すっぴんマスター -51ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第41審/事件の真相①

 

 

 

 

九条の大罪・新シリーズ「事件の真相」開始、扉絵は運動着の九条とブラックサンダー!ブラックサンダーかわいい。

 

 

くさむらのなかに複数の捜査官が集まっている。まわりには無数のハエが飛んでいて、中央に布でくるまれた死体が横たわっている。布から足が少し見えている感じだ。この足の絵、いつもの、写真っぽいやつなんだけど、どういうことかな・・・。

回収されてベッドに横たえられたその遺体に泣き崩れるのは、ときどき壬生まわりに出現していた、刑事の嵐山義信である。

 

その事件から10年経つ。嵐山は遺体発見現場に花を置いている。そのことを、組織対策課の、嵐山の部下ふたり、又林と深見が、餃子食べながら話している。深見はここにきてまだ3年だから、10年前の事件は知らない。先輩の又林はリアルタイムで知っているようだ。

遺体は嵐山の娘のものだった。深見はそれを聴いてむせる。警察官の親族が殺されたということなので、まったく他人事ではないし、事件じたいは深見も知っていたらしい。それが嵐山だとは知らなかったのだ。

とはいっても、どうもこの事件は、嵐山が警察官だったから起こったというものでもないらしい。暴力団や半グレを相手にする仕事なので、反社の報復ということがまず考えられたが、そうではなかった。現場は証拠だらけであり、とても、ヤクザやそれに類するもののしわざとはおもわれなかったのである。指紋や足跡は残されたままで、被害者の体内に残された体液も複数人ぶん判明した。どう考えても組織的に犯罪を行うもののしわざではない。そうして、未成年が疑われた。やがて犯人の一人がバイクの窃盗で逮捕され指紋採取、芋づる式に全員捕まったということである。彼らは、帰宅中の嵐山信子をさらい、金品を奪って河川敷で強姦、意識を取り戻した信子に顔を見られたために首を絞めて殺害したと。

実行犯・犬飼勇人は少年刑務所で懲役10年以上15年以下の不定期刑で服役中、共犯2人は少年院送りになったがすでに退院、社会復帰しているという。共犯者は幇助というあつかいになっていることとおもわれるので、不良集団内での犬飼の権力がそうとうに強かったということだろう。

そしてこの犬飼という男が、壬生の後輩なのである。

 

又林と深見は、嵐山の執念深さの原因を、この事件に見ている。少年法を盾に減刑した判決も、それを実現させる弁護士も、嵐山は恨んでいると。ここで九条が描かれており、深見も九条の名前を出すので、ひょっとしてこの事件の弁護も九条がしたのでは?とおもわれたが、冷静に考えると九条が独立したのは5年前のことであり、その前の山城の事務所での修行期間も3年であるから、10年前九条はまだ弁護士になっていない(『九条の大罪』が自然な時系列に沿って描かれていればのはなしだが)。現在そういう説明ですぐさま思い浮かぶのが「九条間人」だというはなしだ。「そういう種類の弁護士」を恨んでいるということである。

嵐山は被害者の性格、生活環境から原因を探し出す「被害者学」の視点で考察すると、又林が興味深いことをいう。

これは、現在の嵐山の発言だろうか、印象的に描かれているので、引用しておく。

 

 

「いいか?

人の本性というものはボーっとしてると見抜くのは困難だ。

 

公衆の顔

家族の顔

本当の顔・・・

 

本当の顔は

本人と罪を共有している人間しか知らない」

 

 

こういう視点が、嵐山にもともとあったのか、事件の結果として身についたのか、微妙な表現だが、どうもこの事件をきっかけに少なくとも骨身にしみることにはなったのではないかなという感じはする。要するに、捜査の結果、嵐山は娘の信子の知られざる一面に直面することになったのである。

 

壬生の事務所の外に嵐山は花束を置いていったらしい。それを部下がもってくる。毎年のことである。壬生は逆恨みだから気にするなと、部下にいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

嵐山は遺体発見現場に花束を置いているが、どうもそのあとそれを回収して、そのまま壬生の会社のところまで持っていっているようである。

献花についてざっと調べてみて、あまり正確な重量級の記事はちょっといま体調的に読めないので、ブログ的なものに限るが、基本的にその目的は慰霊ということになる。仏教的には「飾り」という意味もあるようだが、ごく大雑把にいって、現場に花をそえるのは、被害者への同情や哀れみがあって、鎮魂するとともに、じぶんはあなたのことを忘れていないということを示しているものとおもわれる。そして、それとは別に、現場に花を置いていくという習慣について、けっきょくそれを片付けるのは誰なのか?という問題もあるようである。センセーショナルな事件になると、遺族でもなんでもないひとが同情のあまり現場を訪れていろいろ置いていくということもあるかもしれない。それも気持ちはわかるが、被害者は死んでしまっている以上、置かれたものを持ち帰ることができない。したがって、そこに置かれたものは、いつか近隣住民や役所の職員が片付けなければならないのである。こういう意味で、警察官である嵐山は「持ち帰る」可能性が高いかもしれない。訪れ、慰霊と「忘れていない」というメッセージの身振りをとり、そしてそれを持ち帰るのである。嵐山は真面目な人間なので、いかにもありそうなことだ。

