すっぴんマスター -52ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

今年は『ワンパンマン』23巻から『孔明のヨメ』13巻まで、紙・電子合わせて83冊の漫画を読んだ。

去年が84冊とほぼ同じ、そこからさかのぼると、117、148、248という具合に、順調に減っていっている。というのは、コミックに関しては量を減らしていこうとずっとしているからである。小説やその他の評論などと比べて、コミックは安くてしかもすぐ読める。あっという間に家のなかを埋め尽くす、くらいならまだいいが、たいていのコミックはもちろん好きで読んでいるから、その「好き」をどこまでも広げていったら、お金がいくらあっても足らないのである。

 

そのいっぽうで、去年の同様の記事にも書いたが、じぶんには物語が不足しているという実感もあった。最近得た悟りとして、物語とは、価値をプールする場所である、ということがあるのだが、去年おぼつかない手つきでぼくが書いていたのはたぶんこのことだったのだろう。ぬるい仕事に過剰な負荷を無意味にかけて行っているような状況で、ぼくはどうしても狭量になりつつあった。もっとわかりやすくいえば、あたまがわるくなっているのである。こんなことがじぶんの身に起こるとは想像もできなかったが、まわりにどういうひとがいるかで、その人格や能力も変容していくというのは、経験的にも知識的にも知っていることだったはずである。それが、起こったのだ。ぼくは、あまり深く物事を考えなくなっていった。おだやかで素朴な、しかし無力なおばあさんの困り事の問い合わせに、笑顔で対応できなくなっていた。きちんと育てれば優れた書店員になるであろうバイトやパートを守ることができなくなっていた。ぼくにできることといえば、仕事になにも期待せず、オーバーアチーブを避け、なるべく仕事以外を充実させることだけであった。じっさい、そうとらえなおすことでおととし頃の病的な状況を脱することはできた。しかし人間というのはアナログに連続したペルソナを備えているものである。仕事で反知性主義に染まっていて、たとえばバキの感想に影響がないなどということはありえないのだ。

こうしたところでぼくは「物語」を欲した。その摂取にかんしては、今年なかばまでは、けっこううまくいっていたとおもう。ところが、あるときから全社的に減給されることになったのである。生活に支障をきたすレベルの減給であった。こうなると、本など買ってもいられなくなる。さいわい小説や論文はいやというほど積んであるので、5年くらいなにも買わなくても読むものに困ることはないが、漫画に関しては我慢せざるを得なかった。どうしても、緊急的に先を読みたいもの(ワンピースとか進撃の巨人とか)を除いたら、たまたま出先の他社書店で見つけたとか、アマゾン開いてるときにちょうど思い出したとかいうときだけ買って、あとは忘れないようほしいものリストに残して、状況がよくなるまで我慢するしかなかったのである。

 

であるから、本来読んでいるべき多くのものを今年はそもそも買っていない。ついに完結した『NEW GAME!』もまだ読んでいない。福満先生の新刊も買っていない。『妖怪の飼育員さん』や『からかい上手の高木さん』、咲坂伊緒の『サクラ、サク』など、いつも楽しく読んでいて、新刊も楽しみにしているが、これらも後回しにせざるを得なかったのだ。あるいは継続購入系のものでなくても、当然のことながら、「ちょっとおもしろそうだな」と本を手に取ることもいっさいなくなった。苦しいだけなので、本屋にいってもそもそもコミック売り場を見ることすらしないという感じだ。というわけで、今年の漫画状況は非常に不満の残るものである。読むべきものを読んでない、読みたいものを読めてないのだから。

 

そういうなかでほとんど唯一幸福な漫画体験となったのは、藤本タツキ『チェンソーマン』である。能力バトルものはジョジョを引き合いにだすまでもなく、基本的にその人物の個性と一体の能力がぶつかりあうことになる。炎炎ノ消防隊やヒロアカもそうだ。こういうところで、チェンソーマンの人物たちは、いろいろかたちはあるけれど、「悪魔」という異形を通じて外部的な能力を取り込むことになった。とはいえ、悪魔が宇宙人的な外部とよびうるかというと微妙なところで、悪魔は彼がそう呼ばれている言葉についての人間の恐怖によってちからを増すことになる。つまり、「銃の悪魔」が強いのは、「銃」への人間の恐怖が強いということだ。悪魔そのものと人間の恐怖と、どちらが先に生まれたのか、きちんと読んでいないが、チェンソーマンである主人公デンジが特殊なのは、彼に殺された悪魔は概念ごと世界から消滅してしまうというところである。ということは、おそらく悪魔が先なのではないかとおもわれるが、チェンソーマンの特殊性がそういう原理を超越したところにある可能性もあるので、なんともいえない。

