なんか良い本がないかなという気持ちでいつも向かう新書コーナー。
古くても初学者に向けてわかりやすく書かれているので、
何かに興味を持っているときはここの棚を眺めています。
そこで見つけたこの本。
wikiでヨガの項目を見ると、何やら色々と書かれているけれど、
なんとなく読む気になれず、
ヨガとはまぁ大昔のインドで生まれた哲学の一派であるという理解程度
に留めていました。
でも、なんとなく月一位で行っているヨガをやっていると
面白いもののなんであの動きなのか?
本来は何の目的のために行うものなのかという疑問が
浮かんできました。
いや、疑問はあったのですが、単純に優先順位と新書のコーナーに
置いているのを見かけなかったからでしょうけど。
まず改めなければならないのは
ヨガではなくて、ヨーガ。
これが正しいらしい。
このヨーガとは一体何だと言うのは
先日お邪魔したヨーガ教室で教えていただいた、
『座るための準備』である。の一言に尽きます。
ここで、注意しなければならないのは、
ここで使っているヨーガと言う言葉は
正式には『ハタ・ヨーガ』というものになります。
自分が行っていたものは『ハタ・ヨーガ』なんだと
ここで初めて気付きました。笑。
多分、何度も耳にしたはずなのに、
あまり気にしていませんでした。
誤解を恐れずに言うと、
一番良くいくところは
『ハタ・ヨーガ』
外で行う時に参加させてもらっているところは
『ハタ・ヨーガ』+『体軸法』
そして、先日お邪魔した未知のヨーガ体験したところでは、
『経絡ヨガ』+『バクティ・ヨガ』
『ハタ・ヨーガ』は上述の通り。
『体軸法』は日本で生まれた身体機能の調節方法
『経絡ヨガ』は気の流れを良くする為のヨーガ。
『バクティ・ヨーガ』はビシュヌ神への献身とヨーガを合わせたもの。
では、ここで『ヨーガ』とは何なのかと言う疑問がわきます。
簡単に言えば、
心の『入滅』もしくは『統制』を目的としています。
と、ここで聞きなれた?言葉『入滅』が出てきます。
仏教用語だと思っていた言葉がここに出てきても何の不思議もありませんが、
体系化される以前からヨーガと言うものは存在していたと言われていますし、
『ヨーガ・スートラ』なる書物がまとめられたのは、
釈迦が仏教を起こす時期と重なっているようです。
じゃぁ、釈迦もまたヨーガを行っていたのか?
読み進めば読み進むほど疑問がわいてきます。
こういう状態を『楽しい』というのでしょう。笑。
著者はここで、『入滅』と『統制』では働きが全く違うと言い、
その解釈に踏み込みます。
けれど、それはしっかりとしたものではなくて、
あくまでも、便宜上そう使い分けられるという程度のものでしょう。
なんとなくインドらしい細やかさとおおらかさが内在しているようで、
私はその二つも言葉の解釈は望みません。
じゃぁ、その『入滅』したり『統制』することで、
何が良いの?
となります。
本当、何が良いんでしょう?笑。
この『ハタ・ヨーガ』が発展して言った理由は
エクササイズとして、広まったかららしいです。
けれど、その背後には目も眩むほど膨大な量の
インド哲学が控えています。
私が知りたかった、ポーズの成り立ちについては一切書かれていませんでしたが、
それでも、
気や心を体内に充満させる目的を持ち、
チャクラと言われるエネルギーの集まる場所を意識的に調整し、
体と心がチグハグになりやすい動きを
当時の論理に基づいて決めていったのかなと想像をめぐらす事は出来ました。
ヨーガのクラスでは最後に『シャバーサナ』という
『死者のポーズ』をとります。
全身の力も意識も脱落して、下手をすると寝てしまいます。
このポーズは『休め』もしくは『クールダウン』と捉えていたのですが、
この本を読んで、
座るために心の統制がとれた状態で臨むための前準備みたいなものなのかと
思い当たりました。
ポーズ一つまともに覚えていませんが、
なんとなくヨーガの輪郭が見えてきた気がします。
インドで生まれた哲学は
釈迦にて変質させ、
それを道元が禅として昇華した。
私にはそう読めました。
ヨーガではその最終的な目的地まで出来るだけ言葉で伝えようとするらしいのですが、
それは道元の行為に近いものを感じます。
一言でいえば『只管打坐』けれどもその行為を、悟りの境地の直前まで構成に残そうと
正法眼蔵を未完ながらも書き遺します。
そして、建築家はその思想を様々な手法を使って空間にします。
言葉はいらない。そこに入ってくれれば伝えたかったことの片鱗が体感できる。
初めて味わう心地よさと言うものを提供したい。
本書の所々に『ヨーガ・スートラ』からの抜粋が載っていました。
それをかみしめていると、ふとヴィトゲンシュタインの言葉を思い出します。
もしかすると、
哲学と言うのは宗教から至る場所をそぎ落としたものなのかもしれません。
だから、こんなにも面白く、また、西洋哲学の多くは言葉遊び的であると
思ってしまうのかもしれません。
ヨーガの哲学 (講談社現代新書)/立川 武蔵

¥663
Amazon.co.jp

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古くても初学者に向けてわかりやすく書かれているので、
何かに興味を持っているときはここの棚を眺めています。
そこで見つけたこの本。
wikiでヨガの項目を見ると、何やら色々と書かれているけれど、
なんとなく読む気になれず、
ヨガとはまぁ大昔のインドで生まれた哲学の一派であるという理解程度
に留めていました。
でも、なんとなく月一位で行っているヨガをやっていると
面白いもののなんであの動きなのか?
