったものになる。

ベトナムで出会った年齢不詳の女性を妻に貰った著者だからこそ、地元に密着し、冷静に目撃出来た当時の様子は、私のイメージするベトナム戦争よりも逞しく、私の知っているベトナムに近かった。

原発の事故が起こってから、チェルノブイリで産まれた奇形児や奇形植物などを再び目にする事が多くなったが、中には、奇形そのものを取り扱ったものもある。
その中に枯れ葉剤の影響を受けた者達がいる。

その局部だけを見る事で受ける後世に残る甚大な被害は当然当時には見受けられない。

戦時下、生きること、生活する事に精一杯の日々を送るものもいれば、そういった危機感から生来の鈍感さで周りから守られるものもいる。

話は変わるが、
ここ最近呼ばれている場所がある。
北から北海道、南は沖縄、そして、ベトナム。

ハノイの郷土料理、ブンチャが恋しくなってと言うのもあるし、やはり、格別に好きなんだろう。

インドの混沌も好きだし、毎日が180度目まぐるしく変わる様等は生きる活力をもらえるというか、
生きる活力がわき出てくる。

ベトナムもそれに近いけれど、
もっと身近で、矛盾しているけれど、洗練された野暮ったさみたいなものもある。
日本だって築地に行けば、ASIAという言葉が浮かんでくるのを押し込めておく事は出来ないし、そういった部分部分では活力は負けていないと思う。

けれど、ベトナムはもちろん場所にもよるけれど、街全体が市場のようなものだ。

あれほどに凄惨な戦争があったとは思えないほどに、
日々を生き、先を見越している。

本書の中で、流石と思ったのは華僑の存在。

彼らは常に順応する。

善悪の区別なく、繁栄のために、己の主張を腹にしまい込む。

中国ではがなり声が飛び交い、不快なうるささを感じる事もあったが、
その中国人が己を押し込めると言うのは想像しにくいが、
その強かさはもの凄くらしいと思う。

詳しい事は本書を読んでもらえばいいとして、
これからベトナムに行く人、
ベトナムから帰ってきた人には
是非とも読んでもらいたい本である事は間違いない。




iPhoneからの投稿サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))/近藤 紘一

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なんか良い本がないかなという気持ちでいつも向かう新書コーナー。

古くても初学者に向けてわかりやすく書かれているので、
何かに興味を持っているときはここの棚を眺めています。

そこで見つけたこの本。

wikiでヨガの項目を見ると、何やら色々と書かれているけれど、
なんとなく読む気になれず、
ヨガとはまぁ大昔のインドで生まれた哲学の一派であるという理解程度
に留めていました。

でも、なんとなく月一位で行っているヨガをやっていると
面白いもののなんであの動きなのか?
本来は何の目的のために行うものなのかという疑問が
浮かんできました。

いや、疑問はあったのですが、単純に優先順位と新書のコーナーに
置いているのを見かけなかったからでしょうけど。


まず改めなければならないのは
ヨガではなくて、ヨーガ。
これが正しいらしい。

このヨーガとは一体何だと言うのは
先日お邪魔したヨーガ教室で教えていただいた、
『座るための準備』である。の一言に尽きます。

ここで、注意しなければならないのは、
ここで使っているヨーガと言う言葉は
正式には『ハタ・ヨーガ』というものになります。

自分が行っていたものは『ハタ・ヨーガ』なんだと
ここで初めて気付きました。笑。

多分、何度も耳にしたはずなのに、
あまり気にしていませんでした。

誤解を恐れずに言うと、

一番良くいくところは
『ハタ・ヨーガ』

外で行う時に参加させてもらっているところは
『ハタ・ヨーガ』+『体軸法』

そして、先日お邪魔した未知のヨーガ体験したところでは、
『経絡ヨガ』+『バクティ・ヨガ』


『ハタ・ヨーガ』は上述の通り。
『体軸法』は日本で生まれた身体機能の調節方法
『経絡ヨガ』は気の流れを良くする為のヨーガ。
『バクティ・ヨーガ』はビシュヌ神への献身とヨーガを合わせたもの。

では、ここで『ヨーガ』とは何なのかと言う疑問がわきます。

簡単に言えば、
心の『入滅』もしくは『統制』を目的としています。


と、ここで聞きなれた?言葉『入滅』が出てきます。

仏教用語だと思っていた言葉がここに出てきても何の不思議もありませんが、
体系化される以前からヨーガと言うものは存在していたと言われていますし、
『ヨーガ・スートラ』なる書物がまとめられたのは、
釈迦が仏教を起こす時期と重なっているようです。

じゃぁ、釈迦もまたヨーガを行っていたのか?

読み進めば読み進むほど疑問がわいてきます。

こういう状態を『楽しい』というのでしょう。笑。


著者はここで、『入滅』と『統制』では働きが全く違うと言い、
その解釈に踏み込みます。

けれど、それはしっかりとしたものではなくて、
あくまでも、便宜上そう使い分けられるという程度のものでしょう。

なんとなくインドらしい細やかさとおおらかさが内在しているようで、
私はその二つも言葉の解釈は望みません。


じゃぁ、その『入滅』したり『統制』することで、
何が良いの?

となります。


本当、何が良いんでしょう?笑。


この『ハタ・ヨーガ』が発展して言った理由は
エクササイズとして、広まったかららしいです。

けれど、その背後には目も眩むほど膨大な量の
インド哲学が控えています。

私が知りたかった、ポーズの成り立ちについては一切書かれていませんでしたが、
それでも、
気や心を体内に充満させる目的を持ち、
チャクラと言われるエネルギーの集まる場所を意識的に調整し、
体と心がチグハグになりやすい動きを
当時の論理に基づいて決めていったのかなと想像をめぐらす事は出来ました。


ヨーガのクラスでは最後に『シャバーサナ』という
『死者のポーズ』をとります。
全身の力も意識も脱落して、下手をすると寝てしまいます。

このポーズは『休め』もしくは『クールダウン』と捉えていたのですが、
この本を読んで、
座るために心の統制がとれた状態で臨むための前準備みたいなものなのかと
思い当たりました。

ポーズ一つまともに覚えていませんが、
なんとなくヨーガの輪郭が見えてきた気がします。

インドで生まれた哲学は
釈迦にて変質させ、
それを道元が禅として昇華した。

私にはそう読めました。


ヨーガではその最終的な目的地まで出来るだけ言葉で伝えようとするらしいのですが、
それは道元の行為に近いものを感じます。

一言でいえば『只管打坐』けれどもその行為を、悟りの境地の直前まで構成に残そうと
正法眼蔵を未完ながらも書き遺します。

そして、建築家はその思想を様々な手法を使って空間にします。
言葉はいらない。そこに入ってくれれば伝えたかったことの片鱗が体感できる。
初めて味わう心地よさと言うものを提供したい。


本書の所々に『ヨーガ・スートラ』からの抜粋が載っていました。
それをかみしめていると、ふとヴィトゲンシュタインの言葉を思い出します。

もしかすると、
哲学と言うのは宗教から至る場所をそぎ落としたものなのかもしれません。

だから、こんなにも面白く、また、西洋哲学の多くは言葉遊び的であると
思ってしまうのかもしれません。




ヨーガの哲学 (講談社現代新書)/立川 武蔵

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