ともあれ、非常に重要な人物、あるいは読者が愛着を抱えうる人物がさくさく死んでいく世界はぼくでは冨樫義博以来のもので、展開上の配慮、もしくはメタ的に出版上の配慮などを超えたすさまじい「物語の必然性」みたいなものを感じることとなった。また、藤本先生の絵が中毒性の高いものであることもある。ごく大雑把にいって、漫画というのは静止画である。これは動画、もしくは人間が網膜を通じて理解している世界に対応した表現になるが、そうするにあたって、重要な場面を一枚の絵にしたり、もしくは物理的な矛盾すら抱えながら、その内側に動画的表現を施すことになる。で、藤本先生の静止画というのは、なんか止めるポイントがおかしいのだ。しゃべろうとして開きかけたくち、半目、見切れなど、写真だったら「失敗」に分類されるような表現が満載なのである。これが、なんだか知らないが独特のダイナミズムとリズム感を呼んでいるのだ。

 

 

 

 

 

 

そういう感じで、今年はあまり漫画について語れることはないが、チェンソーマンはよかった。それから、連載開始は去年だが、『九条の大罪』も、しっかり単行本が動いているようでうれしい。来年は、とりあえず状況が改善するまで待って、我慢していたやつを一気に読んで、それから新しいものに挑戦する感じかな。

 

長崎ライチの新刊も出た↓

 

 

 

 

 

 

 

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今年は『刑事法の要点』(東京法令出版)から『書経』(角川ソフィア文庫)まで、22冊の紙の本を読んだ。加えて、斎藤緑雨『油地獄』や正宗白鳥など、キンドル経由の青空文庫で短篇を8つ。量的にはおよそ23冊ということになるかとおもう。

 

毎年のことで、目標をたてたところで達成されたためしもないので、やれやれという感じだが、ひどい数字である。1年前は25冊、病みに病みまくっていた2019年はおそらく人生でもっとも本を読まなかった年で15冊、ということで、まあ、なんというのかな、書店員で書評ブログを書いている人間とはとてもおもえないというか、しっかりしろよ・・・という感じである。とはいえ、また別の記事でちょっと書くが、今年は考えられる限り最悪の異動があり、それでいて去年程度は読めたというのは、よかったかもしれない。しかし、それもその「最悪さ」と表裏一体なもので、特に理由もなくお給料が激減し、それ以前よりは1日のうちに「仕事をしていない時間」が増えたからではないかなとおもわれる。といっても、休みが増えるということはなく、日に1時間早く帰らなくてはならないとか、そんなことなので、やっぱり喜ぶところじゃないかもしれない。こういう、あまりあたまのよくない状況に対応していくためにも、思考するものとして、やっぱり週1冊、せめて年50冊は、最低でも読みたいよね。特に最近は実感として、たぶんその反知性的な状況に引っ張られて、「あたまがわるくなっている」ということもある。それはね、ほんとうに嫌だよ・・・。(前も書きましたが、この状況は来年改善、するかどうかはなってみないとわかりませんが、少なくとも変化することになっています。現状はドストエフスキー的に「掘った穴を掘り出した土で埋める」毎日なので、悪くなることはおそらくないとおもわれます。ご心配おかけしてすみません)

 

 

