すっぴんマスター -50ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第43審/事件の真相③

 

 

 

 

店の女の子に手を出したということで壬生に股間を焼かれた外畠。しかしそれは建前で、実は彼がAV女優としてこれからさらにヒット作を出すであろう笠置雫を潰された、京極の指示によるものだったのだ。

外畠は壬生の姿を見てはいないし、京極にまでたどりつくことは絶対にありえない。だが、じぶんがそうなったのはデリヘルの女の子に手を出したからだということは理解している。だから、彼はオーナーを恨んでいた。そのオーナーというのが、菅原をスパイしていた壬生の子分、久我だったのである。

外畠はを逮捕した嵐山は、とにかく決定的な理由で壬生を捕まえたい。そこで外畠を利用し、表向きは別の理由(職業安定法)で久我を捕まえて、外畠暴行の件を詰めるのである。

 

九条と烏丸が久我と面会している。外畠がどこまでしゃべっているのかわからないので、今後のことはなんともいえない。そもそも九条はここに職業安定法違反で捕まった久我を助けるためにきているのであって、外畠の名前も寝耳に水のはずだ。この場ではどうしようもない。

こういう場所では本当のことをいうべきである。九条はほんとうに暴行したのか訊ねるが、その日久我は福岡にいたという。じっさい、久我は関わっていない。しかしその気はあったという。外畠が店の子に手を出したはなしじたいは聞いていたのだ。

そういうわけで、証拠はないようだし、いつものように黙秘してパイするパターンだが、久我はカンモクできる自信がないという。嵐山の当たりが強くて言い返してしまいそうだと。なぜか。その理由も、久我は理解している。嵐山の娘・信子を殺した犬飼という男が、壬生含めた地元の連れなのである。

 

第1審で話題になった日本一のたこ焼きのはなしをしながら九条と烏丸が警察署から出てくる。そこに、嵐山がやってきて、からみはじめる。嵐山はけっこうくわしく九条の背景を知っているようだ。有名な鞍馬弁護士の息子で、兄は鞍馬検事、邪魔するなよと。九条はかなり強めに嵐山を拒否する。父も兄もじぶんとは別人であって、ひとくくりにできるものではない。だいたい縁も切っている。だからこその「九条」なのである。

 

これで嵐山が九条のことも目の敵にしていることがわかったが、烏丸との帰り道、九条も刑事は好きではないとくちにする。被疑者か協力者かの「二元論でものを考える」からだ。

 

 

刑事三人がごはんを食べにきている。深見はもりもり豚の脳みそを食べているが、嵐山は手をつけない。食べないんですか?みたいなことをいう深見を、又林が心配そうに見ている。やがて嵐山は「黙れガキ」とブチ切れて去ってしまう。嵐山は検死の際の、娘の脳みそのことを思い出してしまうのだ。又林はこうなることを予期していたようである。前にもそういうことがあったのかもしれない。

 

帰宅した嵐山は信子のスマホを手に取る。10年前のものだが、充電すればいまでも起動する。しかし暗証番号がわからない。いまなら50万円も払えば業者の手で解除することができるが、当時はできなかった。捜査が終了したいまも、嵐山は信子のスマホを開こうとしている。いまなら、その業者とやらをつかえばいいわけだが、嵐山は狂気的な執着心で、じぶんの手でこれを解除しようとしている。暗証番号は100万通りある。それが、すべて書き出されて壁に貼ってあるのだ。日に何回か間違えるとロックがかかるので、毎日毎日、少しずつ塗りつぶす日々だ。傍らにはおそらく当時のままの信子の靴や衣類がビニールに包まれておいてある。

 

そして、10年もたったいま、ついに嵐山は暗証番号を見つけるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

暗証番号は「315087」だったようである。事件は10年前、ざっと3650日あったわけだが、すると1日あたり100件くらいになる。そんなわけはないので、嵐山なりに「ありえない数字」は省いて進めていたのだろう。たとえば、最初の1000件は、確かめる必要はないかもしれない。それから、たとえばだが、最初の数字が1であることは少ないとか、そういう感じのある種のパターンをどこかで知って、10万台はまるまる飛ばしたとか。

この数字じたいに意味はあるだろうか。いろいろ考えてみたがはっきりしたことはまだ言えないそうだ。しかし、家族の誕生日とか、そういうものは優先的に試しているだろうから、そういう数字ではないのだろう。

 

捜査は終了しているので、暗証番号解析の業者を使うのだとしても、それはたぶん自腹になる。とはいえ、嵐山の執念を考えたら、50万くらいなんでもない金額かもしれない。また、現段階でまだ半分もいっていないわけで、労力的な面でいっても、いまから業者に頼む意味はある。それをしないのは、嵐山じしんの自己規定が、この行為によりかかっているからだ。もちろん目的は、暗証番号を見つけて、捜査の過程で見えた以上の娘の秘密を確認することである。嵐山は、父親であるほかならぬこの自分が、娘の「真相」を見つけ出さねばならないと考えているのだ。「相」という字には「すがた」という意味がある。彼は、娘の真のすがたを、彼女が死ぬまで知ることはなかった、その事態について、深く後悔している。だから、彼はそれをじぶんじしんの努力によって知らなければならない。後悔は、それまでの彼の人生における娘の価値の形状を見誤ってきたという感覚を呼び寄せただろう。そこに責任感、もしくは負債感のようなものが芽生える。娘がこうなったのは(どうなったのかはまだよくわからないが)あるぶぶんではじぶんのせいであると、こういうふうに考えているから、自罰的に、傍目には無意味におもえる虚無的な反復にこだわるのである。これは彼が彼自身に課した地獄の罰なのである。