そして、ではその持ち帰った花はどうなるのかというと、壬生のところに置かれるわけである。同じ方法で読み解くのならば、これもまた、「忘れていない」というメッセージにほかならないだろう。

死者は、死んでしまっている以上、今生のコードを用いてやりとりをすることができない。「忘れていないよ」とか「安らかに眠ってね」とか、そういう言葉をわたすことができない。この、生きている側の無能感をほんの少しでも癒すのが宗教の方法なのだ。それで死者とやりとりが可能になっているかどうかというのはわからない。調べようにも、わたしたちは生者のコードしか手元にないのだから、「やりとりが成立している」と断定することは永遠にできない。したがってこうしたふるまいはある種のパフォーマンスに過ぎないかもしれない。だが、人間の発するメッセージというのはなんであれ受信者を想定するパフォーマンスである。

こういうふうに考えてみると、いち市民として供えた花を持ち帰った嵐山がそれを壬生の事務所に置いていくというのは、興味深いわけである。ここにはいくとおりかの意味が見て取れる。ひとつには、たんにこの信子の命日を壬生と、壬生を通じて犬飼に思い出させようとするものである。しかしながら、犬飼や壬生は、生きているのだ。生者のコードが使える相手なのである。としたら、ここに嵐山がこめているメッセージは、壬生や犬飼を、じぶんと同じ生者と同じものとしてはあつかわない、ということになるだろう。もし嵐山がアウトローなら、これは壬生らの近い「死」を予言するものになるかもしれないが、そうではないので、この「生者ではないもの」とは「死者」ではないわけである。ひとことでいえば、嵐山は、生者として当たり前に「生」を満喫することを、犬飼や壬生に対しては認めない、ということなのである。しかしそれは彼らを殺そうとしているということを意味しない。彼は法に従事する警察官だからだ。となると、彼の刑事法的なもののみかたもうっすら見えてくる。刑法が規定する刑罰というのは、人間から自由を奪うものだ。そのようにして究極まで自由を奪った先に、死刑はあるわけだが、この「受刑者」の段階が、嵐山の遵法意識のうえでは、生でも死でもない、コミュニケーションにおいて別のコードを必要とする亜空間なのである。

 

 

又林のはなしでは事件と、嵐山の被害者学的考察のありようのどちらが先なのかよくわからないのだが、ひとまず現在の彼は、被害者の見えない「顔」を掘り返すことで事件を捜査していくというセオリーがある。この方法は娘の事件でも用いられ、それで彼は、娘の、父親のじぶんがまったくしらなかった相貌を発見することになった。こういう事情からすると、順序としてはまず、被害者学的捜査法がごく自然に、また彼の気性に合うかたちで確立されてはいたが、その時点ではあくまで選択的な方法に過ぎなかったところ、そののちに娘が死亡し、娘の「知らない顔」を知り、身をもってその難しさを体感した、ということなのだろう。

この嵐山のセリフでのポイントは、「本当の顔は本人と罪を共有している人間しか知らない」というところである。まずわかることは、信子は無垢な「ヒガイシャ」ではなかったということだ。そして、原因とはいわないまでも、彼女がそうなりうる危うい生き方をしていたらしいということだ。この議論は、「被害者にも原因がある」とするもので、殺人のような重大な犯罪でなくても、日常的に聞かれるところである。「事件」を無時間モデルととらえると、たしかに「加害者」と「被害者」は対概念になる。加害者が存在しなければ被害者も存在しない、それと同様に、被害者が存在しなければ加害者も存在しない。しかしこれは合理的判断を下すために事態を単純化した結果であって、現実は無時間ではない。時間の流れにおいては、まず潜在的加害者があらわれる。それを仮に被害者が誘発したのだとしても、現代の世界はほぼすべて法治国家であるから、誘発されて生じた欲望を認めることはできないのだ。もしそれをさらに遡行的に考えようとするのだとしても、法の認める範囲では、被害者の落ち度を拾うことはできない。

こういう議論はありうるが、嵐山が用いる思考法は、その合理的判断に至るための無時間モデルということになるだろう。被害者の落ち度をそれとして認めるか認めないかは置いておいたとしても、そうとらえることで真相にたどりつけるならば、それに越したことはないわけである。いわば専門家向きの思考法といえるかもしれない。

もうひとつ、このセリフから見えるのは、まるで全人類が罪を犯しているかのような、嵐山のペシミスティックな態度である。もちろん、ここで嵐山は犯罪、また被害者のはなしをしているので、一般化できることでもないが、嵐山じしんはどうもこれを誰にもあてはまることとしていっている感じがある。人の「本当の顔」は、罪を共有している人間しか見ることができないというのである。つまり、仮にまったくなんの罪をこれまでの人生で犯してこなかった人間を想定するとしたら、その人物の「本当の顔」は誰も知らないことになるのだ。

