名前も絵も知っているけれど、
その出自は全く知らないルノアール。

豊満な女性を描いているイメージくらいしかない。
けれど、一目で彼の作品だという事は、分かる。

本書には近代絵画の巨匠の名が踊る。

その中で何となく気になったのがルノアールだ。

決して、好きでもないし、好んで見ようとも思わない。
けれど、ふと、
「なぜ、ルノアールに興味がないのか?」という疑問が湧き出て来た。


絵描きの名前を知ったのは、ピカソが先かダヴィンチが先かルノアールが先かというくらい早くからだった。それ程有名だと言われればその通りだが、それなら他にも覚えていても良いはずだと思い当たる。

だとすれば、興味がないは妥当な表現とは言えない気がして来た。
仮に意識的に無関心であるという事は、意識が外れた際、彼の絵の前に佇んでいる可能性を秘めている。

なら、その前提を正とし、「興味がない」を「避けている」とするのが正確だろう。

ならば、なぜ?
私はルノアールを避けて来たのか?

それを念頭に本書を読み進める事とした。



言葉の一つ一つが積み重なって彼の輪郭が浮き上がってくる。
その姿は、偏屈そうな優しいおじさんだ。

当時、流行していた印象派を否定するような発言も見受けられる。
けれど、Wikipediaで調べてみると、印象派、後期ではポスト印象派と位置付けられている。

おそらくはそういった区分けが無意味だと思っていたのだろう。
好きなように描き、見て楽しいそんな絵を描いている人間には確かに不要なものであるし、むしろ不純物に近いだろう。

彼の絵には人物画が多いらしく、確かに思い浮かぶのはふっくらとした女性だ。

セザンヌは、ルノアールを評して、
「パリの女を作った」といったらしい。

そこで、彼の絵の持つ質感が蘇る。

それは「湿度」

触れたら吸い付くような質感。
触れてしまえるような曖昧な輪郭がそこにはある。
そして、そこで私が体感するのは体温でも息遣いでもなく、しっとりとした肌の感触なのだ。

その感触が余りに自分の中で現実味を帯びていて、怖かったのかもしれない。

なら、私はもう引き込まれていたに違いない。
好きとか嫌いではなくて、
その絵から制御出来ないほどの情報を得てしまったら、それはもう、虜と言って良いだろう。

まるで、思春期のつっぱりみたいだ。笑。


さて、本文に戻る。

ルノアールは小手先の技術を嫌っていたように思える。
色の数だとか、光の表現だとかそういった部分から立ち上がってくるものの良さを理解した上で、はぐらかす。

古典の表現力に感嘆し、
廃れて行く職人技とも言うべきものを大事にした。

それはまるで今の建築業界にも言えるだろう。

新しい素材を使う事に躍起になって、新しい表現が出来たとしてもその発想が既に新しい事に多くの人は気付いていない。

だから、納まりの知らない建築家がもてはやされ、雨漏りの事実を伝えない文化がある。

表現力と手職の整合性が取れなければ現実に建ったとしても、絵に描いた餅に等しい。

好奇心がここまで文明を進めたというのなら、関わる殆ど全てについての知識程度は持たなければ、到底、収束しない位まで密接に関わりあい、寄り添っている。

それが、何かを作るという業種についた人間の責務ではないだろうか?

というよりも、そうなってしまう気がしてならない。

ルノアールという人物は、人生とは楽しく健康的である事を知っていた。
だからこそ、安易な表現に逃げず、ひたすらに自分が楽しいと思う絵を書き続けたのだろう。
だからこそ、古典に秘められた本質を見失わずにいれたのだろう。

好きな絵しか描かないのでは無くて、好きな絵を描くが為に、絵を描く事が楽しいと行き着いたのではないだろうか?

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