だが今回それがほどけることになった。行為じたいに意味がある状況になっていたので、嵐山はちょっとあっけにとられたのである。うつろな反復それじたいに意味がある状況なので、嵐山はどこかでこれが永遠に続くことを願っていたにちがいないのだ。きわめて病的な倒錯であるが、嵐山の状況を考えたらしかたのないことかもしれない。彼が、暗証番号をじぶんの手で見つけ出すことにこだわるということ、それはすなわち、それを(業者などの)他者の手にゆだねないことを意味し、その行為じたいに自罰的な意味を見ている状況では、暗証番号は見つかってはならないのである。ひとことでいえば、自罰的な行為を、目的のある行為に重ねるべきではなかったのだ。暗証番号は業者に任せ、じぶんは死ぬまで自主的な早朝のパトロールを続けると決めたとか、そういうふうに、ほんらいは別々のものとして行為が分かれるべきだったのである。しかし彼は、ほんとうであれば手段を選ばず目的物に到達することがまず優先であるところにじしんへの罰となる意味をかぶせてしまった。娘の真のすがたを、後悔とともに求めながら、同時に見たくはないという複雑な心理が、この行為には見えるのである。

 

ところで「真のすがた」とはなんのことだろう。これは以前嵐山が回想シーンでいっていた「本当の顔」のことだ。罪を共有している人間しか知らないという、あれのことなのだ。嵐山のあの言い方では、すべての人類は罪を犯しており、それを共有しているものしか、「本当の顔」は知らない、というはなしになる。これは危うい考えで、宗教的な原罪の思考法を採用するのでない限り、現実にはむしろ、罪に至るまでの前段階というものがあるので、罪と並ぶそのひとの顔はむしろ二次的になる。彼は、娘を失い、知らなかった娘の相貌を知るという経験に悟り、この悲観に陥っているのだ。

この嵐山の考えかたの根本にみえるものは、「本当の顔は隠されるものである」というものである。ニュアンス的にもこれはじっさいそうだろう。だが、なぜひとは「隠されているもの」を「本当」だと感じるのだろうか。外では明るく社交的にふるまっている人物が、実は犯罪をしていたというとき、なぜひとは、その隠されていた「犯罪者」の顔を「本当」だとおもうのだろうか。なぜ、明るく社交的な姿が「本当」で、犯罪者の姿が「仮」ではないのだろう。これはおそらく、社会生活を営むうえで、関係するものとの距離や数などによって、わたしたちが複雑にペルソナを使い分けているという、誰しも理解可能な経験によった直観であろうとおもわれる。社会生活は、基本的には「偽」なのだ。そして、究極までその社会生活的な関係性を剥ぎ取ったときに、「本当」がようやく露出する、そういう見えかたが、わたしたちにとっては一般的なのだ。

こうしたことで、その人物の「本当」は「隠されるもの」となる。厳密には、「隠れているもの」となる。そして、罪を犯すとき、ひとはその相を「隠す」ことになる。論理的にはここは結びつかない。犯罪は隠れて行われるものだが、隠れて行われるものすべてが犯罪ではないからである。だが、嵐山は刑事である。日々法と犯罪に触れるなかで、この差はほとんどなくなっていったのだ。決定打は娘の死である。そうして、彼のなかで「本当の顔」は「罪」と同居するものになったのだ。

しかし、これこそがまさしく、九条のいう二元論なのだ。平野啓一郎は、こうした社会生活における個別のペルソナが、それぞれにすべてわたしそのものであるという分人主義を提唱している。わたしたちは、西洋的な個人の感覚の度移入とともに、「本当のわたし」を想定することに慣れてしまった。だから、日々複数のペルソナを使い分けることで歪みを覚え、ストレスを抱えることになる。だが、そもそも「本当のわたし」というのは、あるのだろうか。場面ごとに異なるそれぞれの顔は、どれもわたしそのものなのではないか。これが分人主義である。

 

 

 

 

 

 

問題は、真相、つまり「本当の顔」を想定することに意味はあるのかということだ。嵐山は経験的に意味はあると考えているだろう。しかし九条ではそうではない。九条がいっているのは、ある事件に関わる人間を「被疑者」と「協力者」のふたつに分類する、刑事の思考法のことだ。以前書いたように、これはある瞬間の世界の状況を切り取った無時間モデルなので、専門家が事物を定量的に調査する際の、取り扱いに注意が必要な思考法である。じっさいには、ひとはつねに被疑者であり協力者である。このことについてはすでに第10審で書いたことがある。家族の距離②のとき、兄の蔵人と対面した九条がいった「あなたには見えなくて私には見えてるものがある」というもののことだ。これが、星の王子さまの「大切なものほど目に見えない」を想起させるというはなしだ。

 

 

 

 

 

 

星の王子さまは、大人になることで失われるある世界の見えかたのおはなしだ。ひとのありようというものは、「生きている状態」と「死んでいる状態」に分けることができるが、「生きている状態」と「死んでいる状態」を合わせてみても人間にはならない、そのとき失われているものの物語が、星の王子さまなのだ。この「生」と「死」は、それぞれ言葉、ロゴスである。嵐山の無時間モデルの世界観はここに属する。法律もまた言葉である。だが、それらの言葉は、それが成立した瞬間、なにかをとりこぼすことになる。九条はそれを拾うものなのだ。

その経験に同情の余地はあるが、嵐山が娘の「本当の顔」にこだわる限りで、彼はむしろ娘の、目に見えない、言葉にできない「大切なもの」を見落とすことになる。暗証番号という「真相」をあれほど強く求めながら業者にはゆだねない彼には、そのことがもしかするとわかってもいるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第116話/あの構え

 

 

 

 

ジャック対宿禰が本格的に開始!最初の接触で宿禰がいきなり僧帽筋のあたりを欠損、続いて意外性を含む蹴り技では、踵を深く切られてしまう。そのときの様子がゆっくり描かれる。宿禰は、やはり「踏む」動作として蹴りを行っており、中足ではなく踵でジャックの顔を蹴り上げたようだ。それをジャックの上あごの歯がキャッチした感じだ。

 

それまでは横蹴りや、あるいは四股の流れの踏みつけ以外では、あくまで「蹴りもできる」というような程度の描写にとどまっていたようにおもわれる宿禰の蹴りだが、こうして見るとスピードものっており、堂に入った攻撃である。ジャックは上あごでこれを受けとめているわけだが、脳への衝撃はどうだろうか。

この瞬間にジャックが歯をあてがったことは、バキたちはみんな気付いているようである。血が噴き出すのを見て、観客たちはようやく事態に気が付く。ジャックは血を吹いているが、あんな瞬間に宿禰の足からこれだけの血が出るなんてことあるかな。これジャックじしんの血なんじゃないの。