ここでいわれている「罪」は、刑法、また倫理のうえでの「罪」というよりは、「やましさ」というようなものととらえるとよいかもしれない。たしかに、罪を犯しながらその自覚がまったくないサイコパス的な人間や、あるいは竹本優希くらいの凶器的な無垢さの人間は、「本当の顔」の存在感が薄い。というか皆無である。

こういう議論からは、人間の「本当の顔」を想定することじたいがまちがいなのでは?という考えかたも出てくる。平野啓一郎の「分人主義」である。ひとは、嵐山がいうように、公衆に対して、また家族に対して、別々の表情をする。別々の仮面を、社会生活のうえで身につけていく。その家庭で、わたしたちは「素のわたし」と呼べるような人格本体のようなものを見失うような気持ちになって苦しくなる。しかしそうではないというのが平野啓一郎の考えかただ。そうではなく、そうした仮面がそれぞれにわたしたち自信そのものであって、その集合が、「わたし」なのである。

 

 

 

 

 

 

しかし、ここでポイントとなるのは、嵐山が「本当の顔」と「罪」をセットにしているということだ。「本当の顔」があるのかないのか、それはなんともいえないことだ。しかし少なくともそれが「現れる」ときというのは、「罪」、もしくはやましさとセットになってのことなのだ。嵐山の経験ではそうなのである。たしかに、罪、あるいはやましいことというのは、他人から隠すことにはなるので、見えにくいものになる。それにまつわるそのひとの「顔」というのも、当然見えにくい。そして「本当の顔」というのは、そのひとの最深部にあるもののはずであるから、それと同居しているようにもおもわれるかもしれない。だがこれは、嵐山には気の毒だが、彼の「娘の死」がもたらした、悲観的すぎる見方だろう。たとえば、壬生がおもちに見せる表情は、罪と同居してはいないが、「本当の顔」という表現がかなり馴染むものになるだろう。「罪」は人格の構成要素ではあっても、そこが最底部とは限らないのである。というより、そうした行為が発生している以上、その前段階があるはずなのだ。

 

たぶん、嵐山のこの経験的な悟りが、彼をかたくなにしてしまっているぶぶんはあるだろう。彼が壬生や九条に対するときの態度は必要以上に断定的であり、狭量である。そういうふるまいが、壬生やなんかを相手にするときには必要ということもあるだろうが、そこには危うさもある。彼は、娘の死から多くを学んだが、そこかた回復したとはまだぜんぜんいえないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『ハトはなぜ首を振って歩くのか』藤田祐樹 岩波科学ライブラリー

 

 

 

 

 

 

 

「気がつけばハトはいつでもどこでも、首を振って歩いている。あの動きは何なのか。なぜ、1歩に1回なのか。なぜ、ハトは振るのにカモは振らないのか…?冗談のようで奥が深い首振りの謎に徹底的に迫る、世界初の首振り本。おなじみの鳥たちのほか、同じ二足歩行の恐竜やヒトまで登場。生きものたちの動きの妙を、心ゆくまで味わう」Amazon商品説明より

 

 

 

今年初読書は小説でも評論でもなく、科学ふしぎ本だ!

ぼくは喫煙者なのだが、以前の店にいたとき、屋上しか吸うところがなかったので、昼休憩はまるまる屋上でとっていた。座れるところもないので、すみっこの段差みたいなところに段ボールを敷いて、座ってパンとプロテインを摂るのである。

夏は暑いし冬は寒いのだが、ひとりになれるということもあり、ぼくはその場所を気に入っていた。すぐ近くに駅があるので、電車など眺めたりできるのもよかった。そういう、限られたのんびり空間に、鳩がよくやってきたのである。もともと鳩は好きだったが、別に餌をやるでもないのに、ポーポー、独特の音をたてながら、なにかもらえるとでもおもうのか、やってきては去っていくのだ。あとのあのホーミーみたいな鳴き声やまん丸の目、ふっくらした胸と、眠ってるんだかなんだか、寒いときなどによくやっている、顔が胴体にめりこんでいるポーズなど、見ていてこれほど回復する生き物もないが、彼らにもっとも特徴的な動作が、首振りである。歩いているときのあの、前後に忙しく顔を動かすしぐさだ。本書はこれがなんのために行われているのか、くだけた口調で検証していくものだ。

 

結論を書いてしまうと、彼らは厳密には「首を前後に動かしている」のではない。ただ、前に伸ばしている。その顔に、胴体が歩行とともに追いつき、すぐに顔が前に出る、ということをくりかえしているのである。本書でも言及があったが、ちょっと前に流行った動画で、ニワトリを手で抱えて、正面からカメラで撮影して、このからだをぐるぐる動かしても、ニワトリは顔の位置を変えないというものがあった。あれと原理的には同じなのだ。要するに、彼らは顔を静止するタイミングをつくるために、歩き進むとともに首振りのような動作をとるのだ。

