ザムザは起きた時、虫になっていた。
ならば、私はそれよりたちが悪い。

外ヨガをやると土の、草の匂いがする。その匂いがたまらなく好きだと気付いた。
なんなら、泥まみれになりたいと思うほどに。

この衝動は私がミミズか何かだからだろうか?
その昔、武田真治に似てるねと盲目的だった彼女に言われたことがあったが、もしかすると、彼女にミミズを見せても、武田真治に似てるね、と言っていたかもしれない。

むしろ、私には分からないだけで、誰からみても、ミミズと武田真治は似ているのかもしれない。

けれど、それでもてるのならミミズでも構わないが、人生を振り返りもてた試しがない事から私はミミズではないのだろう。


話は外ヨガに戻る。

夕方の外ヨガというのも楽しかった。
というか、ヨガはいつ、どこでやっても大抵楽しい。

何が楽しいのか?

普段しない動きをする事で、あんなとこやこんなとこの筋肉が意識できるのが楽しさの一つだ。

私は錆びた鉄骨で、そこに動きを与える事で錆が落ち、血が通い、筋肉に変質するような気がする。

そして、その為にはその部分に意識せざるを得ない。

そこで、身体と意識が同調し始める。
ここに呼吸のコントロールが加わるとバラバラになる。意識が散漫になってしまう。

いくら整えても、数えても、どこかがあさっての方向に行く。


あさっての方向に意識がいって、乱れて、もう一度。

週一もやっていない不真面目な人間だが、好きな動作がある。

前屈から直立に戻る際に背骨を一つ一つ積み重ねていくようなイメージをしていく事だ。

自分の関節がカチカチカチと縦に伸びて、重力に逆らっていき、一番重い頭を据えた時に、人形から生身になる気がする。


如何に自分の身体を無視しているかがよく分かる。
労わっていないわけでは無いし、酷使しているわけでも無い。傷付けもしなければ、ついた傷は放って置いても治るという絶対的な信頼すら寄せている。

けれど、やはり無視はしてる。

無視というのは、見て見ぬ振りをする、と言う意味でいいだろう。

例えば、日常の中で、楽な姿勢がある。足を組んだり、首を傾けたり、肘をついたり。

それを真っ直ぐにしようとすると疲れてしまう。

だから、すぐに元に戻す。

だから、無視している。


そういう無視している部分に気付かせてくれる。

こういう動きをすると自分の体は思った以上に力を使うんだ!!

ここがピキってなるなんて初めて!!

うー、なんとかしてここまでもっていきたい!

とかなんとか。


自分の体だけれど、
なかなか思うようにはなっていないという不自由。

こんな間近に不自由な部分があった事に
毎回驚きを覚える。

うだうだと書いてきたけれど、
たとえ自分がミミズかもしれないと思っても
その発見が新鮮である事は間違いない。

その発見が顕著だからこそ、
ヨガと言うのは楽しいのかもしれない。












iPhoneからの投稿