本来は何の目的のために行うものなのかという疑問が
浮かんできました。
いや、疑問はあったのですが、単純に優先順位と新書のコーナーに
置いているのを見かけなかったからでしょうけど。
まず改めなければならないのは
ヨガではなくて、ヨーガ。
これが正しいらしい。
このヨーガとは一体何だと言うのは
先日お邪魔したヨーガ教室で教えていただいた、
『座るための準備』である。の一言に尽きます。
ここで、注意しなければならないのは、
ここで使っているヨーガと言う言葉は
正式には『ハタ・ヨーガ』というものになります。
自分が行っていたものは『ハタ・ヨーガ』なんだと
ここで初めて気付きました。笑。
多分、何度も耳にしたはずなのに、
あまり気にしていませんでした。
誤解を恐れずに言うと、
一番良くいくところは
『ハタ・ヨーガ』
外で行う時に参加させてもらっているところは
『ハタ・ヨーガ』+『体軸法』
そして、先日お邪魔した未知のヨーガ体験したところでは、
『経絡ヨガ』+『バクティ・ヨガ』
『ハタ・ヨーガ』は上述の通り。
『体軸法』は日本で生まれた身体機能の調節方法
『経絡ヨガ』は気の流れを良くする為のヨーガ。
『バクティ・ヨーガ』はビシュヌ神への献身とヨーガを合わせたもの。
では、ここで『ヨーガ』とは何なのかと言う疑問がわきます。
簡単に言えば、
心の『入滅』もしくは『統制』を目的としています。
と、ここで聞きなれた?言葉『入滅』が出てきます。
仏教用語だと思っていた言葉がここに出てきても何の不思議もありませんが、
体系化される以前からヨーガと言うものは存在していたと言われていますし、
『ヨーガ・スートラ』なる書物がまとめられたのは、
釈迦が仏教を起こす時期と重なっているようです。
じゃぁ、釈迦もまたヨーガを行っていたのか?
読み進めば読み進むほど疑問がわいてきます。
こういう状態を『楽しい』というのでしょう。笑。
著者はここで、『入滅』と『統制』では働きが全く違うと言い、
その解釈に踏み込みます。
けれど、それはしっかりとしたものではなくて、
あくまでも、便宜上そう使い分けられるという程度のものでしょう。
なんとなくインドらしい細やかさとおおらかさが内在しているようで、
私はその二つも言葉の解釈は望みません。
じゃぁ、その『入滅』したり『統制』することで、
何が良いの?
となります。
本当、何が良いんでしょう?笑。
この『ハタ・ヨーガ』が発展して言った理由は
エクササイズとして、広まったかららしいです。
けれど、その背後には目も眩むほど膨大な量の
インド哲学が控えています。
私が知りたかった、ポーズの成り立ちについては一切書かれていませんでしたが、
それでも、
気や心を体内に充満させる目的を持ち、
チャクラと言われるエネルギーの集まる場所を意識的に調整し、
体と心がチグハグになりやすい動きを
当時の論理に基づいて決めていったのかなと想像をめぐらす事は出来ました。
ヨーガのクラスでは最後に『シャバーサナ』という
『死者のポーズ』をとります。
全身の力も意識も脱落して、下手をすると寝てしまいます。
このポーズは『休め』もしくは『クールダウン』と捉えていたのですが、
この本を読んで、
座るために心の統制がとれた状態で臨むための前準備みたいなものなのかと
思い当たりました。
ポーズ一つまともに覚えていませんが、
なんとなくヨーガの輪郭が見えてきた気がします。
インドで生まれた哲学は
釈迦にて変質させ、
それを道元が禅として昇華した。
私にはそう読めました。
ヨーガではその最終的な目的地まで出来るだけ言葉で伝えようとするらしいのですが、
それは道元の行為に近いものを感じます。
一言でいえば『只管打坐』けれどもその行為を、悟りの境地の直前まで構成に残そうと
正法眼蔵を未完ながらも書き遺します。
そして、建築家はその思想を様々な手法を使って空間にします。
言葉はいらない。そこに入ってくれれば伝えたかったことの片鱗が体感できる。
初めて味わう心地よさと言うものを提供したい。
本書の所々に『ヨーガ・スートラ』からの抜粋が載っていました。
それをかみしめていると、ふとヴィトゲンシュタインの言葉を思い出します。
もしかすると、
哲学と言うのは宗教から至る場所をそぎ落としたものなのかもしれません。
だから、こんなにも面白く、また、西洋哲学の多くは言葉遊び的であると
思ってしまうのかもしれません。
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