ではなぜ静止させるのかというと、本書では電車に乗っている我々が外の景色を目で追ってしまうことに照らしてる。これは、ブレを防ぐためのものであるという。実は他にも可能性は考えられる。たとえば、わたしたちが両眼視で奥行きの認識を(あるいは立体的認識を)しているように、鳥は瞬間的にふたつの箇所からの視点を獲得して立体視しているというものだ。だが、ひとまずは景色の移動に合わせて首振りが行われているというダンラップとモウラ―の実験結果を踏まえて、そういうことと考えていいだろう。電車でいうと、わたしたちが目で追う景色は横側を流れていくものである。じっさい、ぼくらが仮に運転席に座っていたとしても、景色を目で追うということはないだろう。横向きだから追うのだ。そして鳥の目は、ちょうどわたしたちが電車で景色を見るときに近い角度にあるのだ。

次になんのためにブレを防ぐのかというと、ひとつにはやはり採食ということになるようである。ここにかかわる要素は、視力や、ハトに限らず首振りを行う鳥たちが生きている環境など、さまざまであり、一概にはいえないが、著者はくりかえしの観察でその可能性にたどりついたのだった。たとえば、当然出てくる問いとして、カモのようにあまり首を振らない鳥は、なぜそうなのかということだが、そういう鳥はどうやらふだん足元を、つまり近くを見ていないようなのである。であると同時に、足元で虫を探すときには首振りを行うというのだ。

 

岩波科学ライブラリーはこういう理想的な科学読み物が多い印象だが、まさしくこのレーベルの1冊という感じだ。ここに至るまでのほとんど雑談のような・・・といって無関係ということではなく、必要な検証ではあるのだが・・・話題もとてもおもしろい。「モノ」を知っていく1年のはじめにいい1冊に出会えたという感じだ。

 

 

 

 

 

 

 

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今年もよろしくお願いします。

 

 

別に連休があるわけでもないせいか、いつも通り、特に切り替わった感覚もない年越しである。でも、世界には時差があるのだし、カウントダウンでもないのかなという気もちょっとする。越したかな、越してないかな、くらいのふわっとした感じで1日すごすのがこれからのグローバル年末年始だ!

 

 

今年の目標は第一に教養の底上げだ。「教養」というと、意味がぼんやりしすぎていてなにも指示しないものでもあるが、ぼくのばあいでいうと「常識」に近い。ひとが、当たり前に知っていることを、当たり前に身につけたい。いまその内容を知らない以上、「こういうことだ」とは示せないわけだが、ぼくはほんとう、100人いたら95人が知っているようなことを知らない。変わりに5人しか知らないことを知っているのだが、現実世界では無意味である。そのことに価値を見出してくれる環境にあるのならそれでかまわないが、ぼくはそうではないので、95人が当然身につけているものごとを、ぼくも身につけなくてはならない。

と同時に、ぼくは読書家(仮)で書き手志望でもあるので、引き続きその「5人が知っていること」の領域も耕していかなければならない。どうすればいいかというと、ひとつしかない、読書量をもとに戻すしかないのだ。年に20冊とか30冊とかいってるばあいじゃないんよ・・・。

だから、いままで通りの興味が導くままに、難しい本やへんな本を見つけていきながら、同時に、たとえばヒット作とか、読書とはちょっとちがうような実用書とか、そういうものにも手をつけていきたい、というような気持ちだ。むろん、すべての知識がそうであるのだが、それを身につけるいちばんの方法は、ただ生きることである。ぼくはこれまで多くのものに無関心でいすぎたのだ。ふつうのひとは、ふつうにまわりにいるひとと話したり働いたりしていくだけで、常識を身につけていくだろう。ぼくではそういう人生が歩まれなかった。ときどき思い出していることだが、これは高校の担任にもいわれたことである。進学校の、それも特進クラスにいて、教えかたのうまさに定評のある、心優しい数学の先生だった。このひとに、卒業10年くらいしてクラス会であったときのことである。先生は、当時からぼくの数学を評価してくれていた。いまでもいついつの試験で何点とった問題児がいる、みたいなはなしを授業でしている、みたいなこともいっていた。サボりまくりで進級すら危うかったぼくをおそらく陰で守ってくれていたのも先生である。しかしこのとき、彼はいったのである。

 

「お前は・・・とにかく字が汚い。あまりに・・・あまりに汚すぎる。あとひとのはなしをぜんぜん聴いてない」

 

これらのことが実人生にとってそれほど重要なこととは、このときもぼくはまだ考えていなかったが、担任にいわせればとても大切なことだった。ぼくは、酒の席でもあり、そんなに重大な欠点だとおもっていたのなら、当時からきちんと指摘してくれればよかったじゃないですかと、笑っていったのだ。しかし担任は、やれやれという口調で、そこにつけくわえるのである。

 

「いったよ、何ッ回も注意した。な? 聴いてないだろ?」

 

ぐうの音も出ないというところだが、これが笑い話では済まないというはなしだ。ぼくの常識の欠落は、そのまま他人への興味の欠落、端的に「はなしを聴いていない」ことによるものなのである。学校の先生ってすごすぎませんか・・・。20年も前に、ぼくの人生がどういうものになるのか予見していたってことだよね。