内訳としては、いつものことで、量が少なすぎてもはやデータをとる意味もないので、ざっとみるだけだが、小説をけっこう読んだのかなという気はする。今月に入って、こういう記事を毎年書いているものだから、今年はどういう本を読んだかなとブログを振り返ってみて、日本の小説をひとつも読んでいないと気がついて、読みさしの『今夜はひとりぼっちかい?』を読みきったのだが、そのときまでそういう感じがなかったのは、電子書籍で青空文庫を読んでいたせいだとおもう。この点についてだけは、いまの職場になってよかったことだ。というのは、通勤時間が倍以上になったので、電車やバスに座る時間がすごく増えたのだ。乱読時代からそうだったのだが、ぼくは意外と出かけたさきで本を読むことができない。しかし、スマホは、お尻のポケットにいれているものだから、座るときには抜いて手にもっているわけである。そこでどうせツイッターを開くんなら、電子書籍読めばいいんじゃないかと、自然となったわけだ。セールなどに反応して衝動買いした本もいくつかあるが、メインはパブリックドメインになっている0円の古い小説だった。これについては、ちょうどNHKのラジオで荒川洋次が「新しい読書の世界」という番組をやっていたタイミングであったことも関係している。ここで紹介された正宗白鳥や国木田独歩を、ぽつぽつと読んでいたわけである。その、唯一の、静かで落ち着いた楽しい時間も、緊急事態宣言が解除されてから電車もバスも混むようになって失われ、なくなってしまったが・・・。

その他小説ということでは『コールド・コールド・グラウンド』で未知のシリーズに着手し、非常に感銘を受けた。このショーン・ダフィのシリーズは第2作も手に入れてあるのだが、読めていない。それから去年の流れで飴村行の粘膜シリーズも第3作『粘膜兄弟』までいくことができた。飴村行はもうなんかいざというときの、ケンガンアシュラの「前借り」みたいになりつつある。メンタルが究極にやばくても飴村行を読めば1週間くらいはとりあえず乗り切れる。

 

 

 

 

 

長年の「システムに属しながらシステムの語彙でその瑕疵を指摘する」ということについては、若松英輔がヒントをくれた。深めていくつもりでけっきょくなにもできていないが、「対話の可能性について」という記事で少しだけ触れている。

 

 

 

 

 

これは『82年生まれ、キム・ジヨン』がもたらした難問で、どうすれば同じ度量衡をひとつももたないものどうしが「対話」をすることが可能なのか、ということだった。自然主義者たちが「世のありのまま」を記すことができると考えた「カルテ」が、この小説の枠組みである。ところが、この枠組みの内側で、最後の場面において、終始キム・ジヨン氏の症状を分析的に見ていたカルテの作者であるところの医師が、女性差別的な考えをとるのである。究極の客観であるところの科学が、すでにそうした含みをもっているのだ。この状況で、果たして女性差別を告発すること、またそれをわたしたちがほんとうに理解することは可能なのか? こういう場面では、「対話」が必要であるとされるだろう。そこで、ではどうすれば対話は可能なのかということになるのである。

通常、「論理」は、その方法として第一に考えられることとおもう。論理的であるということは、度量衡を超越して、他者がその思考プロセルをトレースできるということなのである。しかし現実には、論理的で建設的であるはずのやりとりはただ「モノローグの主語」の奪い合いでしかないことが多いのである。これは、魯迅やプラトンを通じてみてきた。『ソクラテスの弁明・クリトン』では、ソクラテスはむしろ「論破」をなりわいとするソフィストたちとは対立するものであったことが明らかになったが、場面によって立場がかわるソフィストとは異なる、真善美を探究するものであったとしても、やはりソクラテスにはある種のかたくなさが感じられもした。けっきょく、この問題でソクラテスを経由することにはあまり意味はなかったが、「モノローグ」について理解を深めることはできた。それは、ダイアローグであるはずの、なにか新しいものを建設していくはずの対話において、「けっきょくのところこのやりとりの主語はどちらなのか?」ということを先取りしていくことなのである。

そうしたところで、これは読書ではなく「100分de名著」というテレビ番組だが、若松英輔が読書を「対話」と呼んでいたのである。これは、考えてみれば当然のことであるのに、実感としては目からウロコでもあった。対話とは、そのはじまりの地点においては、ひとまずは「傾聴」なのである。むろん、記事にも書いたが、この理解のままではあまりに稚拙すぎるし、なにを生み出すものでもない。しかし、いままで取りつく島もなく魯迅やプラトンのあいだをさまよっていたぼくとしては、ようやくスタート地点が見つかったような感じがしたのである。