 

ここで宿禰の目つきが変わる。歯を剥いて、怒りの表情だ。そうして、拳に作った右手を下方に向けて、肘を大きく上のほうに引いていく。金剛力士像の構えなのだ。これはすでにオリバが宿禰戦で見せているものである。光成もそのことに気が付く。オリバは、宿禰のぶちかましを受け止める、あるいは打ち落とすつもりでこの構えをとったわけで、その意味ではこれは闘争心にあふれていながら、同時に防御の構えでもある。ジャックがいまのところカウンターに集中しているのを受けてのことかもしれないし、あるいは、光成の見たとおりに、オリバ戦からなにかを学んだ可能性もないではない。

 

と見せかけて、次に動いたのはやはり宿禰だ。いっしゅんジャックの視界から消えてるんじゃないかというほどのとてつもなく低さにまで沈んで攻めかかる。ジャックは歯を見せるが、口を開いたままの彼の顔面に、宿禰の強烈な拳がめりこむ。まだ頬のところを殴っているからいいが、これバキのように顎を打っていたら終わっていたかもしれない。

そして、重要なことは、このあとでも宿禰の拳は無事だということだ。これまでは、接近するなり、あるいは顔のあたりに手が近づくなり、宿禰は破損していた。それが、まさしく歯の間近まで手をもっていきながら、なにも起こらなかったのだ。なんらかの理由で「嚙み」にうつれなかったか、あるいは宿禰の握力でかためた拳はとてつもないかたさだろうから、最初からジャックは拳を嚙もうとはしていないのかもしれない。

だが続く一撃は、すでに破損していて出血も続いているようである、包帯で巻かれた左の張り手だ。これもジャックはまともにもらい、かなり効いているようだ。宿禰の手に新たな怪我はなさそう。張られる瞬間のジャックは、バキの0.5秒拳のように、意識がないようでもある。

 

いい感じに同じくらいのダメージを互いに抱えたところで、ふたりが組み合う。ジャックは先ほど噛みついたのとは反対側の肩というか僧帽筋に深く嚙みつき、宿禰はついに両手でジャックの肋骨を捕るのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

力士にとって小指は命、ということだったが、やはりそこには「手のいちばん端にある指」ということ以上の意味はなかったようである。痛みもまだあるだろうし、ふつうは慣れるのに時間がかかるだろうが、宿禰はふつうに負傷した左の薬指から先でジャックの骨をつかんでいる。とりあえずは「問題なし」とみていいのかもしれない。

 

前回考察では、ジャックの嚙道は相手の動作に対応するものとして技術体系が構成されているのではないかというはなしをした。それは、多かれ少なかれどんな体系もそういうものだが、相手に対応したものであるにしても、ふつうはそのあとにどういう動作をとるのかというところに豊かさが宿ることになる。つまり、もっともニュートラルな構えでいるものが、相手の前蹴りをさばいてじぶんの側面に流したとき、脇腹に逆突きを打ち込むなり、流した足に下段蹴りを押し込むなり、追撃を警戒して距離をとるなり、無数の選択肢がそこでは生じることになる。ジャックはそうではない。とるべき行動はひとつだけ、嚙むことなのだ。空手でいえば、右の正拳突きしか使用できないような条件で、それを決定打とするような状況にどうやってもっていくか、ということに、すべての行動の可能性がつぎこまれているのである。そこに至るまでの道筋をいかにして構成するかという、いわば逆向きの思考法なのだ。

 

というふうに考えたわけだが、今回ジャックは宿禰の右の拳、そして張り手、さらに肋骨捕りをすべてゆるしている。最後の肋骨は、接近したうえでじぶんもガブリしているので別としても、どちらも挑戦的に顔を狙った技であったにも関わらず、しかも突きに張り手という、蹴りに比べたら意外性もない攻撃であったにも関わらず、ジャックはなにもしていない。もっといえば、ジャックは拳で殴られる直前、嚙む前のような動きを見せてさえいるのである。

両者ひとことも言葉を発していないのではっきりしたことはわからないが、ジャックが「嚙道」を試している可能性も、ここにはないではないかもしれない。対応するものとしての嚙道は、じゅうぶんに機能している。では対応できなかったばあい、嚙道はどうなるのか? その先に用意があるのか、それともたんに興味がわいただけなのか、それはわからないが、現実問題、闘争はひとつの動作に別のひとつの動作がただ対応するだけのようなシンプルなものにはならない。それも含めて嚙みつきにもっていくのが嚙道なのだろうが、ジャックはここでそれを試す気になったのかもしれない。いってみれば「構え」が成立していない不安定な状況から持ち直す方法を、いつかは見つけなければならないのである(すでにそれを持っていて、披露しているだけかもしれないが)。

 

もうひとつ考えられることといえば、宿禰の、金剛力士の構えである。オリバがあの構えになったとき、覚えている限りでは特にその深い分析のようなことはなかったとおもうので、直観的な感想に頼ることにするが、この構えはいかにも「カウンター」の構えなのである。いまからタックル気味に迫ってくる敵を上空から振り下ろす拳で撃墜する構えなのだ。しかし、カウンターとは相手の動作に対応するものである。相手の前蹴りが出るとほぼ同時に斜め前に進み出て突き出される正拳、蹴り上がった上段廻し蹴りの軸足を刈るようにシャープに削る下段蹴り、こういうものは、考えていたのでは間に合わない。日々の反復練習が、肩や腰、また重心の移動などから次にやってくる動作を身体的に予感させ、勝手にからだを動かすのである。だから、カウンターのうまい選手というのは非常にリラックスした構えをとっているのだ。前回ジャックが見せた獣の臨戦態勢は、「いまから嚙みつきます」というメッセージ付きの奇妙なものだった。これは宿禰に揺さぶりをかけたはずだが、ジャックが、たたかいの流れを嚙みつきの動作に着地させることに全技術を投入するものだとすると、これは実はウソをついてはいないわけである。ところが宿禰はさらに一段階メッセージを上書きするのである。つまり、「いまから嚙みつきにくるのにあわせて打ち落とします」というメッセージになっているのだ。