さらにいえば、ぼくはたしかにおそろしく字が汚くて、いまも店舗スタッフにちくりと嫌味をいわれたりすることもあるし、相方からも「字が読めないのだけはだめだ」といつも注意されているが、これも、ひょっとして「はなしを聴いていない」ことと同根なのではないかとおもうのである。字が汚いっていうのは要は、「他人に読ませる気がない」っていうことなのでは?ということだ。もちろん、たとえば伝票を書いているときには、きれいに書いているつもりである。だが、根本にそういう他人の軽視みたいなことがあるので、こころのどこかでは「どうでもいい」とおもっているのだ。

 

ブログをはじめたころから、ぼくは「共感」をこえた「共有」の感覚が人間には必要だと書いてきた。「共感」は記憶の再体験、じぶんがすでにしたことのある経験を、べつの創作物などを通じて思い出しているだけで、そこには他者との接触がないと。そして、現代人を「共感地獄」に閉じ込めるものは、「価値観はひとそれぞれ」という標語だと考えてきた。「価値観はひとそれぞれ」という考えかたは、ほんらい「異なった価値観」を保護するためのものである。要するに、じぶんとは異なる相手を、異なったまま認めるということだ。しかしこれが、語のままうけとられ、歪められて、保身に用いられるようになっていった。つまり、相手ではなくじぶんの価値観を守るために、ひとは「価値観はひとそれぞれだから」と唱えるのである。これが共感地獄の原因である。

こういう記事を、ぼくは14年も前から書いているのだが、冷静に考えると、これはぼくじしんが読み込んで考えなければならないことなのではないだろうか。だれよりぼくじしんが、他人への興味をもたず、はなしを聞かず、汚い字、もしくは汚い文章で発信すらいい加減にすませて、じぶんの価値観にまどろんでいるのではないか。

 

というわけで、これからのぼくがしていかなければならないことは、要するに「ひとのはなしをちゃんと聴く」、それから「字を丁寧に書く」、転じて「文章を丁寧に書く」である。いちばん最後のやつはちょっと、ごめんなさいするとして、最初のふたつ、担任にいわれたことだけは、少しずつでもなんとかしていかなければとおもう。考えてみれば「対話とは傾聴からはじまる」ということは去年発見したことでもある。「常識」を身につけるいちばんの近道はそれだといまは考えている。

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、筋トレにかんしては、今年は片手プッシュアップとプランシェを完成させる。これはもはや無謀な目標ではなくなっている。たぶんできるだろう。数値的には、片手プッシュアップはプリズナートレーニングの設定するもの、足を閉じて、もっとも低いところまでからだを落として、1レップに5秒かけるものとする。これで10回できたらとりあえずは目標達成としていいかな。プランシェは、3秒でもできたらうれしいが、いちおう10秒キープを目標にしよう。がんばるぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ブログ納めです。毎年同じことやってるのに、毎年こうぎりぎりになっちゃうな・・・。

 

今年もコロナに振り回されっぱなしではあったが、去年の同時期に書いた記事を読んでも、あのころの切迫感や望みのない感じは、けっこう薄れているようにもおもう。オリンピックがあったのは今年だし、そのあたりの感染者数は去年と比較にならないほどのものだったが、おそらく、なにかこう、危機感の種類が、去年と今年では異なっていたのである。要するに、今年は「ウイルス怖い」が支配的だったが、去年はなにしろそれによって起こりつつあった(というか起こった)「共同体の崩壊」が、おそろしかったのだ。ありとあらゆる文化的営みが中止され、店という店が閉店し、多くのひとたちに会えない日々が続き、そのいっぽうで、感染におびえながら激混みの書店を運営する・・・、ちょっともうあんなのは二度とごめんだという程度には、絶望的な毎日だった。ほんとう、あのころは、「緊急事態宣言というのは外出を推奨するものだったか?」とおもえてしまうほど、普段以上に多くのひとが外出していたのだ。なんだったんだろうなあれは。

しかし、よくもわるくもオリンピックは行われ、ワクチンは行き渡り、気分的にはある種の現実逃避とともに、あるべき社会の姿は戻ってきつつある。オミクロン株についてはまだ不確定のことも多く、予断を許さない状況だが、ともあれあのときの、危機への不慣れと不安がもたらした「社会が崩壊するかも」という感じは失せている。それはなにしろよかったとおもう。

 