そのあとに、『人形の家』『はじめての動物倫理学』があらたな示唆をくれもした。これも、くわしくは書評そのものを読んでほしいが、鍵概念は、価値を保留する「物語」と、知的努力とともになにしろスタートするということである。この意味でも若松英輔氏の発言は大きかった。

 

 

 

 

 

 

哲学の本では、なにか新書ばっかり読んでいたようなせいか、たくさん読んだ気になっているが、せいぜいが『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』くらいか。これもめちゃんこおもしろかったよ。超おすすめです。

 

今年のベスト本としては、小説は『言語の七番目の機能』、その他評論などは『会計の世界史』にしようかとおもう。ぼくがこうしたところでカリスマ書店員の名入り賞でもなく、なにも意味はないが、どちらも実にすばらしかった。『言語の七番目の機能』は年はじめに読んだので、今年のことだったのかと、調べてみて驚いたが、おもえば現代の海外の小説をもっと読みたいというふうになったのはこれがきっかけだったかもしれない。そうでなくても、バルトやフーコーやデリダなどが「これほんとにこのまま出版して大丈夫なのか」というレベルでがんがん登場するので(作品としてはミステリ)、あの時代の思想が好きなひとは必読です。『会計の世界史』は「モノを知らない」ぼくにはぴったりの1冊であった。会計の成り立ちと基本的な発想を、世界史を通じて、美術作品などを添えつつ理解していくという、この手のビジネス系の本では考えられないほど最強の1冊になってるとおもいます。

 

 

来年こそ・・・来年こそ年50冊程度にまで戻したい。メンタルが安定してそれなりに時間があれば超遅読のぼくでも難しくないはずだ。それには職場しだいだが、どうなるかな。

 

 

 

 

 

 

 

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第114話/技術体系

 

 

 

 

「嚙みつき」を極めた嚙道のジャック・ハンマーと宿禰の試合がついに始まる。

実況や観客のいるいつもの地下闘技場の試合の扱いだ。同じ日の日中、ちょっとした喧嘩のようなことをが起きて、ジャックが食ったため、宿禰の左手は小指が欠損していて、包帯みたいなのが巻かれている。

 

 

向き合うふたりの状況は異次元である。宿禰も、210センチ250キロということで、とてつもない巨漢である。最近WWEというアメリカのプロレスにハマッているのだが、190センチ台後半、というか2メートル前後がデフォルトの世界で、たまげてしまう。180センチくらいあると日本では比較的高身長になるが、それくらいの選手が全員軽量級に見えるような世界だ(じっさい、180センチ台くらいの選手はみんな飛び道具的な攻撃を行う)。だが、宿禰はWWEにいってもふつうに最大級の選手になるだろう。その彼が、はるか高い位置から見下ろされている。体重こそ宿禰のほうが50キロほど重いが、ジャックの身長は243センチにもなるのだ。むろん、二度の骨延長手術によるものだ。もとのジャックを知っている観客が、ジャックではないのではないかと疑うほどの変容だ。

会場には玄人ファンばかりでなく、本部とガイア、独歩と渋川、克巳とバキの姿が、それぞれ別の場所にいるのがみえる。本部ガイアはけっこう久しぶりだよね。本部がこの件に関与してくるのはうれしい。

 

相撲取りは格闘貴族、得難い「大きさ」が前提となる領域である。その相撲の世界でも、これほどの巨漢は見当たらないと宿禰はいう。その大きさが、実は先天的なものではなく、苦痛と引き換えに、じぶんの意志で獲得されたものであるというのがジャックであるが、ともかく大きい。宿禰は、それを頼もしいという。そして、「ジャック範馬」と呼びかける。つまり、彼が敗北した勇次郎の息子として、宿禰はジャックと接するのである。やはり宿禰は、勇次郎の敗北と地続きのものとして、このたたかいを見ているようだ。