考えてみればこれはけっこう不思議というか、あるいは見たままというか、おもしろいことになっている。ジャックは、「いまから攻める」というメッセージが強く感じられる構えをとりながら、それに誘われるようにやってきた宿禰の踵を切って「対応」した。次に宿禰は、「いまからカウンターをとる」というメッセージが充実した構えをとりながら、じぶんからすばやく接近してぶん殴っているのである。つまり、互いに、メッセージとは真逆のことをしているのだ。こういうわかりやすいメッセージは、相手を揺さぶるものである。その意味では、たんに高度な技術戦が行われているだけなのかもしれない。だが、ひとついえることは、宿禰はジャックのあとにこれを行っているということだ。メッセージ性のある構えをとってその逆をやるという、言葉にすると陳腐だが、揺さぶりを受けたうえでは効果絶大の方法を、宿禰はジャックの行動を真似することでやっているのかもしれない。そもそも、この金剛力士の構えも、宿禰は「金剛力士」と認識していないかもしれない。つまり、これは、「あのときのオリバの構え」なのかもしれないということだ。経験において彼はバキたちと比べるとかなり遅れをとっている。資質はじゅうぶん、トレーニングにもすきはない。ただ経験だけが足りないという感じなのだ。このことが、彼に他者を真似させるのかもしれない。

 

おもえばこのたたかいは勇次郎戦から地続きである。彼は、勇次郎と対することで世界は広いということを悟った。くりかえすように、勇次郎はあまりにも特殊な存在であるから、それで世界もなにもないのだが、ともかくそういう実感が訪れた。「じぶんは勇次郎ではない」という実感が、「未知」というかたちをとって彼に訪れたのである。それは、物議を醸したあの描写についていえば、じしんの雌を感じるということになる。だから宿禰はそれを否定するために即座に女の子とイチャイチャすることにした。ホモソーシャルに組み込まれつつもホモフォビアを抱える男たちは、じぶんは男ではなく女が好きなのだということを自他に示すために、下ネタをはじめとした肉欲の表現に向かうことになる。それは宿禰があの冒険家のように感じたということを意味しないが、そうした自身の「非勇次郎性」を感じ取ったとき、事実として彼がとった行動はイチャイチャだったのである。

しかしその自己治癒の方法は、勇次郎のいないところでだけ有効な、かりそめのものだ。彼はファイターとして勇次郎を、未知を克服しなければならない。その決意は、反射的なイチャイチャとは別に、リアルな計画として彼のなかに浮かび上がっているだろう。そこで思い至るにちがいないのが、端的に経験不足なのである。当然、世界は広いのだ。勇次郎がいてもいなくても、それはそうなのである。だったらまずそれを超越しなければ、はなしにならない。こういう考えが、宿禰のなかに浮んでいるのかもしれない。それが、圧倒したオリバや、いまたたかいつつあるジャックから、なにかを学習させるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『通訳者たちの見た戦後史』鳥飼玖美子 新潮文庫

 

 

 

 

 

 

「日本人は開国とともにやってきた英語と、どう向き合ってきたのか? アポロの月面着陸の生中継で同時通訳者としてテレビデビューし、NHKの英会話番組に長年出演する著者が、自らの来し方と先人たちの軌跡を辿り、戦後秘史を紐解く。進駐軍との交流から英語教育論争まで、英語との付き合いは日本現代史そのものだった! 第一人者による、体験的英語論の必読書」Amazon商品説明より

 

 

 

鳥飼玖美子先生といえば、ぼくではいちに揺れ動く英語教育や大学入試にかんしてまず意見を求められるような存在である。けっきょくのところ、じぶんで好きなものを読む以外にまともに英語に向き合ったことはなかったので、特に『言語接触』を読むまで、そして仕事で専門書エリアに就くまでは教育にも無関心だったから、こういう狭い認識になるのだろう。だから、いつか読んだひつじ書房の本ではじめて書いてあるものを読んだ気がするのだが、正確なことはわからない。だが、じっさいには鳥飼先生はかなり有名なかたである。通訳者としてはあのアポロ月面着陸のときにデビューし、立教大学で新しい学部を立ち上げたり、万博のときに放映されたテレビ番組で通訳兼司会みたいなことをしたり、「百万人の英語」などテレビやラジオで英語講座をもったり、とにかくいろいろなことを精力的に行ってきたバイタリティのかたまりみたいなかただ。本書はその鳥飼先生が、じしんの英語にかかわる人生を語りながら、同時にそのまま戦後史といえるような激動の世界を見ていく、おもしろい本だった。なんだかわからないがぼくはフォレスト・ガンプを思い出してしまった。というのは冗談ではなく、鳥飼先生はとにかく行動力に優れているので、思いついたら即行動に移すようなところがある。フォレストがふわふわ羽毛が舞うごとく歴史に流されていたのとは本質的に異なるが、なにかその、もっと大きな物語と遠く一致しているようなぶぶんには、共通するものが感じられるのだ。ご本人はなんでもないようなことのように書いているが、冷静に考えるとすごい決断が行われている、というようなことがずっと続くのである。そうした人生の分岐点には、ある種の偶然が個別に働いている。ミクロ的には、その決断は別に必然というものではなかったのである。だが、ご本人も最後に書かれているように、これを戦後史的な文脈で読み直すと、必然、もっといえば「コーリング」のようなものが兆してくるのである。


いまでは通訳者と聴いてそう感じるひとも少ないのかもしれないが、それこそ月面着陸のころは、まったく言語として異なっている英語と日本語の同時通訳などということは、ちょっと不可能だろうというふうに考えられていたようである。比較的似通った言語が隣り合う欧州でも、同時通訳がはじめて認知されたのはニュールンベルク裁判だという。これが、日本ではじめて職業として存在が認識されたのが、アポロ月面着陸だった。というのは、それまでは黒子として番組の背後で情報だけを流していただけの存在だった通訳者が、このとき、番組の構成上、臨場感を出すために引っ張り出されたというのである。要するに、アポロが着陸するといっても、年がら年中「着陸」が行われているわけではないので、音声だけで映像がない場面もある。テレビ番組として見せるものがない、というところで、通訳者が日の光を浴びることになったのだった。