個人的には今年は「捨て年」だった。くわしくは書けないが、人事異動が行われ、「このパターンでなければなんでもいい」というところで、その最悪のパターンになってしまったのだ。幸い、近いうちにぼくも相方もかなり好条件の、だがそうとうに覚悟が伴う異動が決まっており、ここからは脱出できるのだが、それだけに今年の捨て年感はいよいよ強まっている。来年からは、書店員とはちょっと異なる仕事をすることになる予定だ。といっても、本に深く関わることはまちがいない。これまでよりもさらに深くだ。新規事業で、なんだか知らないがぼくが代表みたいになるので、責任重大だが、現状のあまりの徒労感から、重役に「本気出して仕事したいです」と言ったことが効いたのかもしれない。いまの状況は、ドストエフスキーがどこかで描いた虚無的労働、穴を掘り、次に、出てきた土でその穴を埋めるようなものである。二つのコップのあいだで水を行き来させる仕事とか、そんなふうにいってもいいかもしれない。もっといえばその際に、自主的に重りを背負ったり、「薬指を使ってはならない」という独自ルールをみずから積極的に課したりするようなものだ。要するにブルシットなのである。なんの意味もないことを、さも意味があるかのように演出して、鹿爪らしい顔をして行うのだ。そういう「技術」が会社人には必要だということは理解している。そうすることで「仕事をしている」という表現が可能になり、それをこそクラシカルな重役は求めているということも、いまではわかる。しかし、書店員というのは、基本的に物好きがなるものである。こんなに悪い条件の職業はそうそうない。「本を売りたい」という、賃金や自己実現とは別種の動機がなければ、ふつうやろうとしない。そうでなければさっさと転職する。ところが、現実に屈してしまったのか、そんな発想はそもそもないのか、ぼくのまわりにいる多くの書店員みたいなひとたちはそうではないのである。

だが、それも改善される。なるべく全力を出さないでいることを強いられる状況からは、とりあえず抜け出ることが約束されているのだ。その先にある状況もまた過酷ではあるかもしれないが(なにしろ新事業でノウハウがないので)、少なくとも、ナンセンスな現状よりははるかにマシだろう。そこで過酷さに屈服したとしてもそれは、いまのドストエフスキー的状況に大きなストレスを感じるのとはまた別種の敗北になるはずだ。そういう敗北をこそ、ぼくらはずっと望んできた。いまはとにかく新しい仕事に向けて勉強中である。

 

 

ぼくは常識がない、モノを知らないという記事を書いたが、そのあたりも、冗談ぬきでしっかりしていかないといけない。ぼくはコミュニケーション能力は高いほうだとおもうが、それは、ある意味常識を欠いているからである。接客でお客さんのふところに入るいちばんの方法は、マニュアルをこえて、人間として接することだ。もともとマニュアル接客というのは、アルバイトを大量に抱えて、かつコストを削減するためにできてきたものだろう。ほんらいの接客は一対一の人間どうしで行われるものだ。そうすれば、お客さんはこころを開いてくれる。こういうことを臆面もなく断言できるのは、常識を欠いているからである。しかしお客さんのなかにもこのことはすでに内面化されているので、マニュアル接客を行わないものはぶしつけであるととらえる向きもある。そこの匙加減をまちがえないことが、接客上のコミュニケーション能力である。だから、ぼくのばあいは、最初からクレームをつけにきているようなひとでなければ、お客さんの問い合わせがちんぷんかんぷんでも、要するに常識がないことによって起こる「わかりません」があったとしても、問題なかった。しかし新しいところではたぶんそれが通用しない。「わかりません」は、ちょっとまずい感じなのだ。資格とはまた別に、一般と専門を兼ねた、いまよりはるかに広い知識が必要になりそうなのである。こういう意味で、来年はもっと「当たり前」のことをやっていかなければならない。こうしたところで、高校や大学にもっとちゃんと通っていればよかったな・・・などという後悔も訪れるが、ちゃんと通っていたらいまのぼくのこの偏った知識もなかったとおもうし、そもそもふつうに就職して書店員にはなっていなかったとおもうので、まあどっちもどっちだな。

 

 

こういう具合です。来年も、1日1日を大切に、コツコツがんばっていきましょう。皆様、今年もお疲れさまでした。来年もよろしくお願いします。

 

 

↓読書猿氏にたよるときかもしれん・・・

 

 

 

 

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毎年のことなので、まずは身体各部位のサイズを記録しておく。左右あるものは左、右の順で、括弧内が去年。

 

 

体重 66(64)

首  38.5(38.5)

上腕 34(34) 33.5(33)

前腕 26.5(28) 30(30)

胸囲 104(105)

肩周り 117(初)

腹囲 75(72)

臀部 94(初)

大腿 54(54) 52(54)

下腿 37(37) 37(38)

 

 

 

腕のバランス悪っ!はかりかた間違えたかな。

全体的に小さくなったようでもあるが、体重はちょっと増えている。年末にナチュラルに65キロを超えることができたのはけっこう久しぶりだ。それに、ぱっと見むしろ大きくなったような自覚がある。それもあって、今回から肩周りと称して、脇をとじて肩の上から上体をひとまわりさせて計る方法も取り入れてみた。肩トレ大好きなのに肩の発達がよくわからないというのはずっと悲しかったのだ。とはいえ、胸囲との差が13センチしかないというのもよくわかんないな・・・。

 