ジャックはジャックで、宿禰を「第二代野見宿禰」と呼びかける。やはり、彼の本質というよりは、外部的な条件のようなものに、ジャックもまた注目しているようである。そこに、「嚙み応え」を期待しているのだ。なんだか不思議なたたかいだな。武蔵があらわれたとき、誰もが五輪書などを通じて夢想する「あの宮本武蔵」ばかり見ていて、本部を除くと誰一人として目前の武蔵をきちんと見れていなかった状況を思い出す。が、ここにはそういう不安はない。「そういうたたかい」なのだろう。

宿禰は、それは噛み付けたらのはなしだとする。嚙みつかれたらもっていかれるということを体験済みであるからこその発言かもしれない。いったん離れたところで、宿禰は考えをまとめる。「たかが嚙みつき」と、一般にはいわれるだろう。それは「女子供の最終兵器」であると。だが、そうではないのだ。ジャックの嚙みつきは「技術」なのである。張り手をくりだしたあの一瞬で造作もなく小指を奪うのはまぎれもなく大きな技量によるものなのだ。その背後には、膨大な技術体系が控えている。「とてつもなく強い」、それが宿禰の予感だ。彼はそれを喜び、笑うのである。

 

試合開始、ジャックが右の拳をゆっくりと差し出す。そこで、流血とともに、なにかが起きるのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

今回が今年最後。次回は1月13日発売7号です。

これまで考えてきたことの答えあわせがされたようなうれしい回だった。

 

盛り上げ回でもあったので、具体的なところはあまり進んでいないから、書くこともあまりないが、とりあえず宿禰がジャックの嚙みつきを好意的にみていることだけはわかった。

彼は、いったん嚙みつきを「女子供」という語を経由させながら、とんでもない、技術として非常に巨大なものである、というふうに評する。

このいいかたは、繊細なものではあるが、やはり勇次郎に敗北したことと関連しているとみたほうがいいだろう。くりかえしになるが、おさらいしておく。まず、勇次郎の「我以外皆異性也」の描写がある。物議を醸した回だったが、このとき描かれたのが、ジョー・ウィリアムという探検家である。彼は若いころ、勇次郎に手篭めにされ、じしんの内に雌を感じてしまった。それを否定するため、つまり「じぶんは雄である」ということを誰よりじぶんに向けて証明するために、命がけの冒険を重ねてきたのである。この事件は、よくあるただの勇次郎描写の手遊びのようなものではない。ひとつには、「勇次郎/非勇次郎」という人類の二分化は、それ以前からあったからである。このときは、それが性別で表現されたということなのだ。

こういう流れで、宿禰は勇次郎に敗北した。彼はそののち、世界の広さを感じることになる。勇次郎というのは、ほかの誰とも存在が重なることのない究極の特殊であり、彼がそのまま世界の広さを体現するということはない。だが宿禰は、その敗北を通じて、大いなる未知みたいなものを感じたのだ。それが世界の広さということである。

この、宿禰にとっての未知が、「我以外皆異性也」の描写と重なった先に、ふたつのことが起こる。宿禰の、若い女の子とのイチャイチャと、ジャックの登場である。宿禰は、手篭めにされたわけではない。つまり、ジョーのように「雌を感じた」わけではない。しかし、ひょっとすると、勇次郎の強すぎる雄度を感じはしたかもしれない。そのあたりは不明だが、宿禰が女の子とイチャイチャするのは、ジョーが冒険を続けるのと同じ動機なのだ。つまり、「じぶんはこのようにして雄である」ということを、彼は、ほかならぬじぶんに向けて、示した衝動に駆られたのである。勇次郎に敗れた経験は、彼に世界を分節させた。その分節の「こちら側」が、勇次郎からみた「雌」ということになる。この分かを、宿禰もまた感じたのだ。だから、「勇次郎/非勇次郎」という、説得力はあるが身もふたもない分節法を否定しようと、彼は女の子を「男らしく」抱えて、イチャイチャするのである。