鳥飼先生の書いていることである、それだけで読むにあたいするすばらしい内容で、しかもやたら注が充実しているので、細部の勉強にもなる。だが本書いちばんの強みは、やはり鳥飼先生のはなつ、こちらの勉強意欲、もっといえば生存意欲を賦活するようななにか陽性のパワーである。ご本人はそういう扇情的ないわれかたは好まないかもしれないが、なんというのかな、先生はぜんぜんなまけないのである。あとがきにあるのだが、読売新聞の『時代の証言者』という連載で取材を受けた際に、記事がつくられるにあたって、執筆者が当時の女性の大学進学率を含めていて、じぶんで驚愕したというエピソードが非常に興味深い。鳥飼先生のころの女性の進学率は4.6パーセントだったというはなしなのだが、このことを本人はそのときまでまったく意識してこなかったというのだ。しかし、当たり前のことだが、こうした女性に対して日本の組織がとても快適な環境を用意するということはないわけである。こうしたはなしからしても、このひとがいかにして困難を努力ともちまえのバイタリティで打ち砕いてきたかということが想像できるのである。

鳥飼先生はテレビだと爆笑問題・太田光が出ている「太田光のつぶやき英語」でときどきお見かけすることがある。ぼくもときどき見るが、たんに英語番組として優れているだけでなく(ツイッターのつぶやきとかを拾って解説するので、口語やスラングに触れることができるのはかなりいい)、政治や思想のはなしもけっこう深く取り上げていることがあり、かなりおもしろい。単語の暗記や文法の勉強に疲れたときなど、ちょっとした刺激になる感じのいい番組だ。
 

 

 

 

 

 

 

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第42審/事件の真相②

 

 

 

 

京極がホテルのベッドに全裸・うつ伏せで横になっている。背中の刺青、不動明王?がぜんぶ見えている。キツめの煩悩にとらわれた人間を力づくで帰依させたりするパワー系の仏様らしい。やせがたに見えた京極だが、こう見るとまあまあガタイもいい。

 

部屋にいるのは「消費の産物」笠置雫がAVデビューした会社の小林社長だ。ヤクザは記名が必要なホテルには泊まれない。かといって偽名を使うと詐欺になる。だから基本的にラブホテルにいることが多いという。このホテル暮らしは小林が計らったものなのだ。

小林は別に脅されているというものでもなさそうだし、げんにヤクザものが必要になることも多いのかもしれない、京極とはうまくやっているっぽい。京極は、頼まれていた件を片付けたという。しずくの義父の、外畠のことだ。しずくは超人気女優だった。これをつぶした外畠を許すわけにはいかないのだ。行為じたいは壬生が行ったが、股間を焼ききって宦官にしてやったと。その写真も京極は確認して、一生人工管で排泄だという。小林はそれで外畠が生きていることを知り、くちを割らないか心配になるが、殺せってことかという京極に気圧されて前言撤回、ちょっと前に黙って差し出されたコップに水を注ぐ。京極は小林にまではぜったいたどりつかないと約束する。あのとき壬生は、あくまで外畠がデリヘルの女の子に手を出したということで制裁を加えていた。だから股間なのだ。外畠の理解として、この出来事にしずくはからんでおらず、当然小林の名前が出てくることもないのである。

京極が人気女優を1日貸してくれという。京極の相手をするわけではなく、妻子持ちの社長とハメ撮りさせて恐喝するのだと。小林は用意する気まんまんだが、女優の意思は、ないんだなあ・・・。

そこから会社を乗っ取って、九条には法的ホワイトニングをやってもらう計画のようだ。京極ならまわり他の優秀な弁護士もいるだろうに、ここはやはり九条にこだわるのだな。

 

外畠と衣子の描写だ。セックス大好きの外畠がナニを失ったわけで、廃人になってるかともおもわれたが、おもったよりぜんぜんピンピンしており、いつも通りである。毎日だらだらして働いてもいない。衣子にいわれて生活保護受けるというが、これもずっといっていることのようだ。衣子が怒って、事後報告してくれという。財布から金を抜いてパチスロの日々らしい。外畠も怒って衣子を殴るが、衣子もぜんぜん負けてない。これは、やっぱり衣子は衣子で、外畠との性的関係に依存していたということなのかな。それがなくなってしまって、いよいよ「こいつなんでここにいるんだろ」となってしまったのかも。家を追い出された外畠も、全ての元凶は股間が惨めになったせいだと考えている。やられたらやりかえす、ということで、外畠は行動に出る。といって彼は壬生を見てはいないので、彼に制裁を加えたデリヘルのオーナーの車に火をつけて報復するのだ。

 

しかしこの行為は防犯カメラにうつっており、外畠はすぐ捕まって嵐山から取り調べを受ける。オーナーというのは、「家族の距離」で、壬生のスパイとして菅原を探っていた久我である。連載時には「こが」というふりがなだったが、今回は「くが」になっている。

嵐山は「車の持ち主を調べた」といっているので、車の持ち主である久我が通報したわけではないっぽい。たんに、燃えすぎて大事になり、119番されたということなのだろう。

壬生を追っている嵐山にはいい糸口である。外畠は久我の車に放火した。その久我は壬生の部下だ。ここから壬生に迫れるかもしれないということで、嵐山が出張ってきたわけだ。

というわけで突かれきった外畠はすべてを嵐山に話したらしく、久我が逮捕される運びとなり、即座に九条の出番となる。久我は「職業安定法」違反で捕まったようだ。これは、公衆道徳上有害な業務につかせることを目的でスカウトすることを禁止するものだ。ふつうに通る職業が「有害」というのもなんか変だが、ともかく捕まった。だが久我は冷静に、これは別件逮捕だという。スカウトのことではなく、外畠への暴行について取り調べを受けたと。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

嵐山の娘・信子の回想からはじまった本シリーズだが、表面ではいつも通りの複雑な展開が進行するようである。

 