今年サボってしまったなというのは、グリップとスクワットである。スクワットにかんしては去年がんばっていたぶん、もったいない感じもある。グリップのトレーニングは、基本的に指たて伏せと、12キロのアクアク○ラをつかってシュラッグなどするとき、もちにくい筒のぶぶんをもったりして行ってきたが、そもそも今年はあまりアクア○ララを使わなかった。ひとつには、職場が変わって、ホリゾンタル・プルができるようになったからである。ホリゾンタル・プルは、パイプ椅子があればできる。開いた椅子を背中あわせにして、そのあいだに仰向けに沈み、背中のぶぶんに手をひっかけて引くのである。この方法は、前の会社で、自由に店をやっていた時分にはひんぱんにとっていた。会社が変わって、そもそもパイプ椅子が身近にない状況になり、ホリゾンタル・プルはやらなくなっていて、その結果としてアクアクラ○をつかったプルやシュラッグの頻度が増していたのである。しかし、此度の望まぬ異動の結果、唯一のよいところとして、職場にパイプ椅子を発見したわけである。もちろんホリゾンタルプルでも前腕は鍛えられるが、12キロの筒を保持して踏み台昇降したり、あるいはシュラッグしたりというときのパンプの感覚とは比較にならない。指たても、プリズナートレーニングを始めてからはそう熱心にやっていない(少なくともグリップ強化という意味では、指たては拮抗筋を鍛える種目であって、別段おすすめというあつかいではないのだ)。

スクワットは、仕事がメンタル面でしんどすぎて気力がわかなかったということもあるが、加えて仕事で日常的に自転車を乗るようになったということもあった。けっこうな坂道、けっこうな距離を、ポンコツの自転車でぐいぐい行くのである。だから、スクワットをしていない自覚はあったが、あんがい太くなってるんじゃないかなとも期待していたのだが、そううまくいかないか。

 

 

 

 

 

 

しかし今年は筋肉的にはかなり成長の感じられる1年だった。まずは、去年書いたように、ついに、ようやく、プッシュアップが片腕のフルプッシュアップに到達したのである。この2年くらいは膝つきやインクラインで強化に努めてきたものだ。これをやっと、ふつうにつまさきをつかった姿勢で、片腕でできるようになったのだ。とはいっても、部分的にまだトリックをつかってはいる。つまり、プリズナートレーニングでポール・ウェイドが「正しいフォーム」と考えるほどには、まだ深く沈みこめていない。せいぜい8割程度の沈み込みだ。そして回数もせいぜい15回。さらに、足はじゃっかん開いている。つまり、ぜんぜん完成ではない。ただ、最後の足を開くことは、今年手に入れたカヴァドロ兄弟の『ストリートワークアウト』を見て意識的に取り込んだものだ。いってみれば膝つき、インクラインに続く、最終段階ということになる。だが、胸や腕にかかる負荷は抜群だ。特にしっかり沈み込んだときの肘周りへのストレスは爽快である。痛めないようにゆっくりやらなければならないというのもまた過酷であり、すばらしい。

 

 

 

 

 

 

同様にしてカヴァドロ兄弟からは「ヒンジ・プッシュアップ」という方法も学習した。ふつうのプッシュアップの派生系として、ダイヤモンド・プッシュアップとはまたちがった角度からの強烈な負荷を上腕三頭筋に加える、実にきつい動作である。まず、ふつうのプッシュアップの姿勢になる。そして、両手をほんの少し頭側の方向にずらす。顎の真下あたりがいいかもしれない。なおかつ、そのときにつま先はぎりぎりまで伸びているようにする。つまり、ふくらはぎが収縮しているような状態にする。そこからからだを地面におろす。深い、ボトムポジションでいちど停止し、畳んだ肘をそのままつま先方向にスライドさせ、肘を地面にぎりぎり接触させる。そこから、反動を使わずに、もとのボトムポジションにもどり、からだを上げる。肘ぶぶんにたいへんな負荷がかかるので、深く深く沈みこむダイヤモンドプッシュアップや擬似片手プッシュアップなどを入念にやりこんでから、相当に注意して臨まなければならないが、やりごたえはたいへんなものだ。一流の自重トレーニーはこれを逆立ちで行うが、プッシュアップのままでもじゅうぶんな破壊力なので、おすすめだが、じゅうぶん注意してやったほうがいい。

 

 

 

 

 

 

こうした具合に、以前から問題視してきた上腕三頭筋、というか端的に「腕の力」がじゅうぶんに育ってきたなという実感が出てきたところで、長年の目標であったプランシェにきちんと取り組みはじめた。プランシェの練習じたいはふつうにやってきたが、「プランシェの日」をつくってやってみたということである。ここでもやはり『ストリートワークアウト』を参考にした。まずタック・プランシェである。膝を丸めて、抱え込んだような体勢でからだを浮かせるのだ。これはすぐできた。そこから、少しずつ後方に足を伸ばしていったのだ。また、逆方向からのアプローチということで、うつぶせに地面に寝た上体で膝から先を曲げ、反るようにしてからだを浮かせるということにも取り組んだ。これは、できそうでできないのだが、手応えはあるというか、たしかにプランシェのための筋肉が育ってはいるようである。そうして、現在そうとうなところまで足を伸ばせるようになってきている。ぎりぎり姿勢が保てるところで10呼吸キープを3セット、というのがいまのメニューだ。そのあと、擬似プランシェ・プッシュアップを2セットか3セット行う感じだ。ほんとう、今年中に完成するんじゃないかともおもったのだが、さすがに無理だった。