その少し前にあらわれたのがジャック・ハンマーである。彼は、「女子供」でも使用可能で、かつ必殺性の高い「嚙みつき」を用いる。「女子供の最終兵器」という事実じたいが、この攻撃がもともと高い普遍性を備えていたことを示すが、彼はそれをさらに体系的にレベルの高いものにしあげたのだ。どうしてこのような技術がいままで見過ごされてきたのか。大きな理由はいまのところふたつ判明している。ひとつは、これまでもバキをはじめ多くの登場人物のくちを通じてあらわれていた「男の世界」である。「強さ」は、まずは「男」の求めるものであった。であるから、「女」も使いうる攻撃方法をすすんで採用することははばかられたのである。もうひとつは、ジャックが宿禰の小指を食ったことが示すように、そこにひそむ禁忌である。まず前提として、人肉食はタブーであり、避けなければならないものだとしよう。これまでもジャックは嚙みつきにより相手の身体を損なってきたが、それを食べたことはなかった。つまり、飲み込んだことはなかった。いつも吐き出していたのである。これを飲み込んだのは、ピクルと夜叉猿だけ、つまり現代人類にはいないのだ。それまでのジャックが、噛み切りながらもそれを飲み込むことはなかったのは、それが少なくとも「食」と連続した行為ではなかったからである。他のファイターが嚙みつきを「特殊」な技術だと考えるのと変わらない目線で、彼はこの技術を特殊なものだとどこかで考えていたのだ。しかし、嚙道を極めたジャックにはもうそのような自意識はない。「嚙む」は、日常に落とし込まれた普遍的な技術となった。ある技術が普遍的であるということは、体系が確立して、万人がコミット可能になるということである(だから彼は、体系そのものの代弁をするようにして「人目」を求めた)。嚙道においてもはや「嚙んで攻撃する」は非日常ではない。そのとき、ついに「嚙む」は、もともとの役割に到達する。つまり「噛んだ以上食う」のである。ファイターたちが嚙みつきの可能性を見過ごしていたのは、これがこのようにして、技術として確立した瞬間、タブーを破ることになると、どこかで気づいていたからなのだ。

ジャックは、嚙みつきを「ふつうのこと」にすることによって、闘争の現場に女性や子どもを呼び込むことになった。このことを、宿禰がどう感じるのかということが気になっていたわけである。宿禰は、勇次郎によって世界を強制的に分節させられた。いま彼はそれを否定したい気持ちになっている。少なくとも、無意識にそうなっている、それが彼にイチャイチャさせる。ところが相手のジャックは、分化され、宿禰が落とし込まれた「勇次郎にとっての異性」の位置を、堂々と拡張して突きつけるのである。ここで、同族嫌悪的な感情が出てきても不思議はなかったわけだ。要は、じしんの雌性を否定したい宿禰の前に立つのが、雌だろうと雄だろうと関係ない技術である嚙みつきを駆使するジャックなのだ。

 

だが、今回宿禰が嚙道に好感をもっていることがわかったわけだ。考えてみればそう不思議でもないのかもしれない。ジャックは、「女子供の最終兵器」を用いるが、「女子供」になろうとしているわけではない。極端にいえば、「そんな分節のしかたに意味なんかありませんよ」ということを、彼の嚙道は示しうるわけである。これは宿禰には喜ばしいことなのだ。彼は、敗北によって「じぶんは勇次郎ではない」ということをつきつけられた。それが、自己否定を呼び込むこともある。ジャックはそこに「だから?」と首をかしげる人物なわけである。

 

 

試合がはじまるなり流血しているのは、どちらのものだろうか。宿禰はなにしろ噛み付かせない方向で試合を進めるようである。とすると顔以外の箇所を攻撃するしかないが、それで出血はしないだろう。逆に宿禰がジャックに噛み付いたりして。

 

 

 

 

 

 

 

 

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■ビギナーズ・クラシック 中国の古典『書経』山口謠司  角川ソフィア文庫

 

 

 


 

「四書五経のひとつで、中国最古の歴史書である『書経』。『書』や『尚書』とも呼ばれ、堯・舜から秦の穆公まで、古代の君臣の言行が記されている。我が国の年号の出典にもたびたび使われ、「昭和」は堯典の「百姓昭明なり。万邦を協和せしむ」、「平成」は大禹謨の「地平かに天成る」から採られた。帝王学の書としても知られ、教えのもっとも重要な部分を精選。総ルビの訓読文とわかりやすい解説を加えた、恰好の入門書。模範とすべきリーダーの行いを記すビジネスマン必読の書」Amazon商品説明より

 

 