外畠が京極からの報復を受けるであろうことは以前から考えられた。じっさい、彼は壬生に股間を燃やされたわけだが、その理由は、デリヘルの女の子に手を出したからということになっていたのである。それが、意外というか、因果応報というか、外畠の弱者性、けっきょくはやられる側であることを示していたようにもおもわれたが、今回判明したように、この制裁の主体性はやはり京極にあって、動機はしずくの件だったわけである。だから、経緯としては、まず外畠のしずくに関する慰謝料云々があり、そういうことが再び起きてはいけないので、京極側には制裁を加える必要が生じた。京極が外畠の股間を焼くことで、彼は別になにかを得ることはない。小林も、特に損害が回収できるわけではない。だからこれは、丑嶋が小川純を葬ったのと同じ理屈であるはずである。しかし、これは同時に、小林のケツモチとして京極が行ったものであるということが表に出てはいけない件でもあり、パフォーマンスとしてはなかなかアクロバティックなメッセージ性をもつことになる。「以後このようなことが起きないように」という、“メンツの文脈”でいえば、表ざたにはならないにしても、丑嶋がハブを殴った件が広まったようにして、「なぜかみんな知っている」状態が望ましい。ところが、小林はそれを望んでいない。特に外畠はアウトローの世界に片足をつっこんでいる半端者なので、「なぜかみんな知っている」ような情報を耳にする可能性は高い。そのために、京極は壬生を使ったはずである。これはたまたまなのだろうが、外畠は久我がオーナーのデリヘルでドライバーをしていたことがのちに判明したわけである。そういうことなら適当な理由をつけて壬生にやらせてしまおうということになったにちがいないのだ。この行為が制裁として意味をもつためには、外畠がなぜこうなったのかを「なぜかみんな知っている」状態が望ましいが、同時に、「なぜかみんな知っている」はまずい。これが成り立つためには、情報を受け取る側に論理的な飛躍をしてもらう必要がある。つまり、現実としては外畠が「京極の息のかかった会社にちょっかいを出したこと」と「股間を焼ききられたこと」は無関係でありながら、関係性を遠く感じてしまうような状況である。この飛躍を埋める役を、今回は壬生が担ったわけである。外から事態を見ているものは、壬生が関わっているという一事をもって、無関係のふたつの現象を無意識に結び付けてしまうのだ。

 

京極は、全裸でベッドに横になりながら、空のグラスを音をたてておくことで、小林に水をいれることを要求する。これは強者のしぐさである。ただ、絶対的な強者というよりは、そばに弱者がいるときの、相対的な強者のものだ。ここでグラスを置く音が「空である」という意味は、そばに小林という弱者が受信者として存在することではじめて成立する。関係性のなかにおける狭義の「空気」は、このようにして強者がつくりだすものだが、その「空気」もやはり、それを読むべきものが存在していなければ意味がない。飲み会のあと、「空気を読んで二次会にも参加する」という状況があるとして、この「空気」は、感覚としてはまさしく空気として各人から等間隔のところにつかみとれないものとして現れているようだが、じっさいにはそうではない。それを「読むもの」がいることではじめて成り立つのだ。だから、飲み会の参加者が「これは二次会にも行ったほうがいい空気だなあ」ということを誰一人として感じなかったとすれば、そこにはそういう空気はないことになる。当たり前のことである。もし誰も感じていないのにその空気があるのだとしたら、逆に「これは二次会には行かないほうがいい空気だなあ」という空気も同時に存在可能ということになってしまう。

極端なことをいえば、強いとか弱いとか、そういう、ある程度量的な物事は、どんなときでも相対的なものだ。しかし、執拗に小林に気付くようグラスを鳴らし続ける京極からは、そこへのこだわりのようなものが見られるわけである。要するに、じぶんを強者たらしめるのは弱者であるお前たちだ、ということだ。こだわるというよりは、その自覚があるといったほうがいいだろうか。彼は、弱者に弱者としてのふるまいを貫徹させることで、じしんの強者性を強化する。おもえば壬生におもちを殺させた件にも、壬生を屈服させるとかじぶんの強さを示すとかいうことより、彼におのれの弱さをつきつけているようなぶぶんがある。

 

外畠にかんしても似たようなものが感じられる。彼は、小林には外畠の目が向かないであろうということを、じっさいにはそこまで深く考えていないのかもしれない。外畠の近くにたまたま壬生がいたことも、別にどちらでもいいことだろう。重要なことはただ、外畠のような、彼からすれば小さい存在を、鬱陶しい虫を潰すように不能にしてしまうということだ。あとのことは弱者が勝手に「解釈」すべきである。そして、おそらくげんにそうなる。その仕組みが効果を発揮するのは壬生がいるからだが、それも、京極はあんまり深く考えてはいないのではないだろうか。これを受ける弱者は、みずからの弱さをじぶんの手で再生産することになる。小林はグラスの音には気付かなかったが、ほんらいであれば彼はそれを耳にし、みずからすすんで水を注ぎに行かなければならなかった。弱者が、積極性をもって「じぶんは弱者だ」ということを表現しなければならないのである。これはやはり壬生とおもちの事件ともよく似ていることだ。あのときに京極は別になにもしていないわけだ。形状としては、壬生がみずから、「じぶんは京極には逆らえない」ということを、おもちを経由して表現したものになるのである。

これは、げんに京極が強者であることからはじまっているらせん状の強化システムである。権力者のつくりだす「空気」を、そうでないものたちが読むことで、その権力はさらに強くなる。ただ、ここには危うさもある。つまり、空気の読めないものがひとり交じるだけで、事態はそうとうに揺さぶられるのだ。いってみれば外畠が今回その役目を買ったことになる。彼はあまりに無力だったために、なにも起こらなかったわけだが、メンツ云々を考慮したとしてもあまりにもうまみがないこの制裁を京極が行うのは、こうした空気の読めないものがもたらすものを知っているからかもしれない。京極に限らず、ある程度までは、メンツ云々でヤクザものが行動に出るときというのは、基本的にKYを粛清しているパターンが、考えてみれば多いようである。

 

そしてそのKYポジションの外畠が、嵐山の作戦通りにいまは動いていることになる。久我が捕まった理由は労働安定法だが、このあたりの空気感はよくわからないが、ある程度までは「自明」なのではないかとおもわれる。逮捕のネタはいくらでもあるがキリがないのでしていないだけなのではないかと。ただ今回は、外畠という切り札があるので、嵐山はとりあえずこれで逮捕して、そのあとで暴行の件を詰めるという邪道を採用しているわけである。これはいってみれば、そうでもしなければ壬生や、嵐山の念頭にはないだろうが京極には接近できないということでもある。それだけきれいに「ホワイトニング」されているということなのだ。ただでさえ「空気」というものは、それの源泉であるところの強者の「強さ」がわからない場合には、意味をもたないだろう。あなたが会社の飲み会にいって、部長がかなりご機嫌で、これはどうも二次会も行ったほうがよさそうだなあと考えているとき、そこにまぎれこんだ無関係のぼくは、「は?なんでこんなしらないおっさんにあと二時間も付き合わないといけないの?」と、当然なるのである。そこでは、ある種の前提事項や文法が共有されていなければならない。それだけに、ただでさえ京極の発するメッセージは読み取りにくい。そのうえにかれはホワイトニングをほどこす。彼はその仕事を九条にやらせたいようだが、そうでなくても彼は、弱者に弱者的なふるまいを強制することで自身を強化しているので、彼のふるまいがそのままに警察の目にとまるということはほぼないのだ。これを崩すのが、KYの外畠であり、また法的アプローチとしては異質な別件逮捕ということになるのである。

 

タイトルの「事件の真相」は、おそらく嵐山が信子の件を調べた結果目撃したものを指すとおもわれるが、こう考えると、彼が探し求めているものは、まさに「真相」という大形な表現がふさわしいものということにもなる。壬生はともかくとしても、京極は、そもそも姿すらぜんぜんおもてに現れない。現れるとすれば「気前のいいヤクザ」としてである。こういうものを、嵐山は追っている。久我の担当になっている以上、九条は嵐山と対決することになるとおもわれるが、依頼人の側に立つという九条にとってはけっこう判断の難しいものになるかもしれない。それは、ただヤクザがこわい、面倒であるというようなこととはまた別のはなしだ。つまり、京極のようなものがからむときには、依頼人‐弁護士というような単線的なはなしにならないからである。こういう、物語そのものがぶつかってくるような事件に九条はどう対応するものなのかが、今回はわかるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第115話/不可解な立ち合い

 

 

前回↓

 

 

 

バキ道年始一発目、嚙道を極めたジャック・ハンマーと古代相撲、野見宿禰の対決だ!

 

 

ジャックが拳をゆるく突き出した。前回はチャンピオンを電子で読んで、今回は紙版を買ったのだが、電子でみる前回のジャックの顔はきれいだが、本誌でみる今回のジャックの顔には汚れというか、たぶん日中に接触した痕跡がみられる。

そもそもこのゆっくりとした拳にかんしては、動機がよくわからない。ジャックがどういうつもりでそうしているのか不明なのである。ともあれ宿禰は発進した。手はついていないが、突進しやすい前傾姿勢から、ジャックの様子をみるまでもなく、即反応したのである。先ほどの短いたたかいで彼は小指を奪われてもいる。試合の前には改めてジャックを讃えていた。いっさいの遊びを排除して叩きのめしにいったというところだろうか。

 

角度的になにが起きたのかはよくわからない。両者がすれちがうのとともに、血がふきあがる。宿禰の左肩、というか僧帽筋のところだ。実況や観客は驚き、不可解な出血であるとする。なかには「噛んだ!!?」といっているものもいるが、その驚きかたがよくわからない。ジャックの試合はむかしからこうだし、彼が相手のいちぶをかみちぎることはぜんぜん想定できることのようにおもえるのだが・・・。

だが、これは要するに、動きが見えなかったということのようだ。小指にかんしては食べてしまったが、今回のジャックは肉片を吐き出す。それを見て、実況たちは嚙みつきが行われたことを理解する。まあ、たしかに、試合がはじまっていきなり噛み付くなんてことはこれまでのジャックでもなかったことではある。薬物による身体強化、ひとを回転させるアッパー、などを経たあとで、誰も思いつきもしないような必殺の攻撃として嚙みつきが出てきていたようなところは、たしかにあった。そこに加えて動作が見えなかったのだから、驚きがあっても不自然ではないかもしれない。

 

歯を剥きながら、ジャックが上体を倒していく。獣の臨戦態勢だ。歯を見せているのもそうだが、これは「これから嚙みます」という表明になっている。その意味では、これは花山の構えと似てもいる。花山の構えも、「これから殴ります」というメッセージを含み、またげんにそうするものだからだ。しかし嚙道は格闘技術であるから、おそらくこれはそう単純なものではないとおもわれる。つまり、対戦者は、これはメッセージそのままなのか、それともフェイクなのか、ここで揺さぶられるのである。

だがそれは宿禰にもあるものだ。つまり、その体型と、力士であるという事実が見落とさせる古代相撲の「蹴り」である。これは初代と当麻蹴速の対戦でも使用されていたらしい。ふたたびほぼ同時に前に出たところで、ほとんど前蹴上げのようにして、宿禰がジャックの顎を真上に打ち抜くのだ。腹が出ているぶん、仮に蹴りをするのだとしても、四股とも動作が近い横蹴りが多いのだろうとおもわれたが、前にもふつうに上がるようだ。柔軟性は言及するまでもない。この体重を支える脚なので、威力もそうとう期待できる。

しかし蹴った宿禰は驚いている。その足の踵が裂けているのである。たぶん、踵で顎を蹴り上げる感じの攻撃だったんだろうけど、ジャックはそこに歯を引っ掛けるようにして切ったのだ。

ジャックに蹴りのダメージはあるのかどうか、いずれにせよ、いきなり血まみれになる宿禰なのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

ちゃんとジャックが強くてよかった。シコルスキー戦を最後にあまりいいところなかったから・・・(ピクル戦はわりと好きだけど)

 

今回は「獣の臨戦態勢」という、バキ界では慣用句のようにもなっている表現が見られた。ジャックやピクルのように嚙みつきをじっさいに行うものでなくても、ちょっといま具体例が出てこないけど、獣のような獰猛さや俊敏さでいままさにおそいかからんとするような場面では使われがちである。

しかしながらジャックがげんに嚙みつきを実行するものであることと、今回の構えは、実は直線では結ばれないのである。これが成立するのは通常、圧倒的実力差があるとき、またその局面がかまえをとるものにとって有利であるときなどに限られる。浦飯幽助の「右ストレートでぶっとばす」だ。花山が「いまから殴ります」ということがまるわかりの構えをとるのは、ぼこぼこに殴られても問題なく反撃できる体力と耐久力があり、なおかつ、その構えによる打撃によって一瞬で勝負がひっくり返ることが確約されているからである。

げんにジャックと宿禰にはそれだけの実力差があるのだ、ということならはなしは別だが、たぶんそういうことはない。ジャックもまた宿禰を警戒しているはずだ。そのうえで実行されるこうした構えは、撒き餌にほかならない、というはなしなのだ。というより、宿禰はそこで「撒き餌かもしれない」ということを考えないわけにはいかないということなのだ。直前の肩をえぐった攻撃によって、宿禰のなかでジャックはさらに油断ならない相手になった。こののちでは、この構えがほんとうにただの「いまから嚙みます」なのか、「いまから嚙みます、と見せかけています」なのか、迷わずにはいられないのである。豊富な技術を備えているということを相手に痛感させることそれじたいが、相手を惑わす補助的な攻撃になっているのだ。

これに対抗するために、宿禰もまた「意外性」を持ち出した。つまり蹴りのことだ。力士の体型を前にしたならば、彼がじっさい「蹴る」ファイターなのだということを理解したあとでも、うっかり忘れてしまいそうな気もする。ここですぐに宿禰が「蹴り」を出したのは、ジャックの豊かの技術の海に対抗したものであると考えられるのだ。けれども、ジャックの撒いたこの構えは罠でもあったわけだ。ジャックが蹴りを予想していたとはいわないが、低い姿勢で嚙みにくるものを下から打ち上げる、もしくは上から打ち落とすタイプの打撃がくるとは考えていたのではないだろうか。宿禰はジャックのメッセージ性豊かな構えに揺さぶられている。次にくるのが「嚙みつき」ではない可能性はじゅうぶんにある。こういう状況では、宿禰はこれをよけようとはしないかもしれない。ロングフックのような、嚙みつきがくると思い込んで回避したところを狙う別の攻撃がくると、宿禰が予想しているとジャックは予想しているかもしれない、宿禰はそう考える。だから、ひとまずは、接近してくるものをストップさせる方向に動きをとるのではないか。ジャックはそこに歯をひっかければよいのだ。

 

このような複雑系のなかに宿禰をつきおとしたのは、日中のやりとりと、最初の接触だ。日中の喧嘩では、不用意に張り手をして小指をとられてしまったと、宿禰は反省しているかもしれない。それにしても、当たり判定が雑なむかしのゲームばりに、接触した瞬間にその部位を嚙みとるというのはふつうではない。そのことを通じて、宿禰はジャックの背後にひかえる「技術体系」を痛感した。それが前回の述懐である。そして試合開始、ゆるく突き出された拳に即座に反応する宿禰。このスタートもじゃっかん謎ではあるが、宿禰としてはおそらく、感じとしては「空気を読まない」方向に舵を切ったものとおもわれる。どういうつもりだかわからないがジャックがのんびり拳を出してきた。だが「拳が突き出ていること」や、それが「ゆっくりであること」をすべて無視して、ぶちかましたわけだ。しかしそれを、ジャックはふたたび嚙みつきで迎えたのだ。ここまでで起こったことは、それがどのような種類の動きであれ、接近即嚙みつきということなのである。張り手は、不用意だったかもしれないうえに、顔に開いた手を預けるという、ある意味嚙みつきやすい状況でもあった。だとしても瞬間的に指をもぎとるというのは並大抵ではないわけだが、さらに試合では、空気を読まず、得意な正面からの激突という位置関係で、同じことをやられたのである。

この二度の経験が、宿禰に、ただ期待だけするものとしてのジャックの「技術体系」を、うす気味わるいものにもしたのである。そこでさらに警戒度を高めた宿禰は、書いたように意外性をもつ蹴りでもって対応した。だがそれすらも嚙みつきによって捕捉されてしまったのだ。

 

ここまでくると、ジャックのもっている「技術」が、なにかちょっと、ふつうにいわれているものとはちがうのかもしれないというふうに、宿禰は考え始めるかもしれない。

一般に、技術体系とは、ある静止した状況からいくつも枝分かれしていくパターンのようなものをいうだろう。「構え」というのがそもそも、その技術体系が抱える無数のパターンのそれぞれから等距離にある、零度の姿勢である。空手の左自然体は、左下突きからも、右上段廻し蹴りからも、等距離の位置にあるのだ。むろん嚙道にもそういう面はあるだろう。だが、特に攻撃というばあいにかんしていえば、事態はむしろ逆なのである。ジャックがすべきことはただひとつ、「嚙む」だけだ。無数にあるパターンは嚙道を行うものの側にあるのではなく、相手にあるのである。ふつうの「技術体系」は、標準的な構えから、無数にあるパターンのどこにも移動することができる、そういうものであるところ、嚙道の「技術体系」は、相手のくりだす無数のパターンのどれがやってきてもただ「嚙む」に収束させてしまう、そういうものなのである。

「嚙む」という動作にも複数のパターンはあるだろう。今回の踵を切ったのなんかは、けっこう斬新でもある。だが、たとえば手わざなんかと比べると、やはりバリエーションには乏しいのではないかとおもわれる。そうしたところでこれを体系的に極めようとした結果、ジャックはたたかいの流動的な展開、つまり「無数のパターン」を、相手に預けることになったのではないだろうか。ひとことでいえば、カウンターに徹するのである。徹しないまでも、それをメインにするのである。ひょっとするとそれが、冒頭のゆるい拳にあらわれているものかもしれない。もはやジャックは「攻撃」をする必要がないのだ。ただやってきたものを噛み砕けば、それでよいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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