 

そしてもうひとつ、プルアップである。自重トレで背中、特に広背筋や僧帽筋となるとなにしろプルアップだ。ところが、ぼくの身の回りにはぶら下がれる場所がなかった。だからこそ、パイプ椅子を持ち出してホリゾンタル・プルに勤しんできたのである。だが、厳密にはプルアップとホリゾンタル・プルはちがう種目であり、ターゲットになる箇所も異なっている(やってみるとほんとうによくわかる)。だから、これまでずっと、背中にかんしては全力でできていない感じがあったのだ。そんなに「ぶら下がれる場所」というのはないものかというと、実をいうとある。そんなものは、近所の公園に行けば、低いものでも鉄棒があるのであり、たとえばジャックナイフ・プルといって、投げ出した足を地面につけて、プルアップの角度で体を持ち上げれば、フルプルアップより負荷は落ちるとしても、効果としては同様のものになる。しかし、ぼくはなかなか公園に出かけることができなかった。ひとつには、ぼくはよく職質されるからである。ほんとう、しょっちゅうされる。たぶん、目がラクダみたいでなに考えてるかわからない(と、現職の面接時のメモにも書かれた)せいかとおもうが、とにかく職質が嫌なのだ。とりわけわが県警は、コンビニの駐車場に暴走族がたまっていると通報してもきてくれないが、仕事の帰りのスーツ着たサラリーマンには積極的に声をかけていくアウトローなので、常識は通用しない。しかもトレーニングをするとなると仕事のあと、夜になることは避けられないわけである。

しかしながら、どうしてそうなったのかきっかけは忘れたが、あるとき立ち寄ったごく近所にある公園で突如公園プルを開始することになったのだ。夕方18時頃だったとおもうが、この時間帯がよかったのか、ぜんぜんひとが通りかからないのだ。もし近隣住民が「へんなひとが懸垂してる」などと通報したとしても、滞在時間はせいぜい7,8分であることにも気がついた。さすがに昼間では、主婦や小さい子がうろうろしているようでもある。ぼくは、なんとなくのイメージで、そういう夕方頃というのも、帰宅者や買い物帰りの人間がたくさんいるようにおもっていたのだが、じっさいはそんなことはなかったわけだ。昼間と、常識的に考えて深夜さえ避ければ、なんの問題もなかったのだ。

とはいえこれを開始したのはこの1ヶ月くらいのことで、まだ4回しか行っていない。だからこの成果はまだ現れていないだろう。しかし、はじめた瞬間に、これまで触れてこなかった音楽をはじめて耳にしたように、ショックを受けもしたのである。いままでのホリゾンタル・プルやダンベルなどつかったプルも、それはそれで意味があったが、まったく異なる次元の衝撃が、背中の筋肉を走るのである。

プリズナートレーニングではホリゾンタル・プルが先に設定されていて、これをしっかりやりこんだあと、くだんのジャックナイフプルにすすむ。高い鉄棒がなく、学校にあるような低いのが3種類あるだけなので、どちらにせよプルアップそのものはできないから、このふたつを2セットずつやる感じだが、ジャックナイフプルを2セットやったあとホリゾンタル・プルをやると、まだぜんぜんできることがわかって、あたまでは理解していたが、両者がまったく異なる種目であるということも理解したわけだ。

また、前回ふと考えて、ジャックナイフ・プルの際に前に放り出していた足を上げてみたら、10回程度ではあるが、そのままLプルアップに移行することもできた。いままでの方法でも、なんのかんのといって背中はまあまあ鍛えられてきたっぽい。しかも当然のことながらこの方法なら腹筋にもかなりの刺激が届くことになる。

そして、これもやはりはなしには聞いていたがというものだが、腕への負荷も相当なものだ。オーバーハンドで行うときの上腕筋や二頭筋長頭、また腕撓骨筋への刺激はダンベルカールでもなかなか味わえないレベルのものだった。プル種目はまさしくプッシュアップの「裏側」という感じで、実に中毒性の高い総合的なトレーニングである。

 

 

こういう感じである。それ以外のメニューについては、回数は落ちているけど基本的にいままでと変わっていないので(ハンドスタンドは抑え目、ブリッジは苦手)、今回は割愛するが、いまはとにかく片手プッシュアップとプランシェ、そしてプルアップにそうとうな進化が見られているところなので、この調子を持続しつつ、サボり気味のグリップとスクワットを再生し、バランスのよいからだ作りをしていきたい。前からおもってたけど、部位測定は別に年末にこだわる意味ないよな。来年はそれももっとまめにやってみたい。

 

 

 

 

 

 

 

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