四書五経など中国の古典もじゅんばんに読んでいきたいという気持ちはずっとあり、ひとまずはごく短い書経から読むことにした。角川ソフィア文庫のビギナーズクラシックなので、もちろん全文ではなく、重要なところを、わかりやすい翻訳と解説つきで抜粋したものである。どこで見たのだったか、組織論とかそういう文脈で、ビジネス書的に読まれることもあり、その意味でもとっつきやすかった(という言い分は、ちょっと前までのぼくなら考えられなかったことである)。

 

「はじめに」によれば、実物の書経は文体もかたく、けっこう難解なようである。さらさら読める翻訳を読んで、章ごとに付されている語句解説で、漢語なのか中国語なのか、気になることばを拾い、そのぶぶんだけ書き下し文や原文で読む、みたいな読み方をしていたのでぜんぜんそうは見えないが、そうらしい。

書経は、文献によっては尚書、またたんに「書」と記されることもあるという。「書」はもと記録を意味し、そこには「天」と「帝」と「民」の間に交わされた契約が書かれることになった。五経は、どれも伏羲や神農などの聖人(無双オロチでおなじみ)が記したことになっており、つまり、誰が書いたのかよくわからないようだ。書経を編纂したのは孔子ということになっているが、これもじっさいのところはよくわからない。その後、実物としての書経はいくどもうしなわれ、手を加えられ、いまに至っているという。であるから、古代の文書はなんでもそうかもしれないが、読むにあたり、「古い」という事態がもたらす霊験に感化されるだけではなく、そこにはなにか屈託のなさのようなものが必要になるかもしれない。いにしえのインテリはこうした書物を素読(意味はともかくただ声に出して読む)して言語感覚や思考の細分化能力を鍛えていったが、こうしたときに、いちいちさかしらに「ソース」を探していたのでは時間がもったいないのである。誰もが、国家の体制がどう影響を及ぼしているかにかかわらず、とりあえず学校で渡された教科書で勉強する。そういう無邪気さが、ここまでの超古典を学ぶ際には必要だろう。

 

なにが書かれているかというと、堯(ぎょう)からはじまる帝位のうつりかわりである。堯や舜(しゅん)などは、日本でいうと日本書紀みたいなことで、見るからに神話だなという感じだが、じっさいどこから実在する帝なのかは読んでいてもわからない。そして、こういう帝王を輔弼する優秀な臣下がまわりにいて、それがああでもないこうでもないといったりする、そういう内容である。記紀もそうだが、こういう、神話と現実をあいまいにして語る方法は、国家のおこりを語るに際しては非常に有効で、たとえば天照大神について語られている文章を読んで、神話だなとおもいつつも、ひとはそれを「現実ではない!」といちいちいって回ったりはしないのである。そういうことをおもうと、ラカンの鏡像段階とか、平野啓一郎の分人主義とかのことが想起されるが、なんというか、本質的に人類というのは「フィクション」のなかを生きているのである。科学の登場が「現実」という概念を強く意識に打ち込み、たほうのフィクションを「嘘」としてはじき出したが、どこまでもこの現実世界が映画『マトリックス』のような仮想世界である可能性を捨てきれないのと同じ水位で、根っこのぶぶんでわたしたちはフィクションを抱えており、どこかで「そういうもの」と納得しているのである。

 

神話には、物理現象を説明したり、げんに生じている状況の理由になったりする原因譚的側面がある。たとえば蛇に手足がないのは、創世記で、人間をそそのかして悪いことをしたからである。こういう意味では、古代のひとびとが現状に納得しようとして、そうした創作を行ったものともおもわれるが、たぶん、自意識と神話の発生はほぼ同時とおもわれるので、誰か個人が創作したというより、求めに応じて自然発生した複数の神話の共通部分が次第しだいに整理されていき、やがて孔子みたいな天才的なひとが固体にした、というところなんではないかとイメージする。ただ、この堯という人物は、フィクションではあるが、「理想の帝王」ということであったようである。これはいかにも、到底納得できない現状があったうえで創作されたものではないかとおもわれるので、その意味ではこれは神話とはいえないかもしれない。「神話」というのはもっと集団の無意識が生むものとおもわれるからだ。堯の治世でもっとも重要なことは、「禅譲」であるという。要するに、現在よく見られる世襲ではなく、個人の徳をはかったうえで位を譲るということだ。これは、舜の次の禹から啓にかわるときに途絶えてしまい、それも書経には書かれている。そういう問題点を感じていたからこそ、堯は創作されたのかもしれない。しかしこれは堯の次の次の次のことなので、けっこう早い段階で途絶えていることにはなる。

 

さまざまの優れた良弼がいろいろなアドバイスを帝にしていくが、それらのことばにもっともあらわれる概念が「天」である。「天」とはなんなのか。直観的には、ノモス的な、考えられるもっと外側にある規範のようなものではないかとおもわれるが、ちょうどいま読み進めている『日本的革命の哲学』で山本七平は、「天」とは(つきつめると)「人民の意志」であるとしている。この発想の前提には、「民は誤らない」ということが求められるが、そもそも、治世が民を治めることなのだと限定すれば、誤るもなにも、そこには民とその感情しかない、というふうに乱暴にいうことはできるかもしれない。ではなぜそれを「天」と言い換えるのか。「民が困っているのだから助けよう」だけではだめなのか。さらに乱暴に想像をすれば、それが「帝」と「民」という二者によるコミュニケーションに閉じることを回避したものかもしれない。二者のコミュニケーションが破綻しそうになったとき、第三者があらわれてその場が落ち着くということは日常でもある。そうした齟齬が、プレイヤーが三者になることで循環形式になり、滞ることを防ぐのではないかなと想像する。

 

たぶん各所で読み込まれ、ビジネス書、もしくはビジネス的啓蒙の「元ネタ」になっているせいだろう、誠実にあればそうなるよね、という発想がくりかえし見られもする。不届きな経営者や政治家のひとにしっかり読み込んでもらいたい本だが、ぼくとしてはなにしろ中国の歴史がはじまったときの、神話と現実のあわいレベルでの歴史が学べたというのが大きかった。それから、うえにも書いたが、各章に伏されている語句解説がかなりいい。たんに「昧爽 夜の明け方。朝まだき」みたいに短く書かれているだけだが、知らない言葉だらけだった。非常に勉強になる一冊だったといってまちがいない。

 

次は「大学」でも読もうかな。

 

 




 

 

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年の瀬でもあり、書評ということでもないあっさりめの紹介を。なにしろ加藤典洋なので。

 

本書は批評家・加藤典洋による「批評とはなにか」ということについての、非常にゆっくりとした散歩のような記録。加藤典洋没後に文庫化され、高橋源一郎が解説を書いている。

 

最初にいきなり仮説として示されるように、批評とは「自分で考えること」である。じぶんの手持ちのコマをつかって、作品なり世界なり事物なり、とにかく「考える」ことである。それであるから、批評とはなにかということについて考える手つきもまた、批評になりうる。とはいえ、いつもの作品に比べるとずいぶんのんびりと左見右見した調子になってはいる。思考のうねりそのものを文章に落とし込んだかのようだ。そしてじっさい、加藤典洋の批評というのはそのように書かれてもきた。密度や精度が異なるという程度のちがいである。

教養主義的でもなければ自虐的でもない、淡々と、できるところからゆっくり問題に取り組んでいく、じぶんがそういうスタンスであるらしいということを、のんびり批評的な手つきの随筆で発見していく、そういう内容なわけだが、優れた批評家の作品に対してこういうふうに書くのはどうかともおもうが、ぼくは本書をなにか脳のトレーニングになるようなものとして読んでいた。もともと、加藤典洋は「読むとエンジンがかかる」タイプのものを書くひとだ。それが、エンジンというほど苛烈ではなく、筋トレのルーティン的に、「そうやってみればいいのか」みたいなことを、シリアスさもなく教えてくれるような感じなのだ。作中にはおもいもよらないような作品の引用が数多くあり、それも加藤典洋らしい。加藤典洋じしんの「ムッシュー・テスト」、ちょっとした思考の訓練の道程であり、作者じしんがそれを書くことによってわずかに更新されるような筋トレ的ルーティンになっているのである。